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第一話 南ヘ

 ――妙高副長日誌より

(昭和十四年三月十三日 妙高副長 海軍少佐 鳴海 司)


 艦とは、命令にて動くものに非ず。

 艦長の呼吸と、士官たちの沈黙とが合した時、初めて艦は生を得る。

 あの南航の折、私はその理を知った。

 彼女の眼は凪を見ていたのではない。

 嵐の只中にある静けさを、見ていたのだ。



____



 海面は鉛色に光り、穏やかなうねりを描いていた。

 佐世保を発して三日、重巡 《妙高みょうこう》はマカッサルへ向けて南下を続けていた。


 天候晴、風力三、視界良好。季節の割に珍しい凪であった。


 凪の海は、艦の隅々までを静かに検査する。鋼は音で物を言い、油は匂いで都合を知らせ、艦は呼吸の仕方で体調を語る。

 出港直後の数日は、その呼吸が整っていく過程を艦長が己の耳と足裏で確かめる時間でもあった。


 艦橋には、低く主機の鼓動が満ちている。測位士官が天測の角度を読み上げ、航海長・加藤雅之かとう まさゆき大尉が静かに針路を修正した。

 艦長・新條芙乃しんじょう はすの中佐はその後ろに立ち、後ろ手を組んだまま艦首方向の海を見据えている。

 帽庇の影が目元を隠していた。だが、艦内の誰もが知っている。

 ――その視線は、必要なものだけを貫く。余計なものは映さない。映さないからこそ、見逃しはない、と。


「艦長、天測完了。位置誤差二〇秒内です」

「よろしい。針路一六五度、速力二十節を維持」

「了解。針路一六五、定速二十、維持します」


 加藤の声は落ち着いていた。若いが、指揮系統に淀みはない。

 彼の人差し指が羅針盤外縁を軽く叩き、舵手が短く応答する。艦は僅かに身を捩って波を切った。新條は言葉を重ねない。重ねない代わりに、顎を僅かに引く。


 ――それが満足の合図だ。


 この静かな合図を、艦橋当直の誰もが知っている。よく整備された機械が微かな動作音で正常を伝えるのと同じように、艦長もまた、余白で意思を告げる。妙高では、それが最も効率の良い報酬だった。


 副長・鳴海司なるみ つかさ少佐は、受話器を下ろしながら艦長の背を見やる。年長の彼の視線には焦りがない。兵学校で新條を遠巻きに見ていた頃から変わらぬ沈着があった。

 砲術長・村瀬誠一むらせ せいいち少佐が、低く息を吐く。短くそっけない骨格の息。火薬と鉄の匂いを吸ってきた職人の呼吸である。


「……変わらんな、あの目つきは」

「変わらん。いや、深くなった。あの頃よりもな」鳴海は小声で返す。


 鳴海の口調は、職務中は常に平坦だ。必要な時にだけ抑揚を出し、言葉を削る。彼は一歩引く。艦長の前に立たず、後ろへも下がりすぎない。

 支えるための等距離――それが副長としての矜持だった。


「兵学校の頃は、もっと無鉄砲でしたがね。上官が“男より胆が据わってる”と嘆いてた」


「嘆いちゃおらん。寧ろ誇っていたさ。

 ――上にとっては扱いづらい艦長だがな」


 村瀬は笑わない。鳴海も笑わない。だが二人の間に通う温度は、確かなものだった。

 過去の記憶は、冗談に変えるには重すぎ、黙殺するには鮮やかすぎる。だから短句で受け渡し、熱は手のひらの内側でだけ確かめる。


「砲術長、訓練射撃の準備は」


 新條が背を向けたまま問う。声は低いが、艦内を一拍で締める芯を持つ声だった。


「第一・第二砲塔、整備完了。照準装置、点検済みです」

「よろしい。午後より訓練を実施する。目標、曳航標的。航海長、曳航距離三千」

「了解。曳航三千、設定します」

「副長、各分隊へ伝達。砲側員は昼食後、配置」

「了解」


 伝声管が鳴り、通信班が符号を打ち、測距員が器材を撫でる。艦が一つの生き物のように呼吸を合わせていく。


 鳴海は短く各所を見て、誰よりも早く無言の不具合を嗅ぎつける。姿勢、間合い、目の泳ぎ――どれもが「まだ合っていない」兆候になり得る。


 村瀬は砲側の手首と肩の角度だけを見る。力の入れ方、押す指の面、呼吸の切り方――火力は筋肉と呼吸の経済で作られる。


 加藤は数値と海の癖を見る。潮流、うねり、風の縁、舵の遅れ、主機の息。数字に置き換えられるものをすべて置き換え、置き換えられないものを胸の記憶に置いていく。


 そして艦長は、全体の「静かさ」を見る。静かさは沈黙ではない。無用の音が鳴らず、必要な音だけが鳴る状態――それが妙高の平常であった。


 甲板下の若い下士官が囁いた。

「……やっぱ“女狐”って本当なんだな」

「何だそれ」

「艦長のことだよ。あの目、人間じみてないって」

「馬鹿言うな。あの人がいなきゃ艦は動かねぇ」


 囁きは波音に飲まれる。恐れと敬意は紙一重だ。新條という名を口にするとき、皆どこかで声を落とした。

 艦橋では、余計な声がそもそも存在しない。人が少しだけ賢くなる空間というものが世にはあって、妙高の艦橋はその類だった。


 午前は淡々と過ぎた。対潜警戒は厳、測深は三分毎。航海分隊の復唱は歯切れよく、加藤が「良」と一言置けば余分な言葉は消える。

 凪の海は、訓練にはお誂え向きだが、油断させる。鳴海はそこに目を置いていた。


 油断は、目を伏せた瞬間に育つ。だから彼は「見ている」という事実だけを艦内に染み込ませる。叱責は最小限に、位置の調整は最大限に。副長とは、艦の姿勢そのものを整える役であるのだ。


 昼食。艦長室の折敷に白磁の湯呑。芙乃は米を少し、汁に口をつけるだけ。箸の動きは短い。窓外の光が波の縁で砕け、室内に銀の破片を投げ込む。


 扉の外に気配。


「副長、鳴海です。…今、少しお時間を頂けますか」

「入れ」


 鳴海が計画表を捧げ持って入る。無駄のない直立敬礼。姿勢は端正だ。新條は一つ頷いた。


「午後の訓練、砲術・航法・通信・機関、要目の通り。被害想定、区画切替に三〇秒の余地あり」

「詰めろ。――靴の繕いは済んだか」

「手を入れました。滑りやすい箇所には砂を置かせています」

「甲板の端から躓かせるな」

「了解」


 鳴海は一礼して退く。新條は湯呑に指を添え、温度だけを確かめる。飲まない。飲めば、喉の奥の古い疼きを呼び起こすことがある。


 午後、第一回甲種戦闘配置が発令された。号令は短く、足音は急がない。

 曳航標的が海面に白い尾を引く。第一射は観測射。観測員が双眼鏡越しに声を張る。


「観測、短! 修正、加――〇・一!」

「射撃指揮、修正〇・一加。――撃て!」


 主砲の反動が艦体を叩き、甲板の鋲が鳴る。装填手の肩越しに村瀬が一瞬だけ視線を置き、すぐに離れる。呼吸は浅く、声は飛ばない。火薬の匂いに油の甘さが混じる。


「観測、的中二、外れ一。次弾、距離変化なし、方位右へ〇・〇五」

「了解。――全砲、撃て!」


 破裂音が重なり、白煙が風で裂ける。

 加藤は艦首波の形を見、なお潮流の癖を拾って針路を一度だけ微修正した。


「艦長、潮流南東へ零・七、艦の癖は出ていません」

「よろしい」


 たった一言で、艦橋の筋肉が同時に緩む。艦が息を合わせたときの、短い充足だ。

 新條の目は、白い煙の切れ間の先にある虚空を見ている。人は目に見えるものへ打つ。艦長だけは、目に見えないものへ備える。虚空の癖を読むこと――それを彼女は癖の様によくやっていた。


 訓練は続く。

 抽筒三拍、良。旋回角の付加、良。暗号切替の手数圧縮、可。出力移行時の応答遅れ、許容内。被害想定では区画切替が僅かに遅い。鳴海が無言で位置を正し、頷きを一つ残すだけで完成度が一段上がる。


 村瀬は、射撃の成績表に印を置きながら、砲側の疲労曲線を頭の中で描く。火力は一撃で決しない。三十分後の精度、九十分後の手順――そこに艦の胆力が出る。

 加藤は航海分隊の若手を横目で見て、復唱の高さが揃い過ぎているのを敢えて崩させる。声を揃える訓練は無意味ではないが、数字の揃いを声でごまかす癖を作る。海は声を聞かない。海が聞くのは、舵と速力と、艦の傾きだけだ。


 終礼。砲側の士官が「以上」と言い切る前に、甲板の端で若い兵がぽつりと、言葉を零す。


「……怪物、っての、嘘じゃねぇや」

 隣が笑わずに答える。

「怪物で結構だ。俺らを沈めねぇなら」


 こういう会話は風に散る。記録にも残らない。だが艦の空気は、こうした無名の言葉で形を持つ。艦長はそれを知らないふりをする。知っているが、踏み込まない。


 夕刻、士官室。白布の卓に地図。銅製のランプが薄く揺れる。鳴海、村瀬、加藤が席に着き、最後に新條が入った。

 鳴海が簡潔に口火を切る。


「本日の訓練成績。砲術、抽筒は三拍安定。旋回・装填、持久にやや難。航法、復唱良。通信、暗号切替手数減。機関、出力移行、応答遅れ小。――総じて、可」


「可、では駄目だな」新條は座につき、湯呑に触れずに言う。


 声は冷たいが、軽蔑の温度は含まない。足りない事実を並べるだけで十分だという調子である。

 村瀬が、静かに受け取るように言葉を継いだ。


「砲側の持久、明日は分割練成で潰します。観測との呼吸、もう半拍、詰めます」


 言葉は短いが、責任は長い。彼は自分の分掌を過不足なく抱える術を知っている。

「副長」

「はい。配置換えの提案が一件。下士官一名、砲側から通信へ。指の質が通信向きでしょう。」

「よい。――航海長」

「はい」加藤は背筋を伸ばす。


「明朝、天測と陀螺の照合を繰り返す。若手の復唱がまだ甘い。お前が口で揃えろ」

「承知しました」


 加藤の返答は短く、芯が通っている。鳴海は横目でそれを見、若さに宿る理性の温度を測る。村瀬は、若い航海長が艦長の言葉に一切の私情を挟まないことに、静かに、人知れず安堵していた。


 卓上の地図に、鳴海が小さく印を置く。副長の印は黒子のように目立たないが、艦の血行を良くするものだ。


「艦長。今回の航海、上は『護衛任務』と申しておりますが……実際は南方方面の再集結でしょうな」


 室の空気がわずかに沈む。新條は地図から眼を上げない。


「そうだろう。マカッサル経由でスラバヤに入る。――戦況が、潮を変えつつある」


 沈黙が一拍。加藤は表情を動かさず「はい」とのみ答えた。村瀬は顎を引き、鳴海は目だけで頷く。

 鳴海は本来、艦長の言葉に意見をまぶさない。副長の役目は、艦長の言葉を艦へ翻訳することだ。海軍では、それを「艦の土台」と呼ぶ。土台は声高に語らない。


 新條は、湯呑に触れず言葉を落とした。


「艦は沈めない。――以上だ」


 会議はそこで終わる。音も無く立ち上がり、各自の持ち場へ散る。足音は短い。

 加藤は退室の間際、僅かに振り返って艦長の横顔を見た。紅の瞳は灯に淡く光り、表情は変わらない。彼はそれで十分だと思う。艦長が感情を見せないことは、艦が感情に呑まれないことと同義だ。


 夜。甲板の風は冷たい。艦首の切る波が時折小さく光り、信号灯が短く瞬く。海の匂いは昼よりも濃く、鉄に塩が貼り付く。


 見張り台の若い兵が吐息を白くしながらも、ぽつりと静かに言葉を落とす。


「……女狐、って言うけどよ」

 隣が応じる。

「狐は森で迷わねぇ。俺らを連れてくんだ」


 風が二人の言葉を攫い、暗い海へ散らす。こういう会話は翌朝には忘れられる。けれど忘れられたものだけが、艦を見えない場所で支えることがある。


 艦橋最上段。新條は双眼鏡を持たず、肉眼で闇を見ていた。闇は鈍い銀で縁取られ、海がその縁を内側から削っている。背後に足音。

「報告」

 鳴海だ。彼は距離を保つ。

「哨戒線異常なし。見張り、良。――艦長」

「何だ」

「貴女は、人に厳しい」

「艦を沈めぬためだ」

「分かっている。……貴女が自分に最も厳しい事も」


 新條は振り向かない。

「副長」

「…はい」

「妙高は、まだ沈まん」


 鳴海は「了解」とだけ言い、足音を消す。彼は艦長の背へ言葉を置いてゆく。拾うかどうかは艦長に委ねた。

 彼自身は艦の姿勢を保つのみである。


 艦長室。灯は低い。机の上に航海日誌。筆致は細く、余白が多い。


 ――『天候薄曇、視界良、海況穏。人員配置、概ね良。砲術訓練、抽筒三拍、良。航法、誤差範囲内。』


 最後の行に、新條は短い文を置いた。

 ――『沈む覚悟を持て。』

 書き終えると、筆を置いた。胸の奥を鈍い痛みがかすめ、去る。

 窓外で波が鋼に指を這わせる。軍刀は机の隅にあり、目をやらない。見れば眠れないからだ。

 彼女は椅子の背に掌を置き、背筋を伸ばし直した。背骨で自分を支え直す感覚は、日の終わりの儀式にも似ている。


 その頃、下甲板。砲側の片隅で、村瀬が若い装填手の手首を取って角度を直していた。


「ここだ。力を入れるな。指の面で押せ」

「はっ」


 短い指導で手際は目に見えて変わる。村瀬は叱責しない。必要なら声を荒げるが、今夜は不要だ。砲側の呼吸が合ってきた時に強い声を当てると、調律が壊れる。彼は音を聴く耳を持つのだ。

 通路を抜けて出たところで、鳴海と擦れ違った。


「火の方は」

「燃える準備はできてます」

「よし」


 二人は多くを言わない。“土台”と“火”の間に言葉は少なくてよい。互いに自分の温度を知っているからだ。


 航海分隊の控室では、加藤が若手の復唱を繰り返していた。


「針路一六五度――」

『針路一六五!』

「声で合わせるな。数字で合わせろ。海は声を聞かない」

『……はい』

「もう一度。数字を見て、息を合わせる」


 復唱は三度目でようやく耳に馴染む高さになった。加藤は微かに笑みを見せた。冷静な若者の笑みは稀だが、熱がないわけではない。

 彼は艦長の命を受け、数字を揃えることで艦の座標を固定していく。座標が定まれば、人は無駄に不安がらない。

 彼はふと、艦長の横顔を思い出す。紅の瞳の縁に、陽が一瞬柔らかさを置いた午前の一幕。彼はその柔らかさを誰にも言わない。言葉にすると、本質から離れていく気がするからだ。


 深夜。

 艦はなお、南へ滑っていた。マカッサルへの海路は長く、敵影はまだ遠い。

 だが、海は常に試す。理性と鈍い痛みと見えない誇りを抱く艦長を。そして、その背を支える三人を。

 当直将校が小さく咳払いをした。新條は気配だけで頷き、肩越しに将校を見遣った。


「当直、異常なし」

「よろしい。――目を海から離すな」

「はっ」


 視線は闇に沈む。

 闇の下には潮の流れ。潮の向こうには戦場。

 夜の海は音が少ない。少ないが、全く無音ではない。


 鋼は微かに歌い、海は低く呼吸する。耳の良い者だけが、その歌と呼吸の調子を判別できる。艦長の耳は、よく通った。


 その夜の終わり、鳴海は短い記録をまとめながら、静かに思う。


(私は、艦長を人へ引き戻すための一本の命綱であるべきだ)


 彼は自分にしか分からぬ距離を守る。近すぎれば彼女の鋭さが鈍る。遠すぎれば彼女の孤独が勝つ。距離は一歩。常に一歩。

 村瀬は砲側の寝息を聞きながら、自分の手の皮の厚さを無意味に確かめる。火力は皮膚で支えるものだと信じている。彼は嫉妬を抱えたことがある。だが今は、火に嫉妬は不要だ。火は燃えればよい。

 加藤は数字を閉じ、羅針盤の針が静かに揺れを収めるのを見届ける。

 彼は若い。若いが、艦長の命と艦の命の間に置くべき自分の重さを知り始めている。


 艦橋で、新條は短く目を閉じ、また開く。


 ――潮が、動く。妙高も、もう戻れない。


 言葉にはしない。艦は言葉の数で動かない。

 ただ、彼女が立つ限り、艦は沈まない。そう信じる者が、この鋼の箱の中には充分にいた。

 夜は深く、海は低く呼吸を続ける。艦の名は風に解け、波に刻まれ、やがて消えた。だが、その舵を取る者の名は、まだ誰の口にも上らない。

 来るべき嵐の前に、艦と人とが呼吸を合わせる音だけが、長い通路の奥へと吸い込まれていった。

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