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海鳴リノ序章

《昭和十四年四月 乗員手記より》

「初めてあの人を見たとき、背筋が粟立った。

 女だと聞かされていたが、艦橋に立つ姿は――人間ではないと思った。」




 春の海は、まだ冷たい。

 春先の風が桟橋を抜け、艦の舷側を撫でていく。

 油と鉄と潮の匂いが、朝靄に混じってゆっくりと溶けた。


 帝国海軍、重巡洋艦「妙高」。

 南方作戦で酷使され、この佐世保にて傷を癒した鋼鉄の巨艦が、再びこの港に姿を現していた。

 艦体は鈍く光を返し、甲板の影には整備兵たちが忙しなく動いている。


 その艦橋に―― 一人の女が立っていた。


 海軍中佐・新條 芙乃(しんじょう はすの)

 女でありながら、帝国海軍の重巡艦長に任ぜられた異例の士官である。

 名簿にその名が載ったとき、誰もが一様に息を呑んだ。

 だが、異端と呼ばれようとも、兵学校時代から抜群の戦術眼と冷静な判断で数多の演習を制した才女であることを、彼女を知る者は皆理解していた。


 それでも、艦内では囁かれる。

 ――“女狐”。

 ――“怪物”。

 その呼び名には侮蔑もありながら、畏れの色が濃かった。


 「……まさか本当に女の艦長とはな」

 「近づくな、目が合えば凍るぞ」

 桟橋の下で、若い兵たちが囁く。だが誰も笑わない。

 艦長が放つ気配は、静かながらも鋭く、海霧の中に張り詰めた刃のようだった。


 真紅の瞳が、常に遠い水平線を射抜いていた。

 その視線の先にあるものを、誰も知らない。

 けれど、誰もが感じ取っていた――この人は、ただの軍人ではない、と


 背後から、副長・鳴海司なるみ つかさ少佐が声を掛ける。


 「艦長、各分隊、出港準備完了しました」


 「了解」


 短く、冷ややかに響く声。

 それは妙高そのものの、鋼の音だった。


 航海長の加藤真之かとう まさゆき大尉が、測定盤から目を上げる。


 「港内潮流、南東へ〇・八ノット。転舵余裕、問題なし」


 「よし。……出港せよ」


 伝声管が鳴り、命令が艦内を駆け巡る。

 「繋留索、解け――」「主機、前進微速!」


 重い艦体がわずかに震え、岸を離れる。

 汽笛が一声、佐世保の港を揺らした。

 甲板上の士官や水兵たちは敬礼し、桟橋の影がゆっくりと遠ざかっていく。


 後部射撃甲板より、砲術長の村瀬誠一むらせ せいいち少佐が報告を上げた。


 「砲側動作確認完了。射界良好。――艦の動き、安定しています」


 「了解。航海長、針路一五度、速力十ノット。湾口へ」


 「針路一五度、速力十ノット――了解」


 妙高は静かに湾口を抜け、外海へと進む。

 海面に反射する光が艦橋の窓を照らし、新條の横顔を掠めた。

 紅い瞳が淡く光り、そして一瞬、柔らかさを宿す。


 「……良い艦だ。よく、ここまで持ち堪えた」


 人知れず落とされたその声は、鋼に触れるような静けさと温度を帯びていた。


 鳴海が、静かに応じる。


 「戦争は、長くなりましょう」


 「あぁ、分かっている。――だが、艦が沈むまで、私が舵を取る。それだけだ」


 誰も、口を挟まなかった。

 艦長の声は冷ややかにして、確かな炎を宿していた。

 その瞬間、誰もが悟る。

 ――この人の指揮の下であれば、妙高は沈まぬ、と。


 こうして「妙高」は再び海へ出た。

 戦火の只中へ、異端の艦長を戴いて。

 その航跡が、幾多の命と魂を繋ぐ物語の始まりとなることを、

 まだ誰も知らなかった。

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― 新着の感想 ―
新進気鋭の第一話、奇才の艦長と重巡洋艦が何処に旅をするのか。海軍モノが好きなので続編楽しみにしています。
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