第2話:探偵の墓場!
「第三の『仮説』が、ここに記されている」
その言葉に、私たちは息を呑んだ。
エラーラは、本に書かれた第三章の記述を、感情を一切込めずに読み上げた。
「『第三の犠牲者は、真理を薬瓶に求める者。その探究心こそが毒となり、甘き香りの果てに、己が呼気にて沈黙する』」
「……真理を、薬瓶に……」
プロフェッサー・フィニアスが、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「……私か」
彼の専門は錬金術による毒物分析。
「甘き香り……」
彼は、ホールの扉の隙間から漂ってくる、微かな匂いを嗅ぎ取った。
「……これは!」
私たちは、顔を見合わせた。
このホールに留まっていても、次の犠牲者が出るだけだ。
「……行くしかないわね」
私は、意を決して言った。
「この匂いの元を、全員で確かめる。単独行動は許可しない。互いが互いの証人になる」
「それが、主催者殿の望みだとしても、かね」
エラーラは、つまらなそうに肩をすくめ、本の記述と私たちを見比べた。
匂いは、一階の東側、食堂の方から漂ってくる。
扉を開けると、そこには、晩餐の準備が整えられたかのような、長いテーブルが鎮座していた。
だが、そのテーブルの上には、無数の薬瓶やビーカーが散乱し、一つのフラスコから、紫色の煙と、あの甘い香りが立ち上っていた。
「『夢見草』の蒸気だ」
フィニアス教授が、専門家として前に出た。
「無害だ。いや、精神を安定させる鎮静効果がある。」
彼は、散乱した薬瓶の一つを、慎重に手に取った。
「これは、王立研究所の試薬。これは、古代錬金術の触媒……! 」
彼は、何かに取り憑かれたように、テーブルの上の器具を調べ始めた。
「教授、危険です!」
アランが制止する。
「危険だと? これは『知識』だ! 犯人がここに残した『挑戦状』だ! 私の専門分野で、解けない謎などない!」
フィニアスは、そう言うと、自らの革鞄から、愛用の携帯分析キットを取り出した。
紫色の煙が立ち上るフラスコに、彼は自分のキットから取り出した『万能溶媒』の試薬瓶を近づけた。
「この煙の、正確な成分を分析すれば……」
彼が、試薬瓶の蓋を開けた、その瞬間。
フィニアスが手にしていた『万能溶媒』の蒸気と、フラスコから立ち上る紫色の蒸気が、空中で接触した。
何の前触れもなかった。
二つの気体は、触れた瞬間に、無色透明の、不可視の『何か』に化学変化した。
「……あ……が……?」
フィニアスは、自分が何を吸い込んだのか理解できないまま、両手で喉を掻きむしった。
彼は、一言も発することなく、まるで神経を内部から焼き切られたかのように、激しく痙攣し、床に崩れ落ちた。
即死だった。
「ひっ……!」
マグナス議員が、尻餅をついた。
「……また……記述通りだ……」
コーヴァスが青ざめた顔で呟く。
エラーラは、またしても冷静だった。彼女は、自らの白衣の袖で口元を覆いながら、フィニアスの死体に近づいた。
彼女は、テーブルに残された紫の煙を、注意深く扇いで匂いを嗅ぐ。
「フム。この『夢見草』の蒸気は、それ自体は無害な鎮静剤。だが、極めて不安定な触媒でもある。そこに、特定の『励起剤』――彼の持っていた『万能溶媒』の気体――が接触した。結果、空気中で即座に合成されたのは……強力な神経毒ガスだ」
私は、彼女の論理に戦慄した。
「まさか……犯人は、フィニアス教授が、あの溶媒を携帯していることまで……」
「知っていたのだろうねぇ」
エラーラは、心底楽しそうに言った。
「彼の『探究心』と、彼の『知識』、そして彼の『装備』。その三つが揃った時、このトラップは完成する。彼を殺したのは、彼自身の『専門性』そのものだよ」
三人が死んだ。残るは、九人。
ホールはもはや安全ではない。食堂は死の実験室だ。
私たちは、パニック状態で、二階の図書室へと逃げ込んだ。そこが、この館で最も広く、見通しが良い部屋だったからだ。
「もう駄目だ!」
マグナス議員が、床に座り込んで頭を抱えた。
「我々は皆殺しにされる! あの女が、我々を一人ずつ……!」
「黙れ!」
ルークが、壁に背を預け、短剣を構えたまま怒鳴る。
「疑心暗鬼こそが、犯人の狙いだ!」
私は、アランを見た。
彼は、この極限状況下で、青ざめてはいるものの、マグナス議員のように取り乱したり、私のように頭痛に苛まれたりしていない。
彼は、あまりにも……「冷静」すぎた。
「……アラン」
私は、彼を、図書室の隅に引き寄せた。
「あなた、なぜそんなに落ち着いているの?」
「アガサ……? 何を……」
「ヴァレリウス卿が死んだ時も、ブリジッタが死んだ時も、今も。あなたは、恐怖している。でも、パニックに『呑まれて』いない。まるで……自分の感情を、どこか別の場所に置いているみたいに」
アランは、私の指摘に、目を見開いた。
彼は、苦渋に満ちた表情で、私にだけ聞こえるように、声を潜めた。
「……バレていたか。……アガサ、君だから言う」
彼は、自分のこめかみを指差した。
「僕は……『記憶改竄師』だ」
「……!」
それは、王国の深奥部でしか許されない、禁忌の魔術。人の記憶を読み、書き換え、時には消去する力。
「な……あなたが……」
「違う!」
アランは、必死に私の手を掴んだ。
「僕は、誰の記憶にも触れていない! 誓って! 僕は……僕は、この能力を、今、自分自身にだけ使っている!」
「自分自身に?」
「ああ。この恐怖、このパニックを、無理やり自分の記憶の奥底に『封印』しているんだ。無理やり自分の感情を麻痺させて、探偵としての論理的思考だけを、水面に浮かび上がらせている」
彼は、痛ましげに顔を歪めた。
「……こうでもしないと、僕は、とうに狂っていた。この力を維持するだけで……僕の魔力は、もう限界だ……」
アランの告白は、私を慰めるどころか、恐怖のどん底に突き落とした。
彼が、人の記憶を操作できる?
私は、アランの手を振り払った。
「アガサ……?」
「……近寄らないで」
その時だった。
エラーラが、携帯していた『十二人の探偵』の、次の二章を、同時に読み上げた。
「『第四の犠牲者は、『玉座』に座る者。その権威は、自らが求めた鉄によって裁かれる』」
「『第五の犠牲者は、指先で解く者。その技術は、決して解けぬ『呪い』に触れ、自らの生命を解き放つ』」
「……玉座……」
マグナス議員が、図書室の奥にある、一際立派な、背の高い椅子を怯えたように見つめた。
「……指先で解く者……」
サイラスが、壁に埋め込まれた、複雑な紋章が刻まれた金庫を、忌々しげに睨みつけた。
「フン……」
マグナスは、その椅子から、わざとらしく離れた。
「私は、そんな分かりやすい罠に……!」
彼はそう言って、壁際にあったアンティークの全身鎧の隣に立った。
「ここなら、安全だ……」
「馬鹿っ!」
対魔術師のルークが叫んだ。
だが、遅かった。
マグナスが、安心したように、その全身鎧にもたれかかった。
カチリ、と。
床の、体重感知式の圧盤が、音を立てた。
次の瞬間。
全身鎧が、まるで生きているかのように、その手に持っていた巨大な戦斧を、振り下ろした。
鈍い音。
マグナス議員は、自分が何をされたのかも分からぬまま、胴体を両断され、崩れ落ちた。
「ひ……あああああ!」
その惨劇を目の当たりにしたサイラスが、パニックを起こした。
「もう嫌だ! ここから出せ!この金庫か?この金庫に出口の鍵があるに違いない!」
彼は、マグナスの死体から目をそらし、金庫に駆け寄った。
「サイラス、待て!」
私が叫ぶ。
「僕の技術なら開けられる! 僕は罠解除師だ!」
彼は、愛用の工具を取り出し、金庫の鍵穴に差し込み、超人的な速さで内部機構を探り始めた。
「やめろ!」
ルークが叫ぶ。
「それは、魔力で封印されてる! 物理的な干渉は……!」
サイラスのピックが、何かの機構に触れた。
その瞬間。
金庫の鍵穴から、青白い魔力の光が溢れ出した。
それは、サイラスが手にしていた金属製のロックピックを伝い、彼の腕に、そして全身に流れ込んだ。
「あ……が……」
サイラスは、工具を握りしめたまま、急速に「枯れて」いった。
彼は、数秒でミイラ化し、乾いた音を立てて床に倒れた。
エラーラは、二つの死体を、冷静に見下ろした。
「フム。四人目は、読み違えだねェ。彼が恐れた『玉座』ではなく、彼が頼った『鉄』こそが、トラップだった。単純な、機械式の圧盤トラップ」
そして、彼女はミイラ化したサイラスを検分する。
「五人目は、魔術的な『生命力吸引』の呪詛だ。あの金庫は、物理的に解錠しようとする者の生命力を、その『道具』を触媒にして吸い尽くす。……彼の『技術』への過信が、彼を殺した」
図書室は、今や三つの死体が転がる霊廟と化していた。
「……五人が死んだ……」
コーヴァスが、壁に背を押し付け、震える声で呟いた。
「五時間も経っていないうちに……五人が……」
「落ち着け!」
ルークが、短剣を構えたまま周囲を警戒する。
アランが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「アガサ、顔が真っ白だ。君のその頭痛……まさか、犯人の精神攻撃か?」
私は、彼の優しげな瞳に、底知れぬ恐怖を感じた。
「……あなたのせいじゃないの」
「え?」
「あなたの『記憶操作』の力で、私に……」
「アガサ! 僕は自分にしか使っていないと!」
「それを、どうやって証明するの!?」
私の叫びに、アランは言葉を失った。
「フム。仲間割れか。実に興味深い」
エラーラが、携帯していた『十二人の探偵』のページを、また一枚、めくった。
彼女のその行為が、私たちの死刑宣告に思えた。
「主催者殿の『実験』は、まだ終わってはいないようだねェ。……読み上げよう。第六、第七、第八、第九の記述を」
エラーラは、残る私たち七人の顔を、一人ずつ、ゆっくりと見比べながら、その冷たい声を響かせた。
「『第六の犠牲者は、視えすぎた女狐。その異能は、真実の鏡に導かれ、自らが求めた『像』によって沈黙させられる』」
レディ・セラフィナが、息を呑んだ。
「『第七の犠牲者は、記憶の番人。その知識は、古き罠の重みに圧し潰され、沈黙の海に沈む』」
コーヴァスが、青ざめた顔で私を見た。
「『第八の犠牲者は、魔を否定する者。その剛は、ただ『在る』ことへの不信によって、虚無へと還る』」
ルークが、忌々しげに舌打ちをした。
「『第九の犠牲者は、影に潜む者。その隠密は、闇に塗れた『道』を選び、永遠の闇に抱かれる』」
ノクターンが、初めて、影の中から一歩、後ずさった。
四人分の、死の宣告。
この図書室に、あと四つのトラップが仕掛けられているというのか。
「……もう、こんな場所にはいられない!」
セラフィナが、半狂乱で叫んだ。
「私は、この館の『悪意』の源泉を視る! それを断ち切れば……!」
「待て!」
ルークが制止する。
「セラフィナ! お前の記述は『鏡』だ!」
「だからよ!」
彼女は、図書室の奥、西棟へと続く、長い回廊を指差した。
「あそこよ! あの『肖像画の回廊』! あそこにある『真実の鏡』が、私を呼んでいる!」
彼女は、私たちの制止を振り切り、回廊へと駆け出した。
「くそっ!」
ルークが後を追う。
「全員、離れるな!」
アランが叫び、私たちも後を追った。
エラーラだけが、まるで散歩でもするかのように、ゆっくりと最後尾についてくる。
肖像画の回廊は、薄暗く、歴代の館主と思しき不気味な肖像画が並んでいた。
その突き当たりに、一枚だけ、何も描かれていない、曇った銀色の巨大な鏡が鎮座していた。
「……これよ……」
セラフィナが、まるで夢遊病者のように、その鏡に吸い寄せられていく。
「感じる……! 強いわ……! あの五人を殺した、冷たい歓びが……! ここに!」
彼女は、その鏡の前に敷かれた、複雑なモザイク模様の床の上に、ためらいなく足を踏み入れた。
「アガサ、あの床!」
アランが叫ぶ。
「セラフィナ、待って!」
私は叫んだ。
だが、遅かった。
セラフィナは、鏡に両手をかざし、『霊視』の魔力を、最大に高めた。
「視える……視えるわ……犯人は……!」
その瞬間。
彼女が立っていたモザイク模様の床石が、音もなく沈み込んだ。
そして、鏡の縁に施された無数の天使の彫刻。その全ての口から、青黒く光る針が、一斉に射出された。
「……え……?」
セラフィナは、自分の全身に突き刺さった、数十本の針を見下ろし、信じられないというように私たちを振り返った。
そして、そのまま、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
即死だった。
「……また……」
私は、その場に膝をつきそうになった。
「……デュアル・トリガーだ」
エラーラが、いつの間にか私の隣に立ち、冷静に分析していた。
「あの床のモザイクは、体重感知式の圧盤だ。だが、それだけでは起動しない。……彼女が使った『霊視』の魔力。その高周波のマナが、第二の『鍵』だった」
彼女は、セラフィナの亡骸を冷徹に見下ろした。
「体重と魔力。その二つが同時に揃わなければ、決して起動しない。……彼女のような『魔力探知系』の探偵でなければ、決して死ぬことのなかったトラップだねぇ」
六人目が死んだ。残るは六人。
「……こんな……こんなことが……」
コーヴァスが、恐怖に耐えきれず、叫んだ。
「もう嫌だ! 僕は、こんなところで死ぬために……! そうだ、『地下』だ! 地下には、この館の『真の書庫』があるはずだ!」
「待て、コーヴァス!」
「そこに、この館の設計図が……! 『霧中館の構造と魔導回路』! あの本さえ読めば、こんな封印、破れるかもしれない!」
彼は、私たちを振り切り、狂ったようにギャラリーの奥にある、地下へと続く階段を駆け下りていった。
「くそっ!」
ルークが、アランと共に後を追う。
地下の書庫は、カビと古い紙の匂いに満ちていた。
「あった……あったぞ!」
コーヴァスは、一番奥の書架、一際分厚い革表紙の古文書に手を伸ばしていた。
彼は、閲覧用の脚立に乗り、爪先立ちで、必死にその本を引き抜こうとしている。
「危ない、コーヴァス!」
私がそう叫んだ瞬間。
金属が擦れるような、小さな音がした。
彼が引き抜こうとしていたその本。それが、何かの「楔」になっていたのだ。
「……あ?」
コーヴァスの間の抜けた声。
次の瞬間。
コーヴァスがしがみついていた巨大な書架が、地響きを立てて、ゆっくりとこちらへ傾いてきた。
「うわあああああっ!」
「逃げろ!」
アランが私を突き飛ばす。私たちは床を転がった。
数千冊の書物と、オーク材の重い棚が、一瞬にしてコーヴァスを飲み込んだ。
七人目の死。
「……フム。実に古典的だ」
エラーラは、舞い上がる埃の中で、静かに呟いた。
「単純な、機械式の圧盤解放トラップ。あの本こそが、棚を支える最後の『ラッチ』だった。犯人は、彼が『どの本を』求めるか、完璧に把握していたというわけだ」
私の頭が、割れるように痛んだ。
(そうよ。あの本よ。あの本は、この館の設計図なんかじゃない。あれは、私が書いた『白紙の本』。彼が、必ずそれに手を伸ばすように、わざと『霧中館の構造と魔導回路』なんて、ありきたりな題名を、私が付けたのよ)
「……?」
私は、口元を押さえた。
誰かが、あの書架にトラップを仕掛ける、鮮明な記憶。
アランが私の肩を掴む。
「触らないで!」
私は彼を突き飛ばした。
「あなたが……!」
パニック。
七人が死んだ。
残るは、五人。私、アラン、ルーク、ノクターン、そしてエラーラ。
「もう、こんな場所にはいられない!」
ルークが、地下書庫から飛び出し、私たちは無我夢中で階段を駆け上がった。
ただ、死から逃れるために。
私たちは、館の中央部、二階の吹き抜けにかかる、古い石造りの橋の上に躍り出た。
下は、暗い奈落だ。
「……止まれ!」
ルークが、私たちを制止した。
「……おかしい。この橋、魔力で『できている』。高位の……『永続幻影』だ」
「幻影ですって!?」
アランが狼狽える。
「ああ。だが、魔力で『支えられて』もいる。信じて渡れば、渡れる類の魔法橋だ。だが……」
ルークは、自分の専門分野を前に、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……私の『異能』は、魔術無効化だ。私が踏み込めば、この橋の『支え』そのものを、私自身が打ち消してしまう……」
「……そんな……」
第八の予言。『その剛は、ただ『在る』ことへの不信によって、虚無へと還る』。
彼が「魔術を否定する」その能力こそが、彼を殺す罠。
「……ふざけるな」
ルークは、橋のたもとにあった、装飾用の古いロープを掴んだ。
「私は、こんな子供騙しの魔法など信じない。このロープで、向こう岸へ渡る!」
彼は、ロープを巧みに操り、対岸の柱に引っ掛け、宙を舞った。
だが。
ルークが掴んでいたロープは、彼の体重がかかった瞬間、その中心部から、ブツリと切れた。
「な……馬鹿な! このロープは、物理的に……!」
彼の驚愕の声は、奈落の底へと吸い込まれていった。
エラーラが、切れたロープの断面を、静かに検分した。
「……フム。ロープの芯に、高位の『解呪』の魔導糸が編み込まれているねェ」
「解呪?」
「そうだ。このロープは、それ自体が魔術的な『支え』で強化されていた。だが、彼が握った瞬間、彼の『魔術無効化』の体質が、その『支え』の魔術だけを、綺麗に解呪してしまった。結果、ロープは、ただの古い腐った綱に戻り、彼の体重に耐えきれなかった」
八人目の死。
「……ひ……」
ノクターンが、初めて、影の中から、恐怖に歪んだ声を発した。
第九の予言。『影に潜む者。その隠密は、闇に塗れた『道』を選び、永遠の闇に抱かれる』
「……私は……私は、こんな橋、渡らない」
ノクターンは、そう言うと、壁際にある、古い通気口の格子を指差した。
「私は、影の道を行く。この『闇』の中なら、必ず別の出口が……」
ノクターンは、音もなく格子を外し、その黒々とした闇の中へと、滑るように消えていった。
「待て!」
アランが叫んだが、もう遅い。
私たちは、息を殺して、闇の奥を凝視した。
一秒。二秒。
「……っぐ……」
闇の奥から、何かが詰まるような、苦悶の音が、微かに聞こえた。
そして、沈黙。
エラーラは、通気口の格子が置かれていた床を、指先で拭った。
そこには、黒く、粘着質な「油」のようなものが、薄く塗られていた。
「……アルケミー・トラップだ」
彼女は、その匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。
「『影潜み』の油……隠密行動用の潤滑剤だ。だが、これには……強力な接触性の『麻痺毒』が混入されている」
「まさか……」
「ああ。ノクターンは、自分の『専門分野』の道具だと思い、何の疑いもなく、ダクトに入った。だが、それは、彼の全身の神経を麻痺させ、呼吸すら止める、致命的な罠だった」
九人目の死。
私は、その場に崩れ落ちた。
一日も経たずに、九人が死んだ。
そして、私の頭の中では、あの「声」が、狂ったように、高らかに笑っていた。
(完璧よ! 完璧だわ、アガサ!九人の愚かなる探偵が退場した!さあ、残るは、主役と、観客と、そして、最後の『変数』だけ!)
私は、私を見下ろすアランを睨んだ。
彼は、私の「友人」か。
もう、私には、何もわからなかった。




