第1話:最期の刑事!
「これで三人目だ。カイドー。どう思う?」
霧が晴れない王都の朝。
同僚が顔を青くしながら、吐き気をこらえるように口元を押さえている。
無理もない。
そこに「あった」モノは、もはや死体と呼べる代物ではなかった。骨も、肉も、内臓も、すべてが内側から煮詰まったように融解し、わずかな衣服の残骸と、酸鼻な臭いだけを残して「消滅」しかけている。
「新型の錬金兵器か……」
「いや。魔法の痕跡は一切ない……」
高官ばかりが狙われていることから、警備隊上層部は政治的なテロと見て色めき立っているが、カイドーの刑事としての直感は別の可能性を告げていた。
まるで、邪魔な害虫を「処理」するかのような、効率的すぎる死。
現場検証を早々に切り上げ、カイドーは王都の雑踏に身を投じた。
安アパートのドアを開けると、待ちわびていたシチューの匂いが、現場の悪臭を洗い流していく。
「おかえり、お父さん!」
リビングから、一人娘のヒロミが顔を出す。カイドーがこの世で唯一、命に代えても守りたい存在だ。
「たーいま、ヒロミ。お、シチューか!美味そうだな!」
「もう、鼻がいいんだから。でも、まーた遅かったね!」
カイドーは魔導銃のホルスターを外し、重いコートを脱ぎながら曖昧に頷く。
「それより、明日どうする?」
ヒロミはエプロン姿のまま、わざとらしく頬を膨らませた。
「約束したでしょ! 海浜記念公園の植物園。南大陸の珍しい花が入ったんだって!」
「……あー。そうだったな」
「もう! だから、お弁当作るんだからね。卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?」
「ヒロミのなら、どっちでも美味いよ!」
「もー、またそうやって誤魔化す!」
他愛ない会話。それがカイドーのすべてだった。妻を流行り病で亡くしてから、この娘の笑顔を守るためだけに、彼は刑事という薄汚れた仕事を続けてきた。
食卓についたヒロミが、ふとスプーンを止める。
「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「最近……お仕事、危ないことになってない?」
カイドーの眉がピクリと動いた。
「なんだ急に?…いつも通りだ」
「う、ううん。なんでもない!」
ヒロミは慌てて首を横に振った。
「きっと、気のせい! お父さんがいつも無茶するから、心配なだけ!」
その一瞬見せた不安の影。
カイドーは違和感を覚えたが、事件の疲れが思考を鈍らせていた。それが、生涯最大の後悔になるとも知らずに。
食事が終わり、カイドーが書斎で現場資料を広げ直した、その時だった。
リビングから、何かが倒れる鈍い音と、水気を含んだ嫌な音が響いた。
「ヒロミ?」
カイドーは資料を跳ね除け、リビングに駆け込んだ。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「あ……ぁ……おと……さん……」
ヒロミが、床に倒れていた。焦点の合わない目でカイドーを見上げ、か細い手を伸ばそうとしている。彼女の身体が、足元から。指先から。内側から、急速に「融解」を始めていた。
「た、すけ……て……」
昼間、現場で見た光景。
あの悪臭。あの「処理」されたかのような、無機質な死。
それが今、目の前で。
「あ……あああああああああああああああああ!!」
ヒロミは、跡形もなく融解して、死んだ。
思考が停止する。時間が止まる。
なぜ。どうして。俺の娘が。
絶望の底で、刑事としての冷たい理性が囁く。
あの連続不審死と、ヒロミの死は、同じだ。
だが、なぜ。高官でもないヒロミが、なぜ同じ手口で。
(ヒロミ……お前、何を掴んでたんだ!)
怒りが、悲しみを塗りつぶしていく。
カイドーは獣のように娘の部屋へ駆け込み、すべてをひっくり返した。ヒロミが何かを掴んでいたに違いない。あの時の不安そうな顔。あれは、気のせいではなかった。
ベッドの下。床板の隠しスペースに、小さな魔導ロックのかかった箱があった。
こじ開ける。
中には、ヒロミの筆跡で書かれた数枚のメモが震える手で握りしめられていた。
『神の国キチュ』
『KR13』
『王都浄化計画』
カイドーの全身から血の気が引いた。
連続不審死の犯人。その手口。そして、娘が巻き込まれた理由。
すべてのピースが、最悪の形で組み上がった。
宗教団体『神の国キチュ』。
そう。
ヒロミは、「教団」の信者だった。
「そうだったのか、ヒロミ……」
彼は部屋に戻ると、警備隊本部に繋がる魔導通信機を掴み、床に叩きつけて粉々にした。
正義も、組織も、もはやどうでもいい。
壁に掛けられていた愛用の魔導銃を、冷たい手で握りしめる。
カイドーは、床に撒き散らされた娘だったモノに一瞥もくれず、アパートのドアを開けた。
復讐だ。
娘を奪ったすべての者たちを、地獄の底まで引きずり落とす。
刑事の顔は、もうない。そこにいたのは、娘を奪われた獣だった。
彼が向かったのは、魔導ガスの配管が唸りを上げる旧市街の「裏通り」。
「よう、カイドーのダンナ。今日は非番じゃ?」
闇市場の魔導具屋の主人が、脂汗を浮かべた笑顔で迎える。
カイドーは無言でカウンターを乗り越え、主人の襟首を掴んで壁に叩きつけた。魔導銃の冷たい銃口が、男の米噛みに押し当てられる。
「ひっ……!」
「『神の国キチュ』の居場所を知ってるな?宗教団体だよ!お前が知らないはずはないだろう!」
「だ、ダンナ、何を……『キチュ』はヤバい! 王都のお墨付きだ! 俺たちみたいなゴミに手が出せる相手じゃ……」
カイドーは引き金にかけた指に、わずかに魔力を込めた。銃口が青白いスパークを散らす。
「俺の娘が、殺された。…殺されたんだよ!」
カイドーの声は、凍てついた鋼のようだった。
「さ。…ヤバいのはどっちだ? 吐け」
恐怖が男の顔を歪ませる。
「わ、わかった! 言う! 『廃魔導工房』だ! 第七区画の、昔の錬金術師ギルド跡地! あそこを連中が買い取って……」
カイドーは男を床に投げ捨て、工房の座標データを奪い取ると、夜の闇へと再び駆け出した。
第七区画。廃魔導工房は、酸性雨に錆びついた機械の墓場のような場所に、口を開けていた。
(ヒロミ……お前の仇が、この中か)
カイドーは、もはや刑事としての慎重さなど欠片も残していなかった。復讐心だけが彼を突き動かしている。
彼は工房の通用口の魔導ロックを、魔導銃のチャージショットで物理的に焼き切った。
内部は、薬品のツンとした匂いとカビの匂いが混じり合っている。
「誰だ!」
見張りの信者が二人。彼らが魔導銃を構えるより早く、カイドーは踏み込んでいた。
一人の腕を掴んで捻り上げ、関節を外しながら盾にする。もう一人が怯んだ瞬間、銃床で顔面を強打し、沈黙させた。
「……お前らが、ヒロミを……!」
半狂乱になりながら、カイドーは工房の奥、地下へと続く隠し扉を発見する。
地下は、地上の荒廃ぶりとは裏腹に、最新鋭の錬金術設備が並ぶ巨大なラボだった。無数のガラス管の中で、不気味な液体が攪拌されている。
怒りがカイドーの視界を赤く染める。
奥で、白衣を着た男が巨大なタンクから何かを採取している。
「動くな! 警備隊だ!」
カイドーが飛び出した瞬間、研究員はニヤリと笑った。
罠だ。
カイドーが気づいた時には遅かった。彼の背後、左右の壁がスライドし、『キチュ』の私兵部隊が完全武装で雪崩れ込んできた。
「くそっ!」
カイドーは研究員を盾にしようと動くが、研究員は自らガラス管の並ぶ棚に飛び込み、警報を鳴らす。
「撃て! 逃すな!」
聖騎士団から高出力の麻痺魔導弾が一斉に放たれる。
カイドーは柱の陰に隠れ、応戦する。魔導銃が火を噴き、数人を倒す。だが、多勢に無勢。彼らの構える最新式の魔導障壁は、カイドーの旧式銃の威力を容易く減衰させていく。
(ヒロミ……!)
遮蔽物から身を乗り出した瞬間、死角から放たれた強力な麻痺魔導が、カイドーの背中を直撃した。
「な……ぁっ!」
全身の神経が焼き切れるような激痛。膝から崩れ落ち、魔導銃が乾いた音を立てて床を転がった。
聖騎士団に力ずくで押さえつけられるカイドーの前に、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。
「娘さんの好奇心には感服致しました。フム…その父親は、ただの猪武者でしたか?だが、ようこそ、と言っておきましょうか」
「……何……?」
「あなたには、我らが神の科学の『粋』を、その身で味わっていただきます。これは我々からのささやかな『返礼』、と思って頂いて、構いません」
ドクターが合図する。
聖騎士団が、巨大な実験用のバケツを運んできた。
なみなみと満たされた、不気味に揺れる透明な液体。何らかの劇薬の原液だ。
「やめろ……やめろぉぉぉっ!」
カイドーは必死にもがくが、聖騎士団の魔導義手に押さえつけられ、身動き一つ取れない。
男たちがカイドーの顎を掴み、無理やり口を開かせる。
バケツが傾けられる。
鉄の味がする冷たい液体が、喉に流し込まれる。
熱い。いや、冷たい。
違う。
内側から何かが「消えていく」。魂が肉体から引き剥がされていくような、絶対的な喪失感。
娘の最期の顔がフラッシュバックする。
(すまない……父さん……仇も、とれな……)
バケツいっぱいの劇薬を無理やり飲まされ、カイドーは床に叩きつけられた。
意識が急速に遠のいていく。
……。
……。
どれほどの時間が経ったのか。
全身を襲う悪寒で、カイドーはわずかに意識を取り戻した。
聖騎士団は、カイドーがどうせ死ぬものと油断し、拘束もせずに放置していったらしい。
(ヒロミ……)
娘の名を呟いた瞬間、復讐の炎が、毒に侵された身体に無理やり火を灯した。
カイドーは、震える腕で床を掴み、立ち上がろうとする。だが、足に力が入らない。
彼は這って、床を転がっていた愛用の魔導銃を掴んだ。
壁に寄りかかりながら、ふらつく足取りでラボを後にする。
警報は止まり、工房は死んだように静まり返っている。
執念だけが、カイドーの身体を動かしていた。
地上への階段を転がるように登り、錆びついた通用口のドアを蹴破る。
王都の明け方の冷たい空気が、灼けるような肺を刺した。
(……そうだ……エラーラ……)
朦朧とする意識の中、カイドーは一つの名前を思い浮かべていた。王都の裏社会で、どんな禁忌の魔導科学にも通じている、唯一信頼できる闇の科学者。
第七区画の汚れた路地裏を、彼は壁に血痕を擦り付けながら進む。
だが、毒は、復讐の炎よりも速く彼の生命力を奪っていく。
視界が霞み、世界が回転し始める。
(……ヒロミ……すまない……)
魔導銃が手から滑り落ちる。
カイドーは、路地裏のゴミの山に倒れ込んだ。
そのまま、彼の意識は完全に暗転した。
……。
……。
ピ、ピ、ピ、という無機質な電子音。
嗅ぎ慣れない消毒液と、オゾンの匂い。
(……ここは……地獄か……?)
カイドーは、ゆっくりと目を開けた。
そこは、冷たい石造りのラボではなかった。無数の魔導モニターと、怪しげな錬金器具が天井から吊り下げられた、見知らぬ天井。
自分の身体には、無数のコードや魔導管が接続されている。
「……目が覚めたかね? 刑事君」
声の方を向くと、白衣を着た、謎の人物が、悲痛な色を浮かべた目でこちらを見下ろしていた。
「……エラーラ……?」
カイドーが掠れた声を出すと、エラーラは苦しそうに目を細めた。
「私の工房の前で倒れるとは、運がいいのか悪いのか。君……最悪のモノを飲まされたねぇ。致死量の劇薬……KR13だ。……私の計算では、君の余命は、あと」
エラーラはモニターの数値を読み上げ、宣告した。
「10時間だ」
エラーラは、魔導モニターに映し出されたカイドーの生命活動グラフを指し、その冷たい表示とは裏腹に、震える声で告げた。
(……俺も、ヒロミと同じように……)
内側から融解していく恐怖が、全身の皮膚を粟立たせる。
「……解毒剤を、作れ」
カイドーは、ベッドに繋がれた魔導管を引きちぎろうともがきながら、エラーラを睨みつけた。
「……無理だ」
エラーラの声は、いつもの冷徹な科学者のものではなかった。
「……無理なんだ、カイドー君」
「ふざけるな!」
「ふざけていない!」
エラーラは叫んだ。その目には、「涙」が浮かんでいた。
「その毒……KR13は、君の魂と肉体を結ぶ『楔』そのものを破壊するよう設計されている。一度始まった崩壊は、物理的にも魔導的にも……もう、助からない」
エラーラは、震える手で棚から小さな紫色の小瓶を取り出した。
「……これを飲みたまえ」
「……なんだ」
「安楽死の薬だ。……一瞬だ。痛みはない」
エラーラは、カイドーのベッドの縁に崩れ落ちた。
「頼む……! 私は……人が、あんな惨たらしい姿で、苦しみ抜いて、融解していくのを、私は……私は、見たくない……!」
エラーラの涙。カイドーは、この孤高の天才の、初めて見る人間的な姿に言葉を失った。
だが、カイドーは知っていた。この科学者が、その気になれば王都の騎士団一個大隊を単独で壊滅させられるほどの、規格外の戦闘能力を持っていることを。
カイドーは、エラーラの差し出す小瓶を振り払い、ベッドから身を起こした。
「……なら、立て。俺と来い!エラーラ!お前の力があれば、『キチュ』の連中を……!」
「できない!」
エラーラは激しく首を振った。
「私が表立って教団に歯向かえば、警察も、政府も、全てが!…私を全力で潰しに来る!。王都全域が戦場になり、被害が拡大するだけだ! ……それに、」
エラーラは涙を拭い、研究者の顔に戻った。
「君の復讐劇に手を貸すことはできない。だが、君が……『刑事』として知りたい情報なら、すでに『すべて』解析済みだ」
カイドーの呼吸が止まった。
「……すべて、だと?」
「……当たり前だ。君が路地裏で拾われる数時間前、あの廃工房から漏れ出た微弱な魔導波形をサンプリングしてね。おかげで、連中の計画は、すべて丸裸だ」
エラーラは、忌々しげにモニターを叩いた。
「まず、【KR13】。正式名称は『キチュ・レゾナンス・トキシン13』。特定の血族因子、『遺伝子配列』にのみ作用し、魂と肉体の接続を物理的に『融解』させる設計だ。君の娘さん……ヒロミ君。彼女が飲まされたのは、このプロトタイプだ。」
カイドーは拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、怒りと悲しみを必死に抑え込む。
「次に、『神の国キチュ』。教祖は『ルジブ』。理念は『穢れた血脈の浄化による神聖王都の建立』。彼らは本気だ。王都政府から国教化の言質を取り付け、邪魔になる旧貴族派や反対派議員を、今も、次々に『処理』している。」
エラーラは壁の巨大な王都マップに、いくつかのポイントを魔導ポインターで指し示した。
「そして、『大規模テロ』。彼らはこれを『王都浄化計画』と呼んでいる」
「……いつだ」
「……君の命が尽きる、まさにその瞬間だ」
エラーラの声に、焦りが滲む。
「決行は、今からきっかり10時間後。時刻は午前6時、ジャストだ」
「!」
「実行部隊の指揮官は、君に毒を盛った『ドクター・イワナガ』。彼は『キチュ』の第七錬金部門の長だ。手段は、王都の地下全域に張り巡された『中央魔導導管』を利用した、KR13のガス化散布」
「地下導管……まさか!」
「そのまさかさ。標的は『王城』、そして『中央議会』。さらに、反対派貴族が多く住む『第3管区』。この三箇所に繋がる導管のバルブを、午後7時ジャストに一斉開放。」
カイドーは、そのあまりに正確で、膨大な情報の前に立ち尽くしていた。
「……なぜ」
カイドーは絞り出した。
「なぜ、知っていて、止めない」
「止める? どうやって!」
エラーラは再び声を荒げた。
「言っただろう!私が動けば、彼らは計画を早めるだけだ!……だが、」
エラーラは、カイドーの目をまっすぐに見つめた。
「……だが、君なら。正規の刑事でありながら、組織から切り離された『ゴースト』だ。君は、すでに、一度死んだ『透明な存在』だ。だから、君だけが、彼らの懐に潜り込める……!」
カイドーは、目の前の天才の、苦渋の決断を理解した。
彼は、ゆっくりと頭を下げた。
「俺の命、この街に賭ける」
カイドーの目は、復讐の炎だけではなかった。それは、刑事としての、街を守るという最後の「使命」の光だった。
「俺が死ぬまでの時間。俺の肉体のデータをくれてやる。だから、俺を動かせ。俺が朝6時までにテロを止めるまで、あらゆる魔導薬で俺の肉体を支えろ。お前は、この研究所から、俺に指示を出せ」
エラーラの目が、悲痛な決意に揺れた。
「……わかった」
エラーラは、涙をこらえ、紫色の小瓶を棚に戻した。
「……君のその『魂』、私が見届ける」
エラーラは、棚から強烈な緑色に発光する魔導アンプルを数本取り出し、注射器に充填した。
「……行きたまえ、カイドー君」
エラーラは、カイドーの首筋に、一切の躊躇なく注射針を突き立てた。
「ぐ……うあああああああああっ!」
エラーラがカイドーの首筋に突き立てた緑色の魔導薬は、毒とは逆ベクトルの暴力だった。
全身の神経が沸騰し、死にかけていた細胞が無理やり叩き起こされる。
だが、これは治癒ではない。感覚の「偽装」だ。
KR13による内側からの融解は止まっていない。ただ、エラーラの薬が、その絶望的なプロセスを痛みごとマスキングし、生命活動を強制的にブーストしているだけ。
カイドーは、自分の身体が「自分のものでなくなった」ことを痛感した。自分は、エラーラの魔導薬と、刑事としての使命感だけで動く、借り物の肉塊だ。
「……っ! 心拍数190。筋繊維の断裂を無視した強制活性化。……無茶な薬だ!」




