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第2話:連行される探究者!

王都警察署の建物は、その威容とは裏腹に、常に何かしらの不協和音を奏でていた。

雨水が染み込んだ分厚い石造りの壁は、この街の湿気と人々の怨嗟を吸い込んで、じっとりと暗い色を放っている。正面に掲げられた「正義と秩序」の紋章は、降りしきる冷たい秋雨に打たれ、半分剥げかけた金メッキが惨めに光を弾いていた。


「離せと言っているだろうが!私は何もしていない!」


「公務執行妨害で連行中だ。大人しくしろ、エラーラ」


カレル警部に腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして署内に入ったエラーラ・ヴェリタスは、その不機嫌さを隠そうともしなかった。彼女の白衣は、先の爆発による煤と、今の雨とで、見るも無残な有様となっている。自慢の艶やかな銀髪も、今は濡れたまま肌に張り付き、その美貌を苛立ちで歪ませていた。


一階のロビーは、混沌の坩堝だった。

盗難の被害届を出しに来た商人、酔っ払って保護されたドワーフの鉱夫、夫の浮気をヒステリックに訴える貴婦人。それらに対応する警官たちの顔には、一様に深い疲労と諦観が刻まれている。天井で明滅する魔導灯は、どうやら魔力供給が不安定らしく、チカチカと不快な光を投げかけ、人々の焦燥感をさらに煽っていた。


「……ふん。相変わらず、騒々しい場所だ。貴様たちは、こんな環境でよく思考が停止しないものだな」


「うるせえ。こっちはお前と違って、ハムスターの機嫌じゃなく、市民の安全を気にしてるんでな」


カレルは、エラーラの皮肉を柳に風と受け流し、彼女をロビーの喧騒から引き離すようにして、奥の階段へと向かった。

軋む木製の階段を上り、二階の薄暗い廊下を進む。突き当たりにある、擦り切れたプレートに『刑事課』とだけ書かれた重い扉を、カレルは蹴飛ばすようにして開けた。


その瞬間、エラーラは眉をひそめた。

空気が、違う。

一階のロビーが、剥き出しの感情がぶつかり合う「動」の混沌だとしたら、ここは、すべてが淀み、沈殿した「静」の絶望だった。

広いオフィスは、山のような書類と、機能しているのか怪しい旧式の魔導端末、そして用途不明の押収品で埋め尽くされていた。安物のタバコの紫煙と、煮詰まったコーヒーの焦げた匂い、そして微かな血の匂いが混じり合い、エラーラの鋭敏な嗅覚を不快に刺激する。

だが、異常なのはその匂いだけではない。

音だった。

十数人の刑事がいるはずのオフィスは、まるで葬儀場のように静まり返っていた。

刑事たちは皆、デスクに突っ伏したり、虚ろな目で窓の外を流れる雨粒を眺めたりしている。その誰もが、まるで魂を抜き取られた抜け殻のようだった。

エラーラの入室に気づいた者が数人いたが、その視線は一瞬、この場違いな侵入者に向けられたものの、すぐに興味を失ったかのように、手元の虚空へと戻っていった。


(……これは、一体どういうことだ?)


エラーラの頭脳が、即座に状況分析を開始する。

この刑事課の空気は重すぎる。まるで、すでに大きな戦いに敗北した後のような、あるいは、これから避けようのない破滅が訪れるのを待っているかのような、濃密な絶望。

カレルは、そんな重苦しい空気の中を、当たり前のように進んでいく。彼のデスクは、その中でも最も書類が山積みになっていた。彼はエラーラの腕を放すと、乱暴に椅子を引き、どかりと腰を下ろした。


「……さて……」


カレルは、冷え切ったコーヒーが半分ほど残ったマグカップを手に取り、それを一気に呷った。その顔は、三日三晩寝ていないどころか、一週間はまともな食事も睡眠も取っていないかのように土気色だった。

エラーラは、濡れた白衣から滴り落ちる雫が床に小さな染みを作るのも構わず、腕を組んだ。


「茶番は終わりかね? カレル警部」


彼女の声は、この淀んだ空気を切り裂く刃のように、冷たく響いた。


「私の貴重な時間を無駄遣いさせる理由を、そろそろ説明してもらおうか」


エラーラは、周囲の刑事たちを一瞥した。


「それとも、これは何かね? 貴様たちの職務怠慢を、私という『天才』を召喚することで誤魔化そうという、集団的な儀式の一種かね? 随分と、手の込んだことをしてくれる!」


しかし、エラーラの挑発的な言葉にも、誰も反応を示さない。ただ、カレルだけが、疲れた目で彼女を見返した。


「……エラーラ。お前のその減らず口は……あの爆発でどうにかならなかったのか」


「生憎だが、私の知性と言語中枢は、貴様の想像を遥かに超えるレベルで強靭に設計されていてね。それよりも、質問に答えろ」


エラーラは一歩、カレルのデスクに近づいた。


「私をここに連れてきた、真の理由だ。その事件とやらは、一体なんだ? 私に、どこの貴族が盗まれた家宝の猫を探せというのだ? それとも、魔導学会の連中が捏造した論文の粗探しでもさせたいのかね? 」


エラーラが声を荒らげても、やはり刑事課は静まり返っていた。

この異常なまでの沈黙。

それは、恐怖か、あるいは、語るべき言葉すら失うほどの、圧倒的な「何か」を前にした無力感か。

カレルは、指でこめかみを強く揉んだ。そして、この世の終わりのような溜息を吐き出した。


「……エラーラ。今回は、いつもの『探し物』や『謎解き』じゃねえんだ」


彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、エラーラが初めて見る、深い疲労と……そして、微かな「怯え」が宿っていた。


「犯人は……」


カレルは一度言葉を切り、喉を鳴らした。


「犯人は、捕まった。」


「……は?」


エラーラは、思わず間の抜けた声を漏らした。

彼女の頭脳が予測していた、ありとあらゆるシナリオ。難解な密室殺人、怪盗からの挑戦状、魔導テロの予告、その全てが、今の一言で根底から覆された。


「……捕まっただと?」


エラーラは、即座に論理的な思考を再起動させる。


「ほう? 捕まったというのなら、なおさら、なぜ私がここにいる必要がある? 貴様たちの手柄話を聞かせ、私の貴重な時間を浪費させるためか? それとも……」


彼女の瞳が、危険な光を帯びた。


「なるほど!……私から強奪した珈琲の味を独り占めにした罪悪感を、私をこの汚い部屋に縛り付けることで紛らわせたいと、そういうわけかね 、警部?」


「……黙って聞け……」


カレルの声は、地を這うように低かった。


「その『犯人』は、エルフの少女だ。年は……まだ十六かそこらだ」


「それがどうした」


エラーラは冷ややかに言い放つ。


「エルフだろうがドワーフだろうが、あるいは私のハムスターだろうが、法を犯せば裁かれる。それが、この王都の法というものだろう。」


「違うんだよ」


カレルは、エラーラの言葉を遮った。その声には、抑えきれない焦燥が滲んでいた。


「そのエルフの少女はな……」


カレルは、デスクの上の書類の山を、苛立たしげに拳で叩いた。


「『自分がやった』と、そう言っているだけなんだ」


「……何?」


エラーラの眉が、わずかに動いた。


(自白だけ? それが、この重苦しい空気の原因だと?)


「証拠がねえんだよ……」


カレルの声が、絞り出すようだった。


「物的証拠も、魔力痕跡も、何一つ。どこにも、ない。おまけに、動機もさっぱりだ。なぜ、あんなことをしたのか、何一つ……!」


エラーラは腕を組んだ。彼女の頭脳が、この不可解なパズルのピースを拾い集め始める。


「……ふむ。自白偏重の捜査とは、貴様たち警察の古くからの悪癖だが。それにしても、不可解だ。自白があるのなら、証拠など後からどうとでも……いや、まて」


彼女は、刑事課の刑事たちの顔をもう一度、ゆっくりと見渡した。

彼らは、ただの「捜査の行き詰まり」で、あのような絶望の表情を浮かべているのではない。

これは、もっと根源的な何かだ。「常識」や「秩序」が、根底から破壊された者の顔だ。


「……して、カレル警部」


エラーラは、静かに問うた。


「その『事件』とは、そもそも何なのだ? 貴様たちが、これほどまでに理性を失うほどの事件とは」


カレルは、まるでこの世で最も愚かなものを見るかのような目で、エラーラを見つめた。


「……お前、本気で知らねえのか」


その声には、呆れと、わずかな怒りが混じっていた。


「ここ三日、王都中がこの話で持ちきりだぞ。お前、新聞も魔導ラジオも、一切見聞きしてねえのか」


「私がいつ、俗世のゴシップに耳を傾ける時間があったというのだ?」


エラーラは、心底迷惑そうに言い返した。


「私の脳は、ハムスターの知能指数の向上と、それに伴う副作用、具体的には、時折見せる過剰な攻撃性と、タップダンスを踊り続ける謎の行動原理のデータ分析で、完全に、飽和状態だというのに」


「ああ、そうだったな。」


カレルは、疲れたように天を仰いだ。


「お前は、薄暗い実験室で、ネズミをいじくり回してる方がお似合いだ」


その一言が、エラーラの逆鱗に触れた。


「ネズミではない!」


エラーラの絶叫が、静まり返った刑事課に木霊した。

虚ろな目をしていた刑事たちが、全員、驚愕に顔を上げて彼女を見た。


「いいか?ハムスターだ! ハ!ム!ス!タ!ア!……正確には、ゴールデンハムスター! キヌゲネズミ亜科だ! 貴様のような、分類学の基礎すら理解していない知性の低い者には違いを理解するのは難しいかもしれんが、私にとっては極めて重大な違いなのだ!」


肩で息をしながら捲し立てるエラーラの剣幕に、カレルだけでなく、周りの刑事たちも一瞬、たじろいだ。


「……ああ、そうかよ。ハ、ム、ス、タ、ア。」


カレルは、こめかみを押さえながら、心底面倒くさそうに吐き捨てた。

エラーラは、まだ鼻息を荒くしていたが、カレルがこれ以上反論する気がないことを悟ると、ふん、と鼻を鳴らして、乱れた髪をかきあげた。


「……それで?」


彼女は、努めて冷静な声色を取り繕った。


「その、ハムスター以下の貴様たちの頭脳を悩ませている『大事件』とやらは、一体、何なのだ?」


カレルは、もう何も言う気力も残っていないというように、デスクに山積みになっていた魔導新聞の束から、一番上のものを抜き取った。雨に濡れて少しふやけたそれを、エラーラに向かって無造しに投げ渡す。


「自分で見ろ」


エラーラは、飛んできた新聞を、空中であしらうように掴み取った。

その一面に、踊るように大きく、そしておぞましい見出しが印刷されていた。


『王都中央広場、謎の大虐殺』


『死者三十四名、重軽傷者百名以上』


『魔術テロか? 王国騎士団は「痕跡なし」と発表』


エラーラの目が、その文字を猛烈な速度でスキャンしていく。

広場。白昼。三十四名の死者。

だが、彼女の目を釘付けにしたのは、その数字ではない。記事の本文に、小さく、しかし繰り返し書かれている、ある記述だった。


『……遺体には一切の外傷が見られず、あたかも、内側から未知の力によって破壊されたかのような……』


『……現場に、魔力の使用痕跡、一切検出されず……』


「……大量殺人、だと?」


エラーラの声から、いつもの高慢な響きが、わずかに薄れていた。


「そうだ」


カレルの声が、刑事課の床に染み込むように、低く響いた。


「三日前の昼だ。……どこの現場も地獄だった。どう見ても、人間の手でやれることじゃねえ。」


カレルの言葉が、エラーラの脳裏に鮮明な、しかし不快なイメージを描き出す。


「……ほう。」


カレルは、エラーラの反応を待っていたかのように、力なく頷いた。


「現場には魔力の痕跡が一切ねえ。ゼロだ。魔法を使った形跡が、どこにもないんだよ。高位の魔術師も、教会の神官も、全員が匙を投げた。なのに、現実に三十四人が死んだ」


カレルの言葉が、エラーラの思考を加速させる。


「……魔法を使わずに、魔法のような大量殺人を起こした。しかし、自称犯人はエルフの少女。エルフは、本来、魔力親和性が極めて高い種族のはずだ」


矛盾。

不可解なピース。

常識が、論理が、音を立てて崩れていく。

エラーラは、知らず知らずのうちに、その唇の端を吊り上げていた。

それは、爆発した実験室で、仮説通りのデータが出た時と同じ。

あるいは、それ以上の、純粋なまでの知的興奮の表れだった。


(魔法の痕跡がない、魔法による殺人)


(証拠も動機もない、エルフの少女による自白)


彼女は、手の中の湿った新聞を、くしゃりと握りしめた。

研究室のハムスターのことも、「月光の雫」を奪われたことも、その瞬間、彼女の頭脳から完全に消え去っていた。


「……面白い」


その声は、歓喜に打ち震えているようにも聞こえた。


「実に、面白いじゃあ、ないか!カレル警部!」


カレルは、そのエラーラの常軌を逸した反応に、安堵しつつも、やはりコイツはマトモじゃあない、と内心で毒づいた。だが、今は、この狂った天才にしか、この絶望的な状況を打破できないことも、彼は痛いほど理解していた。


「それで?……私にその、『嘘つきな』エルフの少女と話をさせたい、と。そういうことかね?」


「話だけじゃねえ」


カレルは、デスクに両肘をつき、祈るように両手を組んだ。


「お前のそのイカれた頭脳で、真実を見抜いてくれ。……頼む」


エラーラは、満足げに頷いた。


「よかろう」


彼女は、煤と雨で汚れた白衣を、まるで騎士がマントを翻すかのように、誇らしげに捌いた。


「その少女は、どこにいる? 私の知性が、貴様たちの蒙昧を照らし出してやろうではないか」

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