第5話:Never say die
主題歌:カイジ 人生逆転ゲーム/Never say die
https://youtu.be/vzvevSneI4A
魔道車の古い機関が、獣の咆哮のような、悲鳴にも似た音を立てていた。
タイヤが、土と砂利を、無軌道に掻き分ける。
エラーラは、常軌を逸した速度で、闇に包まれた旧街道を疾走していた。背後では、あの小さな駄菓子屋があった集落が、追手の魔導灯に照らされ、小さく混乱しているのが見えた。
「……フン。旧式のくせに、魔力伝導率は悪くない。及第点だね」
エラーラは、乾いた唇を舐め、無機質な横顔で、前方の闇だけを見据えていた。
後部座席は、地獄のような静寂に包まれていた。
ユウゴと、レン。
つい先ほどまで、十数年分の憎しみを込めて殺し合おうとしていた二人は、今は、車の両端に、別々の生き物のように押し黙って座り込んでいる。
二人の間。
狭い座席の中央に、あの、おばあさんが、荒い息を繰り返しながら、横たわっていた。
エラーラが咄嗟に施した治癒魔法が、かろうじて命を繋ぎとめているに過ぎない。その顔は、土気色を通り越し、青白い陶器のように、月光を反射していた。
「…………」
ユウゴは、窓の外を流れる黒い森の影を、睨みつけていた。
己の拳が、まだ、レンの頬を殴った感触を、覚えている。
そして、それ以上に、あのおばあさんが、自分たちを庇って放った、あの、人知を超えた、青白い光の奔流を、覚えている。
(……魔法使い……)
(あの、おばあさんが……)
(俺たちを……守った……)
(俺は……俺たちは……何のために……)
思考が、泥沼の中で空転する。
ヤクザとしての自分も、警察のスパイとしての自分も、今や、全てが、崩壊した。信じていた大義名分は、目の前で、自分を育ててくれた老婆の手によって、根底から、否定された。
隣に座る、レンの気配が、肌を刺す。
憎い。
憎いはずだった。
あの夏、自分を理解しなかった、頭でっかちの、潔癖な男。
だが、その男もまた、今、自分と、同じ、ボロボロの車の中で、同じ、絶望的な現実を、突きつけられている。
ユウゴは、レンを、殴ったことよりも、あの再会の瞬間に、殴りかかる以外の選択肢を持てなかった、自分自身の、心の貧しさに、吐き気を催していた。
レンもまた、ユウゴとは反対側の窓に、額を押し当てていた。
石畳の道ではない。整備されていない悪路が、車体を、無慈悲に、揺さぶる。
その振動が、彼の、砕け散った「正義」の破片を、さらに、細かく、砕いていくようだった。
(……裏切られた)
監察局に、法に、秩序に。
自分が、人生を賭けて、信じようとした、全ての「正しさ」に。
(……そして、俺は……)
彼は、薄目を開け、隣の男の、血が滲んだ、こわばった横顔を、盗み見た。
(……ユウゴ)
あの夏、最後に見た、感情的な、少年のまま。
(……俺は、こいつに、何と言った?)
『お前は、間違っている』
そう、断じた。
法と、秩序こそが、正しさだと、信じて。
だが、その結果は、これだ。自分は「正しさ」の駒として、捨てられ、ユウゴは「間違い」の中で、何かを守ろうとしていた。
(……俺は、こいつに、また、同じ、間違いを、犯すところだった……)
(……正す、だと? 俺が、何を?)
レンの、指先が、冷たく、震えていた。
そして、二人の視線は、同時に、中央で、苦しそうに、息をする、おばあさんへと、注がれた。
「……う……ぅ……」
小さな、呻き声。
「「おばあさん!」」
声が、重なった。
ハッとして、二人は、互いの顔を、反射的に見合わせた。
ユウゴの、荒んだ、暴力的な瞳。
レンの、冷たく、知性的な瞳。
その、二つの、全く異なる瞳の奥に、同じ、あの夏の日の、「迷子」の、色が、浮かんでいた。
「……っ」
ユウゴは、気まずそうに、顔を、そむけた。
レンもまた、自分の、膝の上で、固く、拳を、握りしめた。
「……エラーラ、と言ったか」
レンが、運転席の、背中に、声を、かけた。
「……どこか、休める場所は。このままでは、おばあさんが……!」
「……黙れ。思考の邪魔だ」
エラーラは、前方を見たまま、冷たく言い放つ。
「追手の魔力探知は、まだ続いている。この旧式の魔道車では、振り切れない。……まず、この、鉄の箱の魔力痕跡を、消さねば……」
エラーラが、携帯端末の地図とにらめっこをした、その時。
「……そこ……」
おばあさんが、か細い声で、呟いた。
「……次の、分かれ道……を、右……」
「何? 」
「……いいから、行け……」
エラーラは、一瞬、迷った。
だが、あの駄菓子屋での、人知を超えた、予知と、力を、思い出す。
(……フム。この老婆のデータは、ワタシの予測モデルを上回る。……信じてみよう)
エラーラは、急な分かれ道を、迷いなく、右へとハンドルを切った。
そこはもはや、道とは呼べない獣道だった。
車は、草木をなぎ倒しながら進んだ。
やがて、目の前が開けた。
そこは、古い石切り場の跡地のようだった。
月光が、切り立った白い岩肌を照らし出し、まるで、古代の神殿の廃墟のようにも見えた。
「……ここなら……」
おばあさんは、言った。
「……岩が、魔力を、吸う……。追手は、来ない……」
エラーラは、魔道車の機関を止め、すぐさま携帯端末で、周囲の魔力反応を探った。
「…… 本当だ!魔力粒子が、急速に中和されていく……この岩盤自体が、天然の、魔力遮断フィールドになっているのか!興味深い……」
エンジンが止まると、世界は再び、静寂に包まれた。
今度は、蝉ではなく、秋の虫の声が、りん、りんと、冷たく響いている。
季節は、もう、あの夏ではなかった。
エラーラは、後部座席の扉を開けた。
「……おばあさん。キミのその力は何だ。あの、結界。あの、予測能力。……データが欲しい」
科学者としての、抑えきれない好奇心。
だが、おばあさんは、エラーラの問いには答えなかった。
その虚ろな瞳は、ユウゴと、レンを、捉えていた。
「……ユウゴ……レン……」
「「……っ」」
二人は車から転がり出ると、おばあさんの両側に、膝をついた。
「……おばあさん! ごめん……俺たちのせいで……!」
ユウゴが、声を絞り出す。
「……なぜ俺たちを……。あなたは魔法使いだったのに……。俺たちは、魔法使いを憎んでいたのに……!」
レンが、自分の無力さを呪うように言った。
おばあさんは、ゆっくりと笑った。
その、皺だらけの手が伸びて、ユウゴの頬に触れ、次に、レンの頬に触れた。
「……大きくなったねぇ……」
その、温かい感触に、二人の目から、再び、涙が溢れた。
「……おばあさん……」
「……すまなかったねぇ……。ずっと……二人に、嘘を、ついていた……」
「……嘘……?」
「……あの日の、ことだ……」
おばあさんの瞳が、遠い過去を、見つめた。
「……あの、老人……。あいつは、魔法使いだ。……私と、同じ……いいや、私よりも、もっと、歪んだ、魔法使いさ……」
「……!」
「……あいつは……。私の、たった一人の、娘……。エウロパの、力を、狙って、あの日、この町に、来た……」
「……エウロパの……力……?」
エラーラが、息を呑んだ。
「……あの子は……。私の、血を、濃く、引いてね……。この、世界の、理すら、書き換えかねない、途方もない、魔力を、秘めて、生まれてきた……」
「……」
「……私は、それを、恐れた。あの子が、力に、飲まれるのを、恐れた。だから、この、田舎町で、力を、隠して、ただの、駄菓子屋の、娘として、育てていた……」
「……」
「……だが、あいつに、見つかった。……あいつは、あの子の、力を、奪おうとした。……私は、戦った。……あんたたちが、見たのは、その、戦いの、一部さ……」
ユウゴとレンは、言葉を失った。
あの老人に、一方的にやられていたヤクザ。
あの老人が、エウロパを消した瞬間。
「……あいつは、エウロパを、殺そうとしたんじゃ、ない。……あの子の、存在そのものを、奪い取り、自分の、ものに、しようとした。……私は、抵抗した。……私の、全ての、魔力を使って……」
おばあさんの息が、荒くなる。
「……でも、ダメだった。……あの子の、体は、消えた。……私に、できたのは、あの子の、魂……その、欠片だけを、この、世界に、繋ぎ止めること、だけだった……」
「……魂を……?」
「……そうさ。……『あの場所』に、ね……」
おばあさんは、苦しそうに咳き込んだ。
「……あいつの、魔法は、町の、全員から、エウロパの、記憶を、消した。……でも、あんたたち、二人だけは、違った。……あの子と、一番、強く、繋がっていた、あんたたちの、魂に、あの子の、最後の、記憶が、焼き付いた……」
「……俺たち、だけ……」
「……私は、魔力の、ほとんどを、失い、あの子の、魂が、眠る、『あの場所』を、ただ、見守るだけの、ただの、老婆になった。……あんたたちに、真実を、話せば、あんたたちも、あいつに、狙われる。……だから、言えなかった。……すまなかったねぇ……」
おばあさんの目から、涙がこぼれた。
「……謝るなよ……!」
ユウゴが叫んだ。
「……謝るな! 俺たちこそ、何も、知らねえで……! あんたが、一人で、戦ってたなんて……!」
「……俺たちは、ただ、憎んでいただけだ。……あなたも、エウロパも、苦しんでいたのに……!」
レンが、石畳に額を擦り付けた。
真実は、彼らが想像していた、単純な、「善」と、「悪」の物語ではなかった。
それは、力を奪おうとする者と、ただ、守ろうとした母親の、悲しい、戦いの記録だった。
夜が、明けようとしていた。
東の空が白み始め、石切り場の岩肌が、冷たい青色に染まる。
おばあさんの容態は、悪化する一方だった。
エラーラが、言った。
「……無理だ。ワタシの、治癒魔法では、追いつかない。……彼女は、自分の、生命そのものを、燃やして、あの、結界を、張った。……もう、助からない」
「……そんな……」
ユウゴが、絶句する。
「……おばあさん……」
「……いいんだよ」
おばあさんは、穏やかに、笑っていた。
「……やっと、あんたたちに、会えた。……やっと、エウロパの、こと、託せる……」
「……託す?」
「……エラーラ、お嬢さん……」
おばあさんは、朦朧とした意識の中、エラーラを見た。
「……あんたは……。あの子と、よく、似ている……。……魂の、形が……」
「……!」
「……『あの場所』へ、行っておくれ……。……私の、最後の、力で、場所を、教える……」
おばあさんは、震える手で、エラーラが持っていた携帯端末の地図を、指差した。
「……この、森の、奥……。古い、魔法の、聖域……。私が、あの子を、隠した、場所……」
「……そこへ行ってどうする。エウロパはもう……」
「……あの子は、生きている。……ただ、眠っているだけさ。……あんたなら、解るはずだ。……あんたは、あの子と、同じ……」
おばあさんの言葉が、途切れた。
「……おばあさん?」
「……ユウゴ、レン……」
老婆は、二人の、男を、見た。
「……あの子を……。今度こそ……。二人で、守って、おやり……」
「……!」
「……お前たち、二人なら……。きっと……」
それが、最後の言葉だった。
おばあさんの手から力が抜け、だらりと、落ちた。
そして、その体が、あの夏のエウロパのように、足先から、ゆっくりと、光の粒子になって、消え始めた。
「……おばあさん!」
ユウゴが、その手を掴もうとするが、彼の指は、光をすり抜けた。
「……いやだ……! おばあさん! 死ぬな!」
「……ありがとう……」
おばあさんは、泣きじゃくる、二人の男に、最後に──微笑みかけた。
おばあさんは、完全に光となり、その粒子は、朝の冷たい空気の中へ、溶けるように消えていった。
後には、ユウゴとレンの、嗚咽だけが、残された。
どれくらいの時間、泣き続いただろうか。
太陽は、すっかり昇り、石切り場に、朝の光が差し込んでいた。
二人の涙は、枯れていた。
「……」
「……」
気まずい沈黙。
あんなに殺し合いそうだった憎しみは、もう、なかった。
憎むべき相手は、お互いではなかった。
憎むべきは、あの、夏の老人。
そして、何よりも。真実に気づけず、狭い、正義と憎悪に囚われていた、自分たち自身だった。
「……フム」
エラーラが、いつの間にか、魔道車の整備を終え、立っていた。
彼女の瞳は、泣いていなかった。
ただ、その褐色の頬に、一筋だけ、涙の跡が乾いていた。
「……二人とも。悲しんでいる暇はないぞ」
「……!」
「おばあさんは言った。『あの場所』へ行けと。……そして、私に、最後の力を託した」
エラーラが手を開くと、そこには、青白く輝く、小さな魔力の結晶が握られていた。
おばあさんの、命の、残り火だった。
「……私は行く。……エウロパという、その、存在を確認するために。……そして、可能ならば、復活させる」
「……復活……?」
ユウゴが、顔を上げた。
「……そんな、ことが……?」
「……分からない。データが無さすぎる。だが」
エラーラは、ユウゴと、レンを、まっすぐに見た。
「……キミたちなら、どうする?」
「……!」
「おばあさんは、言った。『二人で、守れ』、と。……私は、キミたちの、戦う理由には興味がない。だが。おばあさんの、あの、力のデータは、惜しい」
「……行く」
ユウゴが、立ち上がった。
「……行くに、決まってる」
「……ユウゴ……」
「……おばあさんに、託されたんだ。……それに」
ユウゴは、レンを、見た。
「……俺は、もう、間違いたくねえ。……俺たちが、見失ったもんを取り戻す。……それだけだ」
「……」
レンも、ゆっくりと、立ち上がった。
彼の背広は、泥だらけだった。
「……俺は法を捨てた。……秩序に裏切られた。……今の俺には、信じる『正義』は、ない」
「……レン……」
「……だが」
レンは、ユウゴの目を見返した。
「……おばあさんの、最後の願い。……そして、エウロパが、もし、本当に、そこにいるのなら……」
レンは、震える手を、ユウゴに差し出した。
「……俺も行く。……今度こそ、二人で守るために」
ユウゴは、その手を一瞬見つめた。
そして、その手を払いのける代わりに、自分の拳を、レンの胸に、ゴツンと、軽く当てた。
「……当たり前だ。……馬鹿野郎」
「……ああ。……大馬鹿野郎だ」
十数年ぶりに、二人の間に、小さな笑顔が戻った。
それは、あまりにも、痛みと後悔にまみれた笑顔だった。
魔道車は、再び走り出した。
今度は、追手から逃げるためではない。
「あの場所」へ、向かうために。
おばあさんの、最後の力で示された、森の奥。
道なき道を、進む。
車内の空気は、もう、殺伐としていなかった。
「……なあ、レン」
「……何だ」
「……お前の、その、クソ真面目な喋り方、どうにかなんねえのか」
「……お前こそ、その、ヤクザのような口調をやめたらどうだ。……もう、違うんだろう」
「……るせえ。癖だ」
「……俺も、癖だ」
くだらない言い合い。
だが、その響きは、確かに、あの、夏の少年たちだった。
やがて、車は行き止まりに着いた。
切り立った、崖だった。
「……フム。おばあさんの地図では、この奥のはずだが」
エラーラが、端末を見る。
「……ただの壁だぞ」
ユウゴが、岩を叩く。
「……いや、待て」
レンが、岩肌を調べた。
「……風だ。……僅かだが、隙間から、風が吹いている。……それに、この岩の文様……」
「……フム」
エラーラが、その文様を見た。
「……古代の魔力回路……! そうか、隠蔽の魔法か!」
「……どうやって開ける?」
「……鍵がいるはずだ。……だが、その鍵が……」
エラーラが悩んだ、その時。
ユウゴと、レンの、胸の貝の首飾りが、同時に熱を持ち始めた。
「「……!」」
二人は、顔を、見合わせた。
「……まさか……」
ユウゴが、自分の首飾りを外し、崖の文様の中心と思われる窪みに当てた。
レンも、続いた。
凄まじい地響きと共に、岩の壁が震え、光の粒子となって開いていく。
その奥にあったのは、巨大な空洞だった。
半分は、自然の鍾乳洞、半分は、人工的な石の建造物。
古代の魔法の、研究室。
「……ここが……」
「……おばあさんが、言ってた……」
「……フム……! なんという魔力の密度だ……! まるで、空気そのものが魔力でできている……!」
エラーラは、興奮を隠せない。
三人は、その広大な空間の中心へと、歩を進めた。
そこだけが、ドーム状に開けていた。
そして、その中央。
光に包まれた祭壇の上に、それは、あった。
「……!」
「……あ……」
一つの、巨大な水晶の中。
あの夏のままの姿で。
目を閉じ、眠り続ける、「少女」。
エウロパが、いた。
「……エウロパ……!」
ユウゴが、駆け寄ろうとする。
「待て!」
エラーラが、制した。
「……これは、牢獄ではない。……フム。……なるほど。これは、『生命維持装置』だ。……彼女の魂を、この水晶を触媒にして、この場所に、繋ぎ止めている……!」
「……じゃあ、彼女は……」
「……生きている。だが、封印されている。……おばあさんは、自らの力で、あの日、彼女をここに転送し、封じたんだ。……あの老人から、隠すために」
「……どうすれば、助けられる」
エラーラは、祭壇を調べ、目を見開いた。
「……フム……! なんという、古代魔法だ……! 理にかなっている……! この封印を解くには、同質の、膨大な魔力が必要だ。……それも、彼女と強い繋がりを持つ、魔力が……」
エラーラは、自分の懐から、おばあさんの形見である、魔力の結晶を取り出した。
「……おばあさんは、私に、これを託した。……彼女の最後の力であり、『鍵』だ」
エラーラは、祭壇の中心に、その結晶を置いた。
「……だが、足りない。……これだけでは、封印を解くきっかけにしかならない。……もっと、彼女と繋がる、何かが……」
「……これか」
ユウゴが、自分の貝の首飾りを、外した。
「……俺たちのも」
レンも、自分の首飾りを、外した。
エラーラは、ハッとした。
「……そうだ。……おばあさんは、私にも、これを……」
エラーラも、自分の首から、貝の首飾りを、外した。
「……フム。……あの貝は、この聖域の、力の一部だった。……そして、この三つの首飾りは、エウロパと外界を繋ぐ、唯一の、『錨』……! これならいける!」
エラーラは、三つの貝の首飾りを、おばあさんの、結晶の周りに置いた。
「……二人とも!離れろ!」
ユウゴとレンが、後ずさる。
エラーラは、祭壇の前に立ち、両手を広げた。
「……いくぞ!」
エラーラが、自らの全ての魔力を解放する。
彼女の魔力が、おばあさんの結晶に、注ぎ込まれる。
結晶が、太陽のように輝いた。
その光が、三つの貝殻に、伝わる。
貝殻が共鳴し、高周波の音を発した。
壮大な光景だった。
祭壇だけではない。
この、巨大な空洞の、壁、床、天井、その全てに刻まれていた、古代の魔法陣が、一斉に輝き始めた。
白金色の、光だった。
おばあさんの、あの、青白い守りの光とは、違う。
暖かく、力強い、生命の光。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
大地が震え、空洞の天井が開いていく。
そこから、朝の太陽の光が、まっすぐに、祭壇の上の水晶へと降り注いだ。
「……う……おおおおお……!」
ユウゴとレンは、その、あまりの神々しさに、目を開けていられなかった。
憎しみの対象だった、「魔法」。
それが、今、これほどの奇跡を起こしている。
水晶が、光の奔流に飲み込まれ、甲高い音を立てて砕け散った。
光が、収まった。
振動も、止まった。
そこには、ただ、静かな朝の光に満ちた聖域が、広がっていた。
「……」
エラーラが魔力を使い果たし、膝をついて、荒い息をしている。
ユウゴとレンは、恐る恐る、目を開けた。
砕け散った水晶の、祭壇の、中央。
一人の少女が、小さく、うずくまっていた。
あの夏の日のままの、姿で。
「……エウロパ……?」
ユウゴが、震える声で、呼んだ。
少女が、ゆっくりと顔を上げた。
その、亜麻色の髪も、透けるような肌も、何も、変わっていなかった。
少女は、何度か瞬きをすると、まず、ユウゴを見た。
次に、レンを見た。
そして。
「……あ!」
その顔に、太陽のような、屈託のない笑顔が咲いた。
「ユウゴ! レン! うわー! 何だか二人とも、すっごい大きくなったねー!」
その、無邪気で、能天気な、口調。
間違いない。
「……!」
「……う……ああ……!」
ユウゴとレンは、もう、立っていられなかった。
十数年間凍りついていた心が、一気に溶かされ、涙が止まらなかった。
「あれ? ここ、どこ? なんだか、すごーく、眠たかった気がするんだけど……」
エウロパは立ち上がると、不思議そうに周囲を見渡した。
「あ、そうだ! おばあちゃんは? おばあちゃんも、一緒?」
その、無邪気な言葉に、ユウゴと、レンは、顔を上げられなかった。
代わりに、エラーラが、ふらつきながら立ち上がった。
その、いつも冷徹な科学者の顔が、今は、奇妙な悲しみに、歪んでいた。
「……彼女は……。おばあさんは……」
エラーラは、祭壇の上に残された、三つの貝の首飾りを、指差した。
「……キミを助けるために、最後の力を使って……。……消えた」
「……え?」
エウロパの笑顔が、固まった。
彼女は、ユウゴと、レンの、泣き顔を、見た。
そして、祭壇の上の貝殻を、見た。
状況が、理解できていない。
だが、その魂が、理解した。
自分のために、一番大切な人が、いなくなったことを。
「……う……」
エウロパの大きな瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
彼女は、怒りも、絶叫もしなかった。
ただ、子供のように、純粋に。
「……うえ……。……おばあちゃん……!」
彼女は、祭壇の首飾りを、ぎゅっと、握りしめた。
「……おばあちゃん……! ひとりで……。ひとりで、ずっと、がんばってたの……? ……ごめん……。ごめんなさい……!」
自分が眠っていた時間。
その間、たった一人で戦い、守り続けてくれた、祖母を思い、ただ、泣きじゃくった。
その、あまりにも純粋な悲しみの姿に、ユウゴと、レンは、言葉もなく、ただ、その小さな肩を抱き寄せることしかできなかった。
エラーラは、その三人を見ていた。
疲れ果てていたが、その瞳には、新たな光が宿っていた。
(……フム。……データが揃った)
ボロボロの、ヤクザ。
裏切られた、警察官。
そして、時間から復活した、膨大な魔力を秘めた、少女。
「……さて」
エラーラは、パン、と、手を叩いた。
三人が、涙に濡れた顔を上げる。
「……ワタシの目的は達した。……だが、同時に、新たな研究課題も発生した」
エラーラは、三人に告げた。
「これからもう、君たちは、この国の、人間社会には戻れない」
彼女はその瞳で、ユウゴを、レンを、そして、エウロパを、見た。
「……魔法使いに、なれ」
・・・・・・・・・・
「……フム。ワタシの役目は、ここまでだね」
清浄な空気が流れる、魔法使いの聖域。
その入り口で、エラーラは白衣の埃を払った。
この場所は、世界の理から切り離された、古い時代の魔法によって守られている。
中央首都の警察も、西のヤクザの魔力探知も、この結界を超えることはできない。
「データは、全て渡した。あとはキミたち次第だ」
エラーラは、不安げに見上げるエウロパの頭に、ぽんと手を置いた。
「特にキミ、エウロパ。キミという存在は、ワタシの知的好奇心を最大に刺激する。……死ぬんじゃないよ。キミは、ワタシの、最高の研究サンプルなんだからね」
それが、彼女なりの別れの挨拶だった。
エラーラは、一度も振り返ることなく、聖域を覆う光の壁の向こう側へと、消えていった。
残されたのは、三人。
そして、彼らの、新しい日常が始まった。
・・・・・・・・・・
数週間後。
聖域の中にある、日の当たる中庭。
復活したばかりのエウロパは、すっかり元気を取り戻し、なぜか二人の「美青年」を相手に、腕組みをして、小さな先生のように、ぷんぷんと怒っていた。
「いいですか! 魔法っていうのは、こう、心で『フワッ』と感じて、それを『ギュン!』と出すんです! わかりますか、二人とも!」
「……だから、その『ギュン』が分かんねえっつうの」
地面に胡坐をかいたユウゴが、気だるそうに言う。
ボロボロだったヤクザの服は、聖域の住人がくれた、簡素だが上質な黒いシャツに変わっている。傷だらけの肉体と、アンバランスなその美貌が、影のある色気を放っていた。
彼は、エウロパの小さな手を掴むと、自分の胸に当てさせた。
「それより、お前のその小さな手から、どうやって、あんな力が出んだよ。……教えろよ、エウロパ」
「ひゃっ……!?」
「……ユウゴ」
ユウゴの手を、冷たい指が、静かに払い除けた。
いつの間にか、背後に立っていたレンだった。
彼もまた、泥だらけの背広を脱ぎ、ユウゴと対になるような、白いシャツを身につけていた。その姿は、警察官の冷徹さとは違う、禁欲的な騎士の雰囲気をまとっている。
「彼女に触れるな。……それと、エウロパ」
レンは、今度は、ユウゴとは対照的に、エウロパの手を、両手で優しく包み込んだ。
「もう一度、理論的に説明してくれないか。君の『感覚』を、俺が言語化しよう。君の力は、解明すべき対象だ」
「え、ええっと……」
ユウゴの、少し乱暴な手の熱さと、レンの、冷たく理知的な指の感触。
エウロパは、二人の対照的な美青年に挟まれ、顔を真っ赤にするしかなかった。
「もー! 二人とも、お勉強じゃないんですから!」
二人は、同時に、ふっと息を吐き、互いを睨み合った。
「……こいつがいると、集中できん」
「……お前がいると、気が散る」
その火花の意味を、エウロパは、まだ知らない。
彼らの奇妙な生活は、穏やかに、しかし、確実に、新しい絆を育んでいた。
聖域といえど、その外縁部には、無法者や、はぐれ魔法使いが流れ着く、小さな町がある。
三人が、食料の買い出しに、その町を訪れた時のことだった。
「よお、嬢ちゃん。見かけねえ顔だな。俺たちと、いい『魔力交換』でもしねえか?」
下品な笑い声を浮かべた、チンピラ風の魔法使いたちが、エウロパの前に、立ちはだかった。
エウロパが、怯えて、小さく後ずさる。
「ひゃっ……!」
その、小さな悲鳴が、合図だった。
一瞬。
チンピラたちが、何かを認識するより早く、二つの影が、エウロパを、挟むようにして、動いた。
「……ああ?」
ユウゴの、低い、唸り声が、響く。
彼は、エウロパの肩を、強く引き寄せ、自分の懐に、隠した。
「……悪いが、その汚え目で、こいつを見るな」
同時に、レンが、エウロパの前に、滑り込み、チンピラたちの視線を、完全に、遮る、壁となった。
「……聞こえなかったか? この聖域から、出ていけ。……彼女が、不快に感じている」
「あ? 魔力もねえ、ただのガキが、粋がってんじゃ……」
チンピラが、何かを、言い終わる前に。
ユウゴの拳が、風を切り裂き、一人の、腹に、めり込んだ。
もう一人が、慌てて、魔法を詠唱しようとするが、レンの、正確無比な、手刀が、その、首筋の、神経節を、完璧に、打ち抜いた。
魔法が、発動する、暇も、なかった。
数秒後。そこには、ただ、地面に、無様に転がる、二人の、チンピラだけが、残されていた。
「……もう、大丈夫だ」
ユウゴの胸の中から、エウロパが顔を上げると、ユウゴが、意地悪そうに、笑った。
「……いつまで、俺に抱きついてんだ?」
「あ……! ご、ごめんなさい!」
慌てて離れようとするエウロパの手を、今度は、レンが、掴んだ。
「……怖かったな、エウロパ。行こう。こいつの側は、思考回路まで野蛮になる」
「あ? なんだと、てめえ」
「事実だ」
「「…………」」
二人の、たくましい騎士に、左右から、守られて。
(……ど、どっちも近い……!)
エウロパの心臓は、さっきとは、違う意味で、高鳴っていた。
だが、守られてばかりのエウロパではなかった。
別の日。
今度は、妖艶な美女が、三人の前に現れた。
彼女は、明らかに高度な魔力を持つ、悪女だった。
彼女は、エウロパには目もくれず、ユウゴとレンの、たくましい肉体を見て、舌なめずりをした。
「あら、素敵な殿方。魔力はないみたいだけど、その『肉体』……とても、そそられるわ。私と一夜、過ごしてみない? 楽しい『魔法』を、たっぷり教えてあげる」
ねっとりとした、誘惑。
だが、ユウゴは、鼻を鳴らした。
「……興味ねえ。俺にはもう、守る『姫』がいるんでな」
「……結構だ。俺の時間は、すべて、彼女の教育のためにある」
「……なによその態度! もしかして、この目障りなガキのせい!?」
美女は逆上し、その指先から、二人を同時に縛り上げる「束縛」の、魔法を放った。
魔力への対抗手段を持たないユウゴとレンが、咄嗟に身構える。
「「くっ……!」」
「―――だめっ!!」
その二人の前に、エウロパが、小さな体で飛び出した。
彼女は、何も考えていなかった。
ただ、「二人を守りたい」と思った。
瞬間。エウロパの体から、あの聖域で覚醒した、膨大な魔力が迸った。
それは、おばあさんの、青白い守りの光でも、エラーラの知性的な制御された力でもない。
ただ、純粋で、圧倒的で、そして、温かい、夜明けの空の色をした、光の奔流だった。
美女の、悪意に満ちた束縛の魔法は、その光に触れた瞬間、まるで、最初から存在しなかったかのように霧散した。
「な……なんなの、あの子……!? ば、化け物……!」
美女は、その底知れない力の原石を目の当たりにして、悲鳴を上げ、逃げ去った。
「……はぁ……はぁ……」
エウロパは、まだ力の制御ができず、その場に倒れ込みそうになる。
それを、左右から同時に、ユウゴとレンが、支えた。
「「エウロパ!」」
「……無茶しやがって」
ユウゴが、彼女の腰を力強く支える。
「……だが、よくやった」
「……ああ」
レンが、彼女の額の汗を、そっと指で拭う。
「……君は、ただ守られるだけの存在ではない。……だが、俺たちが守る。君が、その力に、飲み込まれないように」
「……へへ……」
二人のたくましい腕の中で、エウロパは、誇らしそうに笑った。
「……今度は、私が二人を守っちゃった……!」
その夜。
聖域の丘の上で、三人は星を見ていた。
エウロパが、二人の間に割り込むように座り込み、ユウゴとレンの腕を、同時に掴んだ。
「二人とも、何、内緒話してるんですかー?」
「ん? 別に」
ユウゴは、ぶっきらぼうに言いながら、その、亜麻色の髪を、くしゃくしゃに撫でた。
「……お前の髪、まだガキみてえだな、って話だ」
「もー! 失礼な!」
「やめろ、ユウゴ」
レンが、その手の上から、優しく、エウロパの髪を整え直す。
「……星が綺麗だ、と話していた。……あの、一番明るい星が、君の瞳の色に似ている、と」
「……えへへ。レンはキザだなぁ」
「ちぇっ。また理屈かよ」
エウロパが、二人の腕にしがみつく。
「へへ。二人と一緒だと、星も、すっごく綺麗!」
その、無邪気な笑顔。
二人の騎士は、互いに、顔を見合わせた。
魔力は持たない。
だが、誰よりも強靭な肉体と心を持つ、二人の「騎士」。
最強の、魔法使いの原石。
だが、まだひ弱で守られるべき、一人の「姫」。
彼らの新しい物語は、今、始まったばかりだった。
……その頃。
中央首都。
夕暮れ時。世界で最も混沌とし、最も多くの人間が行き交う、大交差点。
無数の魔導車、馬車。行き交う人々。
魔導看板が、巨大な光の洪水となって、街を照らし出す。
その、雑踏の中心に、エラーラは立っていた。
彼女は、群衆に紛れていた。
(……フム)
彼女の任務は、終わった。
聖域で得られたデータは、素晴らしいものだった。
あの、貝の生態。
おばあさんの、規格外の、魔力の残り香。
そして、エウロパの復活の記録。
(……だが)
エラーラは、雑踏の真ん中で、ふと、足を止めた。
人々が、彼女を避けるように、流れていく。
(……あの、二個体。ユウゴと、レン。……あの二人のデータだけが、非論理的だ)
憎悪、忠誠、暴力。そして、あの、奇妙なまでの献身。
(……再現性がない。……非効率的だ。……だが、しかし)
エラーラは、街角の巨大な魔導画面を、見上げた。
そこには、『浄化作戦』の名の下に、未だ続く、魔力保持者への弾圧の報道が流れていた。
(……全く……)
もう、行くべきだ。
世界は、データに満ちている。
だが。
彼女は、なぜか、振り返っていた。
自分が、今来た道。
あの、北の山々がある方向を。
「……フム……」
エラーラの唇に、彼女自身も気づかない、ほんの僅かな笑みが浮かんだ。
「……あの三つのサンプル。……果たして、この世界の混沌という名の実験場で、どんな『反応』を見せてくれるのかねぇ」
信号が、変わる。
人々が、再び、動き出す。
その、洪水の中に、エラーラの姿は、もうなかった。




