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ヴェリタスの最終定理 PART1/エラーラ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue
孤狼の挽歌

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第3話:孤狼の挽歌(3)

あの海岸で別れた二人の男。

彼らの間に張り詰めていた、殺意とも、あるいは十数年越しの焦がれた再会ともつかぬ、歪な緊張。彼らの瞳の奥底に共通して宿っていた、同じ過去を源流とする、暗く、冷たい炎。

エラーラは、自らの研究衣のポケットにしまった携帯端末に、観測した全ての生体データを記録した。


(フム……。あの二個体。同一の故郷の地名を起動の言葉として、極度の交感神経の高ぶりを誘発。相互に深い関係性を持ちながら……)


そのデータは、確かに興味深かった。二つの異なる道筋が、ねじれ合いながら、再び一点で交わろうとしている。


(ワタシの予測モデルが正しければ、近いうちに、この中央首都で大規模な社会構造の変動……つまりは、『戦争』あるいは『内戦』が起きる可能性は九割を超える、か)


だが、それはそれだ。

人間の、あまりにも人間的な、非合理的な感情の爆発。それもまた観測対象ではあるが、エラーラの最優先事項ではなかった。彼女の心を掴んで離さないのは、あの二人の男の感情劇ではなく、自らの仮説の検証。ただ一点。


「……『成分X』」


あの海で得た、最後の確信。

ユウゴという男の、非科学的な『勘』という名のデータ。それが、奇妙なことに、ワタシの積み上げた仮説と、最後の最後で一致した。


(汚れた場所に溜まる、のではない。……発生源が、汚染された海そのものではない、ということだ)


エラーラは、首都の雑踏を抜け、北へと向かう乗合馬車に、迷いなくその身を滑り込ませた。


馬車は、中央首都の重苦しい喧騒をゆっくりと背にしていく。

あれほどひしめき合っていた建物は、次第にまばらになり、整然と磨かれていた石畳の道は、やがて土埃の舞う、轍の深い田舎道へと姿を変えていった。

ガタゴト、と車輪が石を跳ね上げる、無遠慮な振動。

窓の外を流れる風景から、灰色が消え、緑の割合が、指数関数的に増大していく。

どこまでも続く、深い、深い緑。

空は、中央首都の工房や魔導機関の煤煙に汚されていない、突き抜けるような青だ。

そして、音が変わった。

街の喧騒が完全に途絶えた瞬間、まるで世界の主役が入れ替わったかのように、それは、耳に飛び込んできた。


ジ、ジジ、ジジイイイイイイッ―――。


あの海岸で聞いたものとは、比較にならない。

何十万、何百万という命が、その短い生を謳歌し、焦がす、蝉時雨の大合唱。

それは、もはや音ではなく、この世界全体を包み込む、夏の「圧力」そのものだった。

エラーラは、その圧倒的な音響エネルギーに包まれながら、ふぅ、と小さく息を吐いた。

彼女は今、素顔のまま、ありのままの世界をその瞳に映している。

あまりにも強く、目に痛いほどの、緑と、青。

熱い風が、窓から吹き込み、彼女の髪を弄ぶ。

草いきれと、湿った土の匂い。


(……非合理的だ)


数値化された世界に比べ、なんと情報量の曖昧なことか。


(だが……)


エラーラは、目を閉じた。

蝉の声が、体の芯まで、震わせる。


(……不快ではない。むしろ、この単調な高周波の振動が、ワタシの思考を、クリアにする……)


中央首都の、あの、人間たちの欲望が発する、不協和音のような雑音。

あの二人の男が放っていた、張り詰めた緊張。

それらが、この圧倒的な生命の音に、洗い流されていくようだった。


(フム。興味深いねぇ。この、完璧な均衡で成り立つ、非効率な生態系。……もうすぐ、あの首都で、全てがひっくり返るかもしれないというのに)


この平和が、この均衡が、もうすぐ失われるかもしれない。

エラーラは、その時、自分の胸を締め付ける、奇妙な感覚の正体を知らなかった。

それは、非合理的な、「切なさ」という感情の、サンプルだった。


馬車を降り、目的の集落までは、歩くしかなかった。

道は細く、曲がりくねり、どこまで行っても、同じような田ぼと、低い山々が続いている。

傾き始めた太陽が、稲穂を黄金色に照らしていた。


(……確かに、この辺りから、空気中に含まれる『成分X』の気化濃度が上昇している。ワタシの仮説は、やはり正しかったようだねぇ)


エラーラは、携帯端末の簡易測定器の数値を読み取りながら、歩を進めていた。

分析に集中していない、素の状態の彼女は、どこからどう見ても、場違いな研究衣を着た、美しいが、少し風変わりなだけの娘だった。

彼女が、端末の数値に気を取られ、角を曲がった、その時だった。


「わっ!」


「っと……!」


ドサッ、と鈍い音がした。

エラーラは、自分にぶつかってきた「何か」と、自分自身が、土手の下の草むらに転がっている事実を、同時に認識した。


(……フム。油断したか)


「イテテ……。ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」


目の前には、泥だらけの少年が、尻餅をついている。

エラーラは、瞬時に状況を判断した。


「ああ。問題ない。人体への損傷は軽微。それより、キミの運動エネルギーの計算が甘い。あの速度で角に進入すれば、衝突は予測可能だったはずだ」


「え……? あ、うん……?」


少年は、何を言われているのか分からない、という顔をした。


「おい! 早くしろ! こっちだ!」


土手の上から、別の子供たちの声がする。

見ると、土手の上に、ゴム製の、使い古されたボールが転がっていた。


「ああ! ボール……!」


少年が、慌てて立ち上がろうとする。

エラーラは、彼より速く立ち上がり、研究衣の埃を、こともなげに払うと、そのボールを拾い上げた。


(フム。球体。弾性素材。……なるほど、遊具か)


「キミ、あれが欲しいのかね?」


「う、うん!」


「よろしい。対価として、一つ、データを貰おう。この先の川……上流で、何か変わったことは?」


「え? 川? うーん……別に? いつも通り、冷たくて気持ちいいよ! あ! ボール、返して!」


「……そうか。子供のデータは、やはり信憑性が低い。交渉は、決裂だね」


エラーラは、ふぅ、と小さく息を吐くと、少年たちのリーダー格と思しき、一番遠くにいる子供に向かって、ボールを投げた。

それは、魔力の補助もない、ただの、彼女の腕から放たれた投擲だった。

だが、そのボールは、物理法則の答えだけをなぞるように、一切のぶれなく、少年の胸元に、スッ、と吸い込まれるように収まった。


「「「うわっ!?」」」


子供たちは、その、あまりにも人間離れした投球に、目を丸くした。

エラーラは、彼らの驚きを意に介さず、再び歩き出した。


(フム……。実地調査が最優先だ)


背後で、子供たちが「今の、魔法か?」「すげえ!」と騒いでいる声がしたが、エラーラは、もう興味を失っていた。


平和な田舎町。

それが、エラーラの、素顔の「目」で見た、第一印象だった。

どこまでも続く蝉の声。傾き始めた太陽が、古い家並みの影を、長く、長く、道に伸ばしている。

道端には、名も知らぬ小さな花が咲き、古びた民家の軒先には、干し草の、懐かしいような匂いが漂う。

中央首都で感じた、あの、皮膚をヒリつかせるような緊張感は、ここには微塵もなかった。


(……同じ国とは、思えないねぇ)


だが、この平和こそが、異常なのだ。

間もなく、この国の中心で、全てをひっくり返すような「魔法使い狩り」が始まるというのに。

この、切り離されたような、現実感の無さ。

それが、エラーラの心を、再び、あの奇妙な感覚で満たした。


(……これが、世に言う『切なさ』という感情のサンプルかね? 興味深い。失われると分かっているからこそ、美しく見える。……非合理的だが、理解できなくもない)


彼女は、川の上流を目指して、集落の目抜き通りと思しき、緩やかな坂道を登っていた。

その時、彼女の足が、ふと、止まった。

一軒の、古い店の前。


(……?)


木造の、今にも崩れそうな、小さな店。

看板の文字は、掠れて読めない。


(……『駄菓子屋』……小規模な児童向け小売り店舗の形態……)


なぜ、こんなものが、まだ現存しているのか。

そして。


(……なぜだ? ワタシは、なぜ、この店に、これほどまでに、足を引かれている……?)


エラーラは、この店に来たことはない。当然だ。

だが、その、古びた木の扉から漂ってくる匂い―――埃と、安い砂糖菓子と、古い木の、そして、何か、決定的に懐かしいような匂いが、彼女の鼻腔をくすぐり、足を縫い留めた。


(……非合理的だ。ワタシの目的は、上流。この店に、ワタシの求める答えがある確率は、限りなくゼロに近い)


だが、体は、動かなかった。

まるで、見えない引力に、吸い寄せられるように。


(……いいだろう。これも、データ収集の一環だ。この不可解な引力も、何かの変数かもしれん。……ワタシ自身の、ね)


エラーラは、自らにそう言い聞かせると、軋む木の扉を、ゆっくりと押した。


カラン、と、乾いた鈴の音が鳴った。

店内は、薄暗かった。

西日が、埃だらけの窓硝子を通して、斜めに差し込んでいる。

空気中を、無数の小さな塵が、光の筋の中で、バレエのように、ゆっくりと踊っていた。

棚には、色褪せた包装紙の菓子や、埃をかぶった玩具が、まるで時が止まったかのように、並べられている。

そして。


(……フム)


エラーラは、その、鍛え抜かれた魔力感知の感覚を、研ぎ澄ませた。


(……魔法の匂いが、しない)


これほどまでに古く、謂れのありそうな場所に、魔力の残滓が一切ない。

ここは、ただの、本当に、ただの、古い店なのだ。


「……あら」


店の奥、色の褪せた暖簾の向こうから、しわがれた声がした。


「お客さんなんて、珍しいねぇ」


現れたのは、腰の曲がった、一人の老婆だった。

深く刻まれた皺。真っ白になった髪。だが、その瞳だけが、暗い店内で、悪戯っぽく、キラキラと輝いていた。


「……フム。この施設の、管理者かね?」


エラーラは、素顔のまま、老婆を観察した。


(生体反応、正常。魔力反応、ゼロ。……やはり、ただの人間だ)


「管理者、かねぇ。まあ、店主だよ」


おばあさんは、エラーラの奇妙な研究衣を、特に気にするでもなく、ニコニコと笑っている。


「旅の、お嬢さんかい? 何か、探してるのかね」


「ああ。ワタシは、調査の途中でね。……喉が渇いた。この施設に、カフェイン溶液……つまり、コーヒーはあるかね?」


エラーラの、あまりにも場違いな注文に、おばあさんは、一瞬、きょとん、とした。

そして、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。


「か、かかか! コーヒー! お嬢さん、あんた、面白いことを言うねぇ!」


「?」


「ここは、中央首都の洒落た喫茶店じゃないんだよ。こんな田舎の駄菓子屋に、そんなハイカラなモン、あるわけないじゃないか」


「……そうか。合理的ではないね」


「あるのは、これさ」


おばあさんが指差したのは、古い、魔力式の冷凍庫。


「冷たい麦茶か……あとは、氷菓子くらいのもんだよ」


「……氷菓子」


エラーラは、冷凍庫を覗き込んだ。

中には、安っぽい、色とりどりの氷菓子が、雑然と詰まっている。


「……フム。ショ糖を主体とした、冷却甘味剤か。……いいだろう。これを一つ、貰おう」


エラーラは、一本の、青い氷菓子を掴み、代金を払った。

店の外にある、古い縁台。

エラーラは、そこに腰掛け、無心で、その氷菓子を口に運んだ。


(……単純な、甘さだ)


何のひねりもない、ただ、冷たくて、甘いだけの味。

だが、その単純な刺激が、酷暑の中を歩いてきた彼女の、疲れ切った神経を、ゆっくりと解していく。


「……どうだい、お嬢さん」


いつの間にか、隣に、おばあさんが座っていた。手には、湯呑に入った麦茶を持っている。


「お口に、合ったかね」


「……ああ。許容範囲だ。冷却効率も悪くない」


「かか。難しいことを言うねぇ」


おばあさんは、皺だらけの手で、自分の麦茶を、ゆっくりと啜った。

蝉の声だけが、響いている。

エラーラは、なぜ、自分が、この、見ず知らずの老婆と、縁台に並んで座っているのか、分からなかった。

だが、不思議と、不快ではなかった。


(……奇妙だ。この個体……おばあさんといると、ワタシの思考の雑音が、減少していく)


いつもは、頭の中で、何百もの仮説とデータが、嵐のように渦巻いている。

だが、今は、それが、静かに凪いでいくようだった。

この、時間の流れが止まったような、田舎の夕暮れ。

この、全てを知っているかのように、穏やかに笑う、老婆。

エラーラは、生まれて初めてかもしれない、「信頼」という、非合理的な感情の萌芽を、感じていた。


「……あんた、変わった服だねぇ」


おばあさんが、エラーラの真っ白な研究衣を見た。


「ああ。これはワタシの制服でね。耐火、耐衝撃、対魔法防御も施されている。合理的だろ?」


「ふうん。……疲れないかい? そんな、鎧みたいなモン、いつも着てちゃあ」


「……!」


エラーラの、氷菓子を舐める手が、止まった。


「……疲れる? 非合理的な質問だ。安全こそが、ワタシの存在意義だ」


「そうかねぇ」


おばあさんは、遠くの山を見つめた。


「時には、脱いで、丸裸んなった方が、楽なこともあると思うがねぇ」


その言葉は、まるで、全てを知った上で、あえて「知らないふり」をしている者の、呟きのようだった。

エラーラは、この老婆になら、話してもいいかもしれない、と思った。


「……おばあさん。キミは、この街に、ずっと?」


「ああ。生まれてから、ずっとさ」


「なら、忠告しておこう。……ワタシのデータによれば、近々、中央首都で、大規模な……」


エラーラが、「戦闘」という言葉を口にする、その寸前だった。


「……『戦争』が、始まるんだってねぇ」


おばあさんは、エラーラの方を見ず、ただ、燃えるような夕焼けの空を見つめたまま、静かに言った。


「…………は?」


エラーラは、凍りついた。


(今、なんと言った? 戦争? なぜ、知っている?)


(ワタシの計算モデルを、なぜ、この、魔力ゼロの老婆が)


おばあさんの生体反応、正常。心拍数、平静。魔力反応、ゼロ。

嘘でも、憶測でもない。

ただ、「知っている」人間の、静かな呟きだった。


「……なぜ、それを」


「さあねぇ。……この時期になると、いつも、鉄の匂いが、風に乗ってくるのさ。……馬鹿なことだねぇ。こんなに、蝉が、一生懸命鳴いてるっていうのに」


エラーラは、混乱していた。

自分の、全知であるはずの「データ」が、目の前で、この、何者でもない老婆に、出し抜かれた。


「……いや、それよりもだ」


エラーラは、動揺を隠すように、本題を切り出した。


「ワタシの、本来の目的は、水質調査だ。この中央首都の海で、特殊な成分が検出されてね。その発生源を、追っている」


「……ああ、あの、川の水のことかい」


おばあさんは、やはり、驚かない。


「そうだ。ワタシの仮説では、この上流に生息する、ある種の……」


エラーラが、携帯端末を取り出し、貝の三次元データを表示しようとした、その時。


「……この子の、ことだろう?」


おばあさんは、いつの間にか、店の奥から、小さな箱を持ってきていた。

そして、その中から、一つの、小さな「貝殻」を取り出した。

それは、革紐に通された、首飾りだった。

エラーラは、息を呑んだ。

彼女が、何か月もかけて追跡し、今、まさに、その存在を証明しようとしていた、未知の貝。

「成分X」の発生源。

それが、何の変哲もない、お守りのような形で、目の前に差し出されていた。


「な……ぜ……。これが……。まさか……。私の仮説の……答え……?」


「この貝がね、この山の上流にしか、いないのさ。昔から、この町の水を、きれいにしてくれてるんだ」


おばあさんは、エラーラの、驚愕に揺れる瞳を見つめると、優しく微笑んだ。

そして、その貝のネックレスを、エラーラの、細い首に、そっと、かけてやった。


「あんたも、これ、持ってお行き」


「……!」


「なんだか、あんたが、持っているべき気がしてねぇ」


「……おばあさん……キミは……一体……?」


エラーラは、自分の首にかかった、小さな貝殻に触れた。

ひんやりと、冷たい。

だが、そこから、温かい何かが、流れ込んでくるようだった。

自分の、積み上げたデータも、論理も、何もかも、この老婆の前では、無力だった。

彼女は、魔法も、機械も使ずに、全てを、知っていた。

エラーラは、訳の分からない、胸を締め付けるような感覚に襲われた。


(……これが……)


夕焼けが、おばあさんの皺だらけの顔を、赤く染める。


(……切なさ、か)


蝉の声が、まるで、この世の終わりを惜むかのように、鳴り響いていた。

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