第1話:Battles Without Honor and Humanity
主題歌:新・仁義なき戦い 誅殺 サウンドトラック
https://youtu.be/F1SkdSwr2Kc
命を焦がすような蝉時雨が、世界を揺らしていた。
ジ、ジジ、ジジイイイイイイッ―――。
耳の奥で沸騰するようなその音は、中央首都の北側、山あいに位置するこの田舎町に、どうしようもない夏が来たことを告げていた。海が近いせいで、風はねっとりとした塩の匂いを運び、山から吹き降ろすいきれが、舗装の甘い道路から陽炎を立ち昇らせる。
すべてが、黄金色に溶け落ちてしまいそうな午後だった。
そんな、世界の何もかもが弛緩しきった真夏日の中を、二つの疾風が駆け抜けていく。
「待て、ユウゴ!そっちは行き止まりだ!」
「うるせえ、レン!行き止まりなら、道を作ればいいんだろ!」
土埃を上げ、山の獣道を爆走するのは、この町に住む二人の少年。ユウゴとレン。
ユウゴは、日に焼けた肌に、擦り傷の絶えない腕と脚を晒している。その瞳は、常に何か面白いことを探しているかのように、ギラギラと輝いていた。
レンは、ユウゴより少しだけ背が高く、走りながらも次の進路を冷静に計算しているような、理知的な光を瞳に宿していた。
二人には、この世界で「力」とされる、魔力は一切なかった。
貴族や騎士が生まれながらに持つという、炎を呼び、風を操る不思議な力。そんなものは、これっぽっちも持ち合わせていない。
だが、二人には、そんなものは必要なかった。
ユウゴには、誰よりも速く走れる脚と、決して折れない心があった。
レンには、誰よりも高く跳べる身軽さと、決して諦めない頭脳があった。
そして何より、二人には、互いがいた。
「「うおおおおおおおっ!」」
二人の声が重なる。
行き止まり。眼下には、山の雪解け水を集めて海へと注ぐ、渓流が流れていた。高さは、家の一階の屋根ほどもある。
「……どうすんだよ、ユウゴ。言ったろ」
「決まってんだろ」
ユウゴは、汗まみれの顔でニヤリと笑う。
「――飛ぶ」
「はあ!?馬鹿か、死ぬぞ!下は岩だらけだ!」
「死なねえよ。俺とお前だぜ?」
ユウゴは、レンの返事を待たずに崖を蹴った。
「あっ、こいつ……!」
重力に引かれ、ユウゴの体が放物線を描く。
「ユウゴオオオッ!」
ザバァァァァン!
凄まじい水飛沫が上がり、数秒の静寂。
「……っぷはあ!冷てえ!最高だ!」
水面から顔を出したユウゴが、得意げに手を振る。
レンは、額の汗を拭い、崖の下を正確に検分した。ユウゴが飛び込んだ一点だけが、奇跡的に深く、岩が避けている。
「……本当に、馬鹿なんだから」
レンは小さく呟くと、数歩下がって助走をつけ、ユウゴよりも美しい軌道で、寸分違わず同じ場所へと飛び込んだ。
水面に浮かび、空を見上げる。蝉の声だけが、どこか遠くに聞こえる。
「なあ、レン」
「なんだ」
「俺たち、最強だよな」
「……ああ。そうかもな」
「魔力なんてなくたって、俺とお前が揃えば、王都の騎士団だって倒せる気がする」
「それは無理だ。あいつらは魔法を使う。でも」
レンは、隣で浮かぶユウゴの方を向いた。
「俺とお前なら、どんなことも、乗り越えられる。」
二人は、顔を見合わせて笑った。
この黄金色の夏が、永遠に続くと信じていた。
山で遊び、海で釣り糸を垂れ、街の市場で果物を失敬しては、大の大人に追い回される。
そんな日々の中で、二人には、もう一つの、大切な場所があった。
町の外れにある、古い駄菓子屋。
「おばちゃん、こんにちは!」
「はいよ、いらっしゃい。ユウゴにレン。また随分と泥だらけになって」
埃っぽい店内で、古い木棚に囲まれながら、皺の深い顔で笑う店主のおばあさん。彼女は、親のいないユウゴと、家の厳しいレンにとって、唯一、心の底から甘えられる「大人」だった。
そして、その傍らには、いつも「少女」がいた。
「ユウゴくん、レンくん。こんにちは」
おばあさんの一人娘。エウロパ。
二人の親友。
透けるような白い肌に、太陽の光を吸い込んで輝く亜麻色の髪。ユウゴやレンとは違う、おとなしい性質の少女だったが、彼女はいつも、二人の無茶な冒険譚を、目を輝かせて聞くのが好きだった。
ユウゴが法螺を吹けば、エウロパは「すごい!」と手を叩き、レンが冷静に突っ込みを入れると、エウロパは「もう、レンくんは」と可笑しそうに笑う。
この駄菓子屋で過ごす時間こそが、三人の「永遠」の象徴だった。
その日も、太陽が西の山稜に隠れようとする、夕暮れ時だった。
空だけが、安っぽい絵の具をぶちまけたように、毒々しい赤色に燃えている。
「……そろそろ帰らねえと、また親父に締め上げられる」
レンが、空を見上げて呟いた。
「ちぇっ。もうちょっといいだろ」
「エウロパも、おばあさんが心配する。送っていこう」
三人は、いつもの道を歩いていた。港に近い、薄暗い裏路地。潮の香りと、魚のはらわたの腐臭が混じり合う場所。
その時だった。
「……おい、ユウゴ。あれ」
レンが、路地の曲がり角で足を止めた。
壁に、一人の老人が押し付けられている。その前には、三人の大男が立っていた。
夕闇の中でも、その異形は分かった。腕を覆う剛毛、犬のように突き出た鼻面、鋭い爪。
「……獣人だ」
この中央首都では、亜人種は珍しくない。だが、彼らが裏社会と繋がり、暴力的な稼業に就いていることも、子供たちは知っていた。
「……ヤクザだ」
ユウゴが、息を呑んで言った。
三人の獣人は、老人に凄んでいた。
「なあ、爺さんよ。あの商人、まだ払わねえって言ってるぜ」
「お前さんが、あの商人に騙し取られた金だ。俺たちが、きっちり取り立ててやる」
「だがよ、そのためには『誠意』ってもんが必要だろうがよお!」
獣人の一人が、老人の胸倉を掴み、壁に叩きつける。老人は苦しげに咳き込んだ。
「やめろよ……」
ユウゴの口から、声が漏れた。
「馬鹿、静かにしろ!見つかる!」
レンが、慌ててユウゴの口を塞ぐ。
エウロパは、恐怖に目を固く閉じていた。
(許せねえ)
ユウゴの腹の底で、何かが煮え繰り返る。
(寄ってたかって、年寄りを虐めて……!)
(あれが、大人のやることかよ!)
獣人たちは、老人の名誉と尊厳を守るために、その老人を騙した悪徳商人から金を取り立てようとしている―――その行動の裏にある複雑な義理人情など、少年に分かるはずもなかった。
彼らの目に映ったのは、ただ、「強者が弱者を虐げる」という、分かりやすい「悪」の構図だけだった。
獣人たちは、ひとしきり老人を脅すと、どこかへ去っていった。
三人は、息を潜めたまま、その場に立ち尽くす。
「……ひどい」
エウロパが、震える声で言った。
「クソッ……!俺に力があれば……!」
ユウゴが、壁を殴りつける。
「行こう。俺たちが関わっていいことじゃない」
レンは、二人の背中を押した。
だが、その時。
「……見ていたのかね」
しわがれた声が、背後からした。
三人が振り返ると、そこに、先ほどの老人が立っていた。いつの間、回り込まれたのか。
老人は、ヤクザに虐げられていたとは思えないほど、穏やかな顔で笑っていた。
「感心な子供たちだ。だがね」
老人の目が、スッと細められる。
「見なくていいもの、知らなくていいこともある」
その視線が、ユウゴとレンを通り越し、エウロパに注がれた。
「特に……お前さんのような『残り滓』は」
「え……?」
エウロパが、小さく首を傾げる。
次の瞬間。
ユウゴとレンは、理解が追いつかなかった。
老人が、ただ、エウロパに向かって、ゆっくりと手を差し出した。
指輪も、杖も、詠唱もなかった。
だというのに、エウロパの体が、足元から、まるで淡い光の粒子のように、崩れ始めた。
「……あ……」
エウロパは、声も出せなかった。
恐怖でも、苦痛でもない。ただ、自分が「消えていく」という事実を、不思議そうに見つめていた。
「エウロパ!?」
ユウゴが叫び、手を伸ばす。
だが、その指が少女に触れる寸前、エウロパの体は、夕闇に溶け込むように、完全に「消滅」した。
後に残ったのは、アスファルトの上に転がる、彼女がいつも履いていた、小さなサンダルだけだった。
「…………あ……ああ……」
ユウゴは、伸ばした手の先を見つめたまま、膝から崩れ落ちた。
「……うそだ……」
レンは、腰が抜けたように、その場に座り込んだ。
蝉の声が、急に遠くなった。
「な……にを……」
ユウゴが、震える声で老人を見上げる。
老人は、無表情のまま、二人を見下ろしていた。
「魔法……?」
レンが、喘ぐように言った。
この国で、禁忌とされる力。神の領域を侵す、忌まわしき業。
「そうだ」
老人は、こともなげに言った。
「あれは、お前さんたちの親友だったかね? 駄菓子屋の娘。あれは、ここにいてはならなかった。だがな、よく来てくれた、とでも、言っておこうか。」
「て……めえ……」
ユウゴの奥歯が、ギリ、と鳴った。
「なぜ……なぜ、エウロパを……!」
「お前さんたちには、関係のないことだ。だが……」
老人は、楽しそうに目を細めた。
「良いものを見せてもらった礼だ。お前さんたち二人には、『記憶』を残しておいてやろう」
老人が、再び手をかざす。
今度は、痛みも、光もなかった。
ただ、冷たい「何か」が、脳を直接撫でられたような、凄まじい不快感が二人を襲った。
それは、一瞬。
町全体が、一瞬だけ「揺れた」ように感じた。
「……さて。これで、犯罪は露見しない」
老人は、満足そうに頷くと、闇の中へと消えていった。
何が起きたのか、分からなかった。
二人は、どれくらいの時間、そこに座り込んでいただろうか。
先に動いたのは、ユウゴだった。
「……エウロパ……」
彼は、這うようにして、アスファルトに残されたサンダルを拾い上げる。
まだ、温かい。
「……駄菓子屋に……おばあさんに、知らせないと……!」
レンが、我に返ったように叫び、立ち上がる。
二人は、もつれる足で、来た道を全力で引き返した。
エウロパが殺された。魔法使いに。
あのヤクザたちよりも、もっと恐ろしい、「本物の悪」に。
「おばあさん! 大変だ!」
ユウゴが、店の引き戸を壊さんばかりの勢いで開ける。
店主のおばあさんが、奥から驚いた顔で出てきた。
「おや、ユウゴ、レン。どうしたんだい、そんな顔して。幽霊でも……」
「エウロパが! エウロパが、今……!」
レンが、息を切らしながら叫ぶ。
おばあさんは、きょとん、と首を傾げた。
その、あまりにも平然とした反応に、ユウゴの心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。
「……おばあさん?」
「……だから、エウロパが!魔法使いに……!」
おばあさんは、困ったように眉を下げた。
そして、二人の少年にとって、エウロパの「死」そのものよりも、絶望的な言葉を口にした。
「……エウロパ? ……誰だい、それは」
「…………え?」
ユウゴの思考が、停止した。
「な、何言ってんだよ、おばあさん! 娘だろ! あんたの娘の、エウロパだよ!」
「およしよ、二人して」
おばあさんは、寂しそうに笑った。
「あんたたちも知ってるだろう。私に、家族なんていやしないよ。ずっと、この店で一人さ」
嘘だ。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
二人は、店の奥へと駆け込んだ。エウロパがいつも座っていた、小さな椅子。エウロパが使っていた、小さな机。
そこは、ただの、古い雑誌が積まれた物置になっていた。
「そんな……」
レンが、壁に手をついて崩れ落ちる。
「なんで……なんで、覚えてないんだよ……!」
ユウゴは、町へ飛び出した。
すれ違う大人たち、全員に聞いた。
「エウロパを知ってるか!? 駄菓子屋の娘の!」
「エウロパ?」
「どこの子だい、それ」
「駄菓子屋のおばあさんは、ずっと一人だよ」
誰も、覚えていなかった。
あの老魔法使いは、エウロパを殺しただけではない。
この町から、エウロパという存在そのものを、「消去」したのだ。
ただ二人、ユウゴとレンの記憶だけを残して。
「これが……『記憶を残す』ってことかよ……」
ユウゴは、町の広場で、天を仰いだ。
蝉が、まだ、ジージーと鳴いていた。
まるで、二人の絶望を、嘲笑うかのように。
どれだけ歩いただろうか。
ユウゴとレンは、吸い寄せられるように、再び駄菓子屋の前に戻ってきていた。
店の明かりは、もう落ちている。
二人は、店の前の古い縁台に、並んで腰掛けた。
どちらも、何も喋らなかった。
喋るべき言葉を、持たなかった。
(魔法使い……)
ユウゴは、拾ってきたエウロパのサンダルを、膝の上で強く握りしめた。
(あいつらが……あいつらさえいなければ……!)
(エウロパは、死ななかった)
レンも、俯いたまま、拳を握っていた。
(誰も、覚えていない)
(俺たち二人だけが、この苦しみを、怒りを、知っている)
(こんなことが、許されていいはずがない)
言葉は交わさなかった。だが、二人の心は、一つの、冷たく硬い決意で結ばれていた。
魔法使いは、悪だ。
あいつらを、絶対に、許さない。
「……まだ、いたのかい」
静かな声に、二人は顔を上げた。
おばあさんが、薄暗い店の中から、盆を持って立っていた。
「冷たい麦茶でも、お飲み」
おばあさんは、二人がなぜ、あれほど取り乱していたのか、そして今、なぜこれほどまでに絶望しているのか、その理由は知らないはずだった。
だが、その瞳は、すべてを理解しているかのように、深く、悲しげに潤んでいた。
「……おばちゃん……」
ユウゴの声が、震える。
「……親の都合でさ」
ユウゴは、俯いたまま、絞り出すように言った。
「俺……引っ越すことになったんだ。西の……首都に」
「……え」
レンが、目を見開いてユウゴを見る。
そのレンもまた、決意したように口を開いた。
「……俺もだ。親父が……東の本家に、俺を送るって」
「……そうか」
ユウゴは、驚かなかった。
エウロパが消え、唯一の記憶の共有者であるレンまでいなくなる。
神様とやらは、どれだけ俺たちから奪えば気が済むんだ。
おばあさんは、二人の言葉を、黙って聞いていた。
やがて、店の奥に戻ると、小さな箱を持って、再び現れた。
「……これを、持ってお行き」
箱の中には、三つの、小さな貝殻で作った首飾りが入っていた。
粗末な、革紐に通しただけのお守りだ。
「この町の海の貝だ。……お守りだよ。あんたたちが、道に迷わないように」
おばあさんは、ユウゴの首に、一つかけた。
そして、レンの首に、一つかけた。
箱の中には、一つ、貝の首飾りが残った。
「……おばあさん」
レンが、震える声で言った。
「……三つ、ある」
「……ああ」
おばあさんは、残った一つを、愛おしそうに握りしめた。
「……おかしな話さね。どうしても、三つ、作らなきゃいけない気がしたんだ」
その瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
「……まるで、もう一人、ここにいるはずの、大切な誰かの分みたいに……」
「「…………!」」
忘れたはずだった。
消されたはずだった。
だが、魂は、覚えていた。
「う……」
ユウゴは、声を殺して泣いた。
「……うわああああああん……!」
レンも、子供のように、声を上げて泣いた。
エウロパは、確かにここにいた。
おばあさんは、何も思い出せないまま、ただ、自分の胸に宿る、娘を失った「悲しみ」の残滓だけを感じて、泣きじゃくる二人を、強く、強く抱きしめた。
気まずくも、切ない、最後の夜だった。
帰り道。
もう、言葉は少なかった。
胸にかけられた貝の首飾りが、二人の絆の、そして失われた友の、唯一の証だった。
「……ユウゴ」
レンが、不意に立ち止まった。
「……お前が西で困ったら」
レンは、自分の首飾りを握りしめる。
「俺は、東から、必ず駆けつけてやる」
「……レン」
ユウゴも、立ち止まり、振り返る。
「……お前が東で泣いてたら、俺が、西から飛んで行って、そいつらを全員ぶっ飛ばしてやる」
「……ああ」
「魔法使いなんて、いらない」
ユウゴが、憎しみを込めて言った。
「俺たちが、魔力なんかない俺たちが、あんな奴らに怯えなくていい世界を、いつか……」
「ああ、いつか、必ずだ」
二人は、熱く語り合った。
もう、離れ離れになる恐怖はなかった。この誓いと、この貝殻がある限り、自分たちは繋がっていると信じられた。
その時だった。
路地裏から、くぐもった呻き声が聞こえた。
「……!」
二人は、顔を見合わせる。
昼間、老人に絡んでいた、あの獣人のヤクザの匂いだ。
だが、聞こえてくるのは、獣人の声ではなかった。
「いいか、この薄汚い獣が」
「これが『正義』の鉄槌だ」
「町の秩序を乱す害虫は、こうして駆除してやる」
二人が、壁の影からそっと覗き込む。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
昼間の獣人のヤクザが、血まみれで地面に倒れている。
彼らを、警棒で、あるいはブーツの爪先で、執拗に殴りつけ、蹴り上げているのは―――
「……警察……?」
ユウゴが、呆然と呟いた。
町の治安を守るはずの、中央首都警察の制服を着た男たちだった。
「やめろ……俺たちは、あの爺さんのために……あの悪徳商人を……」
「黙れ、ヤクザ風情が!」
警官の一人が、獣人の顔面を、容赦なく踏みつけた。
「お前たちに、正義を語る資格はない!」
「ぐ……あ……!」
二人は、音もなく、その場から後ずさった。
心臓が、氷水で満たされたかのように冷えていく。
さっきまでの熱い誓いが、急速に色褪せていった。
何が、起きた?
頭が、ぐちゃぐちゃになる。
(あのヤクザは、悪人だ)
(でも、虐げられていた老人のために、悪徳商人を懲らしめようとしていた……?)
(でも、その老人は、エウロパを殺した、大悪党の魔法使いだった)
(そして、そのヤクザを、今度は『正義』のはずの警察が、リンチにしていた)
(ヤクザより、よっぽど酷いやり方で……)
「……正義って、なんだよ」
ユウゴが、絞り出すように言った。
「……悪って、なんなんだよ」
レンも、蒼白な顔で応えた。
エウロパを殺した魔法使いは、今もどこかで笑っている。
その魔法使いのために動いたヤクザは、警察に殺されかけている。
その警察は、ヤクザを叩きのめすことを「正義」と呼んでいる。
世界が、反転した。
自分たちが信じていた、単純な「善」と「悪」の境界線が、足元から崩れ落ちていく。
「……レン」
「……なんだ」
「警察も、ヤクザも、どっちも腐ってる」
「……」
「違うか!?」
「……違わない。だが……」
レンは、唇を噛んだ。
「だが、法は法だ! ヤクザは、それでも犯罪者だ! 警察のやり方は間違ってる……だが、秩序は必要だ!」
「秩序!?」
ユウゴが、激昂した。
「あの魔法使いを野放しにして、エウロパの記憶さえ消しちまうのが、お前の言う『秩序』かよ!」
「そうは言ってない!」
「言ってるだろ! お前は、結局、何も見えてねえんだ!」
「お前こそ、短絡的すぎる! 感情だけで動けば、あのヤクザと同じだ!」
「上等だ! あのヤクザの方が、よっぽどマシだったかもしれねえぞ!」
「……っ!」
二人は、激しく罵り合った。
エウロパを失った悲しみ。
魔法使いへの燃え盛る憎しみ。
そして、自分たちの信じていた「正義」が、目の前で崩壊したことへの、途方もない混乱。
その全てが、怒りとなって、一番近くにいる、唯一の理解者へと向かった。
やがて、二人は、いつも別れる分かれ道へとたどり着いた。
左が、ユウゴの家へ。
右が、レンの家へ。
蝉の声は、もう止んでいた。
代わりに、冷たい夜風が、二人の間を吹き抜ける。
「……ユウゴ」
「……」
「お前の考えは、間違ってる」
「……お前こそな、レン」
言葉は、それだけだった。
罵り合った。互いの信じるものを、否定しあった。
だが、胸にぶら下がった貝の首飾りは、まだ、確かにそこにあった。
友情は、まだ、消えてはいなかった。
ただ、あまりにも深く、あまりにも硬く、怒りと、悲しみと、混乱の氷の下に、閉ざされてしまっただけで。
ユウゴは、左へ曲がった。
レンは、右へ向かった。
二人は、言葉を交わさなかった。
振り返ることも、しなかった。
これが、最後の別れになる。
そんな予感が、二人の胸を、重く、重く、圧し潰していた。
黄金色の夏は、唐突に終わりを告げた。
そして、二度と戻らない少年時代が、今、確かに、幕を下ろした。




