第3話:Flying Through the Air
主題歌:バイオハザードⅤ リトリビューション サウンドトラック
https://youtu.be/DH1_x2HuJk0
エラーラは、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は、ブリギッタたちが消えた奈落を一瞥し、そして、背を向けた。
(…お前たちの死を、無駄にはしない)
その言葉が、本心なのか、あるいは自分を動かすための呪文なのか、エラーラ自身にも、もう、分からなかった。
山頂付近。
そこは、ヌル・フィールドの震源地。空気が異常なまでに澄み切り、魔力の気配が完全にゼロの世界だった。
エラーラは、最後の力を振り絞り、信号が示す氷の洞窟へとたどり着いた。
「…これか」
洞窟の入り口には、先行隊のものらしき、凍りついたテントの残骸と、風化した装備が散乱していた。
そして、その奥。
三体の凍死体が、まるで洞窟の「何か」を守るように、入り口に向かって折り重なっていた。
(…先行隊か)
エラーラは、その死体を一瞥し、さらに奥へと進む。
その時、彼女の「眼」が、ありえないものを捉えた。
魔力がゼロのはずのこの空間で、明らかに「魔力」によって維持されている、異常な空間の歪み。
洞窟の最奥。
そこには、この世の物とは思えない、白銀に輝く、滑らかなドーム型の「魔導テント」が、静かに鎮座していた。
外の地獄とは無関係に、それは淡い光を放ち、暖かな空気を周囲に撒き散らしていた。
エラーラは、疲労も忘れ、そのテントに近づき、入り口のフラップを、無言で開いた。
中にいた。
令嬢、レティシア。
彼女は、先行隊の死などまるで知らないかのように、ふかふかとした毛皮の寝袋にくるまり、魔導コンソールで沸かしたばかりの、湯気の立つスープを飲みながら、優雅に「くつろいでいた」。
枕元には、エラーラが探し求めていた「観測ロガー」が、無造作に転がっている。
エラーラの脳内で、何かが、プツリと切れた。
あの、ブリギッタたちの、凄惨な死に様がフラッシュバックする。
あの、醜い争い。
あの、獣に食われる音。
あの、血の匂い。
自分が、死の淵を歩いてきた、この数日間。
(…あの3人の死は…?)
(…私の、この疲労は…?)
(…無意味、だったのか…?)
「…あら?」
レティシアが、スープのカップを置き、エラーラを見上げた。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「どちら様ですの? 人のテントを、ノックもなしに開けるなんて。無作法ですわ」
その瞬間、それまで静かだった山の天候が、再び牙を剥いた。
凄まじいブリザードが、洞窟の入り口から吹き込んでくる。
「…チッ」
エラーラは、テントの中へと一歩踏み出した。
「…吹雪が止むまで、中に入れろ。」
「嫌ですわ」
レティシアは、即答した。
「汚いから。第一、あなたは誰ですの? 見るからに、下賤の民の匂いがしますわ。私は伯爵の娘ですわ。ですから、私のプライベート空間を侵害する権利は、あなたにはありません」
エラーラの疲労は、限界を超えていた。
少女の、あまりにも非現実的な言葉に、眩暈がする。
「…私は、お前の父である、ヴァルトハイム伯爵の依頼で来た、救助隊だ。」
「ああ…」
レティシアは、心の底から面倒くさそうに頷いた。
「あの、役に立たない3人のガイドのことですの? 遅すぎますわ。…まあ、よろしいでしょう。入りたければどうぞ。ただし」
彼女は、テントの隅、入り口に一番近い、最も冷たい床を指差した。
「そこの隅で、私に触れず、私と同じ空気を吸わないように、息を潜めていなさいな」
エラーラは、何も答えず、その指示された「隅」に、崩れ落ちるように座り込んだ。
テントの中は、異常なほど快適だった。
外の地獄が、まるで嘘のように、暖かく、静かだった。
「まったく、父も心配性ですわ」
レティシアは、再びスープを啜りながら、独り言のように続けた。
「この『聖域テント』さえあれば、魔力も熱も食事も完璧なのに。わざわざゴミを寄越すなんて」
「…そのテント」
エラーラは、壁に寄りかかりながら、かろうじて声を絞り出した。
「なぜ、ヌル・フィールドで機能する」
「あら、ご存じないの?」
レティシアは、エラーラの無知を、心底から侮蔑するように笑った。
「これは『古代魔導具』。ヌル・フィールドを発生させている『震源核』のエネルギーを逆用して動く、試作品ですのよ。世界にこれ一つ。お父様が、私のこの『バカンス』のために、用意してくださったの」
エラーラは、自分が命がけで収集しようとしていた「データ」が、この少女によって「玩具」として、当たり前のように消費されていた事実に、さらなる無力感を覚えた。
「それで?」
レティシアは、エラーラを、まるで召使いのように見下ろした。
「遅かった救助隊の方は、他に3人いるのでしょう? 寒いから、そこのコンソールで、私のためにお茶でも淹れてちょうだい。私は、王都の最高級茶葉を、熱いのが好きよ。茶葉がなかったら街へ行って買ってらっしゃいな。」
「……」
エラーラは、動かなかった。
「あら、無視? お父様に言いつけますわよ」
レティシアは、不快そうに眉をひそめた。
「…ああ、そういえば、私をここまで運んできた、あの3人のガイドたち。獣が怖いとか言って、私をこのテントに押し込んで、自分たちだけ逃げ出したのよ。本当に、役立たずばかり。きっと、もうどこかで凍え死んでるわ」
「……」
「あなたも、どうせあのガイドたちみたいに、仲間を見捨てて、自分だけ生き残ってきたんでしょう?なんて卑劣な方なのかしら。」
レティシアは、残酷なほど無邪気に、確信を持って言った。
「汚らわしい。卑怯者。そんな人間、いっそ、外で死んじゃえばいいのよ」
エラーラの思考が、焼き切れた。
観測者として、そして、あの地獄を見てきた者として。
パァン!
乾いた音が、快適なテントの中に響き渡った。
エラーラの、凍傷寸前だった鉄拳が、レティシアの白磁の頬を、完璧に打ち抜いていた。
「……え?」
少女は、何が起きたか分からず、その場に崩れ落ちた。
スープがこぼれ、高価な毛皮を汚す。
「…死ね、だとぉ…?」
エラーラの声は、外のブリザードよりも冷たく、低かった。
彼女は、よろめきながら立ち上がり、床に倒れるレティシアを、見下ろした。
「…お前は、今まで、ここで何を見ていた…?」
「…先行隊の3人は、逃げたのではない。お前をこのテントに避難させ、自分たちは『囮』になるために外に出て、お前を守るために、あの洞窟の入り口で、必死で、獣の群れと戦い、そして、凍死した」
「な…! で、でも…!ガイドの3人は、そうしたくてしたのでしょう?自己責任ですわ!」
「…やかましい!……そして、私たちも、だ!」
エラーラの声が、激昂で震える。
「お前を助けるために来た、あの3人の女たちも…! あの女たちが、どれだけ醜く、どれだけ必死に争い、そして、どれだけ惨たらしく獣に食われたか…!」
エラーラは、レティシアの胸ぐらを掴み、無理やり引き起こした。
「お前は、何も知らないで! 何も感じないで! その『聖域』で! スープを飲んでいた!」
「…っ! は、離して…!」
「『死ね』だとぉ?」
エラーラは、その言葉を、反芻するように呟いた。
「…その言葉の、命の『重さ』を、お前は知らない」
レティシアは、頬を押さえ、生まれて初めての痛みと恐怖、そして、それを上回る憎悪に、顔を歪めた。
「…っ! よくも叩いたわね! この下賤の民が!」
彼女は、エラーラの手を振り払い、金切り声を上げた。
「あのガイドたちが死んだ? 当たり前ですわ! それが奴らの『仕事』でしょう!」
「あの女たちが獣に食われた? それは、奴らが『弱かった』からですわ!奴らが獣に食われたかったから、すすんで食われたに過ぎないのに、あなたは…!」
「下賤の民は、都合の悪いことを、すぐ、支配者の、上流階級の責任だと言う!あなた方には責任感というものがないのですか?……死んで当然! むしろ、私を守る盾になれたのですから、光栄に思うべきですわ!恥を知りなさい!」
「……」
エラーラは、言葉を失った。
会話が、成立しない。救いがない。
このサンプルは、修復不可能なレベルで、致命的に「壊れている」。
レティシアは、勝ち誇ったように、憎悪の瞳でエラーラを睨みつけた。
「あなたも同じ! 私を助けに来たですって?何を……なんてことを言うのですか! 」
「あなたたちは、私たち『貴族』の金が欲しいだけの、汚い『悪人』じゃないの!」
「私の『聖域』から出ていけ!…出ていけ!… そして、あの女たちみたいに、獣に食われて、死ねばいい!私は…あなた方のような卑劣な方々が……のうのうと、生きていること自体…悲しい……」
レティシアは、ぽろぽろと、大粒の涙をその目に浮かべ、心の底から私を憐み、泣き出した。
エラーラは、掴んでいた手を、ゆっくりと離した。
激昂は、急速に冷却していく。
残ったのは、ブリザードよりも冷たい、絶対零度の虚無だった。
「……そうか。」
エラーラは、それだけを呟くと、テントの隅に戻り、再び座り込んだ。
吹雪が、テントを激しく叩く音だけが、絶望的にすれ違う二人の間に、響いていた。
吹雪は、丸一日続いた。
二人は、一言も交わさなかった。
やがて、風が止む。
レティシアは、何事もなかったかのように、手際よく『聖域テント』を畳み、小さなカプセルに収納した。
「…行きますわよ、下賤の者。私を、無事に父の元へ送り届けなさい。それが、あなたの『仕事』でしょう?」
エラーラは、何も答えず、立ち上がった。
下山は、奇妙なほど、順調だった。
二人の論理的な少女は、互いへの憎悪とは無関係に、生存のためだけに、その知性を機能させた。
「…そこ、雪崩の危険地帯だ。左に避けろ。」
エラーラが、斜面を指差す。
「分かってますわ。私の計算でも、そこの傾斜角は危険ですもの。それより、そこの氷橋、強度が足りませんわよ。私の観測ロガーの分析では」
レティシアが、エラーラが回収すべきだったロガーを、自分の道具として使いこなす。
彼女たちは、互いに目も合わせず、最小限の会話のみで、協力して下山を開始した。
迫り来る雪崩の危険地帯を避け、崩落する氷橋を回避し、二人は生還した。
港町「フロストガルド」。
ヴァルトハイム伯爵が、娘のレティシアを抱きしめている。
「おお、レティシア! 私の天使よ! 無事だったか!」
「ええ、お父様。ですが、この女が…」
その時、町の住民たちが、もう一人の生還者であるエラーラを取り囲んだ。
「エラーラさん! あの3人は!?」
「あの屈強で、知性にあふれたブリギッタさんたちは、一体!?」
エラーラは、伯爵と、その腕の中で「あの女が私を叩いたの! 処罰して!」と告げ口しているレティシアを一瞥した。
そして、観測ロガーを、伯爵に突きつけた。
(…真実を、説明するか?)
(あの女たちが、フロストガルドにいる間から、令嬢レティシアを巡って狂っていた、と?)
(そして、醜く殺し合い、雪崩に巻き込まれ、獣に食われた、と?)
(…面倒だ)
エラーラは、集まった人々を見回し、いつもの調子で、平坦に言った。
「…フン。任務は完了した。約束通り、『少女の救出』は、成功させたぞ。」
その言葉を聞き、人々は「ああ…」と察した。
「…そうか。あの3人は、レティシア様を庇って…」
「なんと立派な最期だ…」
「フロストガルドの英雄だ!」
エラーラは、彼女たちの勝手な解釈を訂正しない。
彼女は「英雄」たちの名誉を守った。
「…伯爵。カネは振り込め。」
エラーラは、伯爵が何か言う前に、冷たく告げた。
観測ロガーのデータは、レティシアが退屈しのぎに上書きした、意味不明な愚痴と、彼女の写真で汚染されていたが、そんなことはもはやどうでもよかった。
「この町のコーヒーは……味が…しない。」
エラーラは、この魔法の使えない、救いのない町を、一刻も早く立ち去る準備を始めた。




