第2話:雪原の死闘!
夜明けは、恐怖と共に訪れた。
クレバスから辛うじて這い出し、岩陰で仮眠を取った一行だったが、その雰囲気は、冷え切っていた。
原因は、あのキャンプ跡。
引き裂かれたテント。こびりついた黒い血痕。そして、雪の上に残された、巨大な足跡。
「…氷牙のウルフェン」
ブリギッタが呟いたその名は、この極寒の地に伝わる最悪の捕食者を意味していた。魔力を喰らい、ヌル・フィールドの境界線上で最も活性化すると言われる、半ば伝説の獣。
その伝説が、今、現実の脅威としてすぐそこにいた。
「…ブリギッタさん。あの足跡、新しい…」
捻挫した足を引きずりながら、カサンドラが青ざめた顔で報告する。
「…わかってる。昨夜の雪崩の音を聞きつけて、谷底から上がってきたんだ」
ブリギッタは、リーダーとしての威厳を必死で保とうとしていたが、その声は緊張で強張っていた。
「ひっ…!」
ヨハンナが、かすかな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたのヨハンナ!?」
「…匂いがする…! あっちの岩陰から…ケモノの…!」
雪盲から回復しきっていない充血した目で、ヨハンナが一点を睨む。彼女の雪豹の耳が、恐怖にピタリと頭に張り付いていた。
「…面倒だ」
エラーラは、ピッケルを片手に、一行の前に立った。
「ちょっ、エラーラちゃん!?」
「奴らの目的は食料だ。だが、先行隊を捕食して間もない。今は威嚇が目的のはずだ。騒ぐな。刺激するな。我々は『獲物ではない』と誤認させろ。」
エラーラは、魔力ゼロのこの世界で、ただの人間として、獣を相手にする最も合理的な対処法を淡々と実行する。
彼女はゆっくりと、しかし一切の怯えを見せずに、ウルフェンが潜む岩陰に向かって歩き出した。
「エラーラ! 馬鹿! 戻れ!」
ブリギッタが叫ぶ。
エラーラは、岩陰から数メートルの地点で立ち止まると、拾っていた石を、近くの別の岩肌に、力任せに叩きつけた。
甲高い、無機質な音。
岩陰の奥で、低い唸り声と、巨大な影が動く気配がした。
エラーラは構わず、火花が散るほどの勢いで石を叩き続ける。
「…グルアア…」
獣は、この無機質な音と、火花を散らす「火」の気配を嫌う。
やがて、唸り声は遠ざかり、気配は消えた。
「…行ったか…」
ブリギッタが、その豊かな胸をなでおろし、座り込む。
ヨハンナとカサンドラも、恐怖で腰が抜けそうになっていた。
「な…なんなのよ、あんた…」
ヨハンナが震える声で言う。
「あんなの目の前にして、怖くないわけ!?」
「恐怖は、生存確率を著しく低下させる非合理的な情動だ。それより、あの獣が戻る前にここを離れる。立て。」
エラーラの冷酷なまでの合理性が、恐怖に囚われた3人を、無理やり現実に引き戻した。
一行は、ウルフェンのテリトリーであった岩場を抜け、森林限界を超えた。
そこから先は、身を隠す木の一本もない、ただ岩と氷と雪だけが支配する、剥き出しのアルパイン領域だった。
「…はぁ…っ…はぁ…」
空気が、目に見えて薄くなる。
標高はすでに3000メートルを超えていた。ヌル・フィールドの影響か、この山は通常の山よりも遥かに過酷だった。
「…みんな! 呼吸を忘れるな!」
一歩足を踏み出すごとに、肺の中の空気をすべて吐き出す。強烈な圧力をかけて息を吐き、強制的に酸素を取り込む。
「…エラーラちゃん、すごいね…」
カサンドラが、ゼエゼエと息をしながら、淡々と、しかし確実に同じペースで登り続けるエラーラに声をかけた。
「あんた、そんな小さな体で、私たちと同じ荷物…平気なの?」
「効率の問題だ。お前たちは、その無駄に大きい肉体を維持するために、私より30%以上多く酸素を消費する。非効率だ。」
「むっ…」
カサンドラの長い耳が、不満げにピクリと動いた。
「…それを言ったら、その…あなただって大きい『胸』、あるじゃないの?」
カサンドラは、私の豊かな胸元を指し、意地悪く笑った。
「…っ!」
ヨハンナが、その会話に割って入る。
「カサンドラさんのイジワル! 」
ヨハンナは、エラーラの後ろから、その巨乳でエラーラの背中を抱きしめるように押した。
「やめろ! 呼吸が乱れる!」
「あはは! これが『愛』の重さだよ!」
「二人とも、遊んでないで歩きな!」
ブリギッタが、呆れたように笑う。
「そんなにエラーラちゃんが可愛いなら、レティシア様は私が頂くからな!」
「「ええっ!?」」
ヨハンナとカサンドラの声がハモる。
その、一瞬だった。
まるで、それまでの地獄が嘘だったかのように、天候が劇的に回復した。
一行が最後の尾根に足をかけた瞬間、あれほど吹き荒れていた風が、ピタリと止んだのだ。
「……うわ…」
最初に声を漏らしたのは、エラーラだった。
彼女の『眼』に、信じられないほどの「データ」が飛び込んできたからだ。
空は、一点の曇りもない、吸い込まれそうなほどの青。
凍てついた大気が、地平線から射す太陽の光を無数に乱反射させ、生きているかのように、吐息のように煌めきながら舞っている。
眼下には、雲海が広がり、まるで世界の上に立ったかのようだった。
目指す頂が、神の領域のように、青く、青く、澄み渡っていた。
「…すっげぇ…」
ヨハンナが、獣の瞳を輝かせ、子供のようにはしゃぐ。
「来て…よかった…!」
カサンドラも、捻挫の痛みを忘れ、その光景に涙ぐんでいる。
「だろ?」
ブリギッタは、リーダーとして最も誇らしい瞬間を迎えていた。
「これが、ヌル・ヴァイスホルンの本当の姿さ。ちっぽけな悩みなんて、全部どうでもよくなる」
彼女は、エラーラの肩を、今度は優しく抱いた。
「最高だろ、エラーラちゃん。これが、私たち『登山家』が見る世界だよ」
「……」
エラーラは、その物理的な接触を振り払わなかった。
(…光の屈折率、大気密度、気温。あらゆるデータが…完璧だ…)
彼女の論理的な脳が、生まれて初めて「美しい」という非合理的な情動によって、処理速度を低下させていた。
「よーし! レティシアももうすぐだ! 祝杯だ!」
ブリギッタが、ザックから保温水筒を取り出す。中身は、甘く煮詰めた薬湯だ。
4人は、その絶景を前に、束の間の休息を取った。
恐怖から解放された3人の女たちは、途端に饒舌になった。
話題は、自然と、もちろん、この長旅の目的、令嬢レティシアのことだった。
「ねえ、ブリギッタさん」
ヨハンナが、頬を赤らめながら切り出した。
「私、この山から帰ったら、レティシア様にプロポーズしようと思うんすよ!」
「おやーあ?気が早いね」
ブリギッタがニヤリと笑う。
「だって! 私に『君のその野性的な強さこそ、あたくしが守られたい唯一のものですわ』って! 私がいないとダメなんですよ!」
ヨハンナは、その屈強な体躯に似合わず、乙女のように頬を染め、その豊満な胸を誇らしげに張った。
「ふふ」
それを聞いたカサンドラが、理知的なエルフの仮面を崩し、艶っぽく笑った。
「ダメよ、ヨハンナ。レティシア様は、あなたの『力』にじゃなくて、私の『知性』に惹かれているんだから」
「はあー!?」
「彼女は私に言ったわ。『カサンドラの知性に触れるたび、あたくしは本当の自分になれる。あなたのその頭脳こそ、あたくしが愛する全てだ』って。レティシア様は繊細な『少女』なのよ。あなたのその…『圧』じゃ、壊れてしまうわ」
カサンドラは、自分のボーイッシュな服の胸元を、挑発的に少し開いてみせた。
「…へえー。二人とも、ずいぶん彼女に『夢中』だねえ」
ブリギッタが、二人の会話に、年上の余裕を持って割り込んだ。
「だがねえ、二人とも。最後はこの、『包容力』だよ」
ブリギッタは、自らの圧倒的な胸を、ポンと叩いた。
「レティシア様は、私のこの『胸』でしか安らげないのさ。『ブリギッタ…あなただけが、あたくしの帰る場所だ』って、泣きそうな顔で言ってたからね」
「「なんですって!?」」
女たちの間に、火花が散る。
エラーラは、その光景を、冷めた目で見ていた。
(…無意味だ。単一の、同性の、年下の配偶者を巡る、非合理的なリソース競合。この極限状況下で、なぜ、なぜ? まったく理解不能だ…)
「ね!エラーラちゃんはどう思う!?」
「やっぱり『力』だよね!?」
「いいえ! 『知性』よ!」
「二人とも黙りな。結局は『母性』さ!」
「…」
エラーラは、甘ったるい薬湯を吐き出すように飲み干した。
その、和やかな空気を切り裂いたのは、カサンドラの苦悶の声だった。
「…う…っ」
カサンドラが、突然、水筒を取り落とし、雪の上に手をついた。
「どうしたの、カサンドラ?」
「いや…なんか、さっきから…頭が…割れるように…」
「ああ? レティシア様の話で、頭に血が上ったんじゃないのかい?」
ブリギッタが笑う。
だが、次の瞬間。
カサンドラは、飲んだばかりの薬湯と胃液を、美しいはずの純白の雪原に撒き散らした。
「カサンドラ!」
「大丈夫か!?」
ヨハンナとブリギッタが駆け寄る。
カサンドラの顔は土気色になり、呼吸は浅く、速くなっていた。
「…だめ…地図が…ぐにゃぐにゃに…見える…寒い…」
「おい! 気合が足りんぞ、カサンドラ! 」
ブリギッタが、リーダーとして、彼女の肩を掴んで無理やり立たせようとする。
「それ以上動かすな。」
エラーラの、体温のない声が響いた。
彼女は、ブリギッタの手を荒々しく振り払い、カサンドラの前にしゃがみ込んだ。
「…急性高山病だ。酸素欠乏による脳のむくみ。お前の脳が、今、膨れ上がっている。」
「高山病!? 天気がいいのに!?」
「天候だと?……高度が問題だ。」
エラーラは、カサンドラの顔を掴み、無理やり自分の方を向かせた。
「お前は今、死にかけている。」
「ひっ…いや…私…」
「パニックに、なるな。呼吸を合わせろ。吸うんじゃない、吐け! 肺の奥から、全ての空気を絞り出すんだ!」
エラーラは、半分パニックになっているカサンドラの背中をさすり、その呼吸を強制的に同調させる。
「フッ…! けほっ…! フッ…!」
カサンドラは、エラーラの小さな体に、その豊満な体を預けるようにして、必死に呼吸を繰り返す。
「…そう…だ。エラーラ…ちゃん…あんた…いい子だ…」
カサンドラは、朦朧とする意識の中、エラーラに、本能的に命の安定を求めていた。
「…黙れ。呼吸に集中しろ。それと、水分だ。」
エラーラは、自分の水筒をカサンドラの口に押し当てる。
「これを飲め。脱水は高山病を加速させる。飲め!」
ヨハンナとブリギッタは、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
さっきまで恋に浮かれていた仲間が、今、この小柄な少女の「データ」によって、かろうじて命を繋ぎ止めている。
彼女たちの「明るさ」が、この絶対的な自然と、エラーラの合理性の前で、何の役にも立たないことを、痛感させられていた。
カサンドラの症状が、かろうじて安定した時だった。
彼女が、震える手で、腰の通信端末を握りしめていることに、ヨハンナが気づいた。
「…カサンドラさん? それ…」
「…あ…」
カサンドラは、端末を落としそうになる。
「…さっきから…ずっと…鳴ってた…」
端末の小さなランプが、微弱な電波を捉えていることを示していた。
「…信号だ!」
ブリギッタが、自分の端末を慌てて取り出す。
「入る! ここ、入るぞ!」
ヨハンナが、高山病の恐怖も忘れ、真っ先に端末を開く。
「レティシア様に…!」
その言葉が、伝染した。
「…私も…レティシア様に、無事を…」
「…レティシア様…」
彼女たちは、この地獄からの生還の証を、そして、救助の確約を伝えるため、雪にまみれた指で、必死に端末を操作する。
そんな様子を、エラーラは訝しげに眺めた。
「おかしい。…なぜこの3人は、『今から助けだす女』に連絡を取れるのだ…?」
3人は、寒さから身を守るように、そして、微弱な電波を逃さないように、自然と肩を寄せ合い、一つの塊のようになった。
そして、3人の端末が、ほぼ同時に、王都のサーバーに接続した。
受信トレイが、一斉に更新される。
最初に、ブリギッタが息を呑んだ。
彼女の端末に、レティシアからのメッセージが届いていた。
『私の婚約者、ブリギッタ。あなたがいないと寂しい。早く帰ってきて。』
ブリギッタの顔が、喜びと安堵に緩む。
だが、その視界の端に、隣のヨハンナの端末が映り込んだ。
ヨハンナの端末にも、レティシアからのメッセージ。
『私の婚約者、ヨハンナ! あなたの強さが恋しい。あなたが帰ってきたら、ずっとそばにいて。』
「……え?」
ブリギッタの笑顔が、凍りついた。
「…あ…」
ヨハンナもまた、ブリギッタの画面を見ていた。
「…ブリギッタさん。なんで…レティシア様が、あんたに…?」
「…ひどい…」
その時、一番か細い声が、二人の間で響いた。
カサンドラ。
彼女の端末にも、レティシアからのメッセージ。
『私だけのカサンドラ…。あなたの知性に焦がれている。無事に帰れたら結婚しましょう。世界で一番愛してる。』
3人は、互いの画面を見つめ合った。
同じ「レティシア」という差出人名。
同じ時間に送られた、3人それぞれに向けた、甘い愛の言葉。
「……え…」
「……あんたも…」
「レティシア様と!」
ブリギッタの地を這うような声。
ヨハンナの獣のような唸り声。
カサンドラの、裏切られたエルフの甲高い叫び声。
さっきまで、神の領域のようだった青空は、瞬く間にどす黒い雲に覆われ始めた。
山の天候が、彼女たちの憎悪に呼応するかのように、豹変した。
風が、まるで獣の咆哮のような音を立てて、吹き荒れ始めた。
エラーラは、その光景を、ただ、見ていた。
(…ああ。やはりな。…こうなったか。)
彼女は、静かにピッケルを握り直し、3人の女たちから、ゆっくりと距離を取った。
(…仮説は、検証された。リソース競合は、群れの生存確率を、ゼロにする。)
静寂は、一秒も続かなかった。
ブリギッタ、ヨハンナ、カサンドラ。三人の女が、三つの端末に映し出された、同じ少女からの裏切りの証拠を視認した瞬間。
「てめええええええ!!」
最初に動いたのは、獣人のヨハンナだった。
彼女の思考は、獣の本能に直結している。裏切りを認識したコンマ一秒後には、その屈強な体がブリギッタへと射出されていた。
「レティシア様は私のものだ! この泥棒猫が!」
「どの口が言うか!」
ブリギッタは、その突進を、歴戦の登山家としての経験で、最小限の動きで回避する。
二人は雪の上にもつれ合い、そのボーイッシュな服の下に隠された、凄まじい筋肉と豊満な肉体が、憎悪のままにぶつかり合った。
「二人とも、落ち着いて! あの女に騙されたのよ!」
カサンドラが、エルフとしての理性をかろうじて保ち、二人を止めようとピッケルを構える。
「うるさい! あんたも同じだ!」
ブリギッタが、ヨハンナを蹴り飛ばしながら叫ぶ。
「『知性』ですって!? あの方は、あんたみたいな陰気なエルフより、私みたいな『母性』に決まってるだろうが!」
カサンドラの理性が、その侮辱によって焼き切れた。
そこから先は、戦闘ではなく、ただの殺戮衝動のぶつけ合いだった。
ヨハンナが、傭兵時代に培った体術で、ブリギッタの懐に潜り込む。その手には、ブーツに隠していたコンバットナイフが握られていた。
ブリギッタは、愛用のピッケルの石突きで、そのナイフを弾き飛ばす。金属音が、薄い空気の中で甲高く響いた。
「あんたみたいな脳筋女が!」
ブリギッタが、ピッケルの鋭い先端を、ヨハンナの顔面めがけて振り下ろす。
ヨハンナは、雪豹の瞬発力でそれを避け、ブリギッタの脇腹に、アイゼンを装着したままの蹴りを叩き込む。
「二人とも、そこまでよ!」
カサンドラが、その間に割って入った。彼女は、二人の戦闘の軌道を瞬時に解析し、ザイルを投擲。ブリギッタのピッケルを絡め取り、動きを封じる。
「小賢しい真似を!」
「レティシア様は、私と結ばれるの!」
カサンドラは、エルフの俊敏さでブリギッタの拘束を解き、今度は地質調査用のハンマーを、ヨハンナの側頭部めがけて振り抜いた。
三人の女たちは、狂っていた。
しかし、その動きは、狂っているからこそ、超一流だった。
ブリギッタの老練なピッケルさばきは、ヨハンナの野性的な突進を的確に防ぎ、カサンドラの戦術的なロープワークを力ずくで引きちぎる。
ヨハンナの獣のスピードは、カサンドラの精密な攻撃を紙一重でかわし、ブリギッタの防御の隙を狙って、その美しい顔に血の筋を描かせる。
カサンドラの分析眼は、二人の肉弾戦のパターンを読み切り、常に有利な位置を取り、二人が互いに潰し合うよう仕向ける。
彼女たちの凶暴なまでの戦闘は、奇妙な均衡を保っていた。
その高身長と豊満な肉体が、極寒の尾根の上で、憎悪を燃料にして舞う。
それは、凄まじい光景だった。
彼女たちが愛した「少女」への独占欲が、彼女たちをここまで強く、ここまで醜くさせていた。
ピッケルが空を切り、アイゼンが火花を散らし、ナイフが風を裂く。
だが、誰も致命傷を負わない。全員が、この極限環境のスペシャリスト。互いの実力を知り尽くしているからこそ、決定打を与えられない。
彼女たちは、ほとんど無傷のまま、互いの体力を削り合う、地獄のダンスを踊り続けていた。
「…やめろ…」
エラーラは、その光景を、数十メートル離れた岩陰から見ていた。
エラーラ自身の体力も限界に近い。
「やめろッ! お前たちの行動は、群れの生存確率をゼロにする!」
エラーラは、疲労困憊の体に鞭打って、叫んだ。
だが、その声は、彼女たちの憎悪の叫びと、それに呼応するかのように再び吹き荒れ始めた吹雪の音にかき消された。
エラーラは、ピッケルを杖代わりに、一歩踏み出した。
だが、その瞬間。
目の前で、ブリギッタが弾いたヨハンナのナイフが、エラーラの足元の氷に突き刺さった。
「!」
エラーラは、近寄れなかった。
そこは、理性の通じない、むき出しの暴力が支配する嵐の中心だった。
近づけば、あの女たちの狂気に巻き込まれ、エラーラ自身が最初にミンチにされる。
エラーラは、疲労と絶望で、その場に座り込んだ。
(…予測通りの結末だ。なんてことだ……観測対象の回収は、失敗…)
その時だった。
風の音の中に、異質な音が混じった。
地を這うような、低い唸り声。
殺し合いを続けていた三人の女たちが、同時に動きを止めた。
エラーラも、凍りついた。
尾根の向こう、吹雪の中から、複数の影が現れた。
「…氷牙のウルフェン!」
カサンドラが、絶望的な声で呟いた。
一匹、二匹…いや、五匹。
先頭に立つのは、他の個体より一回りも二回りも大きい、アルファ個体。その口元は、先行隊のものであろう血で、黒く染まっていた。
狼の群れは、女たちの血の匂いと、狂気に満ちた闘争の音に引き寄せられていた。
最初に動いたのは、ブリギッタだった。
「…ヨハンナ! カサンドラ! 敵はこいつらだ! 仕留めるぞ!」
「…言われなくても!」
「…ええ!」
さっきまで殺し合っていた憎悪は、より強大な「死」の脅威を前に、一時的に凍結された。
三人の女たちは、即座に、互いの背中を守る陣形を組んだ。
ブリギッタがピッケルを。ヨハンナがナイフを。カサンドラがハンマーを構える。
アルファが咆哮し、群れが動いた。
三人の女たちは、凄まじい戦闘能力で、それに対抗した。
ヨハンナが、襲い来る一匹に、獣対獣の突進を仕掛ける。ナイフがウルフェンの脇腹を切り裂く。
カサンドラが、ロープを巧みに使い、別の個体の足を絡め取ろうとする。
ブリギッタが、その隙を突いてきたアルファの牙を、ピッケルの柄で受け止める。
彼女たちは、強かった。
ヌル・フィールドという、魔力に頼れないこの世界で、純粋な「暴力」を極めた存在だった。
数分間、彼女たちは、ウルフェンの群れと互角に渡り合っていた。
だが。
「暴力」は、より強大な「暴力」の前には、無力だった。
「しまっ…!」
ヨハンナが、一匹を仕留めた瞬間だった。
彼女の背後、ブリギッタとカサンドラの死角から、別の二匹が同時に飛びかかった。
「ヨハンナ!」
「ぎゃあああああ!」
一匹が、ヨハンナの自慢だった屈強な腕に噛みつき、もう一匹が、その雪豹の尻尾に食らいついた。
バランスを崩して倒れたヨハンナの喉笛に、アルファが、一瞬の躊躇もなく牙を突き立てた。
ゴリ、と骨が砕ける音。
ヨハンナの瞳から、急速に光が失われていく。
「ヨハンナアアアア!」
カサンドラが、エルフの俊敏さで助けに入ろうとする。
だが、それが、陣形の崩壊を意味した。
彼女が背中を向けた瞬間、ロープから逃れたウルフェンが、カサンドラの背中に飛び乗った。
「きゃあああ!」
カサンドラは、その知性を使う間もなく、雪の上に引き倒された。
「クソが! この獣ども!」
残されたのはブリギッタ。
彼女は、リーダーとしての最後の誇りで、ピッケルを振り回し、アルファに立ち向かう。
だが、アルファは、ヨハンナの喉から牙を抜き、その血まみれの顔で、ブリギッタを嘲笑うかのように見据えた。
アルファは、ブリギッタのピッケルを恐れなかった。
その攻撃を、自らの肩の肉を犠牲にして受け止め、ブリギッタの懐に潜り込むと、その巨大な顎で、ブリギッタの自慢だった豊満な「胸」ごと、胴体を噛み砕いた。
「が…はっ…」
ブリギッタのピッケルが、力なく雪の上に落ちた。
エラーラは、その全てを見ていた。
岩陰で、息を殺して、見ていた。
数分前まで、恋に浮かれ、憎悪に燃え、エラーラをからかっていた年上の女たちが、今、文字通り「獣」によって、解体されていく。
「グルルル…」
ウルフェンたちは、獲物を仕留めると、その場で、貪るように「食事」を始めた。
肉を引き裂く音。
骨を噛み砕く音。
内臓を引きずり出す音。
ヨハンナの腕が。カサンドラの足が。ブリギッタの頭部が、引きちぎられ、雪の上に散乱していく。
血が、真っ白な雪原を、おぞましい赤黒い模様に染め上げていく。
彼女たちの邪念の人工の「暴力」は、純粋な自然の「暴力」に、完膚なきまでに敗北した。
エラーラは、恐怖で麻痺しそうになる思考を、必死で回す。
(…最悪だ。私も、食われる)
案の定、アルファ個体が、食事を中断し、顔を上げた。
(…走るか? いや、非合理的だ。あの獣の走行速度は、私を遥かに上回る。逃げれば、追跡本能を刺激するだけだ)
エラーラは、動かない。
アルファが、ゆっくりと、エラーラに向かって歩き出す。
(…どうする。どうする。ピッケルは無意味だ。ブリギッタですら、負けた)
(…火? 燃料はザックの中だが、取り出す時間がない…思考しろ。思考しろ。私の武器は、『暴力』ではない)
エラーラは、この尾根の雪が、不安定な「雪の層」の上にあることに気づいていた。
女たちの戦闘と、今のウルフェンたちの暴虐で、その亀裂は、決定的なレベルにまで達しているはずだ。
アルファが、エラーラの目の前、10メートルの地点で立ち止まった。
他のウルフェンたちも、食事をやめ、エラーラを囲むように集まってくる。
(…ここだ)
エラーラは、ピッケルを握りしめた。
だが、獣に向かってではない。
(…私の武器は、『知性』だ)
エラーラは、自分が隠れている、巨大な岩盤。その足元。
雪の層の、最も脆くなっている破断線を、睨みつけた。
「グルルル…」
アルファが、最後通告のように、牙を剥く。
エラーラは、最後の力を振り絞り、ピッケルを、その破断線めがけて、全体重をかけて突き立てた。
ズン!!!
鈍い、重い音。
それは、戦闘の音ではなかった。
山が、泣く音だった。
雪が鳴る。
エラーラが作り出した亀裂が、一瞬で尾根全体に走った。
「グル!?」
アルファが、足元の異変に気づく。
だが、遅かった。
エラーラが立っている強固な岩盤はそのままに、あの女たちが死闘を繰り広げ、そして今、ウルフェンたちが集まっている、尾根の先端部分の雪が、地響きと共に、大規模な雪崩となって、谷底へと崩落していった。
ウルフェンたちは、なすすべもなく、自分たちの獲物と共に、雪の濁流に飲み込まれていく。
数秒後。
そこには、轟音の余韻と、尾根が半分えぐり取られた、凄惨な光景だけが残されていた。
エラーラは、自分がしがみついた岩盤の上で、荒い息をついていた。
彼女の「知性」が、彼女を生き残らせた。
静寂が戻った。
地獄のような静寂だった。
ブリギッタの、ヨハンナの、カサンドラの、あのうるさくて、暑苦しくて、暴力的だった女たちの痕跡は、今やウルフェンの群れと共に、谷底の雪の下に消えた。
「……はぁ…はぁ…」
エラーラは、全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
疲労。寒さ。そして、孤独。
(…サンプル、全ロスト…)
彼女は、雪にまみれた手を見る。
この手は、獣を殺せなかった。
だが、山を動かし、生き残った。
(…暴力は、非最適解。知性こそが、最適解。…データ、取得完了。)
エラーラは、震える手で、懐から、かろうじて機能している小型端末を取り出した。
まだ、諦めてはいなかった。
(…観測ロガーの信号は…?)
端末のスクリーンが、弱々しく点灯した。
そこには、微弱ながら、しかし明確に、信号が示されていた。
(…生きてる?)
信号は、この崩落した尾根の、さらに先。
あの、絶望的なまでに白い、山の頂——「ヌル・ヴァイスホルン」の山頂を、指し示していた。
エラーラは、ゆっくりと、立ち上がった。




