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第1話:雪原の冒険!

「……面倒だ」


エラーラは、薄汚れた宿の窓から、灰色の空と、停滞した吹雪を眺め、心の底から呟いた。

ここは、ボレアリス荒原、最北端の辺境都市「フロストガルド」。


世界から見放されたようなこの街は、魔術的な「特異点」だった。

古代の超魔術文明が自壊した際に生まれたという地脈の巨大な歪み。それは、あらゆる魔力・魔術を無効化する「ヌル・フィールド」を常時発生させ、この極寒の地を文明から隔絶させていた。

魔術師は力を失い、魔導具はただの鉄クズと化す。

エラーラがこの僻地に来たのは、ただ一つ。この「ヌル・フィールド」が魔力に与える「減衰係数」と、その特異なエネルギーパターンのデータを収集するため。彼女にとって、ここは未知のデータが眠る宝の山のはずだった。


だが、現実は違った。

魔力が使えないということは、王都から持参した精密な解析ツールが一切機能しないということ。彼女の「眼」さえも、この地では術式を読み解くことができず、ただの人間の視覚に成り下がっていた。

彼女は今、「ただの人間」として、この身を刺すような物理的な寒さと、そして何より「解析ができない」という人生最大の退屈に耐えていた。


カラン、と安宿のドアベルが鳴る。

エラーラは、カウンターで出された、泥水のように不味いコーヒーを一口啜り、顔をしかめた。


「…帰りたい。」


その時だった。

宿の貧弱な木製ドアが、壊れるほどの勢いで開け放たれた。

ベルの音と共に、酒場に満ちていた澱んだ空気が、一瞬にして外の冷気と、そして圧倒的な「熱」によって塗り替えられる。


「うわっ、さっむーっ! マスター! 一番強い酒、3人分! あと、熱いシチューもね!」


吹雪と共に飛び込んできたのは、3人の女たちだった。

全員が、この極寒の地には不釣り合いなほど「明るく」、そして生命力に満ち溢れていた。


リーダー格の女は、180cmはあろうかという長身だった。


「やーあみんな、吹雪は大丈夫だったかい?」


ブリギッタ。人間。42歳。

著名な登山家であり、今回の捜索隊のリーダー。屈強という言葉が似合う、鍛え抜かれた肉体。登山服を着込んでいるが、その下の分厚い胸と腰のラインは、隠しようもなく、女性的な丸みを帯びていた。その自信に満ちた笑顔と、ややタレ気味の目元が、年上としての「色気」を醸し出している。


「んもーっ!ブリギッタさん、飛ばしすぎ! 私の毛皮が凍っちゃう!」


そう言ってブリギッタの背中を叩いたのは、雪豹の獣人だった。

ヨハンナ。28歳。

傭兵崩れの体力自慢。ブリギッタに次ぐ高身長で、頭からは白と黒の斑点模様の耳がピンと立ち、腰からは太くしなやかな尻尾が揺れている。彼女もまた、防寒着の上からでも分かるほど豊満な胸と、引き締まった体躯の持ち主だった。ショートカットの髪をかき上げる仕草は野性的で、その瞳は獲物…あるいは、男を定めるかのようにギラついている。


「ふ、二人とも、宿の中ではしゃがないでください。まったく…あ、マスター、私は薬草茶を」


最後に静かに入ってきたのは、理知的な雰囲気のエルフだった。

カサンドラ。35歳。

地図製作者であり、このパーティの学者役。エルフ特有の長身痩躯だが、やはり他の二人同様、厳しい自然環境で鍛えられたしなやかな筋肉と、豊かな胸のラインを持っている。測量服を着ているが、その知的な微笑みと長い耳が、独特の「エロティシズム」を放っていた。


彼女たち3人は、この凍てついたフロストガルドにおいて、あまりにも「熱」を持っていた。その熱気は、酒場の男たちの視線を一瞬で奪い去る。

そして、その視線は、すぐに酒場の隅で一人、不味いコーヒーを睨みつけている小柄な少女へと移った。


(…うるさい。観察対象が増えたか)


エラーラは、彼女たちから放たれる過剰な生命エネルギーに、わずかな不快感を覚えていた。


「おやー?」


ブリギッタが、エラーラに気づいた。


「あんな所に、可愛い子猫ちゃんが。マスター、あの子は?」


「…さあ。数日前からお泊りの、王都から来たお嬢さんだ」


「王都から?」


3人の女たちが顔を見合わせた。そして、ブリギッタがエラーラのテーブルに、何の遠慮もなく腰を下ろした。豊満な胸が、テーブルの端に押し付けられる。


「も、し、か、し、てー。……王都から来たっていう『特殊解析官』様は、あんたかい?」


ブリギッタの口調は、からかうようで、試すようだった。

エラーラは、顔も上げずに答える。


「…人違いだ。」


「へえー? つっれないねえ。私たちは、この街の領主、ヴァルトハイム伯爵の依頼で来た捜索隊さ。あんた、名前は?」


「エラーラだ。」


「エラーラ! 聞いた通りだ!」


ヨハンナが、獣の耳をピクリと動かして喜んだ。


「そう!あんたに仕事の依頼だよ!」


カサンドラが、懐から羊皮紙の契約書を取り出し、テーブルに広げた。


「私たちは、このフロストガルドの禁足地、『ヌル・ヴァイスホルン』で行方不明になった、伯爵令嬢レティシア様の捜索に向かいます」


「先行隊3名と一緒に行方不明。もー、絶望的っすよ。でも、私たちはやる!」


ヨハンナが拳を握る。


「そこでだ。王都随一の『解析官』であるあなたの『眼』が必要だと、伯爵は仰せです。私たちに同行していただきたい」


エラーラは、ようやく顔を上げた。その死んだ魚のような目に、3人の「明るい」女たちは一瞬たじろぐ。


「…人探し?……それは私の専門ではない。」


「でも、可哀想な女の子が一人で!」


「なぜ私が、お前たちの遠足に付き合わねばならんのだ。……帰りたい。」


エラーラの完璧な拒絶。


「なっ…! あんた、それでも人間かよ!」


ヨハンナが尻尾を逆立てて怒る。


「まあまあ、ヨハンナ」


ブリギッタが制する。


「エラーラちゃん、だっけ? 私たち、悪いようにはしないよ。伯爵からの報酬もたんまり出る。ね?ほーら! 美人のお姉さんたちと、楽しい雪山登山だよ?」


ブリギッタは、エラーラの肩に馴れ馴れしく手を回し、その豊かな胸をエラーラの細い腕に押し付けた。

エラーラは、即座にその手を振り払った。


「おねえさん?おば…いや、なんでもない……触るな。不快だ。報酬にも興味はない。」


「うわ、マジか…」


「これほどとは…」


3人が途方に暮れる。ブリギッタは「まいったねえ」と頭をかいた。


「あーあ、こんな所で油売ってたら、レティシア様が寂しがっちゃうよ」


「ちょっとブリギッタさん! レティシア様は私に夢中なんですから!」


ヨハンナがむきになる。


「ふふ、二人とも。年上の私たちみんなに甘えてるだけですよ」


カサンドラが微笑む。


エラーラが再びコーヒーに口をつけようとした、その時。

カサンドラが、契約書の端を読んでいて「ん?」と声を上げた。


「…待ってください、ブリギッタ。ここに追記が…」


「なんだい?」


「ええと…『令嬢レティシアが所持する、王都アカデミー製の高精度環境観測ロガーを回収した場合、王都のエラーラ研究室への次年度の資金提供を、現行の『倍額』で再契約する』…と」


ピタリ、とエラーラの動きが止まった。


(…観測ロガー? あの、ヌル・フィールドでも稼働するように設計された、試作機か。あのデータがあれば、ここのフィールド特性が…)


そして、「資金提供」「倍額」。

エラーラは、王都で最も面倒臭がっている雑務、研究予算の申請と、貴族たちへのプレゼンを思い出した。

長い、長い沈黙。

宿の暖炉がパチパチと音を立てる。


「……いいだろう」


エラーラは、心の底から面倒くさそうな、深いため息をついた。


「なっ…!」


「やったあ!」


ヨハンナが飛び上がってエラーラに抱きつこうとする。


「触るな!」


エラーラは椅子から転げ落ちるようにしてそれを避けた。


「私の目的は『観測ロガー』の回収のみ。令嬢(おまけ)がそれに付随しているなら、ついでに保護する。それだけだ。」


一行は出発した。

宿の老婆が、火かき棒で暖炉を突つきながら、忌まわしげに呟いた。


「…狂人山ヌル・ヴァイスホルンは『心を喰う』。あの山に入った者は、互いの影に怯え、最後には仲間同士で喰らい合うのさ。特に、女の嫉妬は、山の最高の餌だ…」


ブリギッタは、その警告を、経験豊富な笑顔で一笑に付した。


「迷信だよ、お婆さん。私の経験とデータが、その迷信を打ち破ってやるさ。ね、エラーラちゃん?」


エラーラは、その問いを無視した。

ベースキャンプへ向かう道中、さっそく試練が訪れた。

雪解け水と氷塊が渦巻く、幅30メートルほどの激流。唯一の橋が、数日前の嵐で落橋していた。


「クソ!これじゃ渡れない!」


ヨハンナが獣の目で対岸を睨む。


「いや、水深は浅そうだ。私とヨハンナでロープを張る。カサンドラとエラーラちゃんはそれに掴まれ!気合で渡るぞ!」


ブリギッタが、その屈強な脚で川に踏み込もうとする。


「ま、て。」


エラーラが、その場に似つかわしくない冷徹な声で制止した。


「なーんだい、エラーラちゃん。度胸がないのかい?」


ブリギッタが笑う。


「非合理的だ。」


エラーラは、川面を凝視していた。


「流れと水温。見たまえ。あの水は魔力を含まない。水温は限りなく0度に近い。となると、その中を歩けば、1分以内に重度の凍傷。3分で筋肉が麻痺。10分で心停止。お前たちの精神力で、熱力学の法則は覆せない。」


3人の女たちは、そのあまりにも冷たく、事実だけを突きつける言葉に、息を呑んだ。

エラーラは、川岸を数歩歩き、上流を指差した。


「…あそこの岩盤。水流が堰き止められ、流れが淀んでいる。氷が最も厚く、安定している可能性が高い。あそこを、渡る。」


「…ほんとかい?」


「仮説だが……検証しろ。」


ブリギッタは、エラーラの瞳に宿る、揺るぎない確信を見て、小さく舌打ちした。


「…カサンドラ!ピッケルで強度を試せ!」


カサンドラが、言われた地点の氷をピッケルで叩く。カン、カン、と硬い音が響く。


「…本当だ……いけます!分厚い!」


一行は、エラーラが導き出した、たった一つの合理的なルートを使い、無事に川を渡り切った。


その日の日没。

平坦な雪原を横断中、天候が地獄へと豹変した。


「うわっ!」


さっきまでの青空が嘘のように、猛烈な吹雪が一行を襲う。視界は瞬く間に白一色に染まり、数メートル先の仲間の背中さえ見失うほどのホワイトアウトに陥った。


「きゃあっ!」


「どこ!? ブリギッタさん!」


「見えない! 匂いも音も全部雪に消された!」


ヨハンナが獣の本能が役に立たないことにパニックを起こす。


「地図が…地図が意味をなさない!」


カサンドラが叫ぶ。


「黙れ! 私に続け! キャンプ地はもうすぐのはずだ! 進むぞ!」


ブリギッタが、恐怖を振り払うように怒鳴り、前に進もうとする。


「待て。」


そのブリギッタの腕を、小さな、しかし強い力でエラーラが掴んだ。


「このまま動けば遭難だ。ここでビバークする。」


「何を!?」


ブリギッタがエラーラを振り払おうとする。


「 進むしかない!」


「非合理的だ!」


エラーラは、ブリギッタの前に立ちはだかった。


「雪は断熱材だ。外気温がマイナス20度でも、雪洞スノーケイブを掘れば、内部は0度近くまで保てる。体温を維持する最も合理的な判断だ。」


「今から?」


だが、エラーラの瞳は、この猛吹雪よりも冷たく、彼女たちの感情論を拒絶していた。


「…分かったよ! 掘るぞ! ヨハンナ、一番体力があるあんたからだ!」


4人は、風下にあたる雪の吹き溜まりに、ツェルトを風よけにして、必死でスコップとピッケルを振るった。

屈強なヨハンナとブリギッタが猛烈な勢いで雪を掻き出し、カサンドラがそれを運び、エラーラは雪洞の形状と、小さな空気穴の位置を的確に指示する。

数時間後。

4人は、大人一人がやっと寝返りを打てるほどの、狭く暗い雪の穴の中にいた。

外では、世界を終わらせるかのような風の音が唸っている。だが、雪洞の中は、嘘のように静かだった。そして、寒いが、凍死するほどの寒さではなかった。


「…すごい。本当に…暖かい…」


カサンドラが、震える声で呟いた。


「疲れた…」


ヨハンナは、雪豹の耳をぺたりと寝かせ、荒い息をついている。


「…どうして、こんなことを知っているんだい。魔術師が」


ブリギッタが、暗闇の中でエラーラに問いかけた。

エラーラは、壁に背を預け、膝を抱えて座っていた。


「…王都の図書館で読んだ。私の研究には、魔術が使えない環境下でのサバイバルも含まれるからな……と、大層なことを言いたいが、雪山に来る者なら、これくらいは常識だ。」


「へえ…」


ヨハンナが、ニヤリと笑い、狭い空間で身じろぎし、エラーラの隣にぴたりと体を寄せた。その豊満な胸と、獣人特有の高い体温が、エラーラの肩に押し付けられる。


「まっ、でもさ、こういう時は、こうやって『体温』を分け合うのが一番だよねっ! ねえ、エラーラちゃん! ちっこくて冷たいなあ!」


「!」


エラーラは、全身を硬直させた。


「…やめろ。触るな。不快だ。お前の代謝は不安定で、効率的な熱源ではない。」


「あはは! 固まってる! 可愛い!」


「ヨハンナ、その辺にしときな」


ブリギッタが、暗闇の中でくすくすと笑った。

エラーラは、獣人の体温と、エルフの知的な吐息と、人間のリーダーの嘲笑に包まれた、人生で最も非合理的で、最も「面倒な」夜を耐え忍ぶしかなかった。



雪洞の中の朝は、世界の終わりよりも陰鬱だった。

外で唸りを上げていた風の音は、いつの間にか止んでいた。だが、狭い穴の中は、4人の女の吐息で飽和し、酸欠寸前の重い空気が淀んでいた。


「……ん……」


エラーラは、ここ数年で最も不快な目覚めを迎えていた。

肩が重い。熱い。そして、獣の匂いがする。

目を開けると、暗闇の中で、視界いっぱいに雪豹の斑点模様が広がっていた。


「……」


獣人のヨハンナが、エラーラの肩を枕にし、あろうことか、その豊満な胸を背中に押し付け、太い尻尾までエラーラの細い体に巻き付け、完璧な「抱き枕」として安眠していたのだ。


「…すぅ…すぅ…」


その寝息だけは、恐ろしく無邪気だった。


「…」


エラーラは、全身の毛が逆立つほどの不快感に耐えながら、身じろぎした。


「…起きろ。重い。不快だ。」


「んん…? ああ、エラーラちゃん…おはよう。ちっこいから抱き心地いいなあ、あんた…」


ヨハンナは寝ぼけ眼で笑い、さらに強く抱きしめようとした。


「やめろ!」


エラーラは、獣人の拘束を必死で振りほどく。その拍子に、反対側で丸まっていたカサンドラとブリギッタにもぶつかった。


「きゃっ」


「…うお、狭いな…」


「…最悪だ。私の生体データが、この数時間の接触で著しく悪化した。」


エラーラは、狭い出口に向かって這いずりながら、本気で王都に帰りたくなっていた。


「まあまあ、エラーラちゃん」


ブリギッタが、屈強な体を窮屈そうに起こしながら笑った。


「あのブリザードの中、あんたの『データ』がなきゃ、私たち今頃カチコチだったよ。感謝しな。で、感謝の印に、リーダーの私が…ほーら!あっためてやろうか?」


ブリギッタは、エラーラの背後から、いたずらっぽくその豊かな胸を押し当てた。


「やめろ! お前たちの体温は不安定で、熱源として非効率だ!」


エラーラは、まるで汚物から逃れるかのように、雪洞の出口を蹴破って外に転がり出た。


「……っ」


外の世界は、地獄から天国へと反転していた。

ブリザードは嘘のように晴れ渡り、空はインクを零したような紺碧。そして、地平線から昇った太陽が、昨夜の嵐が積もらせた新雪に反射し、世界そのものが光の塊と化していた。


「うわあああああ! すっげえええ!」


エラーラに続いて這い出してきたヨハンナが、その光景に歓声を上げた。


「昨日が嘘みたいだ! 最高!」


彼女は、目を守る遮光ゴーグルも着けずに、両手を広げて太陽の光を浴びている。


「おいヨハンナ! ゴーグルを着けろ!」


ブリギッタが後から出てきて叱る。


「へーきへーき! 私の眼は、ブリギッタさんたち人間とは違うんすから!」


ヨハンナは、獣の本能のままに雪原を駆け出した。

エラーラは、すでに持参していた遮光ゴーグルを装着しながら呟いた。カサンドラも、理知的にゴーグルを着け、雪の状態を記録している。


「…エラーラ。あなたの言う通り、紫外線指数が極めて高い。魔力が遮断されているせいで、大気のフィルターが機能していないのね。」


「当然だ。この『ヌル・フィールド』では、物理法則だけが支配する。そして紫外線は、お前の獣の『眼』も、エルフの『眼』も、等しく焼く。」


エラーラの予言は、数時間後に現実となった。

一行が、見渡す限りの白い雪原(氷河)を進んでいた時だった。

先頭をはしゃぎながら歩いていたヨハンナが、急に立ち止まった。


「どうした、ヨハンナ。疲れたのかい?」


ブリギッタが声をかける。


「いや…なんか…目が…チカチカするっていうか…」


ヨハンナが目を擦る。

次の瞬間、ヨハンナは雪の上に崩れ落ち、獣のような絶叫を上げた。


「目が! 目が痛い! 痛いいい!」


ブリギッタとカサンドラが駆け寄る。

ヨハンナは、両手で顔を覆い、雪の上を転げ回っていた。その指の間から、涙が止めどなく溢れている。


「砂が入ったみたいだ! 熱い! 焼ける!」


「しっかりしな!」


ブリギッタがその巨体でヨハンナを押さえつける。

カサンドラは、ヨハンナの頭を抱きかかえ、自分の豊満な胸にその顔を押し当ててあやす。


「大丈夫、大丈夫よ、ヨハンナ…! 落ち着いて!」


「雪盲だ。強烈な紫外線が角膜を焼いた。エルフの目は、人間よりも紫外線に弱い!雪山の、しかも、魔力がないこの場所では、より、増幅されて……」


「エラーラちゃん! あんた、それでも仲間かい!」


ブリギッタが、エラーラを睨みつける。


「『仲間』は非論理的だ。対処が先だ。」


エラーラは、カサンドラの腕からヨハンナの頭をひったくると、ザックから清潔な布と水を取り出した。


「冷たい水で濡らした布で、目を完全に覆え。」


「でも!」


「黙れ。角膜が回復するまで、数時間は視界が戻らん。動けば悪化する。」


エラーラは、泣き叫ぶヨハンナの目に、容赦なく濡れ布を押し当て、包帯で固定した。

ヨハンナという視界と戦力を失い、一行の計画は大幅に狂った。


「…仕方ない。予定の尾根ルートは、今のヨハンナには無理だ。迂回する」


ブリギッタは、視界の効かないヨハンナの手を引き、ルートを変更した。だが、その迂回路こそが、この山で最も危険な場所、無数のクレバスが走る、氷河地帯だった。


「ザイルを! 私に続け!」


ブリギッタが指示し、一行は互いの体を一本のロープで結びつけた。

先頭がリーダーのブリギッタ。次に、カサンドラ。そして、目の見えないヨハンナ。最後尾が、エラーラだった。


「…おい、リーダー」


エラーラが、ブリギッタの背中に声をかける。


「なんだい、エラーラちゃん。怖いのかい?」


「アンザイレンの順番が間違っている。最も経験の浅い者、あるいは負傷者は、先頭と二番手の間に配置するのがセオリーだ。お前とカサンドラの間だ。」


「私の経験が『セオリー』さ。あんたは黙ってついてきな」


ブリギッタは、エラーラの合理的な進言を、リーダーとしてのプライドで一蹴した。

その傲慢さが、命取りになる。

一行が、薄い雪が積もった広大な氷河を渡っていた、その時だった。


「…きゃっ!?」


ブリギッタとカサンドラの間を歩いていたヨハンナが、足元の雪を踏み抜いた。


「ヨハンナ!」


カサンドラが、咄嗟にヨハンナの腕を掴む。

だが、そのカサンドラの足元も、ヨハンナの体重に耐えきれず、メシリ、と音を立てて崩れた。

それは、新雪が巧妙に隠した、巨大なクレバスだったのだ。


カサンドラが、ヨハンナを抱きかかえるような形で、奈落の暗闇へと滑落した。

先頭のブリギッタと、最後尾のエラーラが、同時に前後の闇へと引きずり込まれる。


「くっ…!」


エラーラは、その小柄な体重では抵抗できず、数メートル引きずられる。

だが、彼女は即座に、体をうつ伏せにし、両手で握ったピッケルの先端を、全体重をかけて氷に突き立てた。


氷の破片を顔面に浴びながら、エラーラは停止した。


「うおおおおお!」


先頭のブリギッタもまた、その屈強な体躯と経験で、ピッケルを突き立て、制動をかけていた。

ロープは、ブリギッタとエラーラという二つの支点で、ギリギリのテンションを保って静止した。

眼下には、幅数メートルの、底が見えないほどの暗く冷たい亀裂が口を開けている。

そして、その中間に、ヨハンナとカサンドラが、ロープにぶら下がっていた。


「…カサンドラ! ヨハンナ! 無事かい!?」


ブリギッタが、血走った目で叫ぶ。


「…ブリギッタさん…!」


下から、カサンドラの震える声が返ってきた。


「ヨハンナは…私がなんとか…でも、私の足が…裂け目の氷壁に挟まって…動かせない…!」


「クソっ!」


「ブリギッタ! あんた一人の力では引き上げられん!」


エラーラが叫ぶ。


「分かってる!」


ブリギッタは、エラーラの冷静な声に、我を取り戻した。


「エラーラちゃん、あんたはそのまま動くな! 私とあんたがアンカーだ!」


ブリギッタは、エラーラが動かないことを確認すると、おもむろに自分のピッケルを、体重をかけてさらに深く氷にねじ込み、固定した。


「ヨハンナ! 目は見えなくても力はあるだろ! 自分のピッケルを氷に突き立てろ! 体重を分散させろ!」


「わ、わかった!」


ブリギッタは、自らのザックから、手際よく滑車と、カラビナ、そして数本の登高器を取り出した。

ブリギッタは、固定したピッケルを支点に、滑車とロープを巧みに操り、数分で完璧な力学システムを構築した。


「よし! 引くぞ、エラーラちゃん!」


ブリギッタの屈強な体躯が、ロープを引くたびに、服の下で、背中と腕の筋肉が隆起する。

エラーラも、非力ながら、全体重をかけてロープを引く。


「力が…足りない…!」


ブリギッタが歯を食いしばる。


「…フン。非効率だ。お前の胸を切り落とせば、もう少し楽になるかもな!」


「このアマ…! 助かったら覚えてな!」


二人の罵声と、ロープが氷に擦れる音だけが響く。

ゆっくりと、しかし確実に、ロープが引き上げられていく。

やがて、クレバスの縁から、カサンドラの青ざめた顔と、彼女に抱きかかえられたヨハンナが姿を現した。

二人は、そのまま雪原に倒れ込む。

ブリギッタは、その場に大の字になり、荒い息をついていた。


「…どうだい、エラーラちゃん。これが…私たちの『チーム』さ。あんたの『データ』だけじゃ、こうはいかないだろ?」


ブリギッタは、汗だくの顔で、ニヤリと笑った。

エラーラは、肩で息をしながら、冷ややかに答えた。


「…お前が、最初の私の進言を聞き入れていれば、この事故は起きなかった。お前の傲慢さが、我々のリソースを無駄に消費させた。それだけだ。」


「…あんたって子は、本当に…!」


カサンドラの足は、幸い骨折はしていなかったが、強く捻挫し、歩行は困難だった。

疲弊しきった一行は、これ以上の行動は不可能と判断し、近くの岩陰でビバークすることにした。


「…クソ。先行隊は、いったいどこまで行ったんだ…」


その岩陰こそが、運命の場所だった。


「…ブリギッタさん。あれ…」


カサンドラが、震える指で岩の陰を指差した。

そこには、引き裂かれたテントの残骸があった。


「…先行隊のキャンプ跡か!」


3人の女たちが、最後の力を振り絞ってそこに駆け寄る。

だが、そこで見た光景は、彼女たちの希望を地獄に叩き落とした。

テントは、まるで巨大な獣に引き裂かれたようにズタズタだった。

雪の上に、凍りついた調理器具が転がり、中身のシチューが黒い氷の塊となってこびりついている。

そして。


「…血だ」


雪と岩肌に、おびただしい量の血痕が、黒赤くこびりついていた。


「な…なにこれ…」


ヨハンナは、恐怖で目隠しの布をずり下ろした。充血した赤い目が、その惨状を捉える。


「…エラーラ。これは…」


ブリギッタが、エラーラに答えを求めようとした。

だが、エラーラは、キャンプ跡ではなく、その周囲の雪を調べていた。


「…これか。」


エラーラが、雪の上に残された、巨大な獣の足跡を指差した。

それは、エラーラが知る、どの狼のデータよりも、遥かに巨大だった。

ヨハンナの雪豹の耳が、恐怖に張り詰める。

彼女は、風が運んでくる、微かな匂いを嗅ぎ取っていた。


「…この匂い…血と、獣の匂い…古いけど、間違いない…」


ヨハンナの顔から、血の気が引いていく。


「…氷牙のウルフェン」


ブリギッタが、宿の老婆の言葉を、絶望的な声で繰り返した。


「…迷信じゃ、なかったのかよ…」


エラーラは、その巨大な足跡を、冷ややかに見つめていた。


(…新たな脅威。先行隊は、こいつらに捕食された……)


(…そして、観測ロガーも、おそらく…)


3人の女たちが、互いの体を寄せ合い、恐怖に震えている。

エラーラだけが、その中心で、一人、ピッケルを握りしめ、次の「計算」を始めていた。

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