第5話:氷結する死体!
王都で最も格式高いオペラハウス、『白鳥の翼』。
その夜、幕間のロビーは、王侯貴族や富豪たちのシャンパングラスを傾ける音と、気取った笑い声で満ち溢れていた。
その中心にいたのが、魔導兵器産業で財を成したバルガス男爵だった。
彼が、高らかに乾杯の音頭を取ろうとグラスを掲げた、その瞬間。
パキ、パキパキ……。
男爵の体が、足元から急速に凍りついていった。
数秒後、バルガス男爵は、シャンパングラスを掲げたままの姿で、巨大な氷の彫像と化した。
悲鳴が、一拍遅れてロビーを揺るがした。
「ああ……! ああ、あなた!」
その場に崩れ落ち、悲劇のヒロインを演じているのは、男爵の若く美しい妻、レティシアだ。
だが、その濡れた瞳の奥は、凍てついた男爵よりも冷たく、満足感に満ちていた。
そのレティシアの背後、柱の影に、一人の背の高い男が石のように立ち尽くしている。
彼女の付き人、ヨハンだ。
彼の手は、上着のポケットの中で、魔力を帯びた小さな『氷結のルーン石』を握りしめ、小刻みに震えていた。
ヨハンは、スラムの孤児だった。
飢えていた彼を拾い上げ、食事と仕事、そして『微笑み』を与えてくれたのが、レティシアだった。
彼は、彼女を女神と崇め、密かに、しかし命懸けで恋をしていた。
「夫が、私を虐げるの」
一月前、レティシアはヨハンにそう言って泣き崩れた。
「あの人が死ねば……『魔力災害保険』が下りる。そうしたら、二人で、遠い南の国へ……」
ヨハンの悲劇は、その言葉を信じた瞬間から始まっていた。
「カッチカチじゃあねえか!」
翌朝、まだ氷が解けない現場で、ケンが不謹慎にも氷りついたバルガス男爵を指で弾く。
「劇場のど真ん中で氷漬け! かーっ!派手なことしやがるぜ!」
「……やめておけ、ケン。指紋が証拠だ」
リュウは、タバコの煙を吐き出し、氷像の足元を調べた。
「……魔力の指向性がまったくない。まるで、内側から爆発的に凍結したみたいだ。タチが悪い」
「うぅ……寒気が……」
キョウコは、魔力アレルギーのせいで現場の冷気に当てられ、ガタガタ震えている。
「まったく!金持ちのイザコザで、アタシたちを巻き込まないでほしいわよ!」
「フム……」
オフィスの自席から持参した、淹れたてのコーヒーの湯気を浴びていたエラーラが、口を開いた。
「これは、単なる《氷結》じゃないねぇ。対象の体液(水分)だけを選択的に急速相転移させる、極めて高度な術式だ。……だが、効率が悪い。こんなピンポイントな魔術、コストがかかりすぎる」
「コスト?」
「ああ。これほどの術式を、あんな人混みで、遠隔で起動させるには……」
エラーラは、現場の氷のサンプルを、自室の解析器にかけていた。
「やはりだ。この魔力波形……精霊魔術だ。だが、術者の痕跡が、消去されている」
「そ、そんなこと、可能なんですか!?」
お茶を運んできたアイダが、目を丸くする。
「ああ。高価な『魔力触媒』を使い捨てにすればね。金に糸目をつけない犯行だ。……アイダくん。バルガス男爵の『魔力災害保険』、その契約内容を至急。それと、男爵夫人の周辺……特に、最近雇われた『魔力持ち』の召使いをリストアップしてくれたまえ」
ほどなくして、データが揃った。
「エラーラさん! やはり! 半年前に巨額の保険がかけられています! 受取人は妻のレティシア!」
「そして?」
「付き人のヨハン……スラム出身ですが、微弱な『水』属性の魔力適性が記録にあります!」
「……ビンゴ、だねぇ」
・・・・・・・・・・
「ヨハンはどこだ!」
「レティシア夫人の聴取は!?」
捜査課が慌ただしくなる。
その頃、レティシアは、すでに次の手を打っていた。
「ヨハン。よくやってくれたわ」
屋敷の地下室で、レティシアはヨハンに冷たく微笑みかけた。
「でも、あなた、魔力を使いすぎたのよ。少し、熱っぽいわね」
彼女は、ヨハンに「解熱剤だ」と偽り、猛毒の遅効性魔力毒を渡していた。
「保険金が下りたら、迎えに行くわ。それまで、ここで静かに眠ってて」
(……熱っぽい?)
ヨハンは、薬を飲んだ後、レティシアの言葉に違和感を覚えた。
(氷の魔術を使ったんだ。熱が出るはずがない。むしろ……)
その瞬間、彼はすべてを悟った。
「……レティシア様……!」
ヨハンは、よろめきながら地下室を飛び出し、最後の力を振り絞って、レティシアが保険金を受け取りに向かった『王都魔導銀行』へと走った。
「いたぞ! ヨハンだ!」
銀行前で、張り込んでいたリュウとケンが、ヨハンを発見する。
「待て! 警察だ!」
「邪魔をするなァァァ!」
ヨハンは、残ったルーン石を投げつけた!
ドカン!
銀行前の石畳が凍りつき、魔導馬車がスリップして街灯に激突する。
「野郎ッ!」
リュウとケンが、氷を避けながらヨハンを追う。
キョウコが魔導二輪で回り込み、ヨハンの行く手を塞いだ。
「おしまいよ!」
「どけ……! あの女を……レティシアを、止めないと……!」
ヨハンが、最後の力を振り絞り、氷の壁を出現させる。
「うわっ!」
「チッ!」
三人の刑事が、その場に足止めされた。
・・・・・・・・・・
銀行のVIPルーム。
レティシアが、保険金の受領書にサインをしようとしていた。
そこへ、ヨハンが、よろよろと扉を蹴破って入ってきた。
「……ヨハン!? なぜここに!」
「レティシア……様……なぜ……」
遅れて、リュウたちが駆けつける。
「確保!」
さらに遅れて、エラーラがタクシーで到着した。
「やれやれ。また派手なことを……」
・・・・・・・・・・
「……見苦しいわね、ヨハン」
レティシアは、リュウたちが突入してきたのを見ると、一瞬で「被害者」の顔に戻った。
「刑事さん! この男です! この男が、私を脅して、主人を……!」
「ちが……う……!」
ヨハンは、毒が回り、立っているのもやっとだった。
「あなたが……愛していると……!」
「スラムのネズミが、何を、聞き分けのないこと」
レティシアは、隠し持っていた小型の魔導銃をヨハンに向けた。
「すべて、あなたの妄想よ!」
彼女が引き金を引こうとした、その時。
カツン、と音がした。
エラーラが、VIPルームの入口から、コーヒーミルを投げつけ、レティシアの手を正確に打ち据えていた。
「いっ……!?」
魔導銃が床を転がる。リュウとケンが、即座にレティシアを取り押さえた。
「現行犯だ!」
「……フム。実に、非効率な三角関係だねぇ」
エラーラは、毒で倒れ伏すヨハンの前にしゃがみ込んだ。
「……なぜ……」
ヨハンは、エラーラを見上げ、最後の息で問いかけた。
「君は、彼女の『言葉』に騙された。だが、ワタシは『事実』しか見ない。まあ、話を聞け。」
エラーラは、男爵が凍りついた現場写真を取り出した。
「氷像の手だ。彼は、乾杯のグラスを持っていた」
「……それが、どうした……」
「君が使ったのは『体液』を凍らせる魔術だ。だが、あの時、すでに男爵は『死んでいた』のさ。君が魔術を使う前にね」
「……え?」
ヨハンも、ケンも、リュウも、全員が息をのんだ。
「君の『氷結』は、すでに毒殺されていた死体への、派手な『演出』にすぎない。すべては、君に『殺人の罪』を着せ、保険金を手に入れるための、あの女の筋書きだ」
「あ……あ……」
ヨハンは、絶望と安堵が入り混じった、悲痛な叫びを上げ、意識を失った。
翌朝、魔導犯罪捜査課のオフィス。
「……ったく、とんでもねえ女だ。男爵の死因は、やっぱり例の魔力毒。ヨハンが使った魔術は、ただの『死体損壊』ってわけだ」
リュウが、苦虫を噛み潰したように報告書を叩きつけた。
「ヨハン、どうなったんスか?」
ケンの問いに、アイダが答える。
「エラーラさんが提供した解毒薬のおかげで、一命は取り留めました。……ま、彼も、言ってしまえば、被害者、ですからね」
エラーラは、窓際でいつものようにコーヒーを淹れていた。
昨日、レティシアに投げつけて少し欠けてしまった、お気に入りのコーヒーミルを、愛おしそうに撫でながら。
「……フム。愛とは、最も強力な『触媒』だ。時に人を英雄にし、時に人を、哀れな道化師に、変える」
彼女は、窓の外の気だるい街を眺める。
「……厄介なことに。その『バグ』だらけの『愛』こそが、人間を、人間たらしめているのだからねぇ」
エラーラは、欠けたミルで挽いた、いつもより少しだけ雑味のあるコーヒーを、静かにすすった。




