第3話:成長する天才(3)
それから、季節が一つ巡った。
北方の「導師の館」は、原因不明の魔力飽和による局所的大爆発により消滅した。
奇妙なことに、瓦礫からは数千人の村人が無傷で発見された。彼らは一様に「長い夢を見ていたようだ」と語り、支配されていた間の記憶を失っていた。
だが、彼らは泣いていた。
寒さに震え、腹を空かせ、明日への不安に怯えて泣いていた。
その涙こそが、彼らが「人形」から、痛みと迷いを抱える「人間」へと回帰した証だった。完璧な安寧よりも、傷つきながら選ぶ明日を、彼らの魂は選び取ったのだ。
そして、館の主「導師」と探偵エラーラ・ヴェリタスは、行方不明のまま「死亡」と認定された。
現場には、彼女の愛用していた白衣の切れ端と、白衣に『同化』しかけた思考蟲の死骸が残されていた。
王都は平和を取り戻した。
カレル警部は昇進し、今日も忙しく働いている。だが、彼の執務室には、誰も座らない椅子と、常に温められたコーヒーポットが置かれている。
彼は時折、膨大な書類から顔を上げ、窓の外の空を眩しそうに見上げることがあった。
「なあ、エラーラ。俺は……分かった気がするよ」
カレルは、湯気の立つカップを、空席の向こう側へ掲げた。
「『解決』なんてないんだ。解き明かしても解き明かしても、謎は次々に降ってくる。……だからこそ、俺たちは生きていけるんだろうな」
彼は微笑んだ。その顔には、友を失った悲嘆ではなく、いつかまた難解な謎と共に現れるであろう「未知」への信頼が刻まれていた。
王都を一望できる、小高い丘の上。
春の風が、萌え出した若草を激しく揺らしている。
そこに、一人の女性が立っていた。
褐色の肌。太陽の光を浴びて白銀に輝く短髪。
そして、その華奢な体には似つかわしくない、白衣をマントのように羽織っている。
彼女は、眼下に広がる王都の雑踏を見下ろしていた。
そこには、無数の「計算外」が溢れている。
損得を無視して愛し合う恋人たち。
意味のない喧嘩をする酔っ払い。
転んで泣き、それでも立ち上がって走り出す子供。
非効率で、矛盾だらけで、予測不可能な、愚かしくも愛おしい人類の営み。
「……ハッ。素晴らしいカオスだ」
彼女は口角を吊り上げ、両手を広げた。
「正解なんて持っちゃいないさ! 自分が明日、どうなるかさえも分からずに、それでも、皆、生きている!……生きているんだ!」
彼女の手には、屋台で買った安っぽい紙コップのコーヒー。
彼女はそれを一口啜ると、顔をしかめ、そして、震えるほどの実感を込めて呟いた。
「苦すぎる……! ああ、不味い!……だが!」
その苦味は、データではない。脳への電気信号でもない。
彼女が「彼女」としてここに在ることを証明する、確かな質感だった。
「私は生きているから、生きているのだ!箱の中身の猫が、開けるまでどうなっているか分からないように……私の明日もまた、誰にもまだ、記述はできない!」
彼女は白衣の裾を春風にはためかせ、一歩を力強く踏み出した。
その足先が向くのは、地図にも載っていない、誰も予測できない、新しい「未知」の方角。
彼女は振り返らない。ただ、世界中の全てに向けて、高らかに宣言した。
「思考し続けるのだ!明日は未知だが、今日が輝いていることが、事実なんだ!……行こうか!答えのない問いに立ち向かうことが、我々を、生かしているのだから!恐れなどない!この星そのものが、我々の『家』なのだから!」
風が強く吹き抜けると、丘の上にはもう、誰もいなかった。
ただ、飲みかけのコーヒーから立ち上る白い湯気だけが、彼女が確かにそこに「生きていた」ことを証明するように、青空へと溶けていった。
世界は謎に満ちている。
だからこそ、生きるに値するのだ。




