第10話:Long Days of Vengeance
主題歌:星空の用心棒 サウンドトラック
https://youtu.be/voYL4ME4RS8
地下シェルターの最下層、ガラクタ置き場は、地獄の鍛冶場と化した。
ミヨは、タケシの形見の工具箱をひっくり返し、スパナをドワーフに投げ渡した。
エラーラは、ミヨに近づいた。
「…ミヨ。お前は、元の世界では『技術者』だったのか?その知識…」
ミヨは、油にまみれた顔も拭わず、答えた。
「いいや。……ただの主婦だ。…だがな、タケシが…旦那が、いつも、酒を飲みながら、こいつの話を、あたしに聞かせてくれた。『ターボ』、『インタークーラー』…あの頃は、正直、何を言ってるか、さっぱりだった」
ミヨの手が、一瞬、止まる。
「…だが、今なら分かる。あいつが、どれだけ、こいつを愛してたか。…あいつが、どれだけ、あたしたちに、生きてほしかったか…!」
ミヨは、最後のボルトを締め上げた。
四時間後。
ガラクタ置き場には、四台の『怪物』が、産声を上げる準備を整えていた。
「…フム。実に、非効率なエネルギー変換だ」
エラーラは、アイドリングするエンジンの振動に、不快とも快感ともつかない表情を浮かべた。
ミヨは、『一番星』の運転席によじ登り、タケシの汗が染みたハンドルを握った。ダッシュボードには、あの、家族三人の色褪せた写真が、まだ残っている。
「…行くよ、タケシ、リナ。…今度こそ、あたしが、あの馬鹿どもに、ケリをつけに行く」
エラーラは、『一番星』の助手席…「ショットガン」と呼ばれる位置に、滑り込んだ。彼女の腰には、あの旧式の対物ライフルが提げられている。
エラーラが、無線に告げる。
「…全車、発進。」
地下シェルターの、巨大な防爆扉が、軋みながら開いていく。四台の鉄の怪物が、夜明けの砂漠へと、その咆哮を解き放った。
灰色の砂漠は、どこまでも続いていた。空には、砕けた月の残骸が、不吉な王冠のように輝いている。
『ラストリゾート』の荷台で、若い兵士たちが、恐怖に強張っていた。
ヴァラスは、『マッドドッグ』を巧みにドリフトさせ、車列の周りを警戒する。
エラーラは、助手席で、揺れに耐えながら、淡々とタブレットに記録をつけていた。
「…ミヨ。お前の運転技術…実に精確だ。この悪路で、時速80キロを維持するとは。これも、元の世界での『訓練』か」
「訓練?……違うね。『日常』だ。締切に間に合わねえと、荷主に怒鳴られる。高速料金をケチるために、真夜中の峠道を走る。…あんたらの『戦争』より、よっぽど、毎日が『戦場』だったのさ」
ミヨは、チラリとエラーラを見た。
「…あんた、頭、いいんだろ。あたしは『手足』だ。あんたがあたしの『脳』になれ。」
エラーラは、驚きに目を見開いた。
この女…この冴えない主婦は、自分を「利用」すると、平然と言ってのけた。
魔法を失い、ただの知識の集積と化していた自分に、新しい『役割』を与えた。
《司令!前方、熱源多数!》
ヴァラスの切羽詰まった声が、無線に割り込んだ。
「『解放軍』だ」
エラーラが、双眼鏡を構えた。
「…フン。非効率な布陣だ。バイクが二十、バギーが十…そして、後方に…あれは…!」
エラーラは、双眼鏡を構えたまま、硬直した。
「…『ゴルゴタ』だ…!」
「ゴルゴタ?」
「奴らの『陸上戦艦』!数ヶ月前、我が軍の第二機動部隊を、まるごと踏み潰した、化け物だ…!」
「魔法がねえのは、向こうも同じだろ!?ただの、デカい鉄の棺桶だ!恐れるな!」
「ミヨ、無謀だ!我々の装甲では、あれの主砲には耐えられない!」
「だったら、当たる前に、掻い潜るんじゃあねえのかよ!」
ミヨは、『一番星』のヘッドライトを点灯させた。
「エラーラ!あんたは、敵の『弱点』を探せ!」
「!?……承知した!」
四台のトラック部隊は、減速することなく、巨大な敵の軍団へと突っ込んでいった。
『ゴルゴタ』が、空に向かって砲門を上げた。
「伏せろ!」
エラーラが叫ぶ。
だが、放たれたのは砲弾ではなかった。
それは、何十もの『カイト』…凧だった。
魔法が使えない転生者たちが、元の世界の知識で作り上げた、原始的な『爆撃機』だ。
《空から!?》
『ラストリゾート』の荷台がパニックになる。
カイトから、爆弾が、ヒュルルル、と風切り音を立てて落ちてくる。
「ヴァラス!散開しろ!弾幕を張れ!」
エラーラが指示を出す。
『マッドドッグ』の機関砲が火を噴くが、カイトは、無軌道に空を舞い、狙いが定まらない。
『ラストリゾート』のすぐ横で爆発が起き、車体が大きく傾いた。
「うっとうしい!…エラーラ!あのカイト、糸で繋がってるか!?」
「…! そうだ!『ゴルゴタ』のウインチから、鋼線で繋がっている!あれで操作と回収を…」
「上等だ!」
ミヨは、エラーラが言葉を終える前に、『一番星』を『ゴルゴタ』の真横へと滑り込ませた。
「エラーラ!窓から乗り出せ!あんたのライフルで、あの『糸巻き』をぶっ壊してやりな!」
「…! 合理的だ!」
エラーラは、疾走するトラックの窓から半身を乗り出し、対物ライフルを構えた。
風圧が凄まじい。だが、エラーラの狙いは、魔法を失っても、正確だった。
耳をつんざく発砲音。
放たれた徹甲弾が、『ゴルゴタ』の側面に設置された巨大なウインチを粉砕した。
操作権を失った何十ものカイトが、糸の張力を失い、コントロールを失って、同士討ちを始めたり、地面に次々と激突して自爆していく。
空の脅威は、ミヨの『着眼点』とエラーラの『精密射撃』によって、わずか三十秒で無力化された。
空の脅威が去った瞬間、地上の脅威が牙を剥いた。
『ゴルゴタ』を守っていた、数十台のバイクとバギーが、一斉に襲いかかってきた。
《死ね!旧人類!》
転生者たちが、奇声を上げながら、火炎瓶や、槍を投げてくる。
「ヴァラス!『ラストリゾート』を守れ!」
ミヨが叫ぶ。
「エラーラ!こいつらの『リーダー』はどいつだ!」
「戦術がない!統率が取れていない!」
「フン、チンピラの集まりかい!」
『マッドドッグ』が、ドーナツターンを繰り返しながら機関砲を乱射し、数台のバイクを吹き飛ばす。
だが、敵の数が多すぎた。
数台のバギーが、『ラストリゾート』に取り付いた。
《登ってくる!》
「ミヨ!右だ!」
エラーラが叫ぶ。
バイクの一台が、『一番星』の死角から飛び乗り、運転席のドアにぶら下がった。
「この異世界は、転生者のもんだよ、ババア!」
男が、ナイフを振り上げる。
ミヨは、一瞥もくれなかった。
ただ、一言。
「…私も転生者だ!」
ミヨは、サイドブレーキとハンドルを同時に操作した。
『一番星』が、スピンターンをして、無茶苦茶な挙動を見せる。
遠心力で振り落とされそうになる男。
そして、ミヨは、そのまま、スピンの勢いを利用して、車体を、味方の『ラストリゾート』の側面に、思い切り擦り付けた。
『一番星』と『ラストリゾート』の間に挟まれた転生者の男は、悲鳴を上げ、鉄と鉄の間で、赤い染みとなって圧殺された。
『ラストリゾート』に取り付いていた他の転生者たちも、その狂気の機動に度肝を抜かれ、慌てて飛び降りていく。
雑魚を振り切った『一番星』の前に、ついに『ゴルゴタ』が立ちはだかった。
『ゴルゴタ』は、巨大な軍用列車をトラックのシャシーに乗せたような、悪夢の産物だった。
その主砲…旧式の戦車砲が、火を噴いた。
『マッドドッグ』が、紙一重でそれを回避する。
砲弾が着弾した砂漠が、クレーターとなって吹き飛んだ。
「ミヨ!回避しろ!回避しろッ!」
「逃げてばっかじゃ何にもならねえだろうが!」
ミヨは、恐怖の代わりに、怒りでアクセルを踏み込む。
「エラーラ!あのデカブツ、どこが運転席なんだい!」
「…! 機関部は中央!操舵室は、あの、一番上に見える、不格好な箱だ!」
「よし!」
ミヨは、『ゴルゴタ』の側面…砲塔の死角へと、猛然と突っ込んだ。
『ゴルゴタ』は、巨体故に旋回が遅い。
「ヴァラス!『ラストリゾート』!援護しろ!ヤツの『目』を潰せ!」
『マッドドッグ』と『ラストリゾート』が、二手に分かれた。
ヴァラスたちが、残った火器で、『ゴルゴタ』の操舵室の防弾ガラスを、必死に銃撃する。
その隙に、ミヨは『一番星』を『ゴルゴタ』の真横に並べた。
「エラーラ!ライフルで、『タイヤ』を狙えるか!?」
「無駄だ!あのタイヤは、ゴーレムの装甲を流用している!私の弾丸でも貫通できん!」
「チッ!頑丈だけが取り柄かよ!」
ミヨは、並走しながら、タケシが荷台に積んでいた、ありったけの『工具』…巨大なスパナや、ジャッキ、予備の板バネを、エラーラに渡した。
「エラーラ!これを、ヤツの『車輪の隙間』に叩き込め!」
「…! 物理的干渉!?原始的だが、合理的だ!」
エラーラは、再び窓から身を乗り出し、疾走する『ゴルゴタ』の、巨大な車輪と車体の隙間に、鉄の工具を、槍のように投げ込み、叩き込んでいく。
凄まじい金属音が響く。
最初は弾かれていた工具が、ついに、車軸の回転部に深く食い込んだ。
『ゴルゴタ』の、右側前方の車輪が、ロックされた。
巨体は、急激な制動にバランスを崩し、大きく傾く。
ミヨは、『一番星』を急減速させる。
『ゴルゴタ』は、自らの速度と重量に耐えきれず、横転した。
地響きを立てて、巨大な鉄の怪物が、砂漠に倒れ伏す。
中から、転生者たちが這い出してくるが、もはや脅威ではなかった。
ヴァラスの『マッドドッグ』が、それを容赦なく掃討していく。
『ゴルゴタ』を撃破し、コンボイが再び速度を上げた、その時だった。
これまでの戦闘の振動と爆音で、この砂漠の『主』が、目覚めてしまった。
「敵の増援か!?」
「いや…これは……違う!」
エラーラは、血相を変えた。
「…『キメラ』だ!大戦時に投下された、『グラウンド・ワーム』!」
ミヨの目の前の砂漠が、巨大な『口』となって、爆発した。
地下から現れたのは、直径が『一番星』の全高ほどもある、巨大なミミズのような怪物だった。
その口には、ドリル状の牙が、何重にも並んでいる。
「なんだい、ありゃあ!」
「大戦の置き土産だ!あれに飲み込まれたら、トラックごと、溶解させられる!」
グラウンド・ワームは、地中を高速で移動し、獲物の振動を追ってくる。
「ミヨ!速度を落とすな!不規則に走れ!ヤツは、振動の『先』を読んで、突き上げてくる!」
ミヨは、神業的なハンドルさばきで、トラックを左右に激しくスライドさせながら、前進する。
『マッドドッグ』と『ラストリゾート』も、必死にそれに続く。
『ラストリゾート』が、突き上げを食らった。
車体が大きく宙に浮き、荷台の兵士が数名、砂漠に投げ出される。
「クソッ!」
ミヨは、舌打ちした。
ワームが、獲物を仕留めようと、再び地中に潜る。
「エラーラ!あの化け物、弱点はねえのか!」
エラーラは、怪物が開けた『穴』を見た。
「…奴は、地中を『掘り進んで』いる!口から砂を飲み込み、後方の排泄孔から、高速で『排出』している!あの排泄孔…そこが、唯一の『弱点』だ!」
ミヨは、無線で叫んだ。
「ヴァラス!『ラストリゾート』の負傷者を拾え!その後、あたしから離れろ!」
「ミヨさん!?何を!」
「あのデカブツの『おとり』になる!」
ミヨは、『一番星』を急停止させた。
そして、その場で、エンジンを、これでもかと吹かし始めた。
「来いよ、化け物!こっちの『エサ』の方が、美味そうだろ!」
最大の振動源に、グラウンド・ワームが気づいた。地響きが、まっすぐにミヨへと向かってくる。
「ミヨ!馬鹿か!死ぬぞ!」
エラーラが叫ぶ。
「死なないさ!…エラーラ!あんたの、その『頭脳』を貸しな!」
ミヨは、エラーラに、荷台に積んであった『最後の爆薬』の束を渡した。
「地中から出てきた瞬間、あの『口』に、これを放り込め!」
「無謀だ!」
ミヨは、エラーラに、自分のライターを握らせた。
「手動で『火』をつけろ!」
「…!?」
「あたしが、ヤツの口が閉じる前に、トラックを『ジャンプ』させる!あんたは、その瞬間に、火をつけた爆薬を、ヤツの喉に、叩き込め!」
「…正気か!?タイミングがずれれば、我々ごと……爆発する!」
「だから!天才様のあんたに!頼んでんだろ!」
ミヨは、ニヤリと笑った。
「あんたの『計算』と、あたしの『勘』…どっちが上か、勝負しようじゃあ、ないか!」
地響きが、真下に到達した。
「来るぞ!」
『一番星』の、わずか数メートル前で、グラウンド・ワームが、砂漠を突き破って、巨大な口を開けた。
腐臭が、熱風と共に叩きつける。
「今だあああああああああっ!!!!」
ミヨは、サイドブレーキを解除し、クラッチを繋ぎ、アクセルを全開にした。
『一番星』が、ワームが開けた穴の『縁』を、ジャンプ台のように利用して、宙に跳んだ。
「撃てええええええええ!!!!」
エラーラは、ミヨの叫びと同時に、爆薬の導火線にライターで火をつけ、それを、眼下に広がる、無数の牙が並ぶワームの『喉』の奥深くへと、正確に投げ込んだ。『一番星』は、ワームの頭上を飛び越え、砂漠に着地した。ワームは、一瞬、何が起きたか分からず、獲物を失った口を閉じようとする。
遅い。
爆発は、内部から起きた。
グラウンド・ワームは、声なき絶叫を上げ、その巨大な体を、空に向かって反らせた。
そして、自重に耐えきれず、痙攣しながら、崩れ落ち、動かなくなった。その『排泄孔』から、緑色の体液と、爆風が吹き出していた。
コンボイは、ボロボロになっていた。
『ラストリゾート』は、走行不能となり、負傷者を『マッドドッグ』に移し、牽引するしかなかった。
『一番星』も、ワームとの戦闘で、車体が歪み始めている。
夜が、再び明けた。
生き残ったのは、二台。
ボロボロの『一番星』と、満身創痍の『マッドドッグ』。
乗員は、ミヨ、エラーラ、ヴァラス、そして、生き残った三人の兵士だけだった。
彼らは、最後の丘を登り切った。
そして、見た。
地平線の彼方まで続く、巨大な、コンクリートの建造物群。
『ウエストランド』
「…着いた…」
ミヨは、『一番星』を、その巨大な鋼鉄のゲートの前で、ゆっくりと停止させた。
ミヨは、タケシの写真が置かれたダッシュボードに、額をつけた。
涙が、ぽつり、と写真の上に落ちた。
エラーラは、そんなミヨの横顔を、ただ、じっと見つめていた。
彼女は、助手席から降り、ボロボロのトラックの前に立った。
「…ミヨ」
エラーラが、静かに声をかけた。
「…なんだい」
ミヨが、顔も上げずに答える。
「…私の計算は、間違っていた」
「…フン。天才サマも、間違うことがあるんだな」
「ああ。私は、知性とは、生まれ持った『演算能力』と『知識量』によって、決定される、静的なパラメータだと信じていた」
エラーラは、夜明けの光に照らされる、ウエストランドの巨影を見上げた。
「だが、お前は、それを覆した。お前の『知性』…すなわち、最適解を導き出す『力』は、この戦場で、爆発的に『進化』した」
エラーラは、まるで、新しい物理法則を発見したかのように、震える声で言った。
「…『目的を持った熱意』…!私が切り捨ててきた、それらの『熱い』感情こそが…!人間を、『進化』させる、触媒だったというのか…!」
ミヨは、ゆっくりと運転席から降り立った。
彼女は、エラーラの、難解な言葉の意味を、完全には理解していなかった。
だが、エラーラが、自分を一人の「人間」として見ていることだけは、分かった。
「…小難しいことは、分からんよ、エラーラ」
ミヨは、タケシの形見の工具を、肩に担ぎ、巨大なウエストランドのゲートを、無言で指さした。
門は、錆びついた鉄の匂いがした。
エラーラの『計算』とミヨの『工具』が、旧時代の分厚い鋼鉄のゲートをこじ開けた時、噴き出してきたのは、新鮮な空気でも、ましてや楽園の芳香でもなかった。
それは、数十年、あるいは百年以上も密閉されていた、古い機械油と、プラスチックの化学的な匂い、そして、何よりも濃密な「埃」の匂いだった。
「…着いた…」
ヴァラスが、崩れ落ちるように砂漠に膝をついた。生き残った三人の兵士たちも、ただ、その黒々とした、巨大な「口」を見上げ、呆然と立ち尽くしている。
「…感傷に浸るのは早いぞ、ヴァラス」
エラーラは、ボロボロのライフルを背負い直し、真っ先にその闇の中へ一歩を踏み出した。
「ここが、我々の『墓場』になるか、『揺りかご』になるか…データは、まだ出ていない」
ミヨは、『一番星』の運転席で、タケシの写真がはめ込まれたハンドルに、震える額を押し当てていた。
「…タケシ…あんたの『一番星』…ちゃんと、やり遂げたよ…」
エンジンは、最後の燃料を使い果たし、完全に沈黙していた。だが、その鉄の塊は、まるで、誇らしげに胸を張っているかのようだった。
ミヨは、エラーラに続いた。
内部は、広大だった。
それは、旧時代の、全自動備蓄倉庫。
天を突くかというほどの高さまで、巨大な棚が、整然と並んでいる。
そこには、大戦前の文明が、手つかずのまま眠っていた。
プラスチックで真空パックされた、旧式の火薬式ライフル。山と積まれた弾薬箱。
ヴァラスが、巨大な円筒形のタンクを叩いた。
「…食料だ!缶詰だぞ!キメラの肉じゃねえ!それに…水もある!」
兵士たちが、泣きながら、その金属の棚に駆け寄っていく。そこは、死の世界に残された、唯一の『聖域』だった。
「…フム。これだけの物資があれば、基地の仲間たちも…」
エラーラが、冷静に、壁の端末を操作し、在庫リストを呼び出そうとした、その時だった。
「…エラーラ様…?」
この聖域の、奥の暗闇から、か細い声がした。
ヴァラスが、即座に銃を構える。
「誰だ!出てこい!」
闇から、数人の、痩せてはいるが、清潔な衣服をまとった民間人が、おずおずと姿を現した。
「…あ…あなたたちは、王国軍の生き残りですか…?」
「我々は、大戦が始まる前に、ここに逃げ込んだ者たちだ…」
「…解放軍じゃないな…?」
「我々に敵意はない」
エラーラが、彼らを制止する。
「我々も、この場所を求めてきた『漂着者』だ」
「ああ…よかった…」
民間人たちは、安堵に泣き崩れた。
ミヨは、その光景を、ぼんやりと眺めていた。
その、民間人たちの輪の中から、一人の少女が、ミヨを、じっと見つめていた。
ミヨも、その少女に気づいた。
年は、十五、六だろうか。
痩せているが、その瞳には、この世界の誰とも違う、強い光が宿っていた。
ミヨの知る、誰かによく似た、強い光。
(…あ…)
ミヨの心臓が、氷水で鷲掴みにされたかのように、冷たく、痛く、跳ね上がった。
ありえない。
いるはずがない。
あの子は、あのアパートの駐車場で、冷たくなって…。
「…そんな…」
少女が、一歩、前に出た。
ミヨも、一歩、引き寄せられるように、前に出た。
「…おかあ…さん…?」
その声。
忘れるはずがない。
タケシが死んで、絶望の中で、最後に聞いた、娘の声。
だが、あの時の声よりも、少しだけ、大人びている。
「…リナ…?」
ミヨは、自分の声が、喉から正しく出ているか、分からなかった。
「…本当に…リナ…なの…?」
「お母さんッ!!」
少女…リナが、叫んだ。
彼女は、ミヨの胸に、嵐のような勢いで飛び込んできた。
「お母さん!お母さん!生きてたの!?生きててくれたの!?」
「リナ…!ああ…!リナァァァァッ!!」
ミヨは、娘の体を、骨が砕けるほど強く抱きしめた。
温かい。
生きている。
あの、アスファルトの上の、絶望的な冷たさではない。
確かに、生きている。
「なんで…!なんで、ここに…!あたしは、てっきり…!」
「私…!私、あの時、飛び降りて…!」
リナは、泣きじゃくりながら、ミヨの胸に顔を埋めて言った。
「…お父さんのところに行こうとして…そしたら、お父さんのトラックに…ぶつかって…」
時間のズレ。
先に死んでいたが故に、先に転生していた。
ミヨは、娘を抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。
エラーラとヴァラスが、ただ、呆然と、その『奇跡』という非合理的な現象を、見つめていた。
「…ああ…ああ…!」
ミヨは、声を上げて泣いた。
あの地獄の荒野でも、タケシの死体を見た時でも、リナの亡骸を抱いた時ですら、流せなかった涙が、今、堰を切ったように溢れ出した。
憎しみと怒りで、カラカラに乾ききっていたはずの魂が、娘の温もりで、潤っていく。
「…タケシ…見てるかい…?あの子は…リナは、生きてたよ…!」
エラーラは、その光景から、静かに目をそらした。
彼女の知的好奇心は、『時間的転移の差異』という新しいデータに興奮していたが、それ以上に、目の前で繰り広げられる、非効率なまでの『感情の爆発』に、どう対処すべきか、分からなかった。
「…ヴァラス」
エラーラは、静かに命じた。
「…我々は、ここの物資の検分を続ける。彼女たちには…『時間』を与えろ」
その夜。
ウエストランドの、食堂で、ささやかな『祝宴』が開かれた。といっても、エラーラの部下と、ここの民間人たちが、大戦前の缶詰を開け、貴重な水を分け合っただけだ。だが、それは、この地獄において、まさに『奇跡』の夕食だった。
ミヨは、一口も、食事に手を付けられなかった。
ただ、夢中で、自分の隣に座るリナの横顔を見つめていた。リナは、ミヨが失った十三歳の少女ではなく、十五歳の、見違えるほど大人びた少女になっていた。
「…すごいね、お母さん」
リナが、興奮したように、ミヨの手を握った。
「ここの人たちから聞いたよ!あの『一番星』で、地獄の荒野を突っ切ってきたんでしょ!?」
「…あ、ああ…まあな…」
リナは、ミヨよりも、むしろ、テーブルの向かいに座るエラーラに、尊敬の眼差しを向けていた。
「エラーラさん!あなた、すごい人だ!私、ずっと、あの『解放軍』の連中が怖くて、ここに隠れてた…。でも、あなたたちの戦いを聞いて、決めた!」
リナは、立ち上がって、宣言した。
「私にも、戦わせてください!私、この二年間、ここで、この倉庫のシステムを、必死で勉強したんです!旧時代の『通信』とか、『電子ロック』の解除とか…きっと、あなたの役に立てる!」
エラーラは、無表情に、缶詰の豆を口に運びながら、リナを値踏みするように見つめた。
「…フム。興味深い。だが、戦場は、お前が思うほど甘くはない」
「覚悟の上です!」
「リナ!」
ミヨが、思わず、娘の腕を掴んだ。
「…何言ってるんだい!戦うだなんて…!もう、いいんだよ!お母さんと、ここで…!」
ミヨは、エラーラに向き直った。
「エラーラさん!あんたたちの戦いは、知らない!だが、あたしたち親子は、ここで暮らす!もう、うんざりなんだ!戦いも、憎しみも!」
ミヨは、決意していた。
この聖域こそが、タケシとリナを失った自分への、最後の『ご褒美』なのだ、と。
娘と二人、ここで、静かに、誰にも邪魔されずに、生きていくのだ、と。
「…お母さん…」
リナが、困ったように、ミヨの手を振りほどいた。
「…気持ちは、分かるけど…。でも、私、もう、隠れてるのは嫌なの」
リナの目には、ミヨの知らない、強い光が宿っていた。
エラーラは、そのやり取りを、ただ黙って観測していた。
その夜。
ミヨとリナには、旧時代の、清潔なシーツが敷かれた、個室が与えられた。
二段ベッドだった。ミヨが下で、リナが上。
まるで、あのアパートの、子供部屋のようだった。
「…お母さんの手…」
リナが、上のベッドから、ミヨの手を握った。
「…すごく、荒れちゃってる…。それに、油の匂い…」
「…ああ。あんたのお父さんの『トラック』を、いじってたからね」
「…そっか。お父さん、大事にしてたもんね、『一番星』…」
「…ああ」
「…ごめんね、お母さん。私…あの時、お父さんのトラックに…」
「よせ、リナ」
ミヨは、暗闇の中で、娘の手を強く握り返した。
「…もう、いいんだ。生きててくれた。それだけで、お母さんは…」
言葉が、詰まった。
たわいもない会話。
失われた二年間を埋めるような、途切れ途切れの会話。
リナが、この世界で、何を食べ、何を学び、何を恐れていたか。
ミヨが、あの地獄で、誰を憎み、何を失い、どうやってここまで来たか。
やがて、会話が途切れた。
ミヨが、安堵と幸福感で、眠りに落ちそうになった、その時。
上のベッドで、リナが、小さく、呟いた。
「…ねえ、お母さん」
「…ん…?」
「…もし…もしもだよ…」
リナの声は、なぜか、わずかに震えているように聞こえた。
「…もし、私が、また…お母さんの前から、いなくなっちゃったら…」
ミヨの心臓が、冷たく跳ねた。
眠気が、一瞬で吹き飛ぶ。
「…リナ?何、馬鹿なこと言って…」
「ううん、ただの、『もしも』の話。…そしたら、お母さん、どうする?」
ミヨは、暗闇の中で、上のベッドを見上げた。
娘の、真剣な気配が伝わってくる。
ミヨは、あの荒野で、エラーラに叫んだ時と、同じ声で、答えた。
その声は、この世の何よりも強く、確かな響きを持っていた。
「…決まってるだろ」
「…」
「探しに行く。……この世界のどこに隠れようと。たとえ、地獄の底だろうと、あの『解放軍』のど真ん中だろうと、お母さんは、必ず、探しに行く」
ミヨは、娘の手を、もう一度、強く握った。
「…もう、二度と、失ってたまるもんか」
暗闇の中で、時間が止まった。
「……」
「…探しに、来てね……」
翌朝。
ミヨが目を覚ました時、握っていたはずの娘の手は、そこになかった。
リナのベッドは、空だった。
シーツは、まるで、誰も寝ていなかったかのように、冷え切っていた。
「リナ…?」
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
ミヨは、部屋を飛び出し、食堂へ、倉庫へと、娘の名を叫びながら走った。
だが、リナを知る民間人たちも、首を横に振るだけだった。
ミヨは、司令室へと、転がり込んだ。
「エラーラ!リナがいない!あの子を知らないか!?」
エラーラは、ミヨに背を向けたまま、壁の巨大なスクリーンを、無言で見つめていた。
管理室の床には、データテープや、紙の資料が、嵐のように散乱していた。
ヴァラスが、ミヨを見て、苦渋に満ちた声を出した。
「…やられました…」
エラーラが、ゆっくりと、ミヨの方へ振り向いた。
その顔は、ゴルゴタと対峙した時よりも、グラウンド・ワームに飲み込まれそうになった時よりも、遥かに冷たく、恐ろしい『怒り』に満ちていた。
「そう。機密情報が、盗まれた。」
「…機密、情報…?」
「ああ。このウエストランドの、全物資のインベントリ。我々の残存兵力。そして…」
エラーラは、壁のスクリーンを指さした。
そこには、砂漠の、ある一点を示す座標が、大きく表示されていた。
「…私が、昨日、ようやく特定した、『解放軍』の、キメラ培養プラントの、正確な『座標』データだ」
ミヨの頭が、真っ白になった。
「…誰が…!?」
エラーラは、ミヨの目を、射抜くように見つめた。
「…お前の娘だよ、ミヨ」
「…………は?」
「お前の娘…『リナ』は、スパイだった。」
ミヨの、全身の血が、逆流した。
「…なに…を…何を、ふざけたこと言ってんだ、あんたはッ!!」
ミヨは、エラーラに掴みかかろうとした。だが、ヴァラスに羽交い絞めにされる。
「離せッ!この野郎!こいつ、今、何て言った!?リナが、スパイだと!?」
「事実だ。」
エラーラは、床に落ちていた、一つの『工具』を拾い上げた。
それは、ミヨの工具箱に入っていた、タケシの形見の、小さな『ドライバー』だった。
「…昨夜。お前の娘は、この『旧時代の工具』を使って、私の司令室の物理ロックを解除し、データを持ち出した。そして…」
エラーラは、別の報告書を、ミヨの顔に叩きつけた。
「…お前の『一番星』のエンジンブロックに、致命的な『亀裂』を入れていった。タケシの工具で、タケシのトラックを、破壊していったぞ。お前の娘がな!」
「う…そだ…」
ミヨは、その場に、へたり込んだ。
「嘘だ…嘘だ嘘だ嘘だ!あの子が…!リナが…!あんなに、喜んで…!あたしを、お母さんって…!」
「フン。実に、見事な『演技』だった」
エラーラは、冷酷に、分析結果を告げた。
「…あの民間人たちの話も、再検証した。リナがここに『転生』してきたのは、二年前。だが、『解放軍』が、ここの民間人を『襲撃』したのは、三ヶ月前。…その時、なぜか、リナだけが『見逃され』、ここに残された」
「…」
「…古臭い『潜入戦術』だ。彼女は、本隊のための『手引き役』として、ここに『配置』されていた。…そこへ、我々という『予想外の獲物』が、転がり込んできた、というわけだ」
「…あ…」
ミヨの目から、光が消えた。
あの再会は。
あの涙は。
あの夕食の笑顔は。
あの、ベッドでの、たわいもない会話は。
全てが、嘘。
全てが、演技。
全てが、ミヨを、エラーラを、この最後の希望を、騙すための、罠。
「…なぜ…」
ミヨは、床に、か細い声をこぼした。
「…なぜ、リナが…あの子が…」
「知らんよ。」
エラーラは、ミヨの絶望を一蹴した。
エラーラは、ヴァラスに向き直った。
「ヴァラス。感傷に浸るな。予定通り、敵基地への攻撃準備にかかれ。」
「しかし司令!データは盗まれました!」
「だから加速するのだ!奴らが、盗んだデータに対応する前に、我々が叩く!」
ヴァラスが、絶望的な顔で、走り去っていく。
司令室に、ミヨとエラーラが、二人きりで残された。
ミヨは、まだ、床に座り込んだまま、動けなかった。
「…なあ、エラーラ…」
ミヨが、死人のような声で、尋ねた。
「…あんたの、その『頭脳』で…あの子が、どこへ行ったと思う…?」
エラーラは、壁の座標を、忌々しげに睨みつけていた。
「…データを本隊に届ける。最短ルートで。ならば……」
エラーラは、座標の下に記された、地名を指さした。
「…旧中継都市。『バベルズ・ダスト』だ」
ミヨは、ゆっくりと、立ち上がった。
その顔には、もう、涙も、絶望も、浮かんでいなかった。
「…エラーラ」
「…なんだ」
「…あんたは…どこへ、攻撃を仕掛けるんだい…?」
エラーラは、ミヨの意図を察し、わずかに目を細めた。
彼女は、指さした。
「…キメラ培養プラント。我々の、最後の攻撃目標。…『バベルズ・ダスト』だ。」
静寂。
二人の女の視線が、交錯する。
一人は、世界を、『救う』ため。
一人は、娘を、『救う』ため。
目的地は、同じ。
ミヨは、格納庫へと、ふらつく足取りで、しかし、確実な一歩で、歩き出した。
そして、エラーラに、背を向けたまま、言った。
「…あたしも、行く。」




