第39話:Mad World
主題歌:ドニー・ダーコ/Mad World
https://youtu.be/hwPlqKxG9FI
私の名はエラーラ。私の全ての行動原理は、ただ一つ。「知的好気心」……だった。
私は、いつものカフェの片隅で、ただ、白く濁った窓の外を眺めていた。研究日誌は開かれず、思考は空転を繰り返すだけ。
「エラーラ様、新しい珈琲です」
穏やかな声と共に、カップが置かれる。カフェのマスターだ。傍らには、彼の姪だという、盲目の少女が、静かに控えている。彼女はいつも、音もなく現れ、音もなく去っていく。
「…ああ」
私は、生返事を返す。珈琲の香りも、湯気の揺らぎも、今の私には何のデータももたらさない。
その時、カフェに置かれた魔導ラジオから、けたたましい緊急放送のチャイムが鳴り響いた。
『臨時ニュースをお伝えします。最新鋭魔導飛行船「イカロス号」が、昨夜未明、通信を途絶。先ほど、デュオ山中に墜落しているのが発見されました。乗客乗員108名の全員の死亡が確認され…』
私の思考が、凍りついた。
嘘だ。あの、最新鋭の魔導通信が途絶える? ありえない。私の理論では、確率ゼロだ。単なる事故ではない。何らかの高度な魔術的干渉があったはずだ。
『続いて、乗客名簿を読み上げます…エリザ・フォン・ローゼンバーグ…』
エリザ?私の、数少ない「友人」と呼べるかもしれなかった、あの聡明で理想主義的な研究者が…死んだ?
否。死んだのではない。殺されたのだ。
「…面白い」
私の口から、乾いた声が漏れた。
「実に、面白いじゃないか…!」
心の奥底で凍り付いていた何かが、砕ける音がした。喪失感ではない。新たな「謎」に対する、狂おしいまでの渇望。私は、席を蹴るように立ち上がった。
「マスター、勘定だ。最高の実験が、始まったんでねぇ」
警察からの依頼など待たなかった。私は、独自の調査を開始した。墜落現場に赴き、残骸に残る微弱な魔力痕跡をスキャンする。だが、外部からの攻撃を示すデータは、皆無だった。内部からの…それも、極めて複雑で、複数の要因が絡み合った、自己破壊の痕跡。まるで、船そのものが、自ら死を選んだかのように…。
その調査の最中、リューネブルクの街が、悪夢に染まり始めた。
最初の犠牲者は、高名な音楽家だった。彼は、自らが完成させたばかりの交響曲の楽譜全てを暖炉で燃やし尽くした後、愛用の魔導チェロを抱きしめ、自宅マンションの最上階から、オーケストラの指揮をするかのように優雅に飛び降りた。地上に叩きつけられた彼の身体は、赤い絵の具をぶちまけたように砕け散り、肉片と骨片が、雪の上に、おぞましい模様を描いた。現場には「完成した」という謎のメモ。目撃者によれば、彼の表情は、恍惚としていたという。
次の犠牲者は、街でも有名な愛妻家の富豪だった。彼は、妻の目の前で、晩餐のテーブルにつき、穏やかに微笑みながら、自らの心臓を、家宝である儀式用の短剣で、ゆっくりと、しかし確実に突き刺した。噴き出す血潮が、純白のテーブルクロスを深紅に染めていく。「これで永遠に君だけを愛せる」と、満面の笑みで言い残し、絶命。妻は、その光景を目の当たりにし、狂ったように笑い続けた後、完全に精神が崩壊した。
三人目は、希望に満ちていた若い魔導研究者だった。彼は、自らの研究室で、開発中の試薬を、致死量を遥かに超える量を服用し、その身体を内側からどろどろに溶解させて死んでいた。実験室の壁には、彼自身の、溶け落ちた指で書かれたであろう、歪んだ文字があった。「ありがとう、我が師」。
現場には、いずれも争った形跡も、外部からの侵入の痕跡もない。だが、どの現場にも、共通する、奇妙に穏やかで、しかし、背筋が凍るほど強い「諦観」のような残留思念が観測された。
(魔術ではない…?では、なんだ…?)
私は、戦慄と共に、一つの仮説にたどり着く。これらの死は、殺人ではない。魔術的な強制でもない。被害者たちは皆、自らの意志で、喜んで『自死』を選んでいたのだ。
私は、飛行船墜落事故のデータを、もう一度、徹底的に再検証した。そして、絶望的な真実を発見する。乗客108名全員の残留思念データ。その全てが、墜落の瞬間、驚くべきことに、「恐怖」ではなく、「安堵」や「解放」といった、極めてポジティブな感情を示していた。
108人、全員が、死を願っていた…?
エリザ…君も、そうだったのか…?
なぜ?なぜ、彼らは死を願った?
私は、被害者たちの周辺を調査し、彼らが死の直前に、ある種の「救済思想」に触れていたことを突き止める。「現世の苦しみから解放され、完璧な安寧を得るためには、自ら死を選ぶことが最上の選択である」。その歪んだ思想が、まるで伝染病のように、絶望した人々の心に広がっていた。
その思想の伝播源として、私は、街でカリスマ的な人気を集める、謎の預言者の男に行き着いた。彼のアジトに踏み込む。しかし、男は、私の目の前で、不気味な笑みを浮かべた。
「犯人?フフフ…そんなものは、最初からいない。皆、自分で選んだだけだ。私も…」
男は、そう言うと、自らの首筋に隠し持っていた毒針を突き立て、即死した。現場には、更なる謎だけが残された。
私の思考は、袋小路に迷い込んでいた。焦燥感と、無力感。それが、私の完璧な論理回路を、少しずつ蝕んでいく。
私は、街を彷徨った。そして、目の当たりにする。さらなる、絶望の連鎖を。
広場で、一人の獣人の青年が、人々に石を投げつけられていた。「穢れた血め!」「街から出ていけ!」と。彼は、何も言い返さず、ただ耐えていたが、やがて、その瞳から光が消えた。そして、彼は、自らの内に秘めた魔力を暴走させ、自爆した。肉片と血飛沫が、彼を罵っていた人々の顔を汚す。
工場地区では、魔法を使えない労働者たちが、不当な解雇に抗議していた。しかし、彼らの声は、魔導ゴーレムを操る工場主によって、力でねじ伏せられる。「魔法も使えない無能どもめ!」。絶望した労働者の一人が、狂ったように笑いながら、稼働中の巨大なプレス機の下へと身を投げた。ゴシャリ、という鈍い音。彼は、文字通り、微塵切りになった。
古い職人街では、時代の変化に取り残された老いた刀鍛冶が、客の来ない工房で、一人、酒を煽っていた。「もう、わしの技など、誰も必要としとらん…」。彼は、ふらりと立ち上がると、赤々と燃え盛る炉の中へと、自ら歩みを進めた。肉の焼ける音と、異臭。彼は、溶解し、鉄と一つになった。
獣人と人間の差別。魔法使いと非魔法使いの確執。古い慣習と新しい価値観の対立。この社会が抱える、根深い「歪み」。それらが、人々の心を蝕み、絶望へと叩き落としていたのだ。そして、その絶望に、「死による救済」という甘い囁きが、とどめを刺していた。
私の胃の腑が、焼けるように痛む。吐き気がする。これが、私が解き明かそうとしていた「真実」の、醜悪な姿なのか。
そして。
私は、恐るべき集団自死計画を、偶然にも察知した。ありとあらゆる手を尽くし、関係各所に通報したが、誰も本気にしなかった。
「200人が同時に列車に下敷きに?馬鹿げた妄想だ」
相手に、されなかった。だから、私は、たった一人で、この終着駅の一つ手前の、見通しの悪いカーブ駅に来た。
「ジジジ……」
魔導鉄道が発する、独特の低周波が空気を震わせる。まだ姿は見えない。だが、刻一刻と、それは近づいていた。
「やめて! お願い、戻ってきて! まだ間に合う!」
私の声は、とっくに枯れていた。冷たい石造りのホームに膝をつき、必死に線路へ手を伸ばす。私の視線の先、薄暗い軌道上には、およそ200の人影が、まるで等間隔に立てられた杭のように静かに佇んでいた。
彼らは動かない。私の言葉に耳を貸す者は、一人もいない。その瞳は一様に虚ろで、まるで集団催眠にかかったかのように、ただ一点、鉄道がやってくる暗闇の先を見つめている。
「死なないで! 生きていれば、きっと……!」
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。説得の言葉は、もはや意味をなさない。ただの絶叫だ。それでも叫び続けた。一人でもいい、こちらを振り向いてくれ、と。
「ブオォォォン……」
地響きが強まる。カーブの向こうから、魔導機関の青白い光が漏れた。
魔導鉄道。それは、この国が誇る最新鋭の交通機関。車輪を持たず、強力な魔導エネルギーで浮上し、軌道上を滑るように疾走する。その最大の「安全機構」は、軌道上のいかなる障害物をも自動で検知し、車体下部から照射される高出力の分解波動で「粉微塵」にして、運行の遅れを防ぐことだった。
事故防止のため。その非人道的なまでの効率性が、今、最悪の形で牙を剥こうとしていた。
「ああ……あ……っ!」
時間だ。計画されていた、定刻。
青白い光の塊が、轟音とともにカーブを抜け、直線軌道に現れた。
先頭にいた数人が、光に照らされて影になる。
私は、最後の力を振り絞って叫んだ。
「逃げ——」
——ゴギュルルルルルルルッ!
私の悲鳴は、凄まじい音にかき消された。
それは、肉を挽く音ではなかった。骨を砕く音でもない。
もっと硬質で、もっと無機質で、それでいて、おぞましいほど「湿った」音。
200の人体が、一瞬にしてその存在を否定される音。
高出力の分解波動が、骨も、肉も、衣服も、何もかもを区別なく「無」へと還元していく、工業的な破砕音。
耳を、鼻を、目を、地獄が蹂躙した。
青白い光が通り過ぎる。鉄とオゾンが焦げた匂いに混じり、信じられないほど濃密な「血の霧」がプラットフォームに噴き上がった。熱い飛沫が私の頬にかかる。
「—————ッ!」
声にならない呼気が喉から漏れた。
魔導鉄道は、一切減速することなく、ホームを通過し、次の駅へと続く暗闇に消えていった。
そして、静寂が訪れた。
目を開けると、線路には、何もなかった。
あれほどいた人々が、影も形も、肉片一つ残さず消え失せていた。
ただ、軌道を敷き詰めている砂利石が、べっとりと、不自然なまでに赤黒く濡れている。空気中には、先ほどまで「200人」だったものが微細な粒子となって漂い、駅の照明に照らされて、不気味にきらきらと舞っていた。
「おえ……っ、ぐ……うぅ……」
耐えきれず、私はその場に胃液を吐いた。
止められなかった。
一人も。
自分の無力さが、骨の髄まで突き刺さる。
「……ひどい……なんて、こと……」
その時だった。
背後から、複数の足音と、怒声が聞こえた。
「おい! 何だ今の音は!」
「なんだ……この匂いは……血か!?」
通報が遅れて届いたのか、ようやく駅の警備隊員たちが駆けつけてきた。
彼らが見たのは、想像を絶する光景だった。
血の霧が立ち込めるホーム。赤黒く染まった線路。
そして——その中央で嘔吐し、血の飛沫を浴び、呆然と立ち尽くす、私。
「き、貴様……!」
警備隊員の一人が、震える指で私を指差した。
「お前が……お前がやったのか!?」
「ちが……ちがう、私は、止めようと……」
「何を! これだけの人間を! どうやって!」
「魔法だ! あいつの魔法だ!」
私の弁明は、狂気的な現場の状況と、彼らの混乱によって、最悪の形で捻じ曲げられた。
「連続自死」などという常軌を逸した真実を、彼らは理解できない。
理解できる「犯人」を、彼らは求めた。
私は、泣きながら首を横に振るしかできなかった。
助けようとした。
救えなかった。
そして今、私は、この200人を惨殺した「犯人」として疑われている。
絶望が、冷たい鉄の手となって、エラーラの心臓を、ついに、握り潰した。
だが。
それでも、捜査はやめなかった。
そして。
全ての線が、一つの場所に繋がっていることに、私は、ようやく気づいた。
それは、私が最初にいた、あのカフェだった。被害者たちは皆、死の直前に、あのカフェのマスターに「相談」をしていたのだ。
私は、カフェへと戻った。マスターは、いつものように、穏やかな笑みで私を迎えた。
「君が…あの思想を広めたのかね…」
「そうです。」
マスターは、あっさりと認めた。
「彼らは皆、苦しんでいました。私は、ただ、彼らが安らかになれる道を示しただけです。可気想な彼らを救うためです。」
彼の瞳には、一片の罪悪感もなかった。ただ、歪んだ、絶対的な「善意」だけが宿っていた。
私は、虚しさに襲われながら、反論した。
「救済だと…それはただの現実逃避だ…苦しみの中から…新しい解を見つけ出すことこそが…生きるということだろうが…」
私がマスターに詰め寄った、その瞬間。
背後から、鋭い痛みが、私の脇腹を貫いた。熱い液体が、白衣を濡らしていく。
「…っ!?」
私は、信じられない思いで、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、カフェの給仕の、盲目の少女だった。彼女の手には、血に濡れたデザートナイフが握られていた。そして、その瞳は…もはや、何も映していなかったはずのその瞳は、冷たい、底なしの憎悪の光を宿し、私を射抜いていた。彼女の目は、見えていたのだ。
「リリィ…?」
マスターが、愕然として呟く。彼もまた、利用されていたに過ぎなかった。この少女こそが、この一連の事件の、真の黒幕。
私は、崩れ落ちながら、最後の力を振り絞って尋ねた。
「…なぜ…私を…?」
論理的な理由があるはずだ。私の過去のどの実験が、どのデータが、彼女の恨みを買った…?
彼女は、血に濡れたナイフを弄びながら、歪んだ、子供のような笑みを浮かべて、その理由を告げた。
「だって、あなたは…」
「珈琲を飲む時、いつもスプーンで混ぜもしないで、すぐに飲むじゃない。」
「……は?」
「私は、常識を知らない人は嫌いなの。珈琲は、スプーンで右回りに2回、その後に左回りに1回混ぜるのが常識。混ぜない場合は、右手で持つ。なのに、あなたは左手で珈琲を持った。許せないじゃない。」
それが、彼女の動機だった。エラーラという天才科学者に対する、あまりにも些細で、あまりにも狂気的な、意味不明な、逆恨み。
「万が一、生き延びても、あなたはおしまいよ。」
彼女は、私の手に、私の魔導石を握らせて、魔法を唱えて、自らの頭部をどこかに瞬間移動させて、即死した。
全ては、私を追い詰めるためだけに、周到に用意された、完璧なショーだった。
私の意識は、急速に闇へと沈んでいく。
完璧な科学者の、あまりにも非論理的で、皮肉な最期。私の「知的好奇心」は、ついに、自らが引き起こした因果の果てを、観測することになったのだ。
ああ、実に…実に、くだらない。そして、実に…
…面白いじゃないか…
それが、私が最後に観測した、データだった。




