第4話:主人公の消滅(3)
カレル警部の最期は、実に見事な「作品」だった。
彼の顔に浮かんだ、裏切りと、絶望と、そして、彼自身の「正義」が崩壊する瞬間の、あの、虚無の色。
あれこそが、僕が追い求めていた、芸術の頂点だった。
僕は、彼の亡骸を、燃え盛る王都の炎の中に、そっと蹴り落とした。
「ありがとう、カレルさん。君は、僕の、最高の『被検体』だったよ」
王都は、滅びた。
僕が仕掛けた「恐怖の共鳴」は、エラーラの「力の断片」と、魔導炉の力によって、暴走した。人々は、互いを殺し尽くし、生き残った者も、恐怖の幻影に怯えながら、狂い、そして死んでいった。
僕は、その「完成された芸術」の中を、悠然と歩いていた。
静かだ。
美しい。
争いも、非合理的な感情も、全てが、浄化された。
だが。
『……まだだ』
僕は、物足りなさを感じていた。
王都は、キャンバスとしては、小さすぎた。
僕のこの「芸術」は、この世界全てに共有されるべきだ。
僕は王都の地下深く、魔導炉の中枢へと降り立った。
手には、エラーラの研究ノートの最終ページと、あの虹色に輝く『力の断片』が握られている。
「エラーラ先生。君の『論理』、僕の『芸術』のために使わせてもらうよ」
僕は、魔導炉の中枢に、エラーラの『力の断片』を再び設置した。
だが、今度の増幅率は王都規模ではない。
世界規模だ。
僕は、彼女の理論に基づき、術式を再構築した。
「恐怖」ではない。
それでは芸がない。
僕の最後の「作品」は、もっと美しく、穏やかでなければならない。
僕が、世界に「共鳴」させる感情。
それは、「絶対的な幸福感」だ。
全人類、全生命体に、一度に致死量の「幸福」を投与する。
「魂の共鳴」
魔導炉が臨界を超えて起動し、光が天を覆い尽くした。
僕は、魔導炉を起動した。
エラーラの純粋すぎた「力」を、全世界に解き放った。
それは、光となって天を覆った。
極北の雪国。
吹雪の中で、老婆が病の夫の手を握っていた。
その瞬間、光が二人を包んだ。
「……ああ」
夫の咳が止まった。
老婆の皺だらけの手が、温もりを取り戻す。
「おじいさん……痛くない。寒くないわ……!」
「ああ……。これが、幸福か……」
二人は、人生で最高の幸福感に包まれた。その幸福の絶頂で、二人の身体は、穏やかに微笑んだまま、美しい「氷の結晶」となって砕け散った。
灼熱の砂漠。
獣人たちが、水場で争っていた。
光が彼らを包む。
憎しみも、渇きも、差別も。
全てが消えた。
「……兄弟……!」
彼らは、互いに涙を流して抱き合った。
その、絶対的な「愛」の感情の中で、彼らの身体は燃え盛る「七色の炎」と化し、歓喜の叫びと共に灰になった。
紺碧の海。
漁村の母娘が、嵐に怯えていた。
光が二人を包む。
恐怖が消えた。
「お母ちゃん!海が、歌ってる!」
「ああ、なんて、安心する……」
二人は、波の音を子守唄のように聞きながら、その身体がゆっくりと「泡」になって海に溶けていくのを、至福の表情で受け入れた。
都市。国家。大陸。
人間も。獣人も。
動物も。魚も。鳥も。虫も。木々も、草花も。
この星の全ての「生命」が、エラーラの増幅された「幸福」に触れた。
彼らは、人生で最高の幸福の絶頂で。
苦痛も悲しみも、一切感じることなく。
ただ、穏やかに微笑みながら。
その存在を消滅させた。
僕は、魔導炉の中枢で、その「結果」を観測していた。
『……美しい』
『これこそが、僕の最高傑作』
『この世界は、ついに完成した』
『大いなる沈黙』
世界から、生命の「ノイズ」が消えた。
風の音だけが、響いている。
やがて、その「幸福の光」の波が、観測者である僕自身にも到達した。
「……ああ」
僕の身体もまた、足元から光の粒子となって崩壊していく。
痛みはない。ただ、圧倒的な芸術を完成させたという達成感と、至上の幸福が僕を優しく包み込む。
芸術の完成は、芸術家自身に最高の死を与えるのだ。
僕は人生で最高の笑みを浮かべながら、意識を手放した。
人類は絶滅し、世界は完全なる沈黙と、美しき無へと収束した。
……。
………。
…………。
意識というものが、これほどまでに希薄で、かつ無限に広がるものだとは、生前の私は計算すらしていなかった。
肉体という重く不便な殻を脱ぎ捨てた私の魂は、光の粒子となって世界中に拡散し、そして……この「無」の空間へと漂着した。
ここは、音もない。
色もない。
温度さえない。
ただ、絶対的な静寂と、完全なる秩序だけが存在する、方程式の最終解のような空間だった。
「……フム」
声帯を持たない私の意識が、習慣的にその音を紡ぐ。
私は、この無限の真空の中で、ただ、漂っていた。
争いも、苦しみも、非合理的な感情も、全てが消えた。
完全なる、静寂。
完全なる、秩序。
これこそが、かつての私が求めていた「完璧な世界」そのもの……ではないのかね?
……。
………。
だが。
なぜだ。
なぜ、この完璧な「解」を観測している私が、こんなにも、非合理的に痛むのだ?
私は、思い出す。
私が、増幅され、拡散される、その瞬間に。
私の、最後の「感情」を。
「……おかしい」
私は、自分の意識の奥底に、ある種の「エラー」が発生していることに気づいた。
全てが論理的に解決され、全ての苦痛が消え去ったこの完璧な世界において、ただ一つ、私の意識の中にだけ、説明のつかない「揺らぎ」が生じているのだ。
それは、悲しみではない。
それは、怒りでもない。
ただ、圧倒的な「喪失感」と、耐え難い「飢餓感」だった。
「私は……何を求めているのだ?」
私は、自己の意識を深く、深く、掘り下げていく。
私は最強の魔導師だった。この世の真理を探求し、全てを数式で理解できると信じていた。
だが、その私が、単純で物理的な奇襲によって、いとも容易く殺された。それは、私が他者に対して「信頼」という非論理的な感情を抱き、警戒という論理を放棄したからだ。
信頼。
情愛。
絆。
私が最も軽視し、私の計算式には決して組み込まれることのなかった、不確定要素の極み。
「……フム。そうか」
私は、一つの仮説に到達した。
命とは、ただ呼吸をし、細胞を分裂させ、エネルギーを消費するだけの物理現象ではない。
命とは、誕生から死に至るまでの、単なる時間の経過ではない。
命とは、「他者との摩擦」そのものなのではないか。
それらの「ノイズ」こそが、私が生きているという「実感」を構成する、不可欠な要素だったのだ。
苦痛がなければ、幸福は定義できない。
闇がなければ、光は存在し得ない。
私は今、この絶対的な虚無の中で、あのやかましく、泥臭く、非論理的で、しかしどうしようもなく愛おしかった「ノイズ」を、狂おしいほどに渇望していた。
「……私は、間違っていた」
生命とは、非合理だ。
生きる意味とは、そのバグを観測し、解析し、そして……何よりも、愛することだ。
ならば。
私のやることは、一つだ。
この、完璧に「論理的」になってしまった静寂の世界を。
もう一度、あの、どうしようもなく愚かで醜く、そして、美しい「非論理的」なノイズに満ちた世界へと、戻す。
私は、今や、この星の「全て」となった私自身の「魂」を、収束させた。
それは、途方もない、非合理的な決断だった。
それは、再び「苦痛」と「悲哀」と「死」を、この世界に解き放つことと同義だった。
だが。
それこそが、「生命」だ。
「……フム」
私は、私の「意識」を、一つの「個」へと再構築し始めた。
それは、かつての「エラーラ・ヴェリタス」とは、似て非なるもの。
この星の全ての「死」と、全ての「幸福」を、その魂に刻み込んだ、新しい生命。
光が、集まる。
静寂の王都の、瓦礫の真ん中で。
光が、形を成していく。
褐色の肌。
銀色の短髪。
そして、真っ白な白衣。
私は、ゆっくりと目を開けた。
空には、巨大な緑の月と、小さな紫の月が、変わらずに浮かんでいた。
風が、私の新しい頬を、撫でた。
私は、自分の新しい手を、見つめた。
そして、ハスキーな声で、笑った。
「さて、と」
私は、大げさな身振りで、両腕を天に突き上げた。
「……世界の再構築、開始!」
命とは何か。
人生とは何か。
その答えは、まだ、完全には証明されていない。
だが、この温かいノイズに満ちた世界で、その答えを探し続けること。
それこそが、最強の魔導師エラーラ・ヴェリタスの、最後にして最大の研究テーマなのだ。
窓の外では、夕暮れの王都が、人々の営みという美しいノイズを響かせながら、明日へと続いていく。
私は、心の底から、笑った。
「さて……まずは一杯の美味いコーヒーを淹れよう!……実に非合理だがね!」
こうして、私の新しい日常が、幕を開けたのである。




