第30話:意義のない成功!
私の名はエラーラ。私の全ての行動原理は、ただ一つ。「知的好奇心」。
今回、私が調査で訪れた辺境の地には、実に興味深い噂が流れていた。「食べたらどんな願いも一つだけ必ず叶う」という、伝説の木の実。
しかし、奇妙なことに、その実を食べたはずの者たちは、誰一人として幸せそうに見えず、むしろ、どこか魂が抜け落ちたかのような、虚無感を漂わせているという。
「フム…」
宿屋の一室で、収集した初期データを整理しながら、私は思わず笑みをこぼした。
「観測可能な結果がゼロに収束している、と?なんという、美しい矛盾だ!最高の研究対象じゃないか!」
私は早速、その実を食べたという人物たちを訪ね、観測を開始した。
最初のサンプルは、かつて名声を渇望していたという音楽家。今では王宮お抱えとなり、豪奢な屋敷で何不自由ない暮らしをしている。
彼は、最高級のチェンバロを前に、退屈そうにため息をついた。
「作曲ですか?どうも、最近は何も思い浮かばなくてね。何の情熱も湧かないのです」
彼には、薄暗い屋根裏部屋で、凍える指を擦り合わせながら、必死に楽譜を書き殴った記憶がないようだった。
次のサンプルは、かつて不治の病に苦しみ、ただ歩ける日を夢見ていたという少女。今は誰よりも健康な身体で、元気に庭を走り回っている。
「楽しいことなんて、何もないわ。走るのも、もう飽きた」
彼女は、つまらなそうにそう言うと、足元の小石を蹴飛ばした。
彼女にも、病床で窓の外を眺め、涙ながらに「生きたい」と願った記憶がないようだった。
観測結果から、私は一つの仮説を立てた。
「あの木の実は、願いを叶える。だが、その代償として、その願いの『原動力』となった渇望、苦悩、情熱といった、最も人間的な記憶を、魂から完全に消去するのだ」
願いが叶った時には、すでに「なぜそれを願ったのか」を忘れている。だから、誰一人として、願いが叶ったという実感がない。なんと、皮肉で、美しいシステムだろうか。
「この仮説を証明するには、私自身が被検体となるのが、最も効率的だ」
私は、古文書の解読と地脈の観測から、その伝説の木『忘却の樹』の場所を特定した。誰も足を踏み入れない、険しい山脈の奥深く。
数々の困難の末、私は、霧深い谷の底に静かに佇む、巨大な『忘却の樹』を発見した。月光を浴びて銀色に輝く葉。その枝には、内側から淡い光を放つ、美しい果実が一つだけ実っていた。
私は、その実を食べる前に、最後の準備を行う。自らの研究日誌の新しいページに、揺るぎない筆跡で、これから行う実験の目的と、自らの仮説を、詳細に書き記した。
『仮説。当該果実は、願望を成就させると同時に、その願望の根源たる記憶を消去する。これを証明するため、被検体エラーラは、『この果実の法則性を、完全に理解する』という願いを立てる。食後、もし私がこの願いと仮説の記憶を失い、『この果実は何の効果もない、つまらないサンプルだ』と結論付けていた場合、本実験は、完璧な成功と見なす』
私は、その実を手に取り、自らの、ただ一つの渇望…すなわち「知的好奇心」を、願いとして込めた。
「私の願いは、この『忘却の実』の、全ての法則性を、完全に理解することだ!」
実を口にした瞬間、凄まじい光と、宇宙の真理にも等しい情報が、奔流となって私の脳に流れ込む。因果律の歯車、魂の構造、願望の魔術的変換プロセス。願いは、叶えられた。私は、その一瞬、神の視点から、この果実の、全てのメカニズムを、完璧に理解した。
…そして、次の瞬間。その完璧な理解は、達成感も余韻も残さず、私の記憶から、綺麗さっぱり消え失せた。
「…フム?」
気づくと、私はなぜか谷底に立っていた。手には、食べかけの、奇妙に光る果実。
「ここまで来たというのに、この実は、何の効果もないただの植物のようだねぇ。実に、時間の無駄だった」
私は、心底つまらなそうにそう呟くと、踵を返して、その場を去ろうとした。
その時、私の足元に、見慣れた研究日誌が落ちていることに気づく。私は、それを拾い上げ、何気なく最後のページを開いた。
そこに書かれていたのは、揺るぎない、見間違いようのない、私自身の筆跡。
記されていたのは、私の「最終仮説」と「実験計画」の全てだった。
私は、凍りついた。
ページと、手の中の食べかけの実を、何度も見比べる。そして、自らの頭の中に、ぽっかりと空いた、巨大な情報の欠落に、気づいた。
私は、この実験のことを、何も、覚えていない。
しばしの沈黙。
やがて、私の口元が、ゆっくりと歪んでいく。
「フフフ…ハハハハハ!私の仮説は、正しかった!この私自身の『忘却』こそが、何より雄弁な『証明』だ!なんと、なんと美しい実験結果だ!」
願いによって得られたはずの「完璧な知識」は失われた。しかし、私は、自らの仮説が正しかったという、科学者として最高の「勝利」を手に入れたのだ。
私にとって、これ以上の幸福は、存在しなかった。




