第19話:知性の怪物!
私の名はエラーラ。私の興味を引くのは、常に、常識では説明のつかない「現象」だけだ。
学術都市として名高い王都ソフィアが、今、未曾有の危機に瀕していた。知の殿堂である王立大図書館の中枢に、正体不明の怪異「問い喰らいのワーム」が出現したのだ。
私が調査のために訪れた王都は、まるで葬式のような沈黙に包まれていた。学者たちが集う酒場では、普段なら白熱するはずの議論も聞こえず、誰もが怯えたように、グラスを見つめている。
「また一人やられたらしい…錬金術学の権威、マグナス教授が…」
「もうダメだ…我々の『知』そのものが、あの怪物に弄ばれている…!考えれば考えるほど、魂を吸い尽くされてしまうとは…!」
「知性への、冒涜だ…」
「フム…」
私は、酒場の隅で、その興味深いデータを収集しながら、思わず笑みをこぼした。
「思考という行為そのものをエネルギーとして吸収する、情報捕食型の怪異、か。素晴らしい!これほど美しいシステムは見たことがない!」
すぐに、私に王宮から召集がかかった。図書館の学長が、憔悴しきった顔で私を迎える。
「エラーラ殿、どうかお力をお貸しくだされ…!最強の騎士団長は、『奴は斬るべき実体を持たない』と言い、剣が空を切った。宮廷一の大魔導師は、『私の魔術が、ただ喰われるだけだ』と匙を投げた。そして、我々学者は…考えれば考えるほど、魂を吸い尽くされてしまうのです…!」
学長は、懇願するように、私の手を取った。
「戦うことも、知ることもできない。我々は、もう、打つ手がないのです!」
だが、私は、すぐには図書館に向かわなかった。
「フフフ、面白いじゃないか。これだけ見事な『失敗のデータ』が揃っているんだ。まずは、これをじっくりと観測させてもらうとしよう」
私は、ワームに挑んで精神を破壊された学者たちが収容されている、静養室へと向かった。彼らは、かつてこの国最高の知性と呼ばれた者たち。今はもう、幼児のように、ただ虚空を見て、意味のない言葉を呟くだけだった。
次に、私は、過去の挑戦の記録が収められた観測水晶を、何日もかけて分析した。
「素晴らしい…!」
私の研究室に、歓喜の声が響く。
「この魔術式、なんと独創的な!この哲学理論、実にエレガントだ!彼らは皆、己の知性の全てを懸けて、この美しい『問い』を怪物に投げかけたのだ。そして、その知性の輝きこそが、最高の『餌』となった。フフフ…なんと皮肉で、なんと美しい法則なんだろう!」
彼らは皆、ワームを「敵」として認識し、「打倒すべき問題」として定義していた。そして、その前提の上で、あまりに誠実に、自らの知性で「思考の先にある答え」を出そうとしていた。
「待てよ…?」
そうだ。戦うから、喰われる。解こうとするから、喰われる。ならば、答えは、実にシンプルじゃないか。
「思考せず、ただ、それ以前の『前提』を提示する」
私は、ついに、その完璧な解法にたどり着いた。
私は、一人、大図書館の最深部、ワームが巣食う大閲覧室へと入っていく。
私の精神を感知したワームが、その姿を現した。それは、きらびやかで、混沌とした、無数の数式と哲学の集合体。部屋中の本が、凄まじい勢いで宙を舞い、そのページが、意味不明な文字列となって、ワームの巨体を構成していく。
『汝、何者か?』
『真理とは?』
『意味とは?』
『解き明かせ!我を満足させてみせよ!』
宇宙の根源を問う、究極の「問い」が、奔流となって、私の脳に叩きつけられる。学長たちが、遠隔の観測水晶を通して、固唾を飲んで見守っているのがわかった。
だが、私は、その問いに、一切答えなかった。
私は、ワームを完全に無視すると、その場に静かに立ち、ゆっくりと目を閉じた。私の脳内で、常に嵐のように吹き荒れていた、知的好奇心と分析の思考が、完全に、静止した。
思考を、やめた。分析を、やめた。探求を、やめた。
そして、その絶対的な精神の静寂の中から、ただ一つの、純粋で、揺るぎない概念を、ワームに向かって、精神感応で提示した。
それは、数式でも、言葉でもない。思考以前の、全ての論理の、絶対的な原点。
【 我、在り(われ、あり) 】
その概念が提示された瞬間、あれほど荒れ狂っていたワームの動きが、ぴたりと止まった。
ワームは、「問い」であり、それを解こうとする「思考のプロセス」を糧とする存在。
だが、私が提示した「我、在り」は、「問い」ではない。思考するための大前提だ。「なぜ、私は存在するのか?」という問いにすら、先立つもの。「私が存在する」という、証明を必要としない、絶対的な「事実」そのものだった。
「問い」を糧とする怪異が、究明のしようがない、絶対的な「答え」を突きつけられたのだ。それは、炎を糧とする生き物が、完全な真空に放り込まれたのに等しい。喰らうべき「思考のプロセス」が、そこに存在しない。
ワームの存在意義が、その根幹から、完全に無に帰した。
混沌とした光の集合体は、その輪郭を維持できなくなり、まるで陽炎のように揺らめくと、悲鳴一つ上げることなく、静かに、霧散した。
あっけないほどの、一瞬の勝利。
呆然とする学長たちが駆け寄ってくる。
「エラーラ殿!一体、どうやって…?」
学長の問いに、私は、静かに首を振った。
「フフフ、私は、何にも答えてなどいないよ。ただ、彼に、問いを立てるためには、まず、問う者が『存在する』という、あまりに単純な前提があることを、教えてやっただけだ。彼は、自分の足元を、見ようとしていなかったのさ」
私は、研究日誌を取り出すと、最後の結論を書き込んだ。
「結論。複雑な『問い』そのものをエネルギー源とする概念怪異は、それ以前の前提となる、証明不要の『存在』という公理を提示することで、その存在意義を消滅させ、無力化できる」
私は、感謝の言葉を繰り返す学長に、心底うんざりした顔で言った。
「フム…しかし、これで、この街で最も面白い観測対象が、消えてしまったじゃないか。実に、退屈なことだ」
私は、歓喜に沸く学者たちには一瞥もくれず、次の知的好奇心を満たす「問い」を求めて、静かに街を去っていくのだった。
学びの素晴らしさとは、難解な問いに答えることだけではない。時に、全ての前提を疑い、最も単純な真理に立ち返ることこそが、知性の最も美しい勝利の形なのだと、彼らは、この日、学んだことだろう。まあ、私には、もう関係のないことだがね。




