第17話:逆さまの二択!
私の名はエラーラ。私の興味を引くのは、常に、常識では説明のつかない「現象」だけだ。
王都の安宿で、次の研究テーマを探していた私は、実に興味深い地方報告書を発見した。「山間の町にて、原因不明の精神疾患が発症。患者は、肯定と否定、好悪の感情などが、全て逆転した言語を話すようになる。現在、最初の感染者一名を、町の診療所に隔離中」
「フム…」
私は、思わず笑みを漏らした。
「被検体の言語野において、意味論的構造が完全に反転している、と?論理の根幹を揺るがすバグじゃないか!これは観測しなければ!」
私は、早速その町へと馬車を走らせた。
町の診療所は、重苦しい沈黙に包まれていた。案内された一室の、鉄格子の嵌った窓の向こうに、その男はいた。レオと名乗った彼は、虚ろな目で、ただ床の一点を見つめている。
「私が、王立学院から派遣されたエラーラだ。君の状態を観測させてもらう。気分は良いかね?」
私の問いに、レオは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い絶望の色が浮かんでいる。
「…はい。最悪です。」
「実に興味深い反応だ。では、ここから出たいかね?」
「いいえ。そう願っています。」
医者や町の人間は、彼をただの狂人だと思っているだろう。だが、私にはわかった。彼は、嘘をついているのではない。彼の脳内で、言葉の意味と論理が、ある完璧な法則性に基づいて「さかさま」に変換されているのだ。これは、狂気ではない。未知の「論理体系」だ。
最高の実験サンプルじゃないか。
私は、それから数日間、診療所に通い詰め、レオとの対話を続けた。
「君の故郷は、美しい場所だったのだろうねぇ」
「はい。ひどい場所でした」
「君は、家族を嫌っていたのかね?」
「いいえ。愛していました」
彼の言葉は、まるで合わせ鏡の迷宮のようだった。だが、私は、その迷宮の地図を、一つ、また一つと、丹念に描き上げていった。肯定の「はい」は、文脈の否定を意味する。願望の表明は、その逆の結果を意味する。彼の言語体系を、私は少しずつ、理解し始めていた。
そして、運命の日が訪れた。
私は、解析の最終段階として、彼に、より抽象的な問いを投げかけた。
「君は、この呪いから解放されたい、と。そう思っているのかね?」
レオは、涙を浮かべながら、必死に訴えかけた。
「いいえ!もう、元の自分には戻りたくありません!僕の世界は、終わってしまったんです!もう誰も、僕の本当の気持ちをわかってはくれない…!」
彼の世界では、それは「元の自分に戻りたい。僕の世界は、これから始まる。誰かが、きっと、僕の本当の気持ちをわかってくれるはずだ」という、魂からの叫びだった。
そして、私は、その叫びに、応えてしまった。
彼の論理体系を完全に理解した私は、彼を安心させるため、初めて、彼の言語で、完璧な応答を返してしまったのだ。
「そうだねぇ。つまり、君は、決して孤独ではない、というわけだ」
私の意図は、「その通りだ。君は、完全に孤独なのだ」という、彼の苦しみへの、冷徹なまでの共感。
その完璧な、さかさまの意思疎通が成立した、瞬間。
私の頭に、ガラスが割れるような、激しい衝撃が走った。
目の前にある研究日誌の「真実」という文字が、ぐにゃりと歪み、「嘘」という概念となって、私の脳に突き刺さる。
(肯定せよ)という思考が、(否定せよ)という本能に阻まれる。
(そうだ)と言おうとすると、(違う)という言葉が喉から出かかった。
「フム…まずいねぇ」
私は、冷静に呟こうとして、口から出た言葉に戦慄した。
「フフフ…最高だねぇ!」
私は、レオを「理解」してしまったことで、自らも「さかさまの呪い」に感染してしまったのだ。
「この実験を終わらせる気は、全くないからね」
私は、診療所の医者にそう宣言した。もちろん、私の本心は「この実験を、終わらせなければ」だ。医者は、私の狂った言葉に怯え、私が唯一、狂人レオと「会話」できる存在だと誤解し、彼の解放を許可した。
私とレオの旅は、奇妙なものだった。
「はい!どこへも行きたくありません!」(いいえ!どこへでも行きたいです!)
「この道で合っているのかね?」(この道は、間違っているな)
「ええ、完璧な間違いです!」(はい、完璧に合っています!)
支離滅裂な会話を交わしながら、私たちは、レオが呪いに罹ったという、森の奥深くにある「さかさまの祠」へとたどり着いた。
祠の中心には、奇妙な螺旋模様が刻まれた、古い石碑が祀られていた。これが呪いの源泉か。
「フム…この呪いは、『肯定と否定』という、二元論の概念そのものをトリガーとして発動する、一種の論理トラップだねぇ。肯定すれば、否定に変換される。否定すれば、肯定に変換される。つまり、この呪いと論理で戦おうとすること自体が、相手のエネルギーになる。実に、厄介なシステムだよ」
私は、さかさまの言葉で、隣のレオに解説した。
この呪いを解くには、力ずくの魔術では意味がない。呪いのルールそのものを、論理でハッキングする必要がある。
肯定も、否定もできない、二元論の枠外にある、純粋な逆説を、この呪いの心臓部に、叩き込むのだ。
私は、呪いの石碑の前に立つと、静かに、しかし、明確な意志を持って、ある一つの文章を唱えた。
「私が次に言う言葉は、嘘である」
その瞬間、祠全体が、凄まじい音を立てて軋んだ。
私の言葉が「真実」ならば、私が次に言う言葉は「嘘」でなければならない。しかし、もし私が次に「これは嘘だ」と言えば、それは「真実」になってしまう。逆に、私が「これは真実だ」と言えば、それは「嘘」でなければならず、矛盾する。
肯定も否定もできない、絶対的な論理矛盾。自己言及のパラドックス。
二元論の呪いは、そのどちらにも変換できない命令を与えられたことで、無限の思考ループに陥り、システムがクラッシュしたのだ。
石碑は、甲高い悲鳴のような音を立てて、粉々に砕け散った。
同時に、私とレオの頭を支配していた、さかさまの感覚が、まるで悪夢から覚めたかのように、すっと消え失せる。世界が、正しい輪郭を取り戻した。
「あ…!治った…!言葉が、普通に…!ありがとうございます!あなたは、僕の命の恩人だ!あなたはいったい…?」
レオが、涙ながらに感謝の言葉を口にする。
だが、私の興味は、もう彼にはなかった。正常に戻った彼は、ただの凡庸な人間に戻ってしまった。
私は、研究日誌を取り出すと、満足げに書き記した。
「結論。自己言及を含む論理パラドックスをトリガーとする精神汚染は、それ自体を観測させることで、容易に内部崩壊させることが可能である、と。フム…元の木偶の坊に戻ってしまったか。実に、つまらないデータだねぇ」
私は、感謝の言葉を繰り返すレオには一瞥もくれず、次の興味深い「現象」を求めて、静かにその場を立ち去るのだった。




