予告編
俺、探偵ダリル・トバリの朝は、新聞の三面記事の隅にひっそりと掲載された奇妙な訃報から始まった。
エラーラ・ヴェリタス、死亡。
活字の羅列を見た瞬間、俺は、頭を抱えた。王都が誇る、いや、この星で最強と謳われる魔導士の死。本来ならば号外が乱れ飛び、国葬が議論されるべき大事件である。だが、王都の主要メディアは揃いも揃ってこの件を矮小化し、単なる「不幸な事故」として処理しようと躍起になっていた。
理由は、明白だった。
エラーラが相対し、そして相討ちになったと噂されている相手が、墓守教の導師だったからだ。
墓守教。
王都と長年冷戦状態にある隣国、ゼランティア国を発祥とする宗教法人である。
彼らは王都内に堂々と拠点を構え、表向きは平和的な教義を説きながら、裏では王都の転覆を狙っていると囁かれる危険な集団だ。
そして何より厄介なのが、エラーラ・ヴェリタス自身がゼランティアの血を引く人間であるという事実だった。
現在の王都政府は、親ゼランティア派の売国政治家たちが多数を占めている。
彼ら売国者にとって、敵国「王都」の誇りでもある母国「ゼランティア」出身の最強の魔導士が、母国「ゼランティア」の宗教指導者と敵国「王都」で殺し合いを演じたなどというこじれきった事実は、絶対に明るみに出したくないスキャンダルなのだ。
「ゼランティア人同士の抗争で、王都の治安が脅かされた」となれば、彼らの政治基盤は一夜にして崩壊する。だからこそ、売国政治家たちは、この一件に重い蓋をした。
だが、探偵としての俺の直感、いや、単純な論理的思考が、この訃報を完全な誤報だと告げていた。
エラーラ・ヴェリタスは、ただ強いだけの魔導士ではない。王立ソフィア魔導大学を首席で卒業し、元医師にして元騎士という常軌を逸した経歴を持つ最強の天才だ。そんな彼女が、単なる教団のトップとつまらない殺し合いをして、あっけなく死ぬはずがない。
さらに言えば、相手である墓守教の導師もまた、ただの人間ではない。その正体は、他人の脳髄に寄生して思考力を異常なまでに増強させる奇怪な生命体、通称「思考蟲」の巨大な集合体だ。
最強の魔導士と、究極の思考生物。この二つが激突して、「両者死亡」という何の生産性もない結末を迎えるなど、あり得ない。
そこには必ず、政府が隠蔽しようとしている以上の、もっと狂気じみた「真理」が隠されているはずだった。
俺は真実を暴く決意を固め、コートを羽織った。
王都の地下深く、廃棄された水路の奥に、その組織の拠点はあった。
王都内のゼランティア系マフィア、ニルヴァーナ。
彼らはゼランティアの出自を持ちながら、王都憎みつつも王都に移り住み、王都政府を相手取って破壊工作を行い、母国ゼランティアの墓守教とも激しく対立している過激派組織だ。王都の法に縛られない彼らなら、政府が隠蔽した情報の裏をかくことができるはずだ。俺はニルヴァーナの幹部と接触し、多額の依頼料と引き換えにエラーラと導師の行方に関する調査を依頼した。
「最強の魔導士の死の真相を探れ、か。探偵さん、あんた、命知らずだな」
幹部は紫煙を吐き出しながら笑ったが、その二日後、彼らが俺にもたらした報告は、あまりにもあっけないものだった。
「生きているぞ、両方とも。よかったじゃねえか。しかも、王都のすぐ外れにある旧魔導兵器工場の跡地に一緒にいる。死亡説なんて、ただの噂だ」
俺は拍子抜けした。
最強同士が、死闘の末に、仲良く工場跡地に引きこもっている。
いやいや、意味がわからない。
俺は彼らから提供された座標を頼りに、その日のうちに旧魔導兵器工場へと足を運んだ。
工場跡地は、鉄錆と油の匂いが染み付いた巨大な廃墟だった。しかし、最深部へと進むにつれ、その空気は一変した。最新鋭の魔導計器が明滅し、高濃度の魔力粒子が空気を震わせている。それは廃墟ではなく、完全に稼働している最先端の実験室だった。
「やあやあやあ!そこに突っ立っているのは誰かと思えば、三流探偵のダリル君じゃあないか!警察の庇護下にいながらマフィアと手を組むなんて、ねえ。……君、さては、スパイにでもなりたいのかい?」
突然、奥の巨大なモニターの陰から、明るく、しかしどこか冷淡な響きを持つハスキーな声が響き渡った。
俺は息を呑んだ。そこにいたのは、間違いなく死んだと報道されていた天才魔導士、エラーラ・ヴェリタスその人だった。
「フム……わざわざ献花にでも来てくれたのかね?生憎だが、私は見ての通り、この上なく健勝だよ!」
エラーラは、大きな身振りを交えながらこちらへ歩み寄ってきた。彼女は右手に齧りかけのドーナツを持ち、左手には湯気を立てる黒いコーヒーの入ったマグカップを握っていた。
「……生きているなら、一報くらい入れたらどうなんだよ。政治屋どもが、お前の死を隠蔽しようと必死になってるんだぞ」
俺が呆れ気味に言うと、彼女はドーナツを大きく一口齧り、コーヒーでそれを流し込んでから、目を丸くして肩をすくめた。
「政治家屋?隠蔽?……君ね、政治などという非論理的な概念に、私の貴重な時間を割く価値があるとでも思っているのかね? 私は今、それどころではないのだよ!」
エラーラはマグカップを乱暴に机に置き、両手を広げて大げさに天を仰いだ。
「相手はあの墓守教の導師だったと聞いた。思考蟲の集合体だろ? どうやって切り抜けたんだ」
俺の問いに、エラーラは青い瞳を輝かせ、ニヤリと笑った。
「きりぬける?……何をだい。私はね、『捕獲』したのだよ」
彼女が指差した先、実験室の最奥にある巨大な強化ガラスの円筒タンクの中に、それはいた。
どす黒い神経細胞の塊のような、醜悪な生命体。間違いなく、墓守教の頂点に君臨する導師、思考蟲の本体である。それは培養液の中で微かに脈動していたが、完全に自由を奪われていた。
「驚いたかね?殺し合い……などという野蛮な行為は、学を志す者として美しくないからね。私は彼に素晴らしい提案をしたのだよ。『君の命を助けてやる代わりに、君の脳髄を構成している思考蟲を、私の研究に少々提供したまえ』とね!」
「……命を助ける代わりに、身体を切り刻むってことか? 狂ってるな」
「狂っている?酷い言いがかりだね!私は極めて論理的で、そして慈愛に満ちているつもりだがね!」
エラーラは白衣のポケットに両手を突っ込み、タンクの周りをくるくると歩き回り始めた。
「ダリル君。彼ら思考蟲は、宿主の思考を増強する素晴らしい特性を持っている。だがね、それは、宗教などという非科学的な殻に閉じこもっている限り、宝の持ち腐れなのだよ!」
エラーラは机の上から、一本の奇妙なベルトを手に取った。それは重厚な金属製で、中央には思考蟲の培養液が組み込まれたと思われる、淡く光るコアが埋め込まれている。
「これを見たまえ。私が寝食を忘れて開発した、魔力付与ベルト『ナンバー』の試作品だ!」
「まりょくふよ、べると……?」
「……君も知っての通り、この世界には魔力を持って生まれる者と、持たない者がいる。明確な格差が、そこにはある。だがね。この『ナンバー』を腰に装着すれば、思考蟲の生体部品が疑似的な魔力回路として機能し、魔力を持たない一般人であっても、魔法を行使できるようになる未来が来るのだよ!」
彼女は興奮した様子でベルトを掲げた。
「眼鏡は視力の弱い者を助ける。義足は歩けない者を助ける。ならば、魔法を持たない者を助ける道具があってもいいではないか!これはだね。すべての人類を魔法の恩恵へと導く、純粋なる善意の結晶なのだ!」
俺は言葉を失った。
エラーラ・ヴェリタスという魔導士が、恐ろしいほどの天才であることは知っていた。だが、彼女の行動原理の根底にあるものが、善悪という基準を超越した「純粋な探求心」と、そして歪んだ形ではあるが「人を助けたい」という元医師としての強烈な善意であることを、俺は痛感させられた。
「……つまり。導師を殺さなかったのは、こいつの材料にするためだったのか」
「ご名答だよ!いやはや、彼らも最初は抵抗したが、私の理論の美しさに最後は涙を流して協力してくれたよ!」
タンクの中の導師が、心なしか恐怖で震えているように見えた。
「さて、目的のデータは十分に収集できたし、試作品の動作も完璧だ。彼らにもう用はない。約束通り、解放してやるとしよう」
エラーラはそう言うと、タンクの制御パネルを操作した。培養液が抜け、拘束が解かれる。導師の集合体は、床に崩れ落ちると、エラーラに対して怯えたような波長を発しながら、一目散に工場の排気口から外へと逃げ出していった。
「おい、いいのか? あいつは王都の敵だぞ。また何か企むかもしれない」
「構わんさ。もし彼らが再び問題を起こすなら、その時はまた『素材』として捕獲すればいいだけのこと。それに、彼らも今回のことで、私には二度と関わりたくないと、骨身に沁みて理解したはずだからね! ハッハッハ!」
エラーラは豪快に笑いながら、再び残りのドーナツを口に放り込んだ。
・・・・・・・・・・
それから数週間後。
俺、探偵ダリル・トバリの平穏は、再びあの規格外の天才によって、またしても粉々に打ち砕かれることとなった。
エラーラ・ヴェリタスから、唐突に呼び出しを受けたのだ。
「やあやあ、ダリル君!よく来てくれたね。今日は君に、歴史の証人になってもらおうと思ってね!」
「歴史の証人だあ?また思考蟲みたいな厄介なものを捕まえてきたんじゃないだろうな……」
俺のぼやきを無視して、エラーラは青い瞳を爛々と輝かせた。
「ふふふ、もっと壮大で、もっと知的好奇心をそそるテーマさ。私は次なる研究として、未来へ行くことにしたのだよ!」
俺は耳を疑った。魔法付与ベルト「ナンバー」の開発だけでも十分に歴史を覆す大発明だというのに、今度は時間旅行だと。この女の辞書には、不可能という文字はおろか、倫理や常識といった概念すら存在しないらしい。
なんでもありなのか……と突っ込む気力すら湧かなかった。
「時間は不可逆ではないのだよ。……さあ、私はちょっと未来のカフェで、最新のドーナツのトレンドでも視察してくるよ!」
言うが早いか、エラーラは機械のコンソールを叩き、円環の中心へと飛び込んだ。強烈な閃光と轟音が研究室を包み込み、俺は思わず腕で顔を覆った。
そして、次の瞬間である。
閃光が収まると同時に、円環の中に再びエラーラの姿があった。
「……あれ?出発するのをやめたのか?」
「何を言っているのだね、ダリル君。私は今、確かに未来へと跳躍し、そして帰還したのだよ?」
エラーラは手についた灰を払いながら、いけしゃあしゃあと答えた。未来へ行き、次の瞬間に帰ってきた。タイムトラベルの理屈としては正しいのだろうが、目の前で見せられると頭が痛くなってくる。
「それで、未来のドーナツはどうだったんだよ」
俺が呆れ半分に尋ねると、エラーラの表情が少しだけ真面目なものに変わった。
「それがね、ダリル君。私が行った未来は、どうやら、大規模な戦争が起きた後の、つまり、戦後の荒野だったのだよ。カフェどころか、王都の姿すら跡形もなかった。この私も、見事に変死を遂げていたよ。ハーッハッハ!」
その言葉に、俺の背筋は凍りついた。
近い将来、王都が壊滅するほどの戦争が起きるというのか。未来からの帰還者であるエラーラの言葉は、それが「確定事項」であることを意味している。
「戦争が起きるって……おい、冗談じゃないぞ!誰と誰の戦争だ?今すぐ政府に警告しないと……!」
俺がパニックに陥りかけると、エラーラはドーナツを呑み込み、カラカラと笑い出した。
「まあまあ、落ち着きたまえよ、ダリル君。確かに戦争の爪痕は凄惨だった。だがね、安心していい。すでに未来の戦争は、その未来における過去である現在の時点で、私と『娘』と共に終わらせてきたからね!だが、未来の記憶を過去である現在に持ち越すことは、ほとんど不可能なんだ。3日もすれば私は未来の記憶という矛盾を……」
俺は、自分の脳が処理能力の限界を超えたのを感じた。
未来の戦争を、過去である現在で、すでに終わらせた?
未来の記憶は、過去である現在に、持ち越せない?
何を言っているのか、全く意味がわからない。原因と結果の法則が完全に崩壊している。彼女の頭の中では、時間は一本の線ではなく、ぐちゃぐちゃに絡まった毛糸玉のようなものらしい。
「それに、娘って……お前に娘なんていたのか?いや、それより、終わらせたってどういうことだ?」
「まあまあ、細かなタイムパラドックスの解説は君の脳味噌を沸騰させるだけだから割愛しよう。要するに、もう心配する必要はないということだ!さあ、未来のデータも取れたことだし、私は次の実験に移るとしよう!」
エラーラは全く悪びれる様子もなく、次の怪しげな機材の調整に入ってしまった。
俺は、考えることを放棄した。
最強の魔導士が「終わらせた」と言うのなら、本当に終わっているのだろう。俺は深くため息をつき、意味不明な納得とともに研究室を後にしたのである。
・・・・・・・・・・
一方その頃。
厳格な全寮制の女学校「聖アフェランドラ学園」。
その美しい中庭で、優雅に紅茶の入ったティーカップを傾ける一人の少女がいた。
アリシア・ヴェリタス。
エラーラの養女であり、この学園の生徒会長を務める十八歳のエルフである。
透き通るような白い肌に、陽光を弾く金髪のウェーブ。深い青色の瞳は知性と慈愛に満ちており、誰もが息を呑むほどの絶世の美少女だった。今日の彼女は、春の風に揺れる淡いミントグリーンのシフォンドレスを身に纏い、その完璧な着こなしは学園中の女生徒たちの憧れの的となっていた。
「あらあら。今日の茶葉は少し抽出時間が長かったようですわね。渋みが出てしまっていますわ」
アリシアが困ったように微笑むと、周囲を取り囲んでいた女生徒たちが一斉に頬を赤らめ、ため息を漏らした。アリシアは誰に対しても完璧な善性と博愛を持って接する。そのため、学園内では半ば女神のように崇拝されている。
そんなアリシアの元に、一人の下級生が息を切らせて駆け寄ってきた。
「ア、アリシアさま!大変です!王都の新聞が……特外の号外が届きました!」
下級生が差し出した新聞を受け取ったアリシアの瞳が、見出しの文字を捉えた瞬間に大きく見開かれた。
『王都の天才魔導士エラーラ・ヴェリタス生存!さらに、未来戦争を娘と共に未然に防ぐ歴史的偉業達成!』
その記事には、誇張された英雄譚とともに、エラーラが未来の脅威を退けたことが書き立てられていた。
アリシアの白い手が、微かに震えた。
「おかあさまが……生きていらした……」
かつて、孤独と絶望の淵にあった幼いアリシアを救い出し、無能力であることを笑い飛ばして深い愛情を注いでくれた命の恩人。彼女にとって、エラーラは世界のすべてであり、ただ一人の「おかあさま」だった。死亡説が流れた時は深い悲しみに沈んだが、こうして生存の報を聞くことができ、彼女の胸には安堵の波が押し寄せていた。
しかし、記事の後半を読み進めるにつれ、アリシアの心に暗い影が落ちていった。
未来の戦争を、「娘」と共に終わらせた。
新聞には確かにそう書かれている。ダリルが聞いたのと同じ、エラーラの言葉がそのまま記事になっていたのだ。
「……娘?」
アリシアは、手元のティーカップを見つめたまま呟いた。
「わたくしは、未来になど行っておりませんわ……」
自分が未来に行っていないのなら、おかあさまが共に戦った「娘」とは、はたして誰なのだろうか。
アリシアの類まれなる頭脳が、瞬時に残酷な仮説を導き出した。
もしかすると、エラーラは、別の養子を迎えたのではないか。
魔法が使えない無能力の自分ではなく、彼女の壮大な実験や冒険についていける、優秀な魔導士の「娘」を。
通信もできず、手紙も送れないこの隔離された学園の中で、自分はただ過去の思い出にしがみついているだけだったのではないか。
「おかあさまは……わたくしのことを、もう……」
ポツリと、ミントグリーンのドレスの膝元に、透明な雫が落ちた。
「お忘れになってしまったのですね……」
完璧彼女の瞳から、とめどなく涙が溢れ出した。
周囲の女生徒たちが慌てて彼女を慰めようと声をかけるが、アリシアの耳には届かない。
愛する「おかあさま」が別の誰かを「娘」と呼び、自分は忘れ去られてしまったという、鋭い絶望。
王都で天才魔導士が常識を破壊して笑っているその裏で、遠く離れた学園の聖女は、深く静かな悲しみに暮れていた。
すれ違う時間。
すれ違う想い。
二人のヴェリタスが再び相見える日は、まだ遠い。




