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壊れた世界のやりなおし方  作者: 王牌リウ
第3章:追放された女騎士アリア篇
18/19

第18話:戦いに生きろ!

静寂の王。世界の法則そのものと融合し、歪みの化身と成り果てた友、エラーラ。

エラーラは、自らの完璧な数式が「心」という非合理的なバグに敗れたことを悟り、絶望したのだ。

この、どこまでも不完全で、争いと苦しみに満ちた、崩壊していく世界を前に、彼女は、最後の結論に達した。


『この世界そのものが、失敗作だ』


彼女の、魂の悲鳴が聞こえた気がした。


『ならば、私が、新しい法則となる。私が、この世界の全ての苦しみを終わらせる、完璧な「静寂」となる…!』


彼女は、自らの意志で、崩壊する世界の法則と完全に融合した。それは、救済だった。この欠陥品の世界に対する、彼女なりの愛に溢れた結論、つまり、自殺だった。 光が、全てを飲み込んでいく。


「ケンジッ!」


アリアの叫び。俺は彼女の手を掴もうとしたが、足元の次元が裂け、俺の身体は無慈悲な光の中へと吸い込まれていった。 エラーラが憎んだこの猥雑な世界で、アリアは一人残される。 最後に見たのは、必死に俺に手を伸ばす、アリアの絶望に満ちた顔だった。


「もう一度、人生をやり直したい」


意識が薄れゆく中で、俺はそう願った。

こんな結末なら、いっそ全てをやりなおしたい。

死んだと思って、もう一度、何もかも…。



白い、天井。

消毒液の、ツンとした匂い。

ピッ、ピッ、という、無機質な電子音。

身体のあちこちが鈍く痛む。だが、それは、あの地獄のような戦場で負った傷の痛みとは、全く質の違う、現実的な痛みだった。

俺は、橘ケンジとして、日本の病院のベッドの上で目を覚ました。


「橘さん!気がつきましたか!」


俺の顔を覗き込んできたのは、見知らぬ、しかし、見覚えのある服装の女だった。看護師。そうだ、ここは、病院だ。

俺の、いた、世界。


「トラックに撥ねられたんですよ。もう一週間も意識が…。でも、本当に良かった。獣医師の国家試験にも合格された直後だったのに」


卒業。そうだ、俺はもう、学生ではなかった。獣医師としてのスタートラインに立った、その日に死に、そして、戻ってきたのだ。


俺の願いは、歪んだ形で叶えられた。人生を「やり直せる」権利を、俺は手に入れた。 そのはずだった。


全ては、夢だったのか。

アリアとの出会いも、エラーラとの論理闘争も、仲間たちの死も、世界の終わりも。全ては、トラックに撥ねられた俺が見た、長い、長い、悪夢だったというのか。そうだ。

きっと、そうに違いない。

俺の心からの願いは、叶えられたのだ。


俺は、人生を「やり直せる」。


そのはずだった。

俺の心は、空っぽだった。

安堵も、喜びも、何も感じなかった。

ただ、あまりにも鮮明すぎる「悪夢」の記憶だけが、俺の魂に焼き付いていた。

退院してからの日々は、灰色だった。


友人たちは、俺の生還を心から喜んでくれた。

だが、俺は、彼らの会話の輪の中に、どうしても入ることができなかった。

彼らが熱く語る、仕事の話も、趣味の話も、将来の夢も、俺の耳には、どこか遠い国の、意味のない言葉のようにしか聞こえなかった。


彼らが知らないのだ。

本当の地獄を。

本当の絶望を。

そして、本当の、かけがえのない仲間との絆を。


俺の見る世界は、色を失っていた。

街のネオンは、ただの光の点滅にしか見えない。食事は、ただの栄養補給のための作業。テレビから流れる、お笑い芸人の馬鹿騒ぎも、政治家の空虚な演説も、俺の心を、1ミリも動かさなかった。

全てが、偽物に見えた。

この、平和で、安全で、退屈な世界。それは、あの、血と泥にまみれた、しかし、確かに「生きていた」世界と比べて、あまりにも、薄っぺらかった。

俺は、無気力になった。


「もう一度、人生をやり直したい」


その願いが叶ったはずなのに、俺の心は、完全に死んでいた。

そんな、無気力な自分が、たまらなく嫌だった。

夜ごと、悪夢にうなされた。


俺を庇って死んでいった、仲間たちの顔。

リリアンヌの、あの産婦人科病棟で響き渡った、赤子たちの、最後の産声。

そして、俺の手を掴めずに、光の中へと消えていった、アリアの顔。

俺だけが、逃げてきた。


アリアとエラーラを、あの崩壊した世界に置き去りにして。

その、拭い去ることのできない罪悪感が、俺の魂を、じわじわと蝕んでいった。


俺は、獣医師になった。

だが、そこに、喜びはなかった。

俺は、ただ、機械のように、目の前の動物を治療し、飼い主から、感謝の言葉と、金を受け取るだけだった。


「先生は、腕は確かだけど、なんだか、心がこもっていないみたいね。動物が、お好きじゃないのかしら」


いつか、誰かに言われた言葉。その通りだった。俺の心は、もう、ここにはなかった。 飼い主たちが語る、ペットとの微笑ましいエピソードも、治療費に関する世知辛い愚痴も、俺の耳を素通りしていく。彼らの世界は、平和で、安全で、そして、どうしようもなく退屈だった。 彼らは知らないのだ。グリフォンの雛の翼を治療した時の、あの生命の力強さを。仲間を失った戦場で、負傷した軍馬の腹を縫合した時の、あの無力感を。


休日は、自室の安アパートで、ただ天井を眺めて過ごした。友人からの連絡は、いつしか途絶えた。誰かと会って話すことなど、何の意味も見出せなかった。テレビから流れるニュースは、いつも遠い国の戦争や、芸能人の下世話な不倫の話ばかり。リリアンヌで俺が犯した虐殺に比べれば、そんなものは、子供のままごとに等しかった。


飯は、味がしなかった。コンビニで買った、栄養素だけが記されたゼリー飲料を流し込む。ただ、生命を維持するためだけの作業。 女と寝たこともあった。だが、その肌の温もりさえも、俺の凍てついた心を溶かすことはなかった。アリアの、あの、不器用で、しかし、誰よりも温かい手を、思い出してしまうから。


悔やんでも、悔やみきれなかった。 俺だけが、この安全な檻の中に戻ってきてしまった。 アリアは今頃、どうしているだろうか。あの崩壊した世界で、一人、戦い続けているのだろうか。 エラーラは、静寂の王として、今も、世界に沈黙を強いているのだろうか。 俺は、二人を見捨てた。その罪悪感が、俺という人間の、根幹を腐らせていった。 俺は、無気力な自分に嫌気が差していた。やり直したいと願ったはずなのに、何もやり直そうとしない、この空っぽの自分自身が、憎くて仕方がなかった。



そして、10年目の冬。その日は来た。


その日、俺は、仕事を終え、いつものように、無感動に、夜の街を歩いていた。

横断歩道の信号が、赤に変わる。

だが、俺は、それに気づかなかった。

俺の心は、ここにはなかったから。

クラクションの、甲高い音。

振り返った俺の目に映ったのは、トラックの、眩しいヘッドライト。

ああ、またか。

俺の人生は、いつも、こうだ。

何者にもなれず、何も成し遂げず、ただ、呆気なく、終わる。

だが、今回は、衝撃は来なかった。

一台のバイクが、俺のすぐ横を、猛スピードで走り抜けていっただけだった。

俺は、その場に立ち尽くしていた。

周囲の人々が、俺を、奇異の目で見ていた。


「危ないじゃねえか、ニイちゃん!」


誰かの怒声。

だが、俺の耳には、届いていなかった。

俺は、自分の、あまりにも無関心な、生き方に、絶望していた。

もう、いいや。

もう、いい。


俺の人生、なんだったんだろう。

俺が、再び、歩き出そうとした、その時だった。

背後から、誰かが、ぶつかってきた。


「…ぬぁ」


振り返ると、そこには、血走った目をした、若い男が立っていた。その手には、ギラリと光る、安物のナイフが握られている。


「…お…おめい…こら…おあ……カネ出しぃや…」


その、あまりにもありふれた、下劣な脅迫。

俺は、抵抗しなかった。

それどころか、俺は、笑っていたのかもしれない。

ああ、やっと、終わるのか。

この、灰色で、退屈で、意味のない、二度目の人生が。

男は、俺の、その無抵抗な態度に苛立ったのだろう。

そのナイフが、俺の腹部に、何の感慨もなく、突き刺さる。

熱い、何かが、腹の底から込み上げてくる。

俺の身体が、ゆっくりと、アスファルトの上へと、崩れ落ちていく。

遠ざかる、人々の悲鳴。サイレンの音。

俺の、薄れゆく意識の中で、最後に浮かんだのは、アリアの、あの、優しい笑顔だった。

ごめん、アリア。

俺は、結局、何も、やり直せなかったよ。



次に目を開けた時、そこは、血のように赤い空の下だった。

焦げ付いた大地。崩れ落ちた、見覚えのある建物。

そして、空気は、絶望の匂いで満ちていた。

世界は、滅んだままだった。

俺は、帰ってきたのだ。

俺が、捨てた、世界へ。


俺は、歩き出した。

あては、あった。

俺と、アリアと、エラーラが、かつて、アジトとして使っていた、古い、古い、書庫。

そこは、奇跡的に、崩壊を免れていた。


扉を開けると、10年前の、あの日のまま、全てが残されていた。


エラーラが、いつも座っていた椅子。彼女が残していった、数式の書き殴られた、羊皮紙の束。

そして、壁に掛けられた、彼女の、純白の白衣。


アリアが、いつも手入れをしていた、窓際のスペース。そこに立てかけられた、彼女の、無骨で、しかし、気高い、鋼の剣。


俺は、ゆっくりと、その白衣を手に取った。そして、それを、自分の身体に、羽織った。


次に、その剣を、手に取った。ずしりと重い。それは、彼女が背負っていた、誇りと、罪の重みだった。


俺は、瓦礫の中から、割れた鏡の破片を拾い上げ、自分の顔を映した。

そこにいたのは、もはや、橘ケンジではなかった。

10年分の、二つの世界の絶望をその目に宿し、友の遺志をその身にまとい、全ての感情を、その奥底に封じ込めた、何者でもない、誰か。


俺は、近くに転がっていた、黒い鉄の仮面を拾い上げ、その顔を、完全に覆い隠した。


橘ケンジは、死んだ。

二度、死んだ。

ならば、今、ここにいる俺は、何者だ?


そうだ。

俺は、ゼロだ。

全てを失い、全てを捨て、ゼロから、もう一度、この、壊れた世界を、「やりなおす」者。


俺は、仮面の下で、静かに、誓った。


今度こそ、間違えない。


今度こそ、全てを、救ってみせる。


俺の、やり方で。


俺は、アジトを後にした。

崩壊した世界を、ただ一人、歩き始めた。

俺の、三度目の人生。

その、始まりだった。



・・・・・・・・・・



私の名はアリア・フォン・クライフォルト。かつては王国に仕え、民を守る盾となることを誓った騎士でした。ですが、その誓いは、私の無力さ故に、友の亡骸と、焼かれた故郷の土に埋められました。この剣は、守るべきものを何一つ守れなかった。それどころか、友を狂わせ、世界を滅びへと導く引き金となったのです。今の私は、もはや騎士ではありません。ただ、犯した罪の重さに魂を縛られ、友の名を呼び続けるだけの、過去という名の亡霊に過ぎません。


私が最後に見たのは、必死に私へ手を伸ばす彼の顔と、私の名を呼ぶ、声にならない叫びでした。 全てが終わった後、私の足元には、崩壊し、静まり返った世界だけが広がっていました。空は鉛色に淀み、大地はひび割れ、風は、死んだ者たちの声なき慟哭のように、ただ、虚しく吹き抜けるばかり。 私の世界は、あの日、あの瞬間、確かに終わったのです。


「…ぁ…」


膝から崩れ落ち、乾いた土を掴みました。涙は、出ませんでした。流すべき涙は、あまりにも多くのものを失いすぎた魂の、どこを探しても見つからなかったのです。 無力感。それだけが、私の全てでした。私が、もっと強ければ。私が、もっと賢明であったなら。二人の友を、この手で繋ぎ止めることができたのではないか。この世界を、救えたのではないか。 後悔という名の毒が、私の心を蝕んでいきます。ですが、騎士としての誇りの残滓が、私に絶望の中で朽ち果てることを許しませんでした。


私は立ち上がりました。へし折れた父の形見の剣の代わりに、ただの一振りの、名もない鋼の剣を手に取って。 そして、誓いを立てたのです。

この歪んだ世界を、正さねばならない。 友、エラーラを狂わせた世界の病巣を、この手で断ち切らねばならない。 そして、ケンジがいつかこの世界に戻ってきた時、彼に誇れる自分でいるために。


それが、私の、たった一人で始めた、終わりなき戦いの始まりでした。

最初の数年間は、ただ、彷徨いました。 静寂の王と化したエラーラの影響は、緩やかに、しかし確実に、世界を蝕んでいました。人々は「歪み」の恐怖に怯えながらも、同時に、その心から活力を奪われ、緩やかな死を受け入れ始めているようでした。 私は、歪みから現れる異形の怪物と戦い続けました。ある時は、村一つを飲み込もうとする、巨大な粘液状の怪物を。またある時は、人々の悪夢を喰らい、それを現実に映し出す、影の如き魔物を。

私の剣技は、戦いの中で、より洗練され、より、無慈悲なものへと変わっていきました。かつて私が信奉した騎士道…弱き者を守り、正々堂々と戦うという誓いは、この地獄ではあまりに無力でした。生き残るため、そして、一つでも多くの歪みを断ち切るため、私の剣は、ただ、敵を効率的に破壊するためだけの、冷たい鋼の道具と化していったのです。


感傷に浸る暇はありません。 飢えれば、魔物の肉を喰らい、喉が渇けば、泥水を啜る。夜は、瓦礫の陰で仮眠を取り、常に片目は開いたまま。かつてのアリア・フォン・クライフォルトは、とうの昔に死にました。今、ここにいるのは、ただ、目的のためだけに剣を振るう、一人の修羅です。


歳月は、人の心を摩耗させます。 五年が過ぎ、七年が過ぎる頃には、私の心から、感情というものが抜け落ちていくのを感じていました。 ケンジの、あの不器用な笑顔を思い出すことも。 エラーラの、あの理知的な声を聞くことも。 次第に、難しくなっていきました。 彼らの記憶は、私の魂の奥底で、決して消えない傷痕として残りながらも、その輪郭は、長い風雪に晒された石のように、丸くなっていく。 それが、ひどく、恐ろしかった。 このままでは、私は、何のために戦っているのかさえ、忘れてしまうのではないか。


十年目の冬。 私は、世界に散らばる歪みの情報を扱う、「咎追いギルド」の世話になっていました。法も秩序も届かぬ、奈落と呼ばれる場所。騎士であった頃の私ならば決して足を踏み入れなかったであろうその場所で、私は、情報を金で買い、歪みを狩る、孤独な傭兵となっていました。 もはや、私を「クライフォルトの騎士団長」と知る者はいません。人々は私を、ただ、畏怖を込めてこう呼びます。 「白銀の亡霊」と。


その日、私は、新たな歪みの情報を手に入れました。辺境の村「ダストピット」に、異形の怪物が現れた、と。 私は、何も言わず、その依頼を引き受けました。 馬を駆り、荒野を進む。 私の心は、凪いでいました。 悲しみも、怒りも、希望さえも、今はもう、感じません。ただ、為すべきことがある。それだけが、私を動かす、唯一の理由です。


この剣は、あまりにも多くのものを斬りすぎました。友の希望も、罪なき者の命も、そして、私自身の心さえも。 それでも、私は剣を振るう。 いつか、この世界の全ての歪みを断ち切り、友たちの魂に、安らぎを捧げる、その日まで。


ダストピットの村が、見えてきました。空には、陽炎のように揺らめく、灰色の霧。歪みの気配です。 私は、馬から飛び降り、剣を抜き放ちました。 私の、十年間の旅の、一つの終着点が、ここにある。そんな、予感がしたのです。

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