第14話:運動する静寂!
私の名はエラーラ。私の興味を引くのは、常に、常識では説明のつかない「現象」だけだ。
最近、私の耳に実に興味深い噂が届いていた。王都から馬車で三日、人里離れた山峡に佇む、ある私設美術館。そこに収蔵された「完璧な芸術品」を見た者は、徐々に感情と動きを失い、生きたまま石像のようになってしまう、と。
「フム…特定の芸術作品が、被検体の生命活動における『動』の要素を、段階的に『静』へと変換していく、と?エントロピーの法則に反する、実に興味深い現象じゃないか!」
私は、その「現象」が起きるという実験場へと、胸を躍らせて向かった。
美術館「静寂の揺りかご」は、完璧すぎることが、かえって不気味な場所だった。塵一つ落ちていないエントランス。寸分の狂いもなく左右対称に建てられた回廊。そして、至る所に、冷たい金属板に刻まれた注意書きが掲げられていた。
【静粛に】
【秩序を乱すべからず】
そして、最も多く目についたのが、この言葉だった。
【走るべからず】
私を迎えたのは、館長だと名乗る、ミュラーという男だった。その顔には皺一つなく、肌は陶器のように滑らかで、どう見ても10歳に満たない。だが、彼の動きは最小限で、瞬きも少なく、まるで蝋人形のように生気がなかった。
「ようこそ、エラーラ様。貴女のような聡明な方にこそ、当館の『完璧な美』は、ご理解いただけることでしょう」
彼の案内で館内を見て回る。展示品は、寸分の狂いもない球体の彫刻や、波紋一つない水面を描いた絵画など、「静止」をテーマにしたものばかり。そして、廊下の窪みには、メイドや給仕の姿をした人間が、彫像のように微動だにせず、佇んでいた。私の隠し持った魔導観測器は、彼らから、微弱だが、確かに生命反応を捉えていた。
ミュラーは、ある展示品の前で、うっとりと足を止めた。
「この『夜明けの海』は、私がこの美術館を祖父から受け継いだ、70年前からここにあります。なんと、完璧な静寂でしょう」
「70年前?」
私は、思わず聞き返した。
「フフフ、驚かれましたかな。この館は、偉大なる『静寂の瞳』様の力により、時間の流れすら緩やかなのです」
(70年前…だと?この男の外見は、どう見ても10に満たない。フム…この館の『静』の法則は、時間の流れ…エントロピーの増大すらも抑制するのか?実に興味深いデータだ!)
そして、私は、最奥の展示室で、怪異の源泉である「静寂の瞳」と対面した。それは、全ての光を吸い込むかのような、漆黒の巨大な黒曜石の球体だった。
私が、その異常な魔力構造を解析しようと、瞳の深淵を覗き込んだ瞬間、私の精神は、静寂の呪いに取り憑かれてしまった。
私の魂の根幹にある「知的好奇心」という、常に新しいデータを求めて動き続ける習慣が、「全ての知識を手に入れ、探求を終えた『完璧な静寂』」へと、その目的を歪められ始めたのだ。
美術館を出た私に、少しずつ異変が現れ始めた。
あれほど精力的に行っていたフィールドワークを「非効率な動き」だと感じるようになり、自室に籠って、既に得た知識を完璧な順序で並べ替える作業に、至上の喜びを感じるようになる。思考は冴えわたるが、新しいことを知りたいという「欲求」が、綺麗に消え失せていた。
「まずいねぇ…私の『知的好奇心』という動的ベクトルが、『完全な知識』という静的状態へと強制的に収束させられている。私自身が、この怪異の被検体になってしまった!フフフ…最高のデータじゃないか!」
私は、自らが呪われたことを、歓喜と共に自覚した。
この呪いの本質は、「完璧=静止」という、一つの絶対的な公理を、精神に植え付けることにある。生命活動(運動、思考、感情の起伏)は、全て「不完全」なものとして認識させられ、やがて脳が、それらの活動を停止させるように、自らの身体に命令を下していくのだ。
呪いを解くには、精神や論理では対抗できない、覆しがたい「物理法則」そのものを、矛盾の証拠として叩きつけるしかない。
私は、呪いによって重くなった身体に鞭を打ち、再び美術館へと向かった。
「静寂の瞳」の前には、もはや彫像と見分けがつかないほど静止したミュラーが、私を待っていた。
「お帰りなさい、エラーラ様。貴方も、完璧な静寂の一部となる時が来たのです…」
瞳の力が、私の心臓を止め、思考を停止させようと、その呪いを最大限に強める。
しかし、私は、その場で、突然、不敵に笑った。
「フフフ…面白いじゃないか、ミュラー君。君のその『完璧な静寂』とやらを、私が今から、完全に論破してやろう」
次の瞬間、私は、美術館の絶対の禁忌を破った。
床を蹴り、腕を振り、ただひたすらに、走った。
大理石の床を、私の靴音が、不協和音のように乱暴に鳴り響く。静寂を切り裂き、調和を破壊する、ただ一つの「運動」。
「なっ…!走るな!ここは、神聖なる静寂の…!」
ミュラーの狼狽する声を背に、私は走りながら叫んだ。
「観測したまえ、静寂の瞳よ!君の法則は、『運動は不完全』!この館の絶対のルールだねぇ!」
息が弾み、心臓が激しく鼓動する。熱くなった身体から、玉のような汗が流れ落ちる。
「だが、私のこの身体を見たまえ!この『汗』は!生命が、その内部のエントロピーを外部に排出し、恒常性を維持するための、極めて高度で『完璧な』システムなんだよ!」
私は、瞳の前を、疾風のように駆け抜けた。
「私の身体は、動けば動くほど、この完璧な熱力学法則を証明する!運動こそが、生命における完璧な調和なのだ!静止は、ただの『死』だ!」
その瞬間、「静寂の瞳」に、ピシリ、と亀裂が走った。
「完璧=静止」という絶対的な公理が、「完璧=運動による調和」という、覆しがたい物理的な事実によって、内部から破壊されたのだ。
呪いの力が消え失せ、ミュラーを包んでいた永遠の若さもまた、剥がれ落ちた。
「あ…ああ…!」
彼の若々しかった顔に、みるみるうちに深い皺が刻まれ、髪は白くなり、背は大きく曲がっていく。70年という歳月が、一気に彼の肉体に押し寄せ、彼は、ただの年相応の、腰の曲がった老人となって、その場にへたり込んだ。
私は、息を整えながら、研究日誌を取り出した。
「結論。概念系の呪いは、その根幹を成す公理を、物理的に、そして行動で否定する現象を観測させることで、内部崩壊を誘発できる。フム…被検体は死ななかったが、まあ、有意義なデータだ」
私は、呆然とする老人には一瞥もくれず、次の好奇心を満たすため、静かにその場を立ち去るのだった。
「さて、汗をかいたら、喉が渇いたねぇ。どこかに冷たいものでもないかね?」




