最終話:友を救え!(セカイ系)
私の名はアリア・フォン・クライフォルト。かつては王国に仕え、民を守る盾となることを誓った騎士でした。しかし、10年前の大災害「大いなる沈黙」は、私の誇りも、守るべき故郷も、そしてかけがえのない二人の友の命さえも、全てを奪い去りました。今の私は、ただ友の仇を討ち、世界の歪みの元凶「静寂の王」を断ち切るためだけに剣を振るう、過去という名の亡霊に過ぎません。
次の歪みの兆候を追い、私は寂れた街道を一人、馬で進んでいました。道中、荷馬車が故障し、立ち往生している小太りの商人と出会いました。
「おお、これは騎士様!ちょうどよかった!この先の空間がどうにも不安定でしてな、コンパスが狂って道に迷っちまったんですよ」
彼は、私が荷車の車輪を直すのを手伝うと、感謝の印だと言って水袋を差し出してくれました。
「ありがとうございます。して、空間が不安定とは、どういうことです?」
「ああ、騎士様はご存じない?近頃、歪みの影響で時空が歪んで、街道の距離が日によって伸びたり縮んだりするんです。昨日は半日で越えられた峠が、今日は三日かかっても抜けられねえ、なんてザラでして。まるで悪い夢でできた嵐の中を航海しているみたいですよ。おかげで商売もあがったりですわ」
彼はそう言って笑いましたが、その目には深い疲労が刻まれていました。世界は、その根底から、ゆっくりと、しかし確実に狂い始めている。私は、その事実を改めて突きつけられました。
歪みの兆候が強くなるにつれ、私は最も近い砦の街「ロックウッド」に立ち寄りました。補給と情報収集のためです。酒場に入ると、屈強な傭兵たちが、エールを片手に不吉な噂話に興じていました。
「聞いたか?西の沼沢地に出た歪みの話。中から出てきたのは、見たこともねえ、クラゲみてえな化け物だったらしい」
「ああ、それもただの化け物じゃねえ。それを見た人間は、頭の中に、存在しねえはずの『別の世界』が見えちまうんだとよ。ある者は楽園を見て笑いながら死に、ある者は地獄を見て発狂したそうだ」
「恐ろしいこった。俺たちの常識なんざ、歪みの前じゃ何の役にも立たねえ。いつか、俺たちの脳味噌が理解できねえもんに殺されるんだ」
彼らの会話は、この世界の住人が常に感じている、根源的な恐怖を物語っていました。歪みから現れる脅威は、物理的なものだけではない。時には、人の理性さえも蝕むのです。私は、黙ってエールを飲み干し、彼らの話に耳を傾けながら、来るべき戦いに備え、気を引き締めました。
酒場の主人が、私に街で流行っているという菓子を勧めてきました。それは「スタッフ」と呼ばれる、純白でふわふわとしたクリーム状のものです。
「騎士様も一つどうですかい?こいつを食べると、どんな疲れも吹っ飛んじまうって評判でさあ」
周囲を見ると、確かに多くの人々がそれを恍惚とした表情で口に運んでいます。しかし、その瞳にはどこか理性の光が宿っていないように見えました。私は、騎士としての矜持から、その申し出を丁重に断りました。
「結構です。私は、質実剛健な黒パンと干し肉で十分ですので」
安易な快楽は、魂を鈍らせる。私は、この甘美に見える菓子に、得体の知れない危険を感じ取っていました。失われた友、エラーラならば、これを「興味深い精神汚染のサンプルだ」とでも評したでしょうか。そんな詮無いことを考え、私は一人、静かに食事を済ませました。
私が目的の辺境の村「ダストピット」にたどり着いた時、既に悪夢は始まっていました。空から、陽炎のように揺らめく、非ユークリッド的な灰色の霧が降りてきて、村全体を覆い隠していたのです。それは「歪み」そのものでした。
霧の中から、カサカサ、キチキチ、と無数の何かが蠢く音が聞こえてきます。次の瞬間、霧を突き破り、異形の怪物たちが姿を現しました。それは、甲殻類と昆虫を冒涜的に融合させたかのような姿をしていました。蟹のようなハサミ、蜘蛛のような多関節の脚、そして、バッタのように鋭い顎。その群れが、悲鳴を上げて逃げ惑う村人たちに、次々と襲いかかります。
「そこまでです!」
私は馬から飛び降り、剣を抜き放つと、一人の子供に襲いかかろうとしていた怪物の前に立ちはだかりました。私の剣は、怪物の硬い甲殻を両断します。しかし、奴らは一匹や二匹ではありません。霧の奥から、第二波、第三波と、無限に湧き出してくるのです。私は村人たちを庇いながら、必死で剣を振るいました。一匹を斬り伏せ、一匹を突き、また一匹を蹴り飛ばす。騎士として培った私の剣技は、確かに敵の数を減らしていきます。しかし、多勢に無勢。じりじりと後退を余儀なくされ、私の体力もまた、確実に削られていきました。このままでは、村も、私も、いずれはこの悪夢に飲み込まれる。そう覚悟しかけた、その時でした。
霧の奥から、まるで散歩でもするかのように、一人の騎士が歩いてきました。白銀の仮面、純白の白衣。ゼロでした。ゼロは、この地獄絵図の中心にありながら、一片の汚れもなく、泰然自若としています。
「ククク…無様なものだな、女騎士。それが君の正義の限界か。実に滑稽だ」
「貴様…!高みの見物をしている場合ですか!」
「見物?違うな。観測だよ。君という旧人類の、非効率な戦闘データを収集していたのだ」
私は、ゼロの不遜な態度に激昂し、思わず剣先を向けました。ゼロが敵ならば、ここで斬るまで。そう決意し、私は渾身の突きを繰り出しました。しかし、ゼロはそれを、まるで柳に風と受け流すように、最小限の動きでひらりとかわします。
「なっ…!?」
その体捌き、その足運び。ありえない。それは、かつて私が知る、誰よりも不器用で、誰よりも優しい、あの親友の動きそのものだったのです。
「なぜ貴様が、その動きを…!」
私の動揺を見透かしたように、ゼロは嘲笑しました。
「動揺かね?感傷に浸っている暇はないぞ。君が私の駒として役に立つというのなら、見せてやろう。真の支配者が行う、完璧な『調律』を」
ゼロは、私を無視すると、懐から数本の、音叉に似た黒い金属棒を取り出しました。そして、怪物の群れに向かって、正確無比な動きでそれを次々と投げつけていきます。金属棒は、怪物の甲殻ではなく、その周囲の地面に突き刺さりました。
「さて、不協和音の掃除の時間だ」
ゼロが指を鳴らした瞬間、突き刺さった全ての金属棒が、人間には聞こえない、しかし空間そのものを震わせるような高周波を発し始めました。共鳴。怪物の身体が、内側から激しく振動し、甲高い悲鳴を上げ始めます。
ゼロの狙いは、怪物そのものではなかった。この怪物たちをこちらの世界に繋ぎ止めている「歪み」の周波数、そのものに干渉していたのです。
「歪み」である霧が、激しく渦を巻き始めました。それは、もはや出口ではなく、全てを吸い込む巨大な掃除機のような、引力の渦と化していたのです。
「ギシャアアアアアアアアアアッ!!」
怪物たちは、抗う術もなく、自らが出てきたはずの裂け目へと、次々と吸い込まれていきます。それは、もはや戦闘ではありませんでした。ただ、エラーを修正するような、あまりにも一方的で、冷酷な「作業」でした。
数分後、最後の怪物が吸い込まれると同時に、歪みは急速に収縮し、霧は完全に晴れました。後には、静寂と、呆然と立ち尽くす村人たちだけが残されていました。
ゼロは、そんな村人たちを一瞥すると、興味を失ったように私に向き直りました。
「これが私のやり方だ。どうだね?君のその時代遅れの剣よりも、よほど効率的で、美しいとは思わないかね?」
私は、何も言い返せませんでした。ゼロのやり方は、私の騎士道を根底から否定するものでした。しかし、ゼロがこの村を救ったこともまた、紛れもない事実なのです。
「貴様は、一体…」
私が再び問いかける前に、彼は背を向けました。
「君には関係ない、過去の亡霊よ。君は、君の信じる小さな正義を追い続ければいい。私は、私のやり方で、この世界を救う。いや…私が、この世界の新しい神となる」
ゼロはそう言い残すと、霧が晴れた荒野の向こうへと、音もなく去っていきました。
私は、一人、その場に立ち尽くすしかありませんでした。
ダストピットの村を去ったあの仮面の騎士、ゼロ。ゼロの戦術、そしてその佇まいに死んだはずの親友の面影を見てしまった私は、激しい混乱の中にいました。ゼロは何者なのか。あの力は、友の仇である「静寂の王」に繋がるものなのか。確かめねばならない。私は、ゼロを執拗に追い始めました。それは、新たな地獄への序曲でした。
ゼロの足取りを追うため、私は再び交易都市メルカトルにある「咎追いギルド」の扉を叩きました。法も秩序も届かぬ無法地帯「奈落」。騎士であった頃の私ならば、浄化の対象としか見なさなかったでしょう。しかし、今の私には、このような場所にこそ澱む「真実」が必要でした。
ギルドの中は、相変わらず酒と血と、諦念の匂いで満ちています。カウンターの奥で、眼窩に歯車を埋め込んだ片目の老兵が、私を一瞥してニヤリと笑いました。
「よう、騎士様。また来たのかい。今度は何の用だ? あのいまいましい仮面の騎士の情報を求めてるって顔だな」
「…ご明察ですね。ゼロの足取りに関する情報を、買い取らせていただきたい」
「ククッ、面白い。あんたみたいな真っ直ぐな正義と、あの神を気取る狂人が連れ立って旅をしてるって噂は、もう奈落中に広まってるぜ。一体どんな化学反応が起きるのか、賭けの対象になってるくらいだ」
老人は、他の傭兵たちが交わす会話に顎をしゃくりました。
「聞いとけ、騎士様。最近の歪みは質が悪い。特に、南の廃鉱山都市グレイストーンに出た奴は最悪だ。最初はただの水カビみてえなもんだったらしいが、鉱山の排水を吸って、今じゃ街半分を飲み込む巨大な肉塊になってるそうだ。おまけに、そいつから生まれる無数の『仔』は、水中をピラニアみてえに泳ぎ回って、人間を骨までしゃぶり尽くすらしい」
「…なんと」
「誰も近づかねえ、死の街だ。だが、あの仮面の騎士は、こともなげに、その地獄のど真ん中に向かっていったそうだぜ。狂人か、あるいは、本物の神か。あんたの目で確かめてきな」
老人は、一枚の羊皮紙を私に滑らせました。そこには、グレイストーンへの最短経路が記されています。私は礼を言い、金貨を数枚カウンターに置くと、その地獄へと向かう決意を固めたのです。
グレイストーンへの道は、荒涼としていました。かつて歪みに飲み込まれたのであろう、廃村の残骸が点在しています。私は、その一つで馬を休ませていました。風が、崩れた教会の鐘を揺らし、寂しい音を立てています。
その廃墟の片隅に、誰が立てたのか、小さな墓標がいくつも並んでいました。名も刻まれていない、ただの石ころの墓です。
私は、そこに花を手向けずにはいられませんでした。私たちが救えなかった、無数の命。その一つ一つに、かつては名前があり、家族があり、夢があったはずなのです。
「…感傷に浸っている場合ですか」
いつの間にか、背後にゼロが立っていました。ゼロは、私の行為を、心底理解できないというように首を傾げます。
「死者は、もはや何の価値も生み出さない。ただの有機物が分解される過程に過ぎん。君のその行為は、完全に無駄なエネルギーの浪費だよ」
「黙りなさい!」
私は、思わず声を荒らげていました。
「彼らは、モノではない!生きていたのです!その記憶を、弔うことに、何の無駄があるというのですか!」
「全てが無駄だ」
ゼロは、冷たく言い放ちました。
「過去を弔う暇があるなら、未来を設計すべきだ。私が創る新世界では、そもそもこのような無意味な死は存在しない。全ての人間は、私という完璧なシステムの歯車として、その寿命を全うするのだからな」
ゼロの言葉は、常に正しい。そして、常に、人の心を無視している。私は、ゼロへの怒りと、そして、ゼロの瞳の奥に揺らめく、底知れない孤独の影に、言葉を失うしかありませんでした。
廃鉱山都市グレイストーンは、死の沈黙に包まれていました。決壊したダムの水が街の低地に流れ込み、巨大な湖を形成しています。そして、その淀んだ水の中を、無数の「何か」が、不気味な影となって泳ぎ回っていました。ギルドで聞いた「仔」です。
私は、建物の屋根を伝い、街の中心部へと向かいました。そして、最も高い時計塔の上で、彼を見つけました。ゼロは、腕を組み、眼下に広がる地獄を、まるでチェス盤でも眺めるかのように静かに観測していました。
「…来たかね、アリア君。君が来ることは、僕の計算通りだよ」
「貴様、この惨状をただ見ていたというのですか!」
「当然だ。まずは敵の生態を完全に分析する。それが、私のやり方だ。さて、データは揃った。君には、再び私の計画の駒となってもらおうか」
ゼロがそう言った瞬間、私たちがいた時計塔が、足元から突き上げるような衝撃で大きく揺れました。湖の中から、巨大な触手が伸び、時計塔に巻き付いてきたのです。母体です!
同時に、湖面が泡立ち、無数の「仔」――魚の身体に無数の牙を持つ、おぞましい生物が、濡れた壁を駆け上がり、私たちめがけて殺到してきました。
「数が多すぎる…!」
私は剣を抜き放ち、壁を登ってくる仔たちを次々と斬り落としていきます。しかし、その数は無限とも思えるほど。一匹を斬れば、三匹がその死骸を乗り越えてくる。このままでは、いずれ飲み込まれてしまう。
「アリア君!奴らの感覚器官は、嗅覚に特化している!そこを突く!」
ゼロが叫びます。ゼロの指さす先には、時計塔の麓にある、鉱山用のランプ置き場がありました。
「あのランプに使われている油だ!あれを湖に撒き、火を放て!強烈な匂いと熱で、奴らの感覚を麻痺させられる!」
ゼロの戦術…それは、生物の習性を的確に突いた、かつての友が得意としたものでした。なぜ、ゼロがそれを…?私の心に、再び疑念の嵐が吹き荒れます。しかし、今は従うしかありません!
私は、時計塔の壁を駆け下りると、ランプ置き場に突入し、油の樽を湖へと蹴り込みました。そして、松明を投げ込むと、湖面は一瞬で火の海と化しました。
炎と油の焼ける強烈な匂いに、仔たちの動きが明らかに混乱します。私は、その隙に、敵の包囲を突破しました。
しかし、火の海は、母体の怒りを買ったようでした。湖の中心が巨大な渦を巻き、そこから、全ての元凶である巨大な肉塊が、その全貌を現しました。それは、もはや特定の生物の形をしていません。無数の目、無数の触手、そして、中心には巨大な口。見る者全ての正気を奪う、混沌の化身でした。
「ククク…ようやく出てきたか、大物め」
ゼロは、少しも動じていませんでした。
「アリア君、聞こえるか!奴を、あの古い発電所まで誘導しろ!」
発電所。それは、この鉱山の動力を司っていた場所。今は放棄されていますが、巨大な魔力発電機が残っているはずです。
私は、ゼロの意図を悟りました。私は、再び囮となり、母体の注意を一身に集め、巨大な肉塊を発電所へと誘導します。母体は、私という小さな獲物を嬲るかのように、巨大な触手を振り回し、建物をなぎ倒しながら追ってきます。
「今だ!飛び乗れ!」
私が発電所の前にたどり着いた瞬間、ゼロの声が響きました。ゼロは、いつの間にか建物の屋上に移動し、巨大なクレーンを操作していたのです。クレーンのフックが私の目の前に降りてきます。私はそれに飛び移り、宙へと舞い上がりました。
母体は、獲物を取り逃がし、怒りの咆哮を上げながら、発電所の壁を突き破って侵入しました。
「チェックメイトだ、醜い肉塊め」
ゼロは、クレーンから飛び降りると、発電所の主電源スイッチに手をかけました。
「この発電所には、緊急時に炉心を暴走させるための自爆装置が残っている。君が奴を引きつけている間に、私がそれを再起動させておいた。そして、起爆スイッチは、この主電源そのものだ!」
ゼロが、スイッチを入れる。
次の瞬間、発電所は、内側から、青白い閃光に包まれました。凄まじい轟音と衝撃波が、街全体を揺るがします。母体は、断末魔の叫びを上げる間もなく、その巨体を魔力の奔流に飲み込まれ、分子レベルで分解されていきました。
私は、クレーンから地上に降り立ち、その光景を呆然と見つめていました。
街は救われた。しかし、私の心は、喜びではなく、底知れない疑念に満たされていました。
全てが終わった後、ゼロは、廃墟と化した街を、まるで自分の庭を散策するかのように歩いていました。私は、ゼロの後を追います。ゼロは、街はずれにある、小さな墓地の前で足を止めました。そこは、かつてこの街で起きた落盤事故の犠牲者を弔うための、名もなき墓標が並ぶ場所でした。
ゼロは、その墓標の一つに、どこで手に入れたのか、一輪の白い花をそっと手向けました。
「…貴様のような者が、死者を弔うとはな」
私の皮肉な言葉に、ゼロは答えませんでした。ただ、仮面の下で、静かに呟いたのです。
「…私の創る新世界に、このような無意味な死は存在しない。誰一人として、忘れ去られることのない、完璧な世界だ」
その横顔は、どこか深い悲しみを堪えているように見えました。しかし、それも一瞬のこと。ゼロはすぐに振り返り、いつもの嘲笑を浮かべます。
「さて、感傷は終わりだ、アリア君。次の舞台へ向かうとしよう。私の計画は、まだ始まったばかりなのだからな」
ゼロはそう言うと、再び、闇の中へと歩き出しました。私は、ゼロが花を手向けた、その名もなき墓標を、ただ、じっと見つめることしかできませんでした。
廃鉱山都市グレイストーンでの死闘の後、私は再びあの仮面の騎士、ゼロの背中を追っていました。ゼロの戦術は、あまりにも異質でした。怪物の習性を読み、化学知識で罠を仕掛ける様は、死んだはずの二人の親友、その二人が融合したかのような、ありえない戦い方。私の心は、拭い去ることのできない疑念と、蘇る過去の痛みで激しく乱れていました。
道中、私はゼロの正体に少しでも迫るべく、問いを投げかけました。
「ゼロ。貴様ほどの力と知性がありながら、なぜ誰にも仕えず、一人で歪みを追うのですか。騎士は王に仕え、民を守ることでその力を正しく使う。貴様の力は、あまりにも危険で、独善的すぎる」
ゼロは、歩みを止めることなく、せせら笑うかのように答えました。
「ククク…面白いことを言う。王に仕えるだと? 愚かな人間が作り上げた、さらに愚かなシステムの歯車になることが、なぜ『正しい』と言えるのかね? 私は誰にも仕えない。私自身が法であり、王だからだ。それに、アリア君」
ゼロは、仮面越しに私を振り返りました。
「信頼かね? 仲間かね? それは、弱者が己の無能さを補うための言い訳に過ぎんよ。真に信頼すべきは、己の知性のみ。それ以外の人間は、全てが利用すべき駒か、あるいは排除すべき障害でしかない」
ゼロの言葉は、騎士としての私の誇りを、根底から否定するものでした。しかし、10年もの間、たった一人で戦い続けてきた私の魂が、ゼロの言う「孤独」に、ほんのわずかに共鳴してしまったことを、私は認めざるを得ませんでした。
私たちは、雪深い山脈地帯に差し掛かりました。その麓に、黒い染みのように広がる、廃墟と化した街の残骸がありました。街の名は「ヘイブンウッド」。10年前、「大いなる沈黙」が起こる少し前、私と、二人の友人が、初めて止められなかった歪みの現場です。
強力な魔力嵐が街を襲い、私たちの力ではどうすることもできず、多くの民が命を落としました。その無力感は、今も私の胸に重く突き刺さっています。
私は、馬を降り、街の中心にあった広場の跡地へと、導かれるように歩いていました。そこには、誰が立てたのか、小さな慰霊碑が静かに佇んでいます。私は、その前に膝をつき、祈りを捧げずにはいられませんでした。救えなかった命、果たせなかった誓い。その全てが、冷たい風となって私の頬を打ちます。
どれほどの時間が経ったでしょうか。私が顔を上げると、少し離れた場所に、ゼロが立っていました。ゼロは、ただ黙って、慰霊碑を、そして、この廃墟の街を見つめていました。雪が、ゼロの純白のコートの肩に静かに降り積もっていきます。
その横顔は、どこか深い悲しみを湛えているように見えました。ゼロは、一体ここで何を見ているというのか。私が声をかける前に、ゼロは再びいつもの嘲笑を浮かべ、私に背を向けました。
「感傷は終わりかね、女騎士。死んだ人間に祈りを捧げても、一文の得にもならんぞ。さあ、行くぞ。次の舞台が、私たちを待っている」
ゼロの仮面の下の表情を、私は知ることができません。しかし、ゼロの魂もまた、私と同じように、何か重い過去に縛られているのではないか。そんな、ありえないはずの考えが、私の心をよぎったのです。
山脈を越えた先にある、天文台都市「シルバートップ」。それが、次の歪みの兆候が観測された場所でした。しかし、街へと続く街道で、私たちは一人の男とすれ違いました。彼は、高価そうな学者のローブをまとっていましたが、その服は泥と血で汚れ、その瞳は恐怖で正気を失っていました。
「…来るな…あの街へは、行くんじゃない…」
彼は、震える声で、私たちに警告しました。
「みんな…みんな、おかしいんだ…。見た目は同じなのに、中身が違う…。私の助手も、昨日まで冗談を言い合っていた衛兵も、みんな、別人になってしまった…。笑わないし、泣かない。ただ、俺を、じっと、値踏みするような目で見てくるんだ…。あれは、もう、人間じゃない…!」
男は、狂ったように叫びながら、街道を駆け下りていきました。私は、彼の言葉に、ただならぬ胸騒ぎを覚えます。
「フン。集団ヒステリーか、あるいは未知の精神汚染か。どちらにせよ、実に興味深いサンプルが手に入りそうだ」
ゼロは、これから向かう先に待つであろう恐怖に、ただ、知的な好奇心を燃やしているだけでした。
天文台都市シルバートップは、雪に覆われ、死んだように静まり返っていました。街を行く人々は、皆、どこか無表情で、生気を感じさせません。私たちは、街の異変の中心である、山頂の巨大な天文台へと向かいました。
その天文台の入り口で、私たちを待っていたのは、完全武装した数名の衛兵でした。
「待て。ここから先は、領主様の許可なく立ち入ることはできん」
衛兵隊長が、冷たい声で言います。しかし、その瞬間、ゼロが私の前に立ちました。
「ククク…見事な擬態だな。だが、私の目は誤魔化されんよ」
「何を言うか、不審者め!」
「教えてやろう。君たちの致命的なミスをな。君たちは、この極寒の地で、誰一人として、息を白くしていない」
その言葉と同時に、衛兵たちの顔が、粘土のように歪みました。彼らの身体が内側から裂け、そこから、おぞましい肉と触手の塊が溢れ出してきます。それは、遭遇した生物を細胞レベルで模倣し、成り代わる、異次元の生命体でした。
「ギシャアアアアアッ!」
人間だったものとは思えぬ咆哮と共に、擬態を解いた怪物たちが襲いかかってきます。私は剣を抜き放ち、一体の腕を切り落としました。しかし、切り離された腕は、それ自体が独立した生命体のように蠢き、私の足に噛みついてきます。
「駄目だ!こいつらは、一体一体が群体!切り刻んでも意味がない!」
「ならば、燃やせばいい」
ゼロは、こともなげに言いました。
「奴らの細胞結合は、極度の高温には耐えられんはずだ」
彼は、衛兵詰所にあったオイルランプを蹴り倒し、瞬く間に火の壁を作り出しました。怪物たちは、炎に焼かれ、断末魔の叫びを上げて炭化していきます。しかし、数体は炎の壁を突破し、私たちに迫ってきました。
私たちは、天文台の資料室へと逃げ込み、バリケードを築きました。扉の向こうからは、怪物が壁を叩く、不気味な音が響き続けています。
「…どうやら、閉じ込められたようだな」
ゼロは、この状況でさえ、楽しんでいるかのようでした。
「さて、アリア君。籠城戦で最も重要なのは、冷静な思考だ。君のその、感情に左右されやすい脳をテストしてやろう。ここに、三人の学者がいる。一人は常に真実を語り、一人は常に嘘を語り、もう一人は気まぐれに嘘と真実を使い分ける。君は、二回だけ『はい』か『いいえ』で答えられる質問をすることで…」
「黙りなさい!」
私は、ゼロの不謹慎な遊戯を遮りました。
「今は、そんなことをしている場合ではないでしょう!」
「フフフ…これも、生き残るための訓練だよ。思考を放棄した者に、勝利はないのだからな」
私は、ゼロの言葉に反論できず、悔しげに唇を噛み締めるしかありませんでした。ゼロの精神構造は、やはり、私の理解を超えています。
扉を叩く音が、止みました。静寂。しかし、それは、嵐の前の静けさに過ぎませんでした。やがて、扉の向こうから、助けを求める声が聞こえてきました。
「助けてくれ!俺は、本物の人間だ!あいつらに追われているんだ!」
扉の覗き窓から見ると、そこには、血まみれの若い学者が、必死の形相で扉を叩いていました。
「…開けてはなりません。おそらく、罠です」
私は、冷静に判断しました。
「ほう?なぜそう思う?」
「彼の震え方、呼吸のリズム。恐怖に怯えているにしては、あまりにも演技がかっています。騎士の勘が、そう告げています」
「ククク…面白い。君のその非合理的な『勘』とやらが、どこまで当たるか、見せてもらおうか」
ゼロは、私の警告を無視し、扉の閂を外しました。
「さあ、入るがいい。君が、本物の人間であるというのならな」
学者は、安堵の表情を浮かべ、部屋に駆け込んできました。しかし、彼がゼロの横を通り過ぎた瞬間、ゼロは、隠し持っていた短剣を、学者の心臓に深々と突き立てました。
「な…ぜ…」
学者は、信じられないという顔で、ゼロを見上げました。
「簡単なことだ。君は、私が扉を開ける直前、ほんの一瞬だけ、口元に満足げな笑みを浮かべた。本物の生存者なら、ありえない反応だ。君の芝居は、実に惜しかったな」
ゼロの言葉と同時に、学者の身体は、先ほどの怪物と同じ、おぞましい肉塊へと姿を変え、そして、完全に沈黙しました。
私は、ゼロの冷徹な判断力と、人間心理を見抜く洞察力に、戦慄を覚えました。ゼロは、ただの狂人ではない。ゼロは、悪魔的なまでの知性で、この地獄を支配しようとしているのです。
私たちは、この異変の元凶が、天文台の最上階にある巨大な天体望遠鏡そのものであることを突き止めました。望遠鏡の巨大なレンズが、歪みへのゲートと化し、そこから怪物が無限に供給されていたのです。
最上階にたどり着いた私たちを待っていたのは、この天文台にいた全ての人間を取り込み、巨大な肉の山と化した、怪物の本体でした。それは、もはや定まった形を持たず、無数の顔、無数の手足が、脈打つ一つの巨大な肉塊から、無秩序に生えています。
「…ここまでです」
私は、剣を構えました。これほどの巨体を、どうやって倒せばいいのか。
「アリア君!奴の核は、望遠鏡のレンズと融合している!あのレンズを破壊すれば、歪みとの接続を断ち切れるはずだ!」
ゼロの指示。しかし、レンズは、肉塊の最も奥深くで、無数の触手に守られています。
「私が、道を開きます!」
私は、最後の力を振り絞り、肉塊へと突撃しました。生えてくる手足を切り払い、触手をいなし、ただひたすらに、レンズを目指します。その間、ゼロは、望遠鏡の制御盤を操作し、レンズの焦点を、ありえない角度へと強制的に曲げていきました。
「何をしているのです!」
「フフフ…見ていれば分かるさ。神の、裁きの光をな!」
私が、肉塊の防御を突破し、レンズの目の前にたどり着いた、まさにその瞬間。ゼロは、望遠鏡の観測対象を、夜空の星から、地平線の彼方に昇り始めた「太陽」へと向けたのです。
巨大なレンズは、太陽の光を一点に収束させ、凄まじい熱量の光線となって、自らの核である部分と、それを守る肉塊を、内側から焼き尽くしました。
「グオオオオオオオオオオオッ!!」
怪物の、最後の断末魔が、天文台全体を揺るがします。
全てが終わった後、そこには、焼け焦げた肉の残骸と、砕け散った巨大なレンズだけが残されていました。
私たちは、またしても生き残りました。しかし、ゼロのやり方は、常に、私の想像と、騎士としての倫理観を、遥かに超えていました。
ゼロの戦術には、かつての二人の友人の、その両方の影が見えるのです。ありえない。死んだはずの二人が、なぜ、この者の中に…。
私は、答えの出ない問いを胸に、ただ、朝日が昇る、静かになった街を、見下ろすことしかできませんでした。
山脈を越え、私たちは広大な海が見える崖の上で野営をしていました。眼下に広がる紺碧の海原は、どこまでも続き、水平線の先には何があるのか、私には想像もつきません。
「…美しい」
私は、思わず呟きました。
「海は、あらゆるものを飲み込み、そして、あらゆる生命を育む。騎士であった頃、海の向こうには未知なる冒険が待っていると、胸を躍らせたものです」
私の感傷を、隣で地図を広げていたゼロが、鼻で笑いました。
「美しいかね?私には、ただの巨大な塩水溶液にしか見えんがな。潮の満ち引きは月の引力による、計算可能な物理現象。そこに存在する生命体もまた、生存競争という名の単純なプログラムに従って動いているだけだ。君の言う『冒険』などという非合理的な概念が入り込む余地はない。全ては、予測可能な数式だよ」
「貴様には、ロマンというものがないのですか」
「ロマンとは、論理的思考を放棄した者の、現実逃避の言い訳に過ぎん。私が創る新世界では、そのような曖昧なものは必要ない」
ゼロは、常にそうなのです。私が世界に見出す感傷や美しさを、ことごとく、冷たい数式で解体していく。その度に、私の心は苛立ちと、そして、得体の知れない寂しさに包まれるのでした。
次の歪みの兆候が観測されたのは、大陸南東の巨大な港湾都市「ポート・メリディアン」でした。そこは、世界中から富と人とが集まる、活気に満ちた交易の拠点のはずでした。しかし、私たちが足を踏み入れたその街は、不気味なほどの静寂に包まれていました。
人々は黙々と働き、すれ違っても挨拶一つ交わしません。市場には品物が溢れているのに、値切る声も、客を呼び込む声も聞こえない。誰もが、同じような無表情で、同じような歩幅で、プログラムされた機械のように動いているのです。
「…妙です。この街の活気は、どこへ消えたというのですか」
「ククク…消えたのではない。最適化されたのだよ、アリア君」
ゼロは、楽しげに周囲を見渡しています。
「無駄な会話、無駄な感情の起伏、それら全てが排除され、人々はただ、己の役割を黙々とこなしている。素晴らしいじゃないか。私の理想とする世界の、初期段階を見ているようだ」
ゼロの言葉に、私は背筋が凍るのを感じました。その時、街角で言い争う声が聞こえました。この街に来て初めて聞く、人間の感情的な声でした。
「だから違うんだ!昨日の夜、俺の女房が納屋で巨大なサヤエンドウみてえなモンに包まれてるのを見たんだ!そして今朝、そこから出てきた女房は、見た目は同じなのに、もう、俺の知ってる女房じゃなかったんだよ!」
「またその話か、ハリス。お前は疲れているんだ。医者に見てもらえ」
一人の男が、必死の形相で訴えていますが、周囲の人々は彼を狂人として扱い、誰も耳を貸そうとしません。私は、彼の言葉に、ただならぬものを感じ取りました。人々が、入れ替わっている?まさか…。
その夜、私たちは、ハリスと名乗る男の話の真偽を確かめるため、街の倉庫街に潜んでいました。すると、暗がりで、街の衛兵が、一人の商人を路地裏へと引きずり込んでいくのが見えました。商人は抵抗しますが、衛兵はまるで感情がないかのように、その首を絞め上げ、意識を失わせます。
次の瞬間、近くに置かれていた巨大な麻袋――ハリスの言っていた「サヤエンドウ」が、音もなく口を開き、商人の身体を飲み込みました。そして、数分後。再び袋の口が開き、そこから、先ほどの商人と寸分違わぬ姿の「何か」が、無表情で出てきたのです。後に残された袋の中には、人間の形をした、灰色の抜け殻だけが残されていました。
「…そういうことか」
ゼロは、満足げに頷きました。
「この街は、既に別の何かに乗っ取られているのだな」
正体不明の侵略者。その事実に、私は戦慄しました。私たちがその場を離れようとした時、新しい商人の姿になった怪物が、私たちの方を向き、その口から、人間のものではない、甲高い叫び声を発しました。警報です。
次の瞬間、街の全ての建物の窓から、路地の暗がりから、無数の、無表情な市民たちが、一斉にこちらを向きました。そして、音もなく、しかし、恐るべき速度で、私たちを捕らえようと走り出したのです。それは、もはや人間ではありません。一つの意志の下に動く、狩人の群れでした。
私たちは、全力で走り出しました。背後からは、何百という無表情な追手が、一切の声を上げることなく、ただ、私たちを捕らえるという目的のためだけに迫ってきます。それは、どんな雄叫びよりも恐ろしい光景でした。
「くっ…!キリがありません!」
私が剣で数人を斬り伏せても、彼らは痛みを感じないかのように立ち上がり、再び追いかけてきます。
「愚かだな、アリア君。奴らは、君を殺そうとしているのではない。仲間にしようとしているのだ。だから、手足を斬っても意味がない!」
私たちは、港のクレーンやコンテナが迷路のように入り組んだ埠頭へと逃げ込みました。追手たちは、壁を駆け上がり、コンテナの上を飛び移り、人間業とは思えぬ動きで私たちを包囲していきます。
「こっちだ!」
私は、海に停泊していた一隻の古い漁船に飛び乗りました。ゼロも後に続きます。私は、繋がれていた舫い綱を剣で断ち切りました。船は、ゆっくりと岸を離れていきます。これで、逃げ切れる。そう思った瞬間、追手たちは、躊躇なく、次々と海へと飛び込み、凄まじい速度で船を追いかけてきたのです。彼らは、もはや呼吸さえ必要としない、別の生き物へと成り果てていました。
私たちは、船倉に隠れ、息を潜めていました。船底を叩く、追手たちの不気味な音が、絶え間なく響いています。
「…眠れそうにありませんね」
私は、この緊張感の中で、思わず本音を漏らしました。故郷を焼かれた日以来、私はまともに眠れたことがありません。常に悪夢にうなされるのです。友を救えなかった後悔、民を守れなかった罪悪感。それが、眠りという安らぎさえも私から奪っていきます。
「睡眠か」
ゼロは、暗闇の中で静かに答えました。
「実に非効率的な生命維持活動だ。私の創る新世界では、人々は睡眠など必要としない。ナノマシンによる肉体の修復と、記憶の最適化を、活動しながら同時に行う。夢という、非合理的なノイズに精神を蝕まれることもない。完璧なシステムだ」
「…夢を見ないのですか、貴方は」
「無論だ。私は、感傷に浸るために思考のリソースを割くほど、無能ではないのでね」
ゼロの言葉は、常に私との間に、越えられない壁を作ります。しかし、その時、私はゼロの声に、ほんのわずかな、寂しさのような響きを感じ取ったのです。夢を見ないのではなく、あまりにも多くの悪夢を見たために、夢を見ることをやめてしまったのではないか。そんな考えが、私の頭をよぎりました。
私たちは、追手を振り切り、この異変の元凶と思われる、街の中心にそびえ立つ巨大な植物園へと潜入しました。そこは、美しい花々が咲き乱れる、偽りの楽園。そして、その中央にある巨大な温室こそが、全ての元凶でした。
温室の中には、街の人間と同じ数の、巨大なサヤエンドウが、不気味に脈打ちながら栽培されていました。そして、その中心には、ひときわ巨大な「母体」が鎮座し、街全体にテレパシーのようなもので指示を送っていたのです。
「あれを破壊すれば、奴らのネットワークは断ち切れるはずです!」
私が剣を構えた瞬間、周囲のサヤエンドウが、一斉に口を開き、中から、完全な戦闘形態へと変貌した擬態人間たちが、襲いかかってきました。
「計画通り、私の知性で敵を殲滅する!」
ゼロは、温室の管理システムをハッキングし、スプリンクラーから植物の成長を阻害する除草剤を散布し始めました。擬態人間たちは、植物に近い性質を持つのか、除草剤を浴びて苦しみ始めます。
「アリア君!母体を叩け!奴らの精神的支柱を破壊するのだ!」
私は、弱った擬態人間たちの壁を突破し、母体へと斬りかかりました。しかし、母体は強力な精神攻撃を放ち、私の脳裏に、故郷が炎に包まれる幻覚を見せてきます。
「ぐっ…!」
動きが鈍った私に、母体の触手が迫ります。絶体絶命。
その時、ゼロの声が響きました。
「目を覚ませ、アリア君!それは偽りの過去だ!君が見るべきは、私が創る完璧な未来だけだ!」
ゼロの、傲慢極まりない声。しかし、その声が、不思議と私の意識を現実へと引き戻しました。私は、幻覚を振り払い、渾身の力を込めて、母体の核へと剣を突き立てました。
母体は、断末魔の精神波――街中に響き渡る、甲高い叫び声――を放ち、そして、完全に活動を停止しました。
擬態人間たちもまた、操り主を失った人形のように、その場に崩れ落ちていきました。
街は、静寂を取り戻しました。しかし、それは、住民のほとんどが抜け殻になってしまった、死の静寂でした。
私たちが、またしても、救いようのない勝利を手にした、その時です。
母体が放った最後の精神波。それは、ただの断末魔ではありませんでした。それは、世界中に散らばる「歪み」を共振させ、活性化させるための、巨大な信号だったのです。
私の頭の中に、直接、声が響き渡りました。
それは、10年間、忘れることのなかった、友の声。
『…助けて…。もう、終わりにしたい…。全てを、無に…還したい…』
私は、声のする方角――世界の中心に聳え立つという、「創世の祭壇」の方角を、見つめました。
同時に、ゼロが、仮面の下で、初めて、苦痛に満ちた声を漏らすのを聞きました。
「…亡霊どもめ…!」
「創世の祭壇」へと向かう旅は、世界の終わりを巡る旅でもありました。「友」の呼び声に呼応するかのように、世界中の歪みが活性化し、その法則が少しずつ崩壊し始めていたのです。
私たちは、かつて宿場町として栄えた「オータムリーフ」という街を通りかかりました。しかし、そこに往時の賑わいはありません。街の人々は、まるで夢遊病者のように、一様に南の方角――創世の祭壇がある方角――を向き、虚ろな目で何かを呟いているのです。
「…静寂が、来る…」
「…全ては、無に…還る…」
「これは…」
私は息を呑みました。
「街の人間全てが、静寂の王の精神汚染に…!」
「フン。脆弱な精神を持つ人間は、淘汰される。自然の摂理だよ」
ゼロは、道端で倒れている老婆を、まるで石ころでも見るかのように一瞥し、言い放ちました。ゼロの言う通り、街には弱い者から順に倒れていく、緩やかな死が満ちていました。空には不気味な緑色のオーロラが揺らめき、大地は常に、低い唸りのような音で震えています。世界が、友の狂気に共鳴し、悲鳴を上げている。私は、一刻も早くこの狂気の連鎖を断ち切らねばならないと、決意を新たにしました。
創世の祭壇に近づくにつれ、大地は魔力の瘴気に蝕まれ、不毛の荒野へと姿を変えていきました。植物は枯れ、動物の姿はなく、ただ、歪んだ岩々が墓標のように立ち並ぶばかりです。
その、死の大地で、私たちは「彼ら」に襲われました。
「グルルル…」
岩陰から現れたのは、かつてこの地の住人だった者たちの成れの果て。瘴気によって肉体を歪められ、理性を失い、ただ通りかかる者を襲って喰らうだけの、野盗と化した集団でした。その目は飢餓と狂気に濁り、その手には粗末な棍棒や錆びついた刃物が握られています。
「問答無用!」
私は、彼らを斬ることに躊躇いはありませんでした。彼らはもはや救うべき民ではなく、無垢な旅人を襲う脅威。騎士として、これを排除するのは当然の務めです。私は剣を抜き放ち、野盗の群れへと単身で突撃しました。
私の剣は、的確に急所を捉え、一人、また一人と、狂気の魂を肉体から解放していきます。しかし、彼らは死の恐怖さえも失っているのか、仲間が倒れるのも構わず、獣のような叫び声を上げて次々と襲いかかってくるのです。
「非効率的だな。まるで意思を持たない蟻の群れだ」
ゼロは、後方で戦況を分析していましたが、やがて、おもむろに動き出しました。ゼロは、野盗の一人を無力化すると、その身体を調べ始めます。
「ふむ。瘴気への長時間の曝露により、松果体が異常発達し、凶暴性が増している。だが、同時に、聴覚が極端に鋭敏になっているな…」
彼は、懐から金属製の笛を取り出すと、人間には聞こえない、しかし野盗たちの脳を直接揺さぶる、甲高い不協和音を奏でました。
「グギャアアアアアッ!」
野盗たちは、一斉に頭を抱えて苦しみ始め、統制を失います。その隙を、私は見逃しませんでした。一瞬で残敵を掃討し、私たちはその場を切り抜けたのです。
彼の戦術は、またしても私の知らないものでした。生物学的な弱点を的確に突くその様は、まるで、かつての友のようでした…。
野盗との戦いで、私の腕甲が僅かに損傷しました。野営の際、私が予備の革紐でそれを修理していると、ゼロが声をかけてきました。
「その腕甲、かなり古いものと見える。なぜ、もっと性能の良いものに変えないのかね?感傷という非合理的な理由でないことを祈るが」
「…これは、私が騎士団に叙任された日に、父から賜ったものです」
私は、静かに答えました。
「私にとっては、騎士としての誇りの象徴。性能云々で語るべきものではありません」
「誇り、か。鉄の塊に、意味のない価値を付与するとは、人間とは実に面白い」
ゼロはそう言うと、自らの手袋を外し、その手を見つめました。その手の甲に、古い、一筋の傷跡があるのを、私は見逃しませんでした。それは、まるで獣の爪で引かれたかのような傷でした。
「貴様のその傷は?」
「…フン。過去の失敗の記録だよ。私が、まだ神ではなく、ただの無力な人間だった頃のな」
ゼロはそれ以上語ろうとせず、再び手袋を装着しました。しかし、私は確かに見たのです。その傷を見つめるゼロの瞳の奥に、一瞬だけよぎった、深い、深い悔恨の色を。
創世の祭壇まで、あと数日の距離にまで迫った時、「友」の呼び声は、物理的な攻撃となって私たちを襲い始めました。
「うっ…!」
突如、私の頭を、割れるような痛みが襲いました。視界が歪み、目の前に、ありえないはずの光景が広がります。
炎。
全てを焼き尽くす、帝国の殲滅魔法の炎。
私の故郷、クライフォルトが、燃え落ちていく。助けを求める民の悲鳴、建物の崩れる轟音、そして、その炎の中に消えていく、母の最後の姿。
「母上!母上ェェェッ!!」
私は、絶叫していました。目の前に、故郷を焼いた帝国兵の幻影が見えます。私は、憎悪のままに剣を抜き放ち、その幻影へと斬りかかっていました。
「目を覚ませ、アリア!」
強い衝撃と共に、私の意識が現実へと引き戻されます。ゼロが、私の頬を張ったのでした。ゼロの仮面の下の瞳は、焦りと、そして、見たこともないほどの真剣な色を浮かべていました。
「それは幻だ!静寂の王が、君の記憶を読み取り、最も弱い部分を攻撃しているのだ!精神力で抗え!論理で、その幻影を否定しろ!」
ゼロの、冷たい、しかし力強い声。私は、必死に、これは偽物だと自分に言い聞かせます。炎が消え、母の幻影が遠のいていく。
しかし、安堵したのも束の間、今度はゼロが、その場に膝から崩れ落ちました。
「ゼロ…!?」
ゼロは、仮面を押さえ、苦悶の声を上げています。ゼロの精神が、今度は攻撃を受けているのです。私は、ゼロの身を守るように剣を構えながら、彼の心に流れ込んでくる映像の断片を、感じ取りました。
それは、地獄でした。
自らの善意が最悪の結果を招いたことに絶望し、ただ、立ち尽くすことしかできない、一人の騎士の姿…。
それは、私が知らない、しかし、ゼロの魂に深く刻まれた、決して消えることのない罪の記憶。その絶望の深さに、私は戦慄しました。
「…ククク…面白い。面白いじゃないか…!」
ゼロは、血を吐きながらも、立ち上がりました。その瞳は、狂気と、そして、それを上回るほどの、絶対的な意志の光を宿していました。
「私の過去を抉ったところで、無駄なことだ!その絶望さえも、私が創る新世界の礎にしてやろう!」
ゼロは、自らの精神力だけで、「友」の精神攻撃をねじ伏せたのです。
しかし、私たちの消耗は明らかでした。そして、敵は、その好機を見逃しませんでした。
再び、あの瘴気に蝕まれた野盗の群れが、私たちの前に姿を現したのです。彼らは、「友」の呼び声に引かれ、この場所へと集まってきていたのです。
「…やるしか、ありませんね」
「ああ、計画通りだ」
私たちは、背中合わせになりました。精神は疲弊し、肉体は限界に近い。しかし、私たちは、互いの背中を預け合う、唯一の仲間でした。
私が、物理的な攻撃を仕掛けてくる野盗たちを剣で食い止め、ゼロが、精神攻撃を仕掛けてくる「友」の思念波を、その強靭な精神力で相殺し、防ぎます。
それは、あまりにも歪で、あまりにも絶望的な共闘でした。しかし、その時、私たちは確かに、一つの目的のために戦っていたのです。
全ての野盗を倒した時、私たちは、近くの洞窟に倒れ込むようにして、身を隠しました。
静かな洞窟の中、揺れる焚き火の光だけが、私たちの疲弊しきった顔を照らしていました。
私は、ゼロを見つめていました。
ゼロが、なぜ、私を助けたのか。
ゼロが、なぜ、あれほどの地獄をその魂に抱えているのか。
ゼロの戦術に宿る、二人の親友の面影。
そして、私を助けた、あの不器用な優しさ。
もう、限界でした。私の、騎士としての理性も、一人の女としての感情も、全てが限界に達していました。
私は、震える声で、ゼロに問いかけました。
「教えなさい」
私の声が、洞窟に響きます。
「貴様の戦術…。私を助けた、あの時の動き…。そして、貴様が見た、あの悪夢…。貴様は、一体、誰なのですか!」
私の、魂からの問いかけ。
ゼロは、しばらくの間、何も言わず、ただ、揺れる炎を見つめていました。やがて、ゼロは、ゆっくりと立ち上がります。
「ククク…私が誰か、かね?そんなことは、どうでもいいことだ。今は、目の前の事実に集中すべきだ、アリア君。静寂の王が、最後の儀式を始めようとしている。感傷に浸っている暇はないぞ」
ゼロは、またしてもはぐらかしました。しかし、その仮面の下で、赤い瞳が激しく揺れていたのを、私は見逃しませんでした。ゼロは、何かを隠している。私に、決して知られてはならない、何かを。
私たちは、創世の祭壇へと続く、最後の道を駆けていました。もはや道と呼べるものではなく、「友」の呼び声に共鳴し、大地そのものが脈打つ、冒涜的な回廊でした。空は、血のような赤黒い色に染まり、地面からは、結晶化した絶望が、鋭い刃のように突き出しています。
「来るぞ!」
ゼロの声。私たちの行く手を阻むように、大地から、「友」の思念が生み出した「抗体」が姿を現しました。それは、かつて私たちが倒してきた歪みの怪物たちの記憶が、悪意を持って再構成されたかのような、歪なキメラたちでした。
「フン、出来損ないの紛い物め!」
私は剣を抜き放ち、キメラの群れへと斬り込みます。しかし、奴らの動きは、生前のそれとは比較にならないほど、統率が取れていました。
「まずいな、奴らは思考を共有している。一体を攻撃すれば、全ての個体がそれを学習し、即座に対応してくる!」
ゼロの分析通り、私の剣筋は、数合打ち合ううちに見切られ、じりじりと追い詰められていきます。馬から引きずり下ろされ、無数の爪と牙に囲まれる。絶体絶命。
その時、ゼロが動きました。ゼロは、馬車の荷台に積んでいたオイルの樽を蹴り倒し、魔術で着火。一瞬で作り上げた火の壁で、キメラたちの突進を食い止めます。
「アリア君!馬車に乗れ!このまま正面から突破する!」
ゼロは、燃え盛る荒野を、一台の馬車で突き進むという狂気の選択をしたのです。左右から迫るキメラたちを、私は剣で薙ぎ払い、ゼロは正確無比な投擲で、敵の急所だけを的確に破壊していく。車輪は軋み、馬はいななき、炎と血飛沫の中を、私たちは、ただ、祭壇だけを目指して疾走しました。それは、あまりにも無謀で、あまりにも、壮絶な、世界の終わりへの旅路でした。
キメラの群れを突破した私たちがたどり着いた「創世の祭壇」。そこは、もはや、この世界の法則が通用しない、異次元の空間でした。
空には、巨大な歯車が、意味もなく回転し、地面からは、水晶でできた、ねじれた樹木が生えています。空間そのものが歪み、遠近感は狂い、まっすぐ歩いているはずなのに、いつの間にか、元の場所に戻っている。そして、空気は、無数の魂の囁きのような、静かな、しかし、決して止むことのない音で満ちていました。
「…ここは…」
「フフフ…どうやら、静寂の王は、自らの心象風景で、この世界を上書きしようとしているらしい。趣味の悪い芸術だな」
ゼロは、この狂った空間でさえ、冷静に分析していました。私たちは、その異様な風景の中を、中心部を目指して進んでいきました。道中、私たちは、鏡のように磨かれた黒い石柱が、無数に立ち並ぶ回廊を通りかかりました。
「気をつけろ、アリア君。あの石柱に、精神を同調させるな」
ゼロの警告。しかし、私は、その石柱の表面に映る「何か」に、気づいてしまいました。それは、私の姿ではありませんでした。故郷で、母と共に笑う、幼い私の姿。騎士団の仲間たちと、誓いを立て合う若き日の私の姿。そして…二人の友、三人で、他愛のない話で笑い合っている、あの日の私たちの姿でした。
それは、見る者の、最も幸福だった記憶を映し出し、その魂を永遠にその中に閉じ込める、甘美な罠だったのです。私は、危うくその追憶に囚われるところでした。
祭壇の中心部にたどり着いた私たちを待っていたのは、もはや「友」の姿ではありませんでした。そこにあったのは、光と、情報と、そして純粋な悲しみが渦巻く、巨大なエネルギーの奔流。静寂の王でした。
それは、物理的な攻撃が通用する相手ではありません。私たちが足を踏み入れた瞬間、王は、私たちの精神そのものに攻撃を仕掛けてきました。
私の意識は、再び、故郷が燃えるあの日の炎に包まれました。母の悲鳴が、耳から離れません。
『お前のせいだ、アリア。お前が、無力だったから、全ては失われたのだ』
声が、響きます。私は、憎悪に駆られ、幻影の帝国兵に斬りかかろうとしました。
しかし、その狂気に堕ちる寸前、ゼロが、私の腕を掴みました。
「目を覚ませ、アリア!それは、君の罪悪感が見せる幻だ!過去は変えられない!だが、未来は、君自身の手で変えられるはずだ!」
ゼロの言葉は、論理的で、冷たい。しかし、その奥に、私の心を現実へと引き戻す、強い意志の力が宿っていました。私は、幻影を振り払います。
しかし、今度はゼロが、その場に膝から崩れ落ちました。彼の仮面が、カタカタと震えています。
「ゼロ…!?」
彼の精神が、今度は攻撃を受けているのです。私は、彼の身を守るように剣を構えながら、彼の心に流れ込んでくる映像の断片を、感じ取りました。
それは、私が知らない、しかし、彼の魂に深く刻まれた、決して消えることのない罪の記憶。その絶望の深さに、私は戦慄しました。
静寂の王は、私たちの精神攻撃が通用しないと悟ると、最後の手段に出ました。祭壇のエネルギーを暴走させ、この空間そのものを、私たちごと消滅させようとしたのです。
「…ここまで、か」
私が、全てを諦めかけた、その時。
ゼロが、立ち上がりました。彼は、私を背にかばうように、暴走するエネルギーの奔流の前に、立ちはだかります。
「アリア。君は、「友」を殺したいのか?それとも、救いたいのか?」
「それは…!」
「私は、救いたい。たとえ、『友』がそれを望まなくともな」
私は、「友」を討つことだけを考えていました。しかし、ゼロの言葉は、私の心の奥底に眠っていた、本当の願いを呼び覚ましました。そうです、私は、友を救いたかったのです。
「ならば、私に続け。私たちの手で、この馬鹿げた神々の遊戯を、終わらせるぞ」
私が、頷いたのを確認すると、ゼロは、暴走するエネルギーの中心――静寂の王へと、向かっていきました。
私は、ゼロの後を追います。
「友……エラーラを殺せるのは、私たちだけだ。そして、救えるのも、私たちだけのはずだ」
ゼロは、そう呟くと、静かに、その白銀の仮面を、外しました。
そこに現れたのは、10年の時を経て、深い絶望と罪の記憶を、その顔に刻み込んだ、私が誰よりもよく知る、親友の顔でした。
その瞳、その佇まい、そして、不器用な優しさ。
「…ケンジ…?」
私の口から、ほとんど声にならない声が、漏れました。涙が、視界を滲ませます。
生きていた。彼は、生きていたのです。
「ケンジ…なぜ…なぜ、黙っていたのです…!」
私は、涙ながらに彼に詰め寄りました。
「なぜ、私に、生きていたと告げてくれなかったのですか!」
彼は、私の方を振り返ることなく、静寂の王を見据えたまま、冷たく答えました。その声は、まだゼロのものでした。
「…ケンジは、10年前に死んだ。あの無力で、感傷的で、誰も救うことのできなかった男は、地獄の果てで死んだのだよ。今、ここにいるのは、ゼロ。この腐敗した世界を、完璧な論理と力で支配する、新世界の神だ」
彼の言葉は、再会の喜びを、一瞬で、絶望の淵へと叩き落としました。生きていた。しかし、彼の心は、魂は、とうの昔に死んでいた。私たちの前に立っているのは、友の顔をした、全く別の、冷酷な何かなのです。
しかし、それでも。それでも、私は、信じたい。彼の魂の、どこか片隅に、私が知る、あの不器用で心優しいケンジが、まだ、生きていることを。
「君に、見せてやろう。ケンジという男が、いかにして死んだのかを」
ケンジは、そう言うと、私に手を差し伸べました。私がためらいながらもその手に触れた瞬間、彼の記憶が、奔流となって私の脳内に流れ込んできました。
10年前、儀式は失敗しました。エラーラは世界の歪みそのものと融合し、ケンジは、次元の裂け目へと弾き飛ばされたのです。
彼が流れ着いたのは、魔法が存在しない、鋼鉄と硝子と、そして、底知れない孤独でできた異世界…「地球」と呼ばれる場所でした。空には鉄の鳥が飛び、夜は偽りの星々が煌めく。彼は、その世界の圧倒的な科学技術と、人々の心の貧しさに、絶望しました。彼は獣医師としての知識で必死に生き抜こうとしましたが、異質な存在である彼は、常に奇異の目で見られ、利用され、裏切られました。
彼の優しさは、その世界では「弱さ」でしかありませんでした。誰も救えず、誰にも理解されず、彼は10年もの間、たった一人で、ガラスの箱庭のような孤独地獄を生きてきたのです。そして、彼は変わりました。優しさを捨て、心を殺し、ただ、故郷へ帰るという目的のためだけに、非情な論理と思考を手に入れた。彼が私たちの世界へ帰還した時、心優しき獣医師ケンジは、もうどこにもいなかった。そこにいたのは、全てに絶望し、神を名乗ることでしか自らを保てない、空っぽの器「ゼロ」だけだったのです。
彼の10年分の孤独と絶望が、私の魂を叩きのめしました。私は、彼が背負ってきたものの、あまりの重さに、ただ涙を流すことしかできませんでした。
「エラーラもまた、悪ではなかった」
ケンジは、苦しげに語り始めました。
「彼女は、この世界の、終わりなき争いや苦しみを、心から憎んでいた。彼女は、この創世の祭壇を使い、世界の法則を書き換えようとしたのだ。人間の魂から、『争い』という概念そのものを、外科手術のように、完全に除去しようと…」
それは、あまりにも純粋な願いでした。しかし、儀式は失敗したのです。
「人間の心は、彼女の完璧さを、拒絶した。愛と憎しみ、善と悪、喜びと悲しみ。その全てが複雑に絡み合った混沌こそが、人間の本質だったからだ。彼女の論理は、その矛盾に耐えきれず暴走した。そして、彼女は、自らが書き換えようとした世界の法則そのものと融合し、歪みそのもの…静寂の王と成り果てたのだ」
静寂の王の目的は、世界の破壊ではない。ただ、「全ての苦しみを、この世界から、追放する」を、忠実に、そして永遠に実行し続けているだけ。そして、その究極の答えが、「全ての生命の、完全なる消去」だったのです。
友の、あまりにも悲しい物語の真実に、私は言葉を失いました。
「エラーラを、救うぞ」
ケンジの瞳に、10年ぶりに、かつての光が宿りました。それは、ゼロという神の光ではなく、一人の獣医師としての、か細く、しかし、決して消えない決意の光でした。
「奴は、論理の牢獄に囚われている。ならば、俺たちが、それを破壊する。俺は、奴が最も信奉した『論理』で。そして、アリア…お前は、奴が最も軽蔑した『感情』でだ」
「…私が、感情で?」
「そうだ。お前のその、馬鹿正直なまでの真っ直ぐな想いだけが、奴の閉ざされた心に届く、唯一の鍵のはずだ」
彼の作戦は、無謀でした。しかし、私には分かりました。これこそが、私たち三人が再び一つになるための、唯一の方法なのだと。私は、静かに頷きました。
私たちの、最後の戦いが始まりました。それは、剣を交える戦いではありません。魂の、対話でした。
静寂の王――エラーラは、私たちを認識すると、その精神の全てで、私たちを排除しようとしてきました。
『非合理的な感情は、世界のバグだ。除去する』
無数の、論理的な問いかけが、私の脳内に直接響き渡ります。愛の矛盾、正義の欺瞞、希望の不確かさ。彼女は、私の心を、論理で解体しようとしてきました。
「ぐっ…!」
私が、その精神攻撃に膝を突きかけた、その時。ケンジが、私の前に立ちました。
「お前の相手は、俺だ、エラーラ!」
ケンジは、エラーラの論理に対し、さらにその上を行く、完璧な論理で反論し始めました。
「『完璧な無の世界』だと?笑わせるな!『無』であるならば、そこに『完璧』という概念は存在し得ない!お前の思想は、その入り口からして、致命的な論理的矛盾を孕んでいる!」
「苦しみのない世界?結構だ!だがな、苦しみを知らなければ、喜びを知ることもできない!光があるから闇がある!お前が創ろうとしているのは、幸福な世界などではない!ただ、感情というOSを削除された、思考停止した石ころの世界だ!」
ケンジの言葉は、エラーラのシステムの、根幹を揺さぶりました。彼女が最も信奉した「論理」によって、彼女自身の存在が否定されていく。エラーラのエネルギーの奔流が、明らかに動揺しているのが、私にも分かりました。
ケンジが、エラーラの論理を抑え込んでいる、その隙に。私は、私の全てを賭けて、エラーラの心へと呼びかけました。
「エラーラ!聞こえますか!」
私は、剣を捨て、ただ、彼女との思い出だけを、心に思い描きました。
『ケンジ!この数式は、非効率的すぎる!』
『まあまあ、エラーラ。そんなに焦らなくても!』
『二人とも、議論が煮詰まっているのなら、一度、剣を交えてみてはどうですか?』
あの、書庫での、他愛のない一日。
それは、論理的にも、効率的にも、全くの無駄な時間でした。しかし、それは、私たちにとって、何物にも代えがたい、温かい記憶だったのです。
私の想いが、記憶が、光となって、エラーラの奔流へと流れ込んでいきます。
『やめろ…やめろ…!そのような非合理的なデータは、私のシステムを汚染する…!』
エラーラの、悲痛な叫び。
「いいえ、汚染ではありません!これこそが、貴方が忘れてしまった、貴方自身の心なのです、エラーラ!」
私は、叫び続けました。私たちの友情を、共に見た夢を、そして、ケンジが、貴女を救うためだけに、10年間、地獄を生きてきたという事実を。
「もう、やめるんだ、エラーラ!」
ケンジが、最後の言葉を紡ぎます。
「お前は、一人じゃない!俺たちが、いる!お前のその孤独も、痛みも、罪も!俺とアリアが、半分ずつ背負ってやる!だから…だから、もう、いいんだ!お前は、もう、頑張らなくていいんだよ!」
その、あまりにも不器用で、あまりにも、ケンジらしい言葉。
それが、エラーラの、最後の心の壁を、打ち砕きました。
エネルギーの奔流が、収まっていきます。そして、その中心に、光の粒子が集まり、一人の少女の姿を形作りました。
それは、私たちが知る、天才科学者エラーラの姿でした。彼女の瞳からは、大粒の涙が、止めどなく溢れています。
『…アリア…。ケンジ…。馬鹿ね、二人とも…。私の、完璧な数式を、こんな、非合理的な感情で、壊してしまうなんて…』
彼女は、そう言って、10年ぶりに、はにかむように、笑いました。
『…でも、ありがとう…』
それが、彼女の、最後の言葉でした。
彼女の身体は、光の粒子となって、ゆっくりと、祭壇の空気の中へと、溶けていきました。
全てが終わり、創世の祭壇には、夜明けの光が差し込んでいました。世界の歪みは消え、空は、どこまでも青く澄み渡っています。
私とケンジは、その光景を、ただ、黙って見つめていました。
私たちは、世界を救いました。しかし、失われたものは、何一つ、戻ってはこない。その事実が、重く、私たちの肩にのしかかります。
どれほどの時間が、経ったのでしょうか。
長い、長い沈黙の後、ケンジが、ぽつりと、呟きました。
「…腹が、減ったな」
その、あまりにも人間的で、あまりにも、彼らしい言葉。
私は、涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえました。
ゼロは死に、今、私の隣にいるのは、紛れもなく、私の知る、不器用で、心優しき獣医師、ケンジでした。
私は、彼の方を向き、10年ぶりに、心の底から、微笑みました。
「ええ。どこかで、温かいスープでも、飲みましょうか」
私たちの、本当の「やりなおし」の旅が、今、始まろうとしていました。
私の名はアリア・フォン・クライフォルト。騎士の誇りは、友の亡骸と焼かれた故郷の土に埋めました。この剣は、長きにわたる戦いの責務を終え、今はただ、その主の魂の行方を見守っています。
創世の祭壇で、私たちの戦いは終わりました。友であった科学者エラーラは、論理の牢獄から解放され、光となって消えました。世界の歪みは、彼女と共に、まるで悪夢が朝日に溶けるかのように消え失せ、空は、10年ぶりに、どこまでも青く澄み渡っていました。
全てが終わり、そして、全てが始まりました。
私の隣には、10年ぶりに再会した、もう一人の親友が立っています。しかし、彼の魂は、ゼロという神の仮面の下で、あまりにも深く傷つき、凍りついていました。
創世の祭壇からの帰路は、奇妙なほど静かでした。あれほど世界を覆っていた歪みの気配も、怪物の咆哮も、人々の悲鳴も、全てが嘘のように消え去っていたのです。世界は、まるで熱病から覚めた病人のように、静かで、そして、ひどく疲弊していました。
私たちは、最初に立ち寄った街で、その変化を目の当たりにしました。人々は、突然訪れた平穏に、戸惑っていたのです。
「…歪みが、本当に消えたのか…?」
「昨日の夜まで聞こえていた、あの不気味な唸り声が、聞こえない…」
「これから、私たちは、どうすればいいんだ…?」
彼らは、10年もの間、常に歪みと怪物の脅威に怯えながら生きてきました。それが、日常でした。その日常が、あまりにも唐突に終わりを告げたことで、彼らは、次なる生きるべき道を見失っていたのです。広場では、これまで歪みの襲来を予報して日銭を稼いでいた「歪み予報士」が、職を失って途方に暮れていました。武器屋の店主は、もう売れることのないであろう対怪物用の巨大な弩を、寂しげに磨いています。世界は救われた。しかし、その救いは、人々の生き方そのものを、根底から変えてしまったのです。
私たちは、ある村で足を止めました。そこは、最後の歪みの一つが消滅した際に、空間の断裂に巻き込まれ、半壊状態となっていたのです。村人たちは、瓦礫の山と化した自分たちの家を前に、ただ呆然と立ち尽くしていました。
「…手伝いましょう」
ケンジが、ぽつりと呟きました。それは、彼がゼロの仮面を脱いでから、初めて自発的に口にした、他者への言葉でした。
私たちは、村の再建を手伝い始めました。それは、もはや剣を振るう戦いではありません。瓦礫を運び、柱を立て、壁を塗り直す。ただ、地道で、汗にまみれた労働です。
私は、騎士として培った膂力を活かし、巨大な梁を運びました。ケンジは、彼が持つ知識で、最も効率的に、そして安全に瓦礫を撤去する方法を、村人たちに指導しました。彼の指示は的確で、その声には、かつてのゼロのような冷たさはなく、ただ、静かな、しかし確かな温かみがありました。
数日後、村の教会が再建された時、村人たちは私たちに、心の底からの感謝を捧げてくれました。それは、怪物を倒した英雄への賞賛とは違う、もっと素朴で、温かい感謝の気持ちでした。私は、この行為こそが、私たちがこれから為すべき「戦い」の形なのかもしれないと、ぼんやりと考えていました。
再建作業の最中、一つの騒ぎが起きました。村の子供が飼っていた、兎に似た小動物が、崩れた壁の下敷きになり、脚を怪我してしまったのです。子供は、ぐったりとした小動物を抱きしめ、声を上げて泣いていました。
村人たちは、もう助からないと、諦めたような顔をしています。
その時、ケンジが、静かに、その子供の前に膝をつきました。
彼は、何も言いませんでした。ただ、その、かつては神を名乗り、人の命さえも駒として扱った手で、震える小動物の脚を、優しく、そして、手際よく診察し始めたのです。
懐から、常に持ち歩いていたのであろう、小さな医療用の鞄を取り出し、消毒液で傷口を清め、自作の軟膏を塗り、そして、近くの木の枝を削って作った添え木で、その小さな脚を固定していく。その動きには、一切の迷いがなく、あまりにも自然でした。
「…もう、大丈夫だ。すぐに、また走れるようになるさ」
ケンジが、そう言って子供の頭を撫でた時、私は見ました。彼の、10年間、絶望に凍り付いていた瞳が、ほんの一瞬だけ、かつての、心優しき獣医師のそれに戻っていたのを。それは、彼が、自らの魂を取り戻すための、小さく、しかし、確かな一歩でした。
平穏な日々は、しかし、私たちの過去を完全に消し去ってはくれませんでした。ある街を訪れた時、一人の元王国兵が、私の顔を見て、憎悪に満ちた声を上げました。
「…裏切り者!アリア・フォン・クライフォルト!貴様が、王国を見捨てたせいで、我々は故郷を失ったのだ!」
彼の言葉に、周囲の人々が、私たちを遠巻きにし始めます。そうです、私は、世界を救った英雄であると同時に、祖国を見捨てた裏切り者でもある。それが、この世界の、私に対する評価なのです。
私は、剣に手をかけようとしました。弁解するためではありません。ただ、彼の憎悪を、騎士として受け止める覚悟をしたのです。
しかし、その私の前に、ケンジが静かに立ちはだかりました。
彼は、元兵士の前に立つと、深く、深く、頭を下げました。
「…申し訳ない。あなたの言う通りだ。我々は、多くのものを救うことができなかった。その罪は、一生をかけても償えるものではないだろう」
彼の、あまりにも真摯な謝罪。元兵士は、戸惑い、やがて、何も言えずにその場を去っていきました。
「…なぜ、謝るのですか、ケンジ。私たちは、間違ってはいなかったはずです」
「ああ、そうだな」
彼は、顔を上げずに言いました。
「だが、アリア。正しさが、常に誰かを救うとは限らない。俺たちは、俺たちの罪を、背負って生きていくしかないんだ。言い訳も、弁解もせず、ただ、静かにな」
彼の背中は、あまりにも小さく、そして、あまりにも、多くのものを背負っているように見えました。
私たちは、あてのない旅の果てに、海辺の、小さな、名もなき村にたどり着きました。そこは、世界の喧騒から、完全に取り残されたかのような、静かな場所でした。私たちは、村はずれにある、打ち捨てられた古い小屋を借り受け、そこで、初めて「暮らす」ということを始めました。
ケンジは、村で唯一の医師として、獣医師として、人々の、そして、動物たちの傷を癒しました。私は、村の子供たちに、剣ではなく、畑の耕し方や、魚の釣り方を教えました。
穏やかな日々。しかし、私の腰には、常に、あの鋼の剣がありました。それは、もはや私の魂の一部であり、捨てることなどできませんでした。
ある嵐の夜、村に、海賊が襲来しました。歪みが消えたことで、人々は、怪物ではなく、人間そのものが持つ悪意と、再び向き合わなければならなくなったのです。
私は、村人を守るため、10年ぶりに、ただ、守るためだけに、剣を抜きました。嵐の中の死闘。私は、海賊たちを撃退しましたが、その身に、深い傷を負ってしまいました。
意識が遠のいていく中、私を介抱してくれたのは、ケンジでした。彼は、泣きそうな顔で、しかし、完璧な手際で、私の傷を縫合していきます。
「…馬鹿だな、お前は…」
彼の、震える声。
「もう、一人で何もかも背負い込むのは、やめろよ…。俺が、いるだろう…」
その言葉を聞いた時、私は、初めて、心の底から、安堵したのです。
私は、もう、一人ではないのだ、と。
傷が癒えた日、私たちは、村に一軒だけある、小さな食堂を訪れました。そこで、私たちは、ただの、野菜スープを注文しました。
店主の老婆が、運んできてくれた、何の変哲もない、木の器に入ったスープ。
しかし、その湯気は、温かく、その香りは、優しかった。
私たちは、無言で、そのスープを、一口、また一口と、啜りました。
特別な味などしません。ただ、野菜の、素朴な甘さが、冷え切っていた私たちの身体に、そして、魂に、ゆっくりと、染み渡っていきました。
それは、生きている、という味でした。
リリアンヌで流された血の味でも、プロヴィデンスで味わった同胞の肉の味でもない。ただ、温かく、そして、優しい、命の味がしたのです。
ケンジが、スープを飲み干すと、ふっと、笑いました。それは、私が10年間、見ることのなかった、あの、不器用で、心優しい、獣医師ケンジの笑顔でした。
「…美味いな」
「ええ、本当に」
私も、心の底から、笑い返しました。
私たちの、本当の「やりなおし」の旅が、今、始まりました。
小屋に帰った私は、壁に、一本の釘を打ちました。そして、私の魂の一部であった、あの鋼の剣を、その釘に、そっと掛けたのです。それは、戦いをやめるという意味ではありません。ただ、守るべきものが、守るべき場所が、ようやく見つかったという、静かな誓いの証でした。
私たちは、完璧な救済などないと知っています。世界から、悲しみや、愚かさが消えることもないでしょう。
それでも、私たちは、この不完全な世界で、不完全なまま、互いの傷に寄り添い、生きていく。
窓の外では、穏やかな海が、夕日を浴びて、きらきらと輝いていました。