第6話:支援と知性!
いつもの獣病院の待合室。しかし、今日の空気は少し違った。三人の獣人学生が、珍しく興奮気味に声を潜めていた。
「聞いた!? エラーラ様がこの前『計算ミスだ』って丸めて捨ててたポーションのレシピ! あれを街の錬金術師がこっそり解読したら、『革命的だ』って王都で大騒ぎになってるんですって!」
妹のように目を輝かせるのは、狐獣人のフィオナだ。尻尾が嬉しそうにパタパタと揺れている。
「フフ、当然よ」と、姉のように誇らしげに腕を組むのは獅子獣人のレティシア。
「あの方の『失敗』は、凡百の錬金術師の『生涯の成功』に勝るわ。あの方の真価は、歴史によって正しく評価されるべき。私が、そうさせてみせる」
「あらあら、二人とも」
母親のようにふわりと微笑むのは、狼獣人のシルヴィアだ。
「でも、あの方はご自分の功績には本当に無頓着なのが、また素敵なところよね。私たちがちゃんとあの方の偉業を理解して、お支えしないと」
途端に、三人の間に再び火花が散る。
「えー! 私はエラーラ様が『すごい!』って皆にチヤホヤされて、ちょっと照れてるところが見たいのに! 妹みたいに思いっきり褒めちぎりたい!」
「甘いわフィオナ! あの方に必要なのは賞賛ではなく『正当な評価』と『権威』よ! 姉である私が、あの方の盾となり、道を切り開いてみせるわ!」
「二人こそ分かってないわ。あの方が本当に望んでいるのは、きっと『静かな研究環境』よ。お母さんのように、私が全ての面倒ごとからあの方を守ってあげるのが一番だわ」
「私がエラーラ様を幸せにする!」
「いいえ、私よ!」
「私ですわ!」
その時、二階から重い足音が響いた。
現れたエラーラ・ヴェリタスは、トレードマークの白衣を纏いながらも、その表情は珍しく曇っていた。
「フム…キミたちか。今日は随分と『評価』だの『守護』だの、抽象的な語彙が多いな。…ああ、いや、いい。今はそれどころじゃない」
三人が息を呑む。エラーラは大きなため息をつき、待合室の椅子にどさりと腰を下ろした。
「王立魔導院の『倫理委員会』とかいう、非論理的な集団が、私のワクチン研究に『待った』をかけた。…貴重なサンプルが汚染される前に、臨床試験に移りたいというのに。全く、時間の無駄だ…」
豊満な胸も、今日は心なしか萎れているように見える。
「ああ…憂鬱だ…」
大賢者の、滅多に見せない弱った姿。
三人の獣人の心に、同時に火がついた。
「「「エラーラ様をお救いする!!」」」
壮大なる第二の知能戦が、今、始まる。
「エラーラ様、お任せください!」
即座に動いたのは「姉」のレティシアだった。彼女のカバンから、既に羊皮紙とインクが取り出される。
「私が生徒会長として、直ちに『エラーラ・ヴェリタス氏の研究の正当性と緊急性を支持する』署名活動を開始します! さらに、委員会の連中を論破するための『反論レポート』を作成し、学院長経由で王都に送付させますわ! 姉として、公の場で貴方様の盾となります!」
その場で猛烈な速度でペンを走らせる姿は、まさに知性の獅子だ。
「あらあら、レティシアさん。そんな強硬な手段は、あの頭の固い方たちを余計に刺激するだけよ」
「母」のシルヴィアが、おっとりと、しかし冷徹な目でレティシアを制する。彼女はエラーラの隣にそっと座り、その手を優しく握った。
「エラーラ様。こういう時は、外堀から埋めるのが一番ですわ。私、委員会のメンバーの素性を調べてまいりました。彼らが懇意にしている商会に、私の実家から少し『圧力』をかけさせていただきます」
そして、声を潜める。
「…それと、彼らの中に貴方様の研究を『危険だ』と吹聴している学者がいますわね。私、その方に接触して『私もそう思う』と伝えてきます。そして、『私がエラーラ様を監視する』役目を買って出ますわ。敵の懐に入って、内部から情報をコントロールする…それが、私のやり方よ」
すべてを包み込む母性こそ、最大の罠だった。
二人が「政治」と「権謀」で動く中、「妹」のフィオナだけが、憂鬱そうなエラーラの顔をじっと見つめていた。
やがて彼女は、エラーラの膝にこてん、と頭を乗せた。
「エラーラ様…。あの人たち、ムカつきますよね!」
「…フム」
「でも、」
フィオナは続ける。
「あの人たちがエラーラ様の研究を止めようとするのって、エラーラ様が『間違ってる』からじゃなくて、ただ『怖い』からなんですよ」
エラーラの目が、わずかにフィオナを向いた。
「…怖い?」
「はい!」
フィオナは勢いよく起き上がり、一枚の古い資料を広げる。
「これ! 私が図書館で調べたんです! 50年前に王都で起きた『魔法ワクチンの暴走事故』の記録! きっと委員会のジジイども、これがトラウマなんですよ!」
フィオナはエラーラに顔を近づけ、目を輝かせる。
「だから! あの人たちが『愚かだ』ってイライラするより、あの人たちの『恐怖』を解消する『新しいデータ』を作ってあげればいいんです! 『50年前の事故は、この数式の欠陥が原因だった。だが、私のワクチンは、この新しい理論でその欠陥を完全に克服している!』って!」
彼女はエラーラの手を握り、ぶんぶんと振った。
「ね? エラーラ様の研究、止まってる場合じゃないですよ!わたしが新しい研究テーマ、見つけてあげました!」
その瞬間、エラーラの澱んでいた瞳に、いつもの鋭い光が戻った。
「……フム。…フム! なるほど!!」
エラーラが勢いよく立ち上がる。白衣が大きく翻った。
「『恐怖』という感情的パラメータを組み込んだプレゼンテーション! 既存の理論で押すのではなく、相手の非論理的な『トラウマ』を観測し、それを解消する新しい理論を提示する…! そのアプローチはなかった!」
「そうだ! そうだった! 私がやるべきは停滞ではない、研究だ! 憂鬱になっている時間こそ非合理的! フィオナ! キミは時々、有益な示唆をくれるな!」
「やったー!」
フィオナが飛び跳ねる。
だが、エラーラは即座に他の二人に向き直った。
「だが、レティシア! キミの集める『公的な支持者』のデータも、『反対派』への論理的反証レポートも必要だ! シルヴィア! キミの集める『反対派の内部情報』と、彼らの『恐怖』の源泉に関する質的データも重要だ! 二人とも、引き続き観測と実行を!」
「「はい! エラーラ様!」」
エラーラは憂鬱だったのではない。彼女の複雑な研究方程式に「人間の感情」という新しい変数が加わり、一時的に停滞していただけだった。三人は、それぞれの方法でその「解」への鍵を提供したのだ。
だが、問題はそこからだった。
「えへへ、エラーラ様を元気づけたのは、やっぱり私ですね!」
「いいえ? あの方は公的なサポートも必要だと言ったわ。私の勝ちよ」
「まあ。あの方は『内部情報』が重要だとおっしゃったわ。私のおかげね」
三人の間で、再び空気が軋む。
知能戦で「エラーラを救う」目的は果たされた。だが、「誰が一番エラーラの役に立ったか」という本能の戦いは、まだ終わっていなかった。
「「「私が一番、エラーラ様の役に立った!!」」」
「キーッ! レティシア先輩の小難しいレポートなんて、あのジジイども読みもしませんよ!」
フィオナの狐火が、レティシアの足元を狙う!
「甘いわフィオナ! 貴方の口車こそ、その場限りよ! 」
レティシアの獅子の爪が、幻術を切り裂く!
「あらあら、二人とも、エラーラ様の前で…。まずは落ち着きなさいな」
シルヴィアが母親のように割って入るフリをして、二人を強力な締め付けで捕獲する!
「「ぐっ…!」
「離しなさいシルヴィア! あなたが一番狡猾よ!」
三人は毛皮と尻尾と制服を絡ませ、待合室の床を転がり始めた。
「あ! またか! やめたまえ! 私の貴重な研究のインスピレーションが! フム…! もういい! わかった! わかったから止まりたまえ!」
黒板に新しい数式を書き殴っていたエラーラが、ついに叫んだ。
「キミたちの『貢献』は全員認める! 認めるから! …その、なんだ。『褒美』をやろう!」
獣の騒乱が止まる。
埃だらけの三人が顔を上げ、その目は期待に輝いていた。
「「「褒美…!」」」
次の瞬間、三人のふかふかな尻尾が、ブォンブォンと嵐のように振られ始めた。
彼女たちは一斉に立ち上がり、困惑するエラーラに殺到した。
「エラーラ様! ありがとうございます! わたしが一番頑張りましたから、一番に撫でてください!」
フィオナが真っ先に飛びつき、エラーラの豊満な胸に顔を埋めた。白衣の上から、その柔らかさを堪能するようにぐりぐりと頭を押し付ける。「ん〜! エラーラ様の匂い〜!」
「こら、フィオナ! 順番を守りなさい!」
レティシアは「姉」らしく、エラーラの背後に回り、その腰に腕を回して強く抱きしめた。「エラーラ様、お疲れでしょう。私が貴方様の『データ』を整理しますわ」
しかしその手は、エラーラの腹部から腰にかけてのラインを、白衣の上からゆっくりと、執拗になぞり始める。
「まあ、二人とも積極的ね」
シルヴィアは「母」のように、エラーラの正面に回り込むと、その両手を取った。
「エラーラ様、新しい研究、頭を使うでしょう? 少し糖分が足りませんわ。私が『検査』してさしあげます…」
言うが早いか、狼のざらりとした温かい舌が、エラーラの指先をぺろりと舐め上げた。
「ひゃあっ!? な…! 待て! フィオナ、そこは呼吸器官だ! 圧迫するな! レティシア、私の身体をなぞるな! シルヴィア、唾液によるサンプル汚染だ! やめたまえ!」
大賢者は完全に包囲されていた。その顔は朱に染まり、知的威厳は尻尾を振る獣たちの熱狂的な愛情表現の前に霧散していた。
(フム…! やはり『報酬』に対する反応が異常だ…! 制御不能だ…! このデータは…使えん!!)
研究の光明を見出したエラーラ・ヴェリタス。しかし彼女自身の受難は、さらに深まるばかりだった。




