第1話:強襲する殺人者!
エラーラ・ヴェリタスは、王立図書館地区の片隅にある、常連のカフェの窓際で、その不規則な雨音を観測していた。
彼女の白衣は、この薄暗い店内でも、彼女だけの知性のスポットライトであるかのように、鈍い白さを放っていた。
ウェイターが、完璧な所作でコーヒーを置く。
「……ふむ、悪くない『秩序』だ。許容しよう」
「……はあ」
ウェイターは、いつも通りの『観測者』の言葉に、曖昧に頷き、立ち去った。
彼女が、コーヒーに口をつけようとした、その瞬間だった。
ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリッッ!!!
それは、音ではなかった。
それは、鼓膜と、頭蓋骨と、胸の中の魔導回路そのものを、直接『削る』ような、絶対的な『不快』の波動だった。
「……!?」
エラーラが音源を観測するよりも早く。
カフェの正面を覆っていた、分厚い強化魔導ガラスが、まるで黒板消しで文字を消すかのように、瞬時に『削り取られ』、微細なガラスの粉塵となって、店内に噴き出した。
「「「ぎゃあああああああっ!!」」」
店の中の『秩序』が、一瞬にして『混沌』に変わった。
ガラスの霧の向こう、豪雨の闇の中から、『それ』は、音もなく現れた。
純白の、無表情なウサギの仮面。
エラーラよりも頭ひとつ分は高い、屈強な体躯。
そして、その両手には、およそ人間が携行するとは思えない、長大な工業用の魔導ヤスリが握られていた。
ヤスリの表面は、錆びか、乾いた血か、あるいは削り取られた金属片か、赤黒く、おぞましい色に変色していた。
(……なんだこいつはッ!)
エラーラの論理が、未知の脅威を分析しようと、フル回転する。
だが、『それ』は、エラーラの思考よりも、速かった。
ヤスリウサギは、エラーラという『標的』を視認した瞬間、一切の躊躇なく、床に倒れた客も、高級なテーブルも、椅子も、その存在の全てを無視して『直進』してきた。
ガガガガガガガッ!!
エラーラの手前にあったテーブルが、まるで発泡スチロールのようにヤスリで削られ、木屑となって宙を舞う。
「魔導防御ッ!」
エラーラが、本能的に、両手を交差させ、魔導回路を最大出力で起動させようとした。
その、刹那。
「!」
声にならない絶叫が、エラーラの喉を突いた。
時間が、引き伸ばされる。
鋼鉄のヤスリが、エラーラの交差した腕の防御を、紙のように削り裂き、その勢いのまま、魔導を操る全ての人間にとっての『心臓』である、魔導回路の中枢を、正確に、深く、貫いていた。
ゴリッ、ゴリッ、と。
ヤスリが、エラーラの白衣の下、肋骨と皮膚の狭間で、意図的に捻られた。
「がっ!?」
それは、ただの物理的な痛みではなかった。
自らの『論理』そのもの。
世界と繋がる『手段』。
エラーラ・ヴェリタスという存在を定義する『秩序』そのものが、胸の中で、ゴリゴリという不快な摩擦音と共に、暴力的に粉砕されていく感覚だった。
魔力が、胸の傷口から、急速に漏出していく。
魔法が、使えない。
彼女の『秩序』は、この『不条理』の前には、起動することすら許されなかった。
ヤスリウサギは、無言でヤスリを引き抜くと、血を噴き出して崩れ落ちるエラーラに、とどめを刺そうと、再びヤスリを振り上げた。
エラーラの隣の席にいた紳士が、恐怖に腰を抜かし、金切り声を上げた。
「ひぃッ! た、助け……!」
ヤスリウサギは、その『音』に反応した。
エラーラよりも近く、より『やかましい』サンプル。
ターゲットが、変更された。
紳士は、何の抵抗もできず、その屈強な腕に掴み上げられ、床に押さえつけられた。
そして、その顔面に、ヤスリが置かれた。
「や、やめ……が……」
ゴリリリリリリリリリリリリリリッッ!!
「わああああッ!」
エラーラは、床に倒れたまま、目の前で繰り広げられた光景に、戦慄した。
それは『殺害』ではなかった。
それは、エラーラの理解を超えた、冷酷な『加工』だった。
紳士の顔は、ヤスリの往復運動によって、目も、鼻も、口も、皮膚も、骨も、全てが『平ら』になるまで削り取られ、原型を留めない『滑らかな肉塊』へと、数秒で変貌した。
ヤスリウサギは、その『仕上がり』に満足したかのように、無言で立ち上がると、再び、エラーラに向き直った。
(……やられる!)
エラーラは、魔導回路を失った、ただの『物理的な肉体』として、床を転がった。
純粋な、論理ではない、動物的な『生存本能』だけが、彼女の体を動かしていた。
(……痛い…痛い痛い痛い!)
エラーラは、カフェの分厚い大理石のカウンターの裏に身を隠す。
だが、無意味だった。
ヤスリウサギは、再び『直進』する。
エラーラが隠れたカウンターを、『障害物』と認識せず、凄まじい音を立てて『削りながら』貫通してきた。
ガガガガガガガガガッ!!
(……この『バグ』は! 『最短距離』の『加工』という『秩序』にしか従っていない!)
エラーラは、裏口へ向かって、必死に床を這った。
胸の傷口から、魔力と共に、大量の血液が溢れ出し、床に赤い軌跡を描く。
冷たい雨の降りしきる裏路地へ転がり出た瞬間、エラーラは、第二の絶望と直面した。
路地の反対側から、灰色のコアラの仮面を被った屈強な女が、『直進』してきた。
その手には、建造物すら粉砕する、解体用の巨大な魔導ハンマーが握られている。
ハンマーコアラは、路地に山積みにされていた魔導廃棄物のコンテナも、逃げ遅れた通行人も、金属製のフェンスも、一切避けようとせず、真正面からハンマーで『粉砕』しながら、エラーラという『標的』に迫っていた。
バキィッ! ドゴォンッ! グシャッ!
金属が、紙くずのように叩き潰され、舞い散る。
通行人だった『サンプル』は、原型を留めない『混沌』の染みとなって、壁に塗りつけられた。
圧倒的な『質量』の暴力。
(……二匹……! 『仲間』だったのか! なぜ!? データベースに無い! 観測データが! 思考が! 足りない!)
エラーラは、迫り来る二つの『不条理』に挟撃された。
エラーラは、最後の力を振り絞り、横道の、ゴミが散乱する隙間へと飛んだ。
直後、エラーラがさっきまでいたアスファルトの地面が、ハンマーコアラの一撃で陥没し、小さなクレーターになった。
だが、その衝撃波だけで、エラーラの体は数メートルも吹き飛ばされた。
「が……ッ!」
背中を、雑居ビルの硬い壁に強かに打ち付ける。
血の味が、喉の奥からせり上がってくる。
ヤスリウサギが、削り取ったカフェの壁の穴から、エラーラを『磨く』ために、ゆっくりと『直進』してくる。
ハンマーコアラが、粉砕したクレーターの向こうから、エラーラを『叩く』ために、重い足取りで『直進』してくる。
二人とも、一切の言葉を発しない。
ただ、雨音と、自らの破壊音だけを響かせ、エラーラを、完全に『削除』しようとしていた。
エラーラは、霞む目で、周囲を観測した。
魔導は使えない。体力も尽きかけている。
(……『論理』が通じないなら、『物理』か!)
視界の端。
彼女が叩きつけられた雑居ビル。そこは、外壁の修復工事中だった。
屋上から、ゴンドラ作業用の太いロープが、一本、すぐ手の届く場所に、無造作に垂れ下がっていた。
(……これに賭ける!)
エラーラは、血反吐を吐きながら立ち上がると、雑居ビルの非常口へ飛び込んだ。
直後、エラーラがいた壁面を、ヤスリが削り、ハンマーが粉砕した。
ドン! ゴリゴリ! ドン! バキバキッ!
凄まじい破壊音が、エラーラの背後、階下から迫ってくる。
二人は、エラーラが使った非常階段を『上る』のではない。
エラーラのいる階へ、最短距離で、床を『叩き割り』、壁を『削りながら』、物理法則を無視したかのように、垂直に追いかけてくる!
(……なんという『効率的』だ! 奴らは、ただ『直進』してくるだけか!)
エラーラは、胸部の激痛に、何度も床に倒れ込みながら、錆びた非常階段を駆け上がった。
魔力が失われていく。寒い。
だが、科学者としての『矜持』が、彼女を突き動かしていた。
(……死ぬものか!こんな『不条理』に、私が!)
屋上のドアを蹴破る。
冷たい豪雨が、血まみれの白衣を叩く。
すぐそこに、あのロープの固定金具があった。
階下からは、屋上の床そのものを突き破ろうとする、ハンマーの強烈な衝撃音が、断続的に響いている!
エラーラは、震える手でロープを掴むと、躊躇なく屋上のフェンスを飛び越えた。
ロープが、魔導回路を失ったただの「生身」の手のひらの皮を、容赦なく削いでいく。凄まじい摩擦熱と、肉の裂ける痛み。
ビルの壁面に何度か叩きつけられながら、数秒で地上の路地裏に、無様に叩きつけられた。
「……っ……ハァ……ハァ……ハァ……」
全身が、鉛のように重い。胸の奥が、焼けるように痛い。
だが、撒いた。
エラーラは、よろめきながら、大通りへと転がり出た。
一台の魔導タクシーが、雨の中、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。
エラーラは、最後の力を振り絞り、車道へ踏み出し、血まみれの手を上げた。
「止まれ!」
だが、タクシーの運転手は、雨の闇の中から、突如として現れた、血まみれの白衣の女を見て、パニックに陥った。
ドンッ。
タクシーの車体は、エラーラの体を、無慈悲に、しかし中途半端な速度で撥ね飛ばした。
アスファルトに再び叩きつけられたエラーラ・ヴェリタスは、しかし、意識を失わなかった。
彼女は、ゆっくりと、折れた腕と、折れた肋骨を引きずりながら、立ち上がった。
雨に濡れた彼女の銀髪が、顔に張り付く。
その隙間から覗く、観測者の双眸は、もはや知性や好奇心の宿していなかった。
そこにあったのは、自らの『論理』を蹂躙され、ただ『生存』という物理法則のためだけに起動した、剥き出しの闘争本能。
鬼の形相だった。
「ひッ……!」
運転手は、撥ねた相手のその『目』を見て、金縛りにあった。
エラーラは、タクシーの助手席のドアを、壊れるほどの力で引き開けると、運転席に転がり込んだ。
血まみれの手が、運転手の震える服を、鷲掴みにする。
「王都警察へ直行しろ!急げ!」
それは、懇願ではなかった。
魔導回路を失ったエラーラが、その口から発した、純粋な『物理的な脅迫』だった。
「『命令』だ!」
タクシーは、恐怖に絶叫する運転手を乗せ、雨の王都を、警察署に向かって疾走した。




