第3話:準備と知性!
冒険の前日。
ゴウの部屋は、興奮と混沌に満ちていた。明日、彼はエラーラの助手として、初めて『呪われた森』の奥深くへと足を踏み入れるのだ。
「よし! これで完璧だ!」
ゴウは、ピカピカに磨き上げた短剣を鞘に収め、満足げに頷いた。
彼の足元には、開けっ放しのリュックサックが転がっている。
だが、その中身は、ほぼ空だった。
「フム。ゴウくん。キミの『準備』は、実に興味深いねェ」
いつの間にか、エラーラが部屋の入り口に立っていた。彼女は、ゴウのリュックの中身を、冷ややかに観測している。
「『影喰らいの苔』に対する解毒薬。未搭載」
「『冷鉄』の削り屑。森の妖精避けだ。未搭載」
「三日分の浄化水。未搭載」
「ロープ。…ああ、これは入っているが、見てみたまえ。編み込みが擦り切れている。私の計算では、体重の70パーセントの負荷で断裂する」
「う…」
ゴウは、バツが悪そうに顔をそむけた。
「い、いいんだよ! 明日の朝、ぱぱっと詰めれば! 大丈夫、なんとかなるって!」
「『なんとかなる』。フム」
エラーラは、その言葉を、まるで珍しい毒虫でも転がすかのように繰り返した。
「それは、準備を怠った愚者が、自分の破滅を先延ばしにするために唱える、実に非効率な呪文だ」
「だ、だって! 準備なんて地味で、つまらないじゃないか!」
ゴウは、ついに本音を叫んだ。
「本物の冒険家は、その場の判断で切り抜けるんだ! 父さんも言ってた!」
「アドリブ、か」
エラーラは、目を細めた。
「『即興』とは、予習を怠った人間が、自分の『失敗』に直面して、慌てて取り繕う行為の別名だ。
『段取り』、すなわち、あらゆる変数を予測し、リスクを潰しておくことこそが、研究と冒険における、唯一にして最大の『本質』だよ」
彼女は、ゴウの磨いた短剣を指差した。
「キミは今、『冒険家に見える』ことを優先し、『冒険家として生還する』ことを放棄した。…フフフ。キミのその『在り方』は、かつて王国一の『即興の勇者』と呼ばれた男によく似ている。彼もまた、『予習』を侮り、自分の才能だけを過信した」
「そ、その勇者、どうなったの?」
「ああ」
とエラーラは冷たく笑った。
「彼は、自分が学ぶことを拒否した『予習』そのものに、永遠に組み込まれてしまったよ」
・・・・・・・・・・
かつて、王国にサー・カエレンという名の騎士がいた。人々は彼を『即興の勇者』と呼んだ。
彼は、天才的な剣技と、野獣のような勘を持ち、どんな窮地もその場のアドリブで切り抜けてきた。
彼の『在り方』は、その才能への絶対的な『過信』だった。彼は、準備や計画を「才能のない者が行う、退屈な作業」と公言してはばからなかった。
彼に、王国から一つの勅命が下った。
『迷宮のヒュドラを討伐せよ』
ギルドの魔術師であり、王国一の『段取り』の専門家であるライラは、カエレンの前に分厚い『討伐報告書』を積み上げた。
「カエレン卿。これが、過去の討伐隊が全滅してまで持ち帰った、ヒュドラの『予習』データです。どうか、出発までにお目通しを」
カエレンは、その報告書を一瞥もせず、肩をすくめた。
「ライラ、お前は心配性だな。ヒュドラだろ? 頭が九つある、デカいトカゲだ。知ってるよ」
「違います! 問題はそこでは…!」
「火を吹くなら、避ける。氷を吐くなら、受ける。頭が再生するなら、再生するより速く、斬る」
カエレンは、自信満々に言った。
「それが『勇者』の仕事だ。机で文字を読むのは、君たちの仕事だろう? 俺は、俺の『才能』で、いつものように『なんとかなる』さ」
ライラは、青い顔で懇願した。
「せめて、これだけでも! この『沈黙の封印』の魔道具だけは、お持ちください!」
「フン。重いだけのガラクタだ。邪魔になる」
カエレンは、ライラが三日三晩かけて準備した『予習』のすべてを『ナメて』、その日のうちに出発した。
迷宮の最深部。
カエレンは、ヒュドラと対峙した。
そして、彼は、自分の言葉を証明してみせた。
彼は天才だった。
炎の頭が吐く灼熱を、彼は側転で避けた。
氷の頭が放つ吹雪を、彼は魔力障壁で受け流した。
酸の頭、雷の頭、毒の頭…七つの頭が繰り出す猛攻を、彼はまさに『即興』の剣技で切り抜け、次々とその首を刎ねていった。
「どうだ、ライラ! お前の心配など、無用だったな!」
彼は、ここにいない魔術師を嘲笑った。
ついに、八つの頭が、その巨体を横たえた。
残るは、中央の、ひときわ大きな『第九の頭』だけ。
奇妙なことに、その頭は、最初から今まで、一度も攻撃してこなかった。ただ、カエレンの行動を、冷ややかに『観測』しているかのようだった。
「ふう。これで終わりだ」
カエレンは、血振りをし、再生を恐れて、その最後の『第九の頭』の喉元に、全力で聖剣を突き刺した。
その時だった。
彼が『予習』を怠った、致命的な『真実』が、牙を剥いた。
カエレンが無視した報告書。その最終ページには、こう記されていた。
『ヒュドラの八つの頭は攻撃用。だが、中央の第九の頭は、絶対に、絶対に攻撃してはならない。それは『再生の核』である』
『これを殺すには、八つの頭を斬った後、第九の頭が叫び声を上げる前に、ライラが用意した『沈黙の封印』でその口を物理的に封じること。それが、唯一の討伐手順である』
カエレンの剣が、核である第九の頭を貫いた。
その頭は、痛みで、その巨大な口を開き、絶叫した。
それは、音波攻撃ではなかった。
それは、『再生』の合図だった。
カエレンが切り落とした八つの頭が、即座に、完璧な状態で『再生』した。
「なっ…!?」
さらに悪いことに、カエレンが突き刺した聖剣は、第九の頭の喉の奥で『再生』した、魔法の骨によって、固く挟み込まれ、抜けなくなってしまった。
彼は、武器を失った。
完全に再生した八つの頭が、無防備な『即興の勇者』に向き直った。
「ま、待て…! なんとかなる…! なんとか…!」
だが、『段取り』を無視した者に、二度目のチャンスはなかった。
八つの頭は、彼を殺さなかった。それでは、あまりにも慈悲深すぎる。
氷の頭が、彼の両足を床に凍りつかせた。
酸の頭が、彼の鎧を、皮膚を焼かない程度に溶かした。
炎の頭が、彼の傷口を瞬時に焼き、彼が失血死しないように『治療』した。
そして、第八の頭が、彼の脳に『永遠の恐怖』という幻影を焼き付けた。
・・・・・・・・・・
ゴウは、エラーラの話を聞き終え、真っ青になっていた。
彼は、自分の空っぽのリュックサックと、さっきまで磨いていた短剣を見比べた。
「エラーラさん…」
「彼は、実に鮮やかな『即興』を見せた」
エラーラは、ゴウの震えを冷静に分析しながら言った。
「だが、彼のその『アドリブ』は、そもそも彼が『予習』を怠らなければ、必要のないものだった。彼はデータを無視し、その結果、自分がモンスターの『備品』になった。実に論理的な結末だ」
ゴウは、黙ってリュックサックをひっくり返し、中身をすべて床にぶちまけた。
そして、あの擦り切れたロープを掴んだ。
「…エラーラさん、このロープ…やっぱり、ダメだよね?」
「フム。私の分析では、キミが崖から三分間ぶら下がった場合、78パーセントの確率で断裂し、キミの頭蓋骨は地面と衝突する」
ゴウは、そのロープをごみ箱に叩きつけた。
そして、エラーラが数日前に彼に渡し、彼が「つまらない」と机の隅に押しやっていた、『呪われた森・準備リスト』を手に取った。
「『影喰らいの苔』への解毒薬…」
「『冷鉄』の削り屑…」
「浄化水、三日分…」
ゴウは、診療所の薬草棚に向かい、リストの最初の一つを、震える手でカバンに詰め始めた。
「…… 俺、もう一度、最初から準備する!」
エラーラは、その姿を満足げに観測した。
「フム。賢明な判断だ。いいかい、ゴウくん。キミの冒険は、明日、森に入った時に始まるんじゃない」
彼女は、リストと格闘するゴウの背中に告げた。
「キミの冒険は、今、始まったんだ。そして、この『段取り』こそが、冒険の、最も重要で、最も面白い部分なのさ」




