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第2話:Light of Babel

主題歌:ふしぎの海のナディア サウンドトラック

https://youtu.be/gQO6JRkmeXU

国王アルトリアス。 彼は、旧体制の腐敗した貴族政治と、それに癒着した「複雑で難解な魔導ギルド」を打倒し、王位に就いた『改革者』だった。 だが、彼の改革は、いつしか狂信的な『純化』へと変貌していた。


彼は、「古い知識」と「複雑な魔法」を悪と断じた。 エラーラだけが、その圧倒的な知性が「神の叡智に近い」とアルトリアスに誤解されたことで、唯一、最高顧問として傍に置かれることを許されていた。


「…影、だと?」


玉座に座すアルトリアスは、エラーラが持参した観測データを一瞥もせず、祈りを捧げていた。


「エラーラよ。そなたは、この国で最も賢いはずだ。だというのに、なぜ、まだ『古い幻影』に囚われている?」


「陛下?これは幻影ではありません。物理的な『事実』です」


「事実、だと?」


アルトリアスはゆっくりと目を開けた。その目は、現実ではなく、自らの理想だけを映していた。


「我が『純清なる王国』に、そのような不浄なものが存在するはずがない。それは、旧体制の残党が、そなたの『知識』を利用して見せている幻影にすぎぬ」


「陛下!」


「あるいは」


アルトリアスは続けた。


「そなたの『怪我』。それこそが、神の御意志の表れではないのかね? そなたが、その『過ぎた知識』から離れるべきだという、天啓だ」


エラーラは、左腕の抑制具を握りしめた。 この男は、イヌカイとは別の意味で、救いようがなかった。


「陛下。あなたの『思想』がどうであれ、あの影は物理的に接近しています。このままでは、あなたの『純清なる王国』は、あなたの民諸共、物理的に崩壊します」


「それこそが『試練』だ」


アルトリアスの声は、恍惚としていた。


「もし影が実在するならば、それは天が、この国に残った『古い腐敗』を洗い流すために遣わした『浄化の炎』だ。我々はそれを受け入れ、祈りと、我が『純なる近衛騎士団』の剣をもって、これに当たる。あの『エーテル・ブラスター』のような、旧体制の『穢れた力』に頼ることこそが、神への冒涜だ!」


エラーラは、もう何も言わなかった。 議論の余地はない。


「…ふむ。データ取得、完了。国王アルトリアス、現実認識能力に致命的な欠陥。指導者として不適格。サンプルとして記録する」


「待て、エラーラ! 誰の許可を得て下がると…」


「許可は不要だ。キミたち『政治家』に、合理的な判断を期待した、私の方が間違っていた」


王宮の冷たい廊下を、エラーラは足早に進んだ。 首相は「責任」に。国王は「狂信」に。 この国のトップは、二人とも、現実から逃避した。


「プランCだ。残された道は、一つしかない」



王都は、すでに地獄の様相を呈し始めていた。 地平線を覆い尽くす『影』の威容が、ついに肉眼でもハッキリと確認できる距離に迫ったのだ。

民衆は、二つに割れた。 一つは、「恐怖派」。 「世界が終わる!」「逃げろ!」 彼らはパニックに陥り、王都の門に殺到し、暴徒と化して商店を襲い始めた。


そして、もう一つ。 さらに厄介な、「否定派」だった。


「影は王政府のデマ」


「あれは幻影魔法だ」


彼らは、どこからか漏れた情報、『エーテル・ブラスター』の使用計画に、熱狂的な拒否反応を示していた。


「影は口実だ! 政府は、あの『禁忌の兵器』を使って、俺たち国民を支配するつもりだ!」


「そうだ! あのブラスターこそが悪だ! あの魔力汚染で、俺たちの土地が死ぬ!」


彼らは、国王アルトリアスの「旧体制の魔法は悪だ」という思想と奇妙に共鳴し、暴徒化していた。 そして、彼らが向かった先は、一つ。 『エーテル・ブラスター』が封印されている、王都地下大空洞の、唯一の入り口『中央要塞』だった。


エラーラが、その中央要塞の司令室に辿り着いた時、地上は「発射反対」を叫ぶデモ隊と、王都警備隊との衝突で、火炎瓶が飛び交う戦場と化していた。


「来たか、博士」


司令室で腕を組んでモニターを睨んでいたのは、この要塞の最高責任者、カイゼル将軍だった。 彼は、アルトリアス国王の「純清騎士団」とは違い、旧体制から続く、現実主義者の軍人だった。


「地上の愚民たちは、実に元気がいいねぇ」


「笑い事ではない!彼らは、自分たちが『何』に殺されるかを選ぶ権利があると、本気で信じているようだ」 カイゼルは、重々しくため息をついた。


「レヴィアタンの脅威は、確認した。博士、私はキミの分析を信頼する。ブラスターの魔力充填は、私の独断で98%まで完了させてある」


「話が早い。ならば、撃て。カイゼル」


「……撃てない」


カイゼルは、司令室の中央に鎮座する、巨大な発射制御盤を指差した。 そこには、国王の紋章が刻まれた、黄金の『封印錠』がはめ込まれていた。


「『文民統制』。我々軍人は、政治家の決定なしに、この国の最強の『矛』を抜くことは許されていない」


「その政治家が、機能不全だと言っている!」


「ならば、ルールに従い、滅びるまでだ」


カイゼルの目は、諦観していた。


「私は軍人だ。博士。私は『命令』に従う。だが、私は『命令』を創ることはできない。首相の『内閣決定書』か、国王の『勅許』。そのどちらかがなければ、この封印は解けん」


「あの二人が、それを出すと?」


「……出さんだろうな」


その瞬間。


基地全体が、地響きとは呼べない、巨大な『揺れ』に襲われた。


「なにっ!?」


「レヴィアタンが、第一次絶対防衛ラインを突破!」


「馬鹿な! 予測より6時間も早いぞ!」


「地表を『滑走』しています! あの巨体で、摩擦係数、ゼロ! まるで…」


モニターに、地平線を完全に埋め尽くした『影』の、鮮明な映像が映し出された。 それは、山脈そのものが、凄まじい速度で突進してくる光景だった。 影ではなかった。 それは、黒く、濡れた、巨大な『何か』だった。


地響きが、地下司令室にまで届く。 パニックを起こした「否定派」のデモ隊の悲鳴が、地上のマイクからかすかに聞こえてきた。彼らは、ついに『現実』を認識したのだ。


カイゼルが、固唾を飲んでスクリーンを睨む。


「…博士。今から首相官邸と王宮に、最後の通信を試みる。だが…」


「無駄だねぇ」


エラーラは、彼らの返答を待たずして、発射コンソールの前に立っていた。


「おい、博士! 何をする気だ!?」


「言っただろう、カイゼル。私は科学者だ。非合理的な『手続き』に付き合っている暇はない」


エラーラは、黄金の『封印錠』に、左手を、そっと置いた。


「この封印錠。設計したのは、旧体制の魔導ギルド。…つまり、私の師たちだ。合理的じゃないかね?」


「…まさか、博士。キミなら、この封印を…!」


カイゼルの目が、わずかに開く。 そうだ。この封印は、力ずくでは開かない。だが、設計思想を理解し、そのロジックの穴を突く『鍵』となる魔力コードを流し込めば、バイパスできる。


エラーラは、自嘲気味に笑った。


「ああ。…私『なら』ね。この抑制具がなければ、30秒とかからなかっただろう」


彼女は、封印錠に左手を置いたまま、ゆっくりと右手を上げる。 そして、左腕の抑制具を、掴んだ。


「…博士、よせ! その抑制具を外せば、キミの魔力回路が焼き切れるぞ!」


「ふむ。私の『死』と、国家の『全滅』。どちらがより合理的な結果かね?」


カイゼルが葛藤に唇を噛み切った、その瞬間だった。

司令室の分厚い防護扉が、外側から爆破された。 煙と粉塵の中から、武装した兵士たち、国王の『純清騎士団』ではなく、首相直属の官邸警備隊が雪崩れ込んでくる。 そして、その中央には、顔面蒼白の首相イヌカイがいた。


「エラーラ君! 見つけたぞ!」


「……イヌカイ。キミ、地下壕にいたはずでは」


イヌカイの号令一下、警備隊がエラーラに飛びかかった。魔力を使えない彼女は、数に押され、あっけなく床に取り押さえられた。


イヌカイは、取り押さえられたエラーラの前に、よろよろと歩み寄った。


「エラーラ君! 聞いてくれ!」


彼は、この世の終わりのような地響きの中で、必死の形相でエラーラの腕を掴んだ。


「キミの知識が必要だ! 」


イヌカイは、狂ったように早口でまくし立てた。


「もし、だ! もし、万が一、その『エーテル・ブラスター』とやらで、アレを撃退できたとしよう! 問題は、その後なんだ!」


「…なに?」


「『戦後』だよ! 『戦後の財政復興』だ!」


イヌカイの目は、レヴィアタンではなく、エラーラの向こうにある『議会』と『責任追及』を恐れていた。


「あの槍を撃てば、国家予算の半分が消し飛ぶ!そのあと、国債は紙くずだ! 通貨の信用は地に落ちる! 私は! 私は議会と国民に、その責任を説明せねばならんのだ!」


「……」


「エラーラ君! キミはこの国で最も信頼される知識人だ! キミの『合理的』な助言が必要だ! この『戦後の財政再建スキーム』について、今すぐ私に回答をくれたまえ!」


静寂。 司令室のオペレーターも、カイゼルも、警備隊さえもが、イヌカイの言葉に凍り付いた。 誰もが、この男の底知れない保身と、現実から乖離した狂気を、理解できなかった。


エラーラは、一瞬、思考を停止させた。 だが、次の瞬間、彼女の全身から、魔力ではなく、純粋な『怒り』が爆発した。


「……キミは」


静かな、地を這うような声だった。


「本気で言っているのかね? この期に及んで、『戦後』の計算を?」


エラーラは、取り押さえられていたとは思えない力で、警備隊の手を振り払った。


「馬鹿者がああぁぁ!!」


それは、彼女がこの国に来て、初めて発した『怒号』だった。


「『今』を生き延びなければ、観測すべき『戦後そのあと』など、存在するわけがないだろうがっ!!」


エラーラは、炭化しかけた左腕の激痛も構わず、よろめきながら立ち上がった。


「キミの『責任』も! キミの『議事録』も! キミの『保身』も! あと数分で、あの厄災に喰われて消えるんだぞ!」


警備隊が、慌てて彼女に銃口を向ける。


「どけ! 合理性の欠片もない、愚か者どもめ!」


エラーラは、最後の力を振り絞り、黄金の『封印錠』へと、その身を投げ出した。 彼女は、自らの焼け爛れた左腕を、あの錠前へと、再び伸ばした。


「ま、待て! エラーラ君! 私の承認が! 議事録がまだ!」


イヌカイが、悲鳴のような声を上げる。


「もう遅い! 全員退避!」


カイゼルが、オペレーターたちを突き飛ばし、エラーラを庇おうと飛び出す。


だが、全てが、遅すぎた。


エラーラの手が、封印錠に触れる、その寸前。


ピシッ、と。 メインモニターに、亀裂が入った。 いや、違う。


レヴィアタンの、あまりにも巨大な『何か』が、王都の中枢を薙ぎ払ったのだ。 光も、音もなかった。 ただ、絶対的な『終わり』が、来た。


レヴィアタンの最初の一撃は、国王アルトリアスの『浄化』の祈りごと、王宮を粉砕した。 そして、第二撃が、イヌカイの『責任』の叫びごと、この中央要塞を、地中深くから貫いた。


エラーラは、崩れ落ちる天井を見上げた。 彼女の目に最後に映ったのは、自らの『合理的』な助言を求める、恐怖と狼狽に歪んだイヌカイの顔だった。


「…実に…」


エラーラの口から、最後の息が漏れた。


「……非合理的だ…」


轟音と共に、司令室は完全に圧壊した。 エラーラも、イヌカイも、カイゼルも。 責任を回避しようとした者も、責任を全うしようとした者も、責任の所在そのものを破壊しようとした者も。 王都の全てが、平等に、瓦礫の中に沈んだ。


『エーテル・ブラスター』は、一度も火を噴くことはなかった。 人類最強の『矛』は、人類最悪の『愚かさ』によって封じられたまま、それを守ろうとした者たち、それを使おうとした者たち、そして、それから目をそむけた者たち、その全ての墓標として、永遠に闇に葬られた。


・・・・・・・・・・


どれほどの時間が経過したのか。 世界を覆っていた轟音が消え、絶対的な静寂が支配していた。 空は、分厚い粉塵に覆われ、まるで夜のようだった。 だが、その粉塵の切れ間から、西の空だけが、血のように赤黒い夕陽に染まっている。


瓦礫の山。 かつて王都と呼ばれた場所は、今や広大な、墓標すらない荒野と化していた。


その瓦礫の山の一つが、微かに動いた。 ゴトリ、と岩が転がり落ちる。 その隙間から、一本の手──無事だった右手が突き出され、瓦礫を掴んだ。


「……げほっ、げほっ…!」


瓦礫を押し上げ、埃と血にまみれた人影が這い出してきた。 エラーラだった。 彼女は白衣を失い、全身は打撲と切り傷だらけ。そして、左腕は、肘から先が完全に炭化していた。 中央要塞の最下層、その強固な隔壁の隙間に奇跡的に挟まれ、彼女だけが生き延びたのだ。


「……ふむ」


エラーラは、片腕でバランスを取りながら、ゆっくりと立ち上がった。 瓦礫の丘となった場所から、彼女は、自分が守ろうとした街の末路を見下ろした。


完全な『無』。 彼女が観測対象としていた、人間の営み、政治、文化、その全てが消え去った世界。


彼女の脳裏に、最期の光景が蘇る。 『戦後の財政』を問い詰めた首相イヌカイ。 『浄化』を叫び、現実を拒絶した国王アルトリアス。 『ルール』に縛られ、決断できなかった軍人カイゼル。


「……憐れだねぇ」


エラーラの口から漏れたのは、怒号でも、哄笑でもなく、心底からの『分析結果』だった。


「キミたちは、生き残るための『力』を持ちながら、それを使うための『決断』ができなかった。」


彼女の目は、瓦礫の街を、まるで失敗した実験サンプルの残骸を見るかのように、冷徹に見下していた。


「恐怖が、保身が、狂信が、キミたちの『知性』という名の観測機器を曇らせた。実に、実に脆い。だが…それこそが『ヒト』というサンプルの、興味深い特性だった、というわけだ」


彼女は、彼らの愚かさを軽蔑した。 同時に、その愚かさから逃れられないヒトという種の仕様そのものに、底知れない憐れみを感じていた。


レヴィアタンの気配は、もうない。 喰らうべきエーテルも、動くものも、全てが失われたこの地に、もはや興味はないのだろう。


エラーラは、炭化した自らの左腕を見下ろした。


「…高くついた観測だった」


だが、彼女は顔を上げた。 彼女の知的好奇心は、片腕や魔力と共に失われてはいなかった。


「このサンプルは、ここで『終了』だ。だが、世界は広い」


エラーラは、瓦礫の山を降り、荒野と化した大地に確かな一歩を踏み出した。 この滅びた王都は、あまりに非合理的で、愚かだった。 だが、世界のどこかには、まだ、別のサンプルが存在するはずだ。


「人類の『知性』は、本当に……この程度なのかね?」


彼女の胸に、新たな仮説が芽生える。 もしかしたら、どこかに。 恐怖や保身を乗り越え、合理的な『知性』を行使できる、別の『ヒト』というサンプルが。


「それを確かめに行かねばなるまい」


エラーラは、もう滅びた街を振り返らなかった。 たとえそれが、どれほど絶望的な確率であろうとも、生き残った科学者として、彼女はその『人類の知性』という名の、僅かな希望を求めて。


血のように赤い夕陽が、片腕の探究者の影を、長く、長く、破滅の荒野に引き伸ばしていた。

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