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壊れた世界のやりなおし方  作者: 王牌リウ
第2章:白衣の騎士エラーラ篇
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第10話:完璧を目指せ!(スラップスティックコメディ)

ふふふ、実に、実に素晴らしい! 私の目の前に広がるこの光景こそ、長らく求めていた理想の環境じゃないか!


その街の名は、シルヴァングレイド。王国の地図の隅っこに、インクのシミか何かのように記された国境の街。王都の洗練された街並みとはまるで違う。道は泥濘み、建物は歪に寄りかかり合い、乾いた風は砂埃と、郷土の鍋料理の匂いと、微かな血の匂いを運んでくる。行き交う人々の顔には、疲労、猜疑心、そして剥き出しの欲望!まるで、巨大な培養皿の中で多種多様な菌がせめぎ合っているかのようだ。


「最高じゃないか…!」


私は思わず、笑みをこぼした。 何しろ、ここにたどり着くまでの道中は、少々退屈な実験の連続だったからねぇ。


私の名は、エラーラ・ヴェリタス。かつては神童、あるいは怪物と呼ばれていたが…どちらも的確な評価とは言えないねぇ。私はただ、知的好奇心に忠実な一人の研究者に過ぎないのさ。


私の原風景は、静かで、冷たい部屋。そして、解析不能なバグによって機能不全に陥っている、幼い弟という検体だった。 高名な「医師」を自称する者たちは、祈祷だの薬草だの、非科学的なアプローチを繰り返すばかり。目の前にある「生命」という完璧な数式が、未知のバグに侵されているというのに、その原因を解明しようともしない!実に、実に非合理的な怠慢じゃないか!


知的探求者として、この「解けない問題」を見過ごすことなどできるはずもなかった。私は王宮の書庫に篭り、古今東西の医学書をインプットした。生命とはなんと美しく、完璧な数式で記述されているのだろう!ならば病とは、その数式に紛れ込んだノイズに過ぎない。デバッグすればいい、実に簡単な話だ。 数週間後、私は独自の理論で調合した薬を弟に投与した。結果、彼の熱は見事に正常値へと収束した。


私の心にあったのは、この世界の知性の低さに対する、深い、ふかーい失望だけだ。 なぜ、他の誰にも、この単純な答えが導き出せない?この世界は、あまりにも非論理的で、エラーに満ちている。 ならば、私の存在意義は一つ。この世界のあらゆるバグを、そして生命という名のプログラムを、この手で解き明かすことだ!


そのためのアプローチとして、まず私は医師となり、あらゆる病理データを収集した。だが、それだけでは足りない。生命を完全に理解するには、その対極にある「死」――つまり、システムの終了についても理解する必要がある。


そこで私は王国最高の剣士に師事し、武術という名の「人体破壊工学」を学んだ。 相手の重心移動、筋肉の収縮、呼吸のリズム。その全てをデータとして取り込み、最適解を弾き出す。私の剣は、人体の運動力学と物理法則に基づいた、美しい「演算」の証明だった。


だが、世界は私の「過程」を理解せず、ただその「結果」の一つである戦闘能力を、兵器として求めた。実に愚かだねぇ。 大規模な反乱が起きた時、王は私に取引を持ちかけてきた。


「我が騎士団の長として反乱を鎮圧しろ。さすれば、お前の望む最高の医療研究施設を与えよう」


最高の研究施設!それは、より多くの生命データを、より効率的に収集するための、最高の「手段」。そのためならば、多少の臨床試験も許容できると判断したのさ。


私は騎士になった。そして、戦争さえも一つの数式として解き明かした。私の戦術は、あまりにも合理的で、無慈悲だと評されたようだねぇ。味方は私を「白衣の女神」、敵は「白衣の死神」と呼んだらしい。どちらも興味深いデータだ。


反乱は完全に鎮圧された。私は王に勝利を報告し、約束の履行を求めた。だが、王の返答はこうだ。


「何を馬鹿なことを。お前は最高の兵器だ。薬草いじりに戻してどうする?」


この時、私は初めて、人間の「非合理性」というものの底知れなさを垣間見た気がしたよ。実に、実に興味深い! 私が研究に戻りたいと伝えると、王は激昂した。


「―――ならば、お前は、何者でもなくなるがいい」


結果、私は医師免許も騎士の称号も剥奪され、追放されることになった。輝かしい成果を上げたというのに、面白いじゃないか。 だが、これは好都合だ。医者でも、騎士でもない。しがらみから解放された、ただの「研究者」として、この矛盾に満ちた人間という現象を、自由に観測できるのだからねぇ!


王都を追放された時、私はこれを「国費で行く、長期フィールドワーク」と名付けた。実に心躍る響きじゃないか!


早速立ち寄った最初の村では、住民全員が奇妙な咳と鼻水に苦しんでいた。観測したところ、原因は井戸水に繁殖した、特定の粘菌の胞子だった。私は道端に生えていた薬草を調合し、即効性の高い抗アレルギー薬を精製してやった。村人たちは涙を流して感謝したが、その翌日、彼らは松明を手に私の寝床を取り囲んでいた。


「あの治癒は神の御業にあらず!魔女だ!魔女を火あぶりにしろ!」


なんと!私の科学的成果を、魔女の一言で片付けるとは!実に非合理的で、実に面白いじゃないか!彼らの包囲網の力学的な欠陥を計算し、脱出するのは容易だったが、おかげで「集団ヒステリーにおける知能指数の低下率」という、実に貴重なデータが得られたよ。


またある時は、盗賊に襲われる商人の隊商に遭遇した。盗賊たちの動きはあまりに稚拙で、物理法則を無視した無駄な動きのオンパレード。見ていて我慢ならなくなり、つい介入してしまった。


「君のその斧の振り方では遠心力が全く活かされていない!もっと腰の回転を使いたまえ!」


「ひいぃ!な、なんだこいつは!」


私は人体破壊工学の観点から、彼らの非効率な点を一つ一つ指摘しながら、関節という関節を的確に脱臼させてやった。実に有意義な臨床試験だった。


隊商の主人は私を「命の恩人」と崇め、近くの領主の館に招待してくれたのだが、これもまた面白いサンプルだった。領主は私の戦闘データを知るや否や、目を輝かせてこう言ったのだ。


「素晴らしい!我が騎士団の客員教官となってもらおう!さあ、この部屋でゆっくり休んでくれ!」


ガチャン、と扉に鍵をかけられた時には、流石に笑ってしまったねぇ。軟禁のつもりらしいが、その錠前の構造はあまりに単純で、私の髪飾り一本で30秒もかからずに解錠可能だった。警備兵の巡回ルートも単調だ。私は彼らの警備システムの脆弱性に関する詳細なレポートを領主の枕元に置いて、悠々と立ち去ってやった。


そう、人間という検体は実に興味深いが、少々パターン化しすぎていて退屈していたところだったのだ。 しかし、このシルヴァングレイドは違う!法も秩序も、そして常識という名の思考停止も届かない混沌の地。ここならば、私の知的好奇心を刺激してくれる、未知のデータがいくらでも採取できるに違いない!


「さて、まずは。研究の拠点となる『ラボ』を確保するとしようか」


私は白衣の裾を翻し、街へと足を踏み入れた。すれ違う傭兵たちがギロリと私に視線を向けるが、すぐに興味を失ったように顔をそむける。ふむ、私のこの白衣と、非戦闘員と推定される体格から、脅威度と略奪価値を瞬時に算出し、「関わるだけ無駄」と判断したわけだ。実に合理的でよろしい。


街のはずれに、今にも崩れ落ちそうな、実に趣のある小屋を見つけた。扉は傾き、窓には蜘蛛の巣がアートを描いている。完璧だ。ここを私の新しいラボとしよう。家賃交渉の相手は、どうやらこの小屋に住み着いていたネズミのようだったが、私が調合した即席の睡眠薬の匂いを嗅がせると、実に友好的に立ち退いてくれた。


こうして、私のシルヴァングレイドでの観測生活が始まった。

ラボでの生活が始まって数日。街の住民たちは、私という新しい菌の出現に、様々な反応を示してくれた。


市場のパン屋で、私は焼き立てのパンを手に取り、その気泡の入り方から発酵具合と最適な焼成時間を分析していた。


「ふむ、この気泡の不均一さは、酵母の活動温度に約3.4度のブレがあったことを示唆している。実に興味深いデータだ。店主君、オーブンの熱伝導率に関するデータを提供してはくれないかね?」


「……はあ?」


パン屋の頑固そうなオヤジは、宇宙人でも見るかのような目で私を見つめていた。実に面白い反応じゃないか。


酒場では、酔っぱらった傭兵が私に絡んできた。


「よう、白衣の姉ちゃん。一杯どうだ?俺の武勇伝を聞かせてやるよ」


「ほう、武勇伝かね?君のその右腕の筋肉の付き方から察するに、得物はバスタードソード。だが、その歩行時の僅かな重心のブレは、過去に左膝の半月板を損傷したことを示している。その状態でどのような戦闘行動が可能だったのか、詳細な戦闘ログを聞かせてもらおうか!」


「ひっ…!」


傭兵は、青ざめた顔で逃げ出していった。解剖されるとでも思ったのかね?失敬な。


そんな、実に平和な観測日和のある日のことだった。 突如として、街の貧弱な木の柵が、轟音と共に破壊された。土煙の中から現れたのは、サイの上半身とゴリラの下半身が実に非合理的に融合したかのような魔獣――サイゴリラだった。その目は血走り、涎を垂らしながら、一直線に、最も人間が密集している市場へと突進してくる。


「「「ぎゃああああああ!!」」」


悲鳴、怒号、物が壊れる音。実に、実に非効率なカオスの発生だ。街の衛兵もどきが数人、錆びた槍を手に立ち向かうが、その突進の前に、まるでボーリングのピンのようにはじき飛ばされていく。


「ふぅむ…」


その時、私はちょうど果物屋の店先で、リンゴの酸化反応速度と糖度の相関関係について、店主を質問攻めにしているところだった。私がブツブツと分析していると、暴走するサイゴリラが、一直線にこちらへ向かってくる。私の背後には、恐怖で動けなくなったパン屋のオヤジがいる。


「きゃああ!先生、危ない!」


誰かが叫ぶ。だが、私の思考は、目の前の絶好の観測対象に完全に集中していた。


「面白い。実に面白いじゃないか。これは、生きたまま捕獲し、徹底的に解剖…いや、生態調査をする価値がある」


私は、手にしていたリンゴをかじると、面倒くさそうに、しかしその目は科学者の狂気で爛々と輝かせながら、一歩前に出た。


「少し静かにしたまえ、諸君。君たちの非合理的な叫び声は、私の思考のノイズになる」


私は鞘から剣を抜き放つと、突進してくるサイゴリラの巨大な身体を、まるで一枚の設計図でも見るかのように、冷静に「スキャン」した。筋肉の動き、骨格の可動域、呼吸のリズム、そして、神経の走行ルート。全てのデータが、私の脳内で、瞬時に三次元モデルとして再構築されていく。


サイゴリラの巨大な拳が、私を叩き潰そうと振り下ろされる。だが、その動作が開始された0.2秒後には、私はその最適回避ルートを算出していた。私は、風のようにその攻撃をいなすと、すれ違いざまに、剣の切っ先で、サイゴリラの足首にあるアキレス腱を、外科手術のように正確に、そして的確に断ち切った。


「グオッ!?」


巨体がバランスを崩し、前のめりになる。次に振り回される腕。私はその関節の可動域の限界点を見極め、剣の柄を、テコの原理を応用して、その肩の関節窩へと的確に叩き込んだ。ゴキリ、という実に心地よい音が響き、その腕はだらりと垂れ下がる。


「素晴らしい!この状態でも、なおこれほどの運動能力を維持できるとは!君の代償能力は、実に興味深いデータを提供してくれる!」


私は、嬉々として追加のデータを収集していく。麻痺を引き起こす神経叢への的確な打撃。平衡感覚を狂わせるための三半規管への軽微な衝撃。私の剣は、もはや剣ではなかった。それは、対象の機能を一つずつ停止させていく、完璧なデバッガーのツールだった。


数分後。市場の中心には、五体満足でありながら、完全に戦闘能力を奪われ、混乱したようにその場で震えているサイゴリラの姿があった。 市場は、水を打ったように静まり返っていた。住民たちは、目の前で起きた、あまりにも異質で、あまりにも効率的すぎる「無力化」の光景に、ただ呆然と立ち尽くしている。


「さて、と」


私は、血糊一つついていない白衣の埃を払い、満足げに頷いた。


「動く標本は、死んだ標本より遥かに価値がある。誰か、この検体を私のラボまで運んでくれたまえ。報酬は、私の特製栄養ペースト一日分でどうだね?」


その言葉を聞いた瞬間、住民たちは、我に返ったかのように、今度は本物の悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。実に面白い反応じゃないか。


いつしか私は、街の住民たちからこう呼ばれるようになっていた。 「あのヤバい白衣の女」と。

ふふふ、結構じゃないか。畏怖は、無用な干渉を避けるための最も効率的なバリアだ。おかげで、私の研究は実に捗っていた。


そんなある日の午後だった。 私がラボで、この地域に生息するカエルの粘液から抽出した、幻覚作用のあるアルカロイドの構造式を解析していると、突如として、ラボの貧弱な扉が弾け飛ぶかのような勢いで開け放たれた。


「先生!先生はいらっしゃいますかいッ!?」


そこに立っていたのは、熊のように屈強な、しかし今は血の気を失った顔の男だった。その腕には、ぐったりとした小さな少女が抱かれている。 ふむ、この男の筋肉量と骨格から推定される職業は、木こりか、あるいは石工といったところか。そして、その腕の中の少女は、おそらく彼の実子。実に分かりやすいデータだ。


「娘が…!山賊に…!どうか、娘を助けてください!」


男は、私の足元に崩れ落ちるように膝をついた。 私は解析途中だったカエルをビーカーに戻すと、ゆっくりと立ち上がり、その少女を観察した。


「ふぅぅむ…!」


思わず、感嘆の声が漏れた。 なんと素晴らしいサンプルだ! 少女の腹部には、錆びた矢が見事に突き刺さっている。矢尻の形状から、これは特定の山賊団が使用するカスタムメイド品だ。矢の刺さった角度と深さ、そして出血の量と血液の凝固具合から、負傷からの経過時間はおよそ21分と推定できる。


「素晴らしい…!実に素晴らしいじゃないか!」


私の歓喜の声に、男は顔を上げた。その目には、絶望と、そして私に対するわずかな希望が浮かんでいる。


「せ、先生…?娘は…娘は助かるのでしょうか!?」


「静かにしたまえ、モルモット君。君の感情的な発声は、私の思考ののノイズになる」


私は男を制し、少女の瞳孔を指でこじ開けて光への反応をチェックする。ふむ、まだ生命活動の維持は可能だ。生存確率は、通常の医師ならば3%未満。だが、私の手にかかれば、17.4%までは引き上げられる。なんとスリリングな実験だろう!


しかし、ここで一つの問題が浮上した。 この矢を抜くには、外科手術が必要だ。だが、原因である山賊を放置すれば、また新たな被害者サンプルが生まれる可能性がある。それは、実験環境の汚染に繋がりかねない。


「よし、決めた」


私は、壁に立てかけてあった、鞘に収まったままの一振りの剣を手に取った。


「せ、先生…?どこへ…?」


「少し、野暮用ができたんでね。この検体の状態を安定させるには、まず周辺環境のバグを取り除く必要がある」


私は男に、ラボにあった止血効果のある薬草を押し付けた。


「いいかい?私が戻るまで、これをすり潰して、傷口の周りに塗り続けなさい。決して矢には触れるなよ。気休め程度にはなるはずだ」


「え?あ、は、はい…!」


呆然とする男を尻目に、私はラボの外へと足を踏み出した。 地面に残された痕跡、風が運ぶ微かな血の匂い、そして怯えた鳥たちの鳴き声。全てのデータが、敵の位置を指し示している。


「ふふふ、まずは原因ウイルスの除去から始めるとしようか。実に、実に、楽しみじゃないか!」


白衣を翻し、私は森の中へと駆け出した。 これから始まる、最高にスリリングな「臨床試験」に、私の口元は自然と吊り上がっていた。最高に面白いデータが取れるだろうからねぇ!


森の中は、思考を巡らせるには快適な環境だ。腐葉土の匂い、木々のざわめき、鳥の声。全ての情報が私の脳内で統合され、一つの解を導き出す。山賊たちの残した痕跡は、実に分かりやすい道標だった。ふむ、彼らの危機管理意識の欠如は、生物として致命的なバグだねぇ。


程なくして、岩陰で火を囲む5人の男たちを発見した。獲物の品定めでもしているのか、実に無防備だ。これでは実験にもならないじゃないか。 私は、わざと小枝を踏み鳴らした。


「誰だ!?」


男たちが私の姿を認めると、その顔に下卑た笑みが浮かんだ。


「なんだぁ、白衣の姉ちゃんか。道にでも迷ったか?」


「ちょうどいい、今日の稼ぎの足しにしてやるぜ!」


実に、実に興味深い反応だ。彼らの脳は、私の白衣から「非戦闘員」「弱者」という記号を読み取り、油断という致命的なエラーを引き起こしている。


「君たちには、少々私の実験に付き合ってもらおうか。君たちの待ち伏せには、13個の戦術的欠陥が見受けられる。まず第一に、風上からのアプローチを許している点。第二に…」


「わけのわかんねえこと言ってんじゃねえ!」


リーダー格の男が、大斧を振りかぶって突進してくる。 「実に非効率な動きだ。その大振りでは、君の重心が2.7秒間も無防備になる。ほら、この通り」 私はひらりと身をかわし、男の脇腹を剣の柄で正確に突いた。人体の急所である肝臓に的確な衝撃が加わり、男は「ぐえっ」という実に面白い断末魔を上げて崩れ落ちた。


「な、何ぃ!?」


残りの男たちが、慌てて武器を構える。


「二人目は君だ。その剣の構え、肩の筋肉が硬直している。おそらく慢性的な肩こりに悩まされていると見た。原因は睡眠時の姿勢にあると推測されるが…」


「うるせえ!」


男が剣を突き出してくるが、あまりに直線的すぎる。私はその腕を掴むと、関節の可動域を計算し、てこの原理を応用して、いとも簡単に脱臼させてやった。


「ぎゃあああ!」


「やはりだ。関節の柔軟性が著しく欠如している。日頃のストレッチを怠った結果だねぇ」


私はその後も、人体破壊工学の講義をしながら、残りの山賊たちを一人ずつ、的確に無力化していった。アキレス腱の脆弱性、膝蓋骨の構造的弱点、頸動脈洞反射による失神のメカニズム。彼らは、実に素晴らしい臨床データを提供してくれた。もちろん、誰一人として殺してはいない。死んだ検体からは、生きたデータは取れないからね。


「さて、と」


私は意識を失った山賊たちを積み重ね、彼らの得物を「研究資料」として回収すると、悠々とラボへの帰路についた。

ラボに戻ると、熊のような男が必死の形相で娘の看病を続けていた。私の姿を認めると、その目に驚愕の色が浮かぶ。


「せ、先生…!?ご無事でしたか!それに、その武器は…」


「ああ、これかね?道端で拾ったのさ。それより、検体の容態は?」


私は剣を壁に立てかけると、血に濡れた手を洗いもせず、少女の元へ歩み寄った。 「ふむ、私の指示を忠実に守っていたようだね。出血は最小限に抑えられている。よろしい」

私は男に向き直ると、にこりと笑いかけた。


「さて、第二段階の実験を始めようか。君には、私の助手を務めてもらう」


「じょ、助手…ですかい?」


「そうだ。まずはそのランタンを、彼女の腹部から30センチの位置で、45度の角度を保って照らし続けたまえ。少しでも手が震えれば、この子の命はないと思え」


「ひいぃぃ!」


青ざめる男を尻目に、私は今度は医療用のメスを手に取った。 皮膚を切開し、筋肉を避け、臓腑を傷つけないよう、ミリ単位の精度で矢を摘出していく。


「見事な刺さり具合だ。肝臓を僅か3ミリで回避している。この矢の製作者は、なかなかの腕前だねぇ。…おっと、喋っていないで手を動かしたまえ、モルモット君。出血量が許容範囲を超えてしまう」


数時間後、手術は完了した。少女の容態は、奇跡的に安定した。 男は、何度も、何度も、私に頭を下げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で感謝の言葉を繰り返していた。実に非効率な水分と塩分の排出だ。

私は、血に濡れた自分の手と、壁に立てかけた剣、そして手術台の上のメスを順に見つめた。


「破壊と、再生…か」


剣は人体を破壊するための道具。メスは人体を修復するための道具。だが、私にとっては、どちらも等しく「生命という数式を解き明かすための手段」に過ぎない。


「ふふふ…あはははは!そうか、そうだったのか!」


私の突然の高笑いに、男はビクリと肩を震わせる。 構わないさ。君に、私の知的好"奇心が満たされたこの喜びが理解できるはずもない。

そうだ。私は、医者でも騎士でもない。 私は、ただの探求者。この世界のあらゆる真理を解き明かす、白衣の探求者だ!



私のラボでの一件から数日後。

例の少女、アンナは、驚異的な回復速度を見せていた。実に素晴らしい。私の執刀技術と処方した薬が完璧だったことの証明だねぇ。


その父親のギュンターは、今や私の忠実なる助手となっていた。


「せ、先生!アンナが、お絵かきを!」


「ふむ、指先の末梢神経まで完全に回復している証拠だ。実に良好な経過だ」


「せ、先生!今日のスープです!薬草の分量は、ご指示通りに!」


「うむ。君もようやく、匙加減というものを学習したようだねぇ。実に興味深い成長データだ」


ギュンターは、私が何か言うたびにビクッと肩を震わせ、しかしその目には狂信的なまでの尊敬の色を浮かべている。彼が街で何を話したのかは知らないが、どうやら私の「実験」に関する噂が、新たなフェーズに移行したらしい。


「聞いたか?街はずれの白衣の女のこと」


「ああ、山賊を一人で叩きのめしたっていう…」


「それだけじゃねえ。死にかけてたギュンターの娘を、ナイフ一本で治しちまったらしいぜ!」


「なんだそりゃ、騎士なのか医者なのか…」


「どっちにしろ、ヤバいことだけは確かだ」


ふふふ、面白いじゃないか。「ヤバい白衣の女」から、主語が抜けて「ヤバい」だけが強調されている。記号化がさらに進んだ証拠だ。


そして、その噂は、新たな検体サンプルを私のラボに運び込んできた。

最初に訪れたのは、痩せこけた人間の男だった。


「せ、先生…。近頃、どうにも体がだるくて…」


「ふむ」


私は男の瞼をめくり、爪の色を観察し、そして彼の呼気を分析した。


「診断結果を言おう。君は、慢性的なビタミンB群の欠乏による栄養失調だ。心当たりは?」


「は、はい…。『商会』の売るパンと干し肉は高すぎて、最近はずっと薄いスープばかりで…」


「商会…?」


私の知的好奇心が、ピクリと反応した。

ギュンターに尋ねると、この街の食料や薬は「ブロンズスケイル商会」という組織がほぼ独占しているらしい。なるほど、これはシステムの血流を滞らせる悪性の血栓だ。実に興味深い病巣じゃないか。


次に運び込まれてきたのは、腕から血を流す狼の獣人の若い男だった。ぴんと立った耳が、痛みでしょげている。


「鉄猪団の野郎にやられた!ちくしょう!」


「ほう。この切り傷の角度と深さ…実に非効率な斬撃だ。君の種族が持つ優れた動体視力を考慮すると、この程度の攻撃を避けられないのは致命的なエラーだねぇ。相手は素人か?」


「んだとぉ!?」


「事実を述べたまでだ。それより、鉄猪団…?それは?」


話を聞けば、この街には人間と獣人が入り乱れた「鉄猪団」と「影蛇団」という二つの傭兵団がおり、日夜くだらない縄張り争いを繰り広げているらしい。これは、自己の組織を攻撃する自己免疫疾患のようなものだ。街の治安という免疫機能が、完全に暴走している。


私が獣人の男の傷口を縫合していると、外が急に騒がしくなった。


「てめえら!ここをどなたの縄張りだと思ってやがる!」


「うるせえ!昨日までは俺たちのシマだったんだよ!」


どうやら、鉄猪団と影蛇団が、私のラボの前で小競り合いを始めたようだ。面白い。臨床データが向こうからやってくるとはね。

私が外に出ると、屈強な人間や、猪の獣人、猫の獣人などが十数人、まさに一触即発の状態だった。その時だ。


「――そこまでだ」


凛とした声が響き、両者の間に、一人の女性が割って入った。腰に使い古した剣を差しているが、その立ち姿には隙がない。元騎士のアリア、という女だった。

彼女は両者を睨みつけ、静かに告げた。


「この先は、治療の場だ。無粋な真似は許さない。…引き返せ」


その気迫に押されたのか、男たちは舌打ちをしながらも、すごすごと引き上げていった。

アリアは私を一瞥すると、何も言わずに去っていった。

ふぅん、面白い。あの女、暴走する免疫細胞を抑制する、抗体のような役割を果たしているのか?実に興味深い検体だ。

そして、三番目に訪れたのは、小さな子供を抱いた猫の獣人フェリの母親だった。三角の耳を不安げにぴくぴくさせている。


「先生、この子の咳が止まらなくて…熱も下がらないんです」


子供の呼吸音を聞き、喉の状態を観察する。猫獣人特有の器官に炎症は見られない。


「ふむ。この症状は、特定のカビの胞子を吸い込んだことによる、アレルギー性の気管支炎だ。かなり湿度の高い、不衛生な環境に住んでいると見たが」


「は、はい…。私たちが住んでいるのは、『ザ・マイア』ですから…」


ザ・マイア。それは、この街のスラム街の通称だった。


「よし、決めた。原因菌を特定する必要がある。案内したまえ」


「えっ!?あんな危険な場所に、先生が!?」


「危険なのではなく、データが豊富だと言うべきだねぇ」


私は母親の制止も聞かず、ザ・マイアへと足を踏み入れた。

そこは、私の予想を遥かに上回る、素晴らしい実験環境だった。汚水が溢れ、ゴミが山と積まれ、空気は淀み、あらゆる病原菌が歓喜の声を上げているかのようだ。


「素晴らしい…!ここは病理学の宝箱じゃないか!」


私が目を輝かせながら汚水を採取していると、一人の男が声をかけてきた。


「君、見ない顔だね。こんな場所で何をしているんだい?」


優しそうな顔立ちの、しかし芯の強そうな男だった。彼は獣医師のケンジと名乗った。彼の周りには、なぜか怪我をした動物だけでなく、スラムの子供たちまで集まっている。


「私はエラーラ。この地域の生態系、特に微生物の分布について調査している」


「微生物?…君が、街で噂の白衣の…」


ケンジは私を見つめた。

ちょうどその時、彼が治療していた子狐の獣人の子供が、苦しそうに咳き込んだ。


「おっと、いけない」


ケンジは子供の背中を優しく撫でながら、すり潰した薬草を舐めさせている。

私はそれを見て、思わず口を挟んだ。


「そもそも、その個体をそのような非衛生な環境に放置すること自体が、治療の成功率を著しく低下させる要因となっている」


「…君の言うことは、理論上は正しいんだろうね」


ケンジは、穏やかに、しかしはっきりと反論した。


「でも、この子たちに必要なのは、冷たい処方箋だけじゃない。温かい手と、安心できる場所なんだ。命っていうのは、数式だけじゃ割り切れないものだよ」


なんと!私の完璧な論理に対し、感情論で対抗するとは!

生命 ≠ 数式 という、実に非合理的な仮説!

面白い、実に面白いじゃないか!


「君のその仮説、実に興味深い。ぜひ、今後の観測対象モルモットとさせてもらおう」


「はは、お手柔らかに頼むよ」


私はケンジと別れ、ザ・マイアから大量のサンプルを採取してラボに戻った。

その夜、私のラボの壁には、シルヴァングレイドの巨大な地図が貼られていた。

地図の上には、私が集めたデータが、無数の書き込みとなって記されている。


病巣その一、経済の血栓、「ブロンズスケイル商会」。

病巣その二、免疫機能の暴走、「鉄猪団」と「影蛇団」(人間・獣人混合)。

病巣その三、万病の培養皿、「ザ・マイア」。


そして、興味深い変数として、抗体「アリア」と、非合理の集合体「ケンジ」の名を書き加えた。


「ふふふ…」


壁に貼られた街の解剖図を眺めながら、私の口元に笑みが浮かぶ。

診断は完了した。この街は、実に興味深い、複合的な疾患に侵されている。


「医者としての知識メスと、騎士としての技術(剣)。その両方を駆使して、この辺境の地に住まう興味深い『動物』たちを管理し、治療し、そして心ゆくまで観測しようじゃないか!今日からこのボロ小屋は、私の『シルヴァングレイド総合病院』兼、最高の実験場となるのだ!」


私の白衣が、ランタンの光を受けて、不気味に揺らめく。




私の「シルヴァングレイド総合病院」は、開業から数日にして、早くもカオスな様相を呈していた。忠実なる助手ギュンターは、私の高度な薬学理論についていけず、常に半泣きで走り回っている。実に面白い。極度のストレス下における人間の作業効率の変化は、実に興味深いデータを提供してくれる。


ラボには、人間、獣人を問わず、様々な検体(患者)がひっきりなしに訪れるようになった。捻挫したドワーフの傭兵、食あたりを起こした猫獣人の商人、二日酔いで頭を抱える人間のごろつき。


「診断、二日酔い。処方、アセトアルデヒドの分解を促進する、高濃度硫黄泉から抽出したエキスだ」


「先生!俺のこの腰痛は…」


「ふむ、君は猪の獣人だな。その体格で、人間の作った粗悪な椅子に座り続けるから、椎間板に異常な負荷がかかるのだ。処方、一日三回、四足歩行でのストレッチを30分。それと、自分専用の椅子を作りたまえ」


私の合理的で的確な診断は、シルヴァングレイドの非科学的な民間療法を駆逐しつつあった。しかし、私の真の目的は、この街の根本的な病巣を治療することにある。


「さて、と」


私は壁に貼った「街の解剖図」を見上げた。最初のターゲットは、万病の培養皿、「ザ・マイア」だ。

ザ・マイアから持ち帰った病原菌のサンプル分析は完了した。原因は、汚染された水とゴミの中で変異を遂げた、実にタチの悪いカビの一種。こいつが、特に抵抗力の弱い子供や獣人たちの気管支を侵しているのだ。


「ふふふ、実に面白い構造をしているじゃないか」


私は顕微鏡を覗き込みながら、思わず笑みを漏らす。このカビの細胞壁は、通常の薬では破壊できない特殊な多糖類で覆われている。だが、弱点はある。特定の酵素によって、いとも簡単に分解されてしまうのだ。


「モルモット君1号、例のブツは確保できたかね?」


「は、はい先生!街の外れの洞窟に生息する、あの巨大ナメクジの粘液です!臭いがすごくて、鼻が曲がりそうでした…!」


「文句を言うな。この『グランデ・ヌメーロの粘液』に含まれる特殊な分解酵素こそが、今回の特効薬の主成分となるのだからねぇ!」


私は、ナメクジの粘液に、鎮静作用のある光る苔、そして先日山賊から押収した安酒を調合し、鮮やかな虹色に輝く、実に美しい液体を完成させた。見た目はアレだが、効果は保証しよう。


「よし、臨床試験の時間だ!」


私は完成した特効薬の入った大瓶をいくつも抱え、再びザ・マイアへと向かった。 そこでは、相変わらず獣医師のケンジが、対症療法にもならないような薬草で、苦しむ子供たちを慰めていた。


「ケンジ君、実に興味深い仮説を検証する時が来たよ」


「エラーラ君!その怪しい色の液体は何だい!?」


「『生命 ≠ 数式』という君の非合理的な仮説が、正しいかどうかを証明してやろうじゃないか。さあ、そこの咳き込んでいるモルモット君たちを並べたまえ」


私は半信半疑のケンジを尻目に、子供たちに虹色の薬を一人ずつ飲ませていく。


「良薬は口に苦し、と言うが、これは甘いはずだ。主成分がナメクジの粘液だからねぇ」


「「「うえぇぇぇ…」」」


子供たちの顔は引きつっていたが、効果はてきめんだった。数分もすると、あれほど苦しそうだった咳がぴたりと止み、安らかな寝息を立て始めたのだ。


「こ、これは…奇跡だ…」


ケンジや親たちは、呆然と私を見つめていた。


「奇跡などではない。科学的根拠に基づいた、当然の結果だ。さあ、薬はまだ大量にある。代金は不要だ。ただし、全員分の詳細な病状データと、今後の経過観察の権利を要求する」


私の「白衣の処方箋」の噂は、瞬く間にシルヴァングレイドを駆け巡った。 それは同時に、ある男の耳にも届いていた。 街の富を独占する「ブロンズスケイル商会」の会頭、ゴルディアンだ。


「なんだと?あの白衣の女が、タダで薬を配っているだと!?」


絹の服に身を包んだ、肥え太った中年男――ゴルディアンは、部下の報告に、手に持っていた高級ワインのグラスを叩きつけた。


「うちが売っている、ありがたい祈祷師様のお墨付きの咳止め薬が、全く売れんではないか!」


「は、はあ。ですが会頭、あの女の薬の効果は本物のようでして…」


「本物かどうかなどどうでもいい!問題は、儂の儲けを邪魔しているという事実だ!」


ゴルディアンは、非科学的な迷信と、情報の独占によって富を築いてきた男だ。彼にとって、論理的で、しかも無償で民を救うエラーラの存在は、自身のビジネスモデルを根幹から破壊する、許しがたい脅威だった。


「鉄猪団の連中を呼べ!」


ゴルディアンは、下卑た笑みを浮かべた。


「あのいまいましいラボとかいうボロ小屋を、薬ごと叩き潰してやれ。あの女が、このシルヴァングレイドでは誰が『神』なのか、思い知ることになるだろう…」


その頃、私のラボでは、ケンジが感心とも呆れともつかない顔で、私に問いかけていた。


「君は、すごいことをした。でも、これで商会を敵に回したことになる。どうするつもりなんだい?」


私は、新たに採取したザ・マイアの土壌サンプルを分析しながら、こともなげに答えた。


「どうする、とは?むしろ、望むところだ。病巣が自ら炎症反応を示してくれたのだからねぇ。これで、次の執刀がやりやすくなったというものだ」


私の視線は、壁の解剖図に記された「鉄猪団」の文字に向けられていた。 さあ、次の臨床試験は、集団に対する外科的介入だ。


「うおおおおお!野郎ども、準備はいいかぁ!」


「「「応ッ!!」」」


シルヴァングレイドの酒場の一つが、獣の咆哮のような雄叫びに揺れていた。 屈強な人間や獣人たちが、斧を掲げ、酒を呷り、闘志を燃やしている。彼らこそ、この街の二大傭兵団の一つ、「鉄猪団」だ。そして、その中心で一際大きな体躯を誇る猪の獣人オクル、団長のガンツが、鼻息荒く叫んだ。


「ブロンズスケイル商会の旦那から、でけえ依頼が来たぜ!街はずれのボロ小屋にいる、生意気な白衣の女を叩き潰す!たったそれだけで、金貨がたんまりだ!」


団員たちは、理性の欠片もない雄叫びで応える。彼らの思考回路は実に単純だ。金、酒、暴力。この三つの要素で、彼らの行動原理はほぼ説明できる。実に、実に単純で扱いやすいサンプルじゃないか。


「聞くところによれば、その女、騎士様だったって噂もあるがよぉ…」


「馬鹿野郎!追放されたってことは、もうただの女だ!それに、こんだけの人数で囲んで、負けるわけがねえだろうが!」


ガンツはテーブルを拳で叩き割り、自信満々に言い放った。


「そうだ!数こそ力!力こそ正義だ!あの女の生意気な白衣を、俺たちの泥靴で汚してやろうぜ!」


「「「うおおおおお!!」」」


こうして、私の次の臨床試験の被験者たちが、実に分かりやすいフラグを立てながら、私のラボへと向かってきた。実に楽しみだ。


その頃、私のラボでは――。


「モルモット君1号!もっと急ぎたまえ!被験者たちの到着まで、予測ではあと12分しかない!」


「は、はいぃぃ!ですが先生、これは一体何なので…?」


ギュンターは、涙目で巨大な寸胴鍋をかき混ぜていた。その中身は、例の巨大ナメクジの粘液を、さらに濃縮し、特定の植物油と混合したものだ。


「これは『超潤滑性粘液ハイパー・スライム』だ。摩擦係数を限りなくゼロに近づける、私の自信作だよ。これをラボの前に撒いておけば、実に面白い運動エネルギーの観測ができるはずだ」


私の手元では、また別の調合が進んでいた。


「こちらは、『超強力くしゃみ誘発粉末グレート・スニージング・パウダー』。微細なカプセルに包まれた刺激性の化合物で、吸引すれば最後、三半規管が正常に機能しなくなるまでくしゃみが止まらなくなるという代物だ」


「そして仕上げはこれだ」


私は、先日捕獲した特殊な毒虫の鱗粉と、乾燥させたイラクサの棘を混合した粉末を指し示した。


「『超絶かゆみ爆弾アルティメット・イッチング・ボム』。接触すれば、鎧の上からでも、耐え難い痒みが全身を襲う。被験者が、戦闘行動と掻痒感のどちらを優先するのか、実に興味深いデータが取れるだろう」


私の楽しげな説明を聞きながら、ギュンターの顔はどんどん青ざめていく。


「せ、先生…。それらは、もはや薬学ではなく…」


「何を言うか。これらは全て、生体反応を観測するための、実に平和的で科学的な試薬じゃないか。さあ、準備は完了だ。あとは、モルモ-ット君たちが来るのを待つだけだねぇ!」


「着いたぜ!あれが、あの女の巣だ!」


ガンツ率いる鉄猪団が、私のラボの前に到着した。その数、およそ20。人間も獣人も、誰も彼もが粗末な武具を手に、威圧的なオーラを放っている。


「おい!白衣の女!聞こえてんだろ!さっさと出てきて、ブロンズスケイルの旦那に土下座しろ!そうすりゃあ、痛い目には合わせねえでや…」


ガンツの口上が終わる前に、私はゆっくりとラボの扉を開けた。


「やあ、諸君。集団での来院とは、感心だねぇ。して、症状は?」


「ああん?」


「君たちのその隊列、実に非効率だ。前衛と後衛の連携が全く考慮されていない。それに、団長の君。その立ち方では、いざという時に重心移動が0.3秒遅れる。実に致命的なエラーだ」


「……て、てめえ、何をごちゃごちゃと!」


私の冷静な分析に、ガンツの顔が怒りで真っ赤に染まる。実に分かりやすい反応だ。 「問答無用だ!野郎ども、かかれぇ!」

その号令と共に、鉄猪団が雄叫びを上げて突撃してくる。 だが、その一歩目が、彼らの運命を決めた。


「「「うわっ!?ぬるぬるする!!」」」


先頭集団が、私の撒いた「超潤滑性粘液」に見事に足を取られた。まるで下手な芸人のように、次々と派手にすっ転び、後続を巻き込んで、あっという間に人間と獣人の団子が出来上がる。


「な、何だこりゃあ!?」


「立てねえ!足が滑って…うわっ!」


後方にいた弓兵たちが、混乱しながらも矢を放とうとする。だが、その前に私はフラスコを投げつけた。 パンッ!と軽い音がして、白い粉末が宙に舞う。


「「「へ、へ、へっくしょい!!!」」」


「ぶえっくしょい!!」


「は、鼻水が…止まら…へっくし!!」


「超強力くしゃみ誘発粉末」の効果は絶大だった。弓兵たちは弓を落とし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その場に崩れ落ちた。


「き、貴様ぁ!よくも!」


ガンツは、粘液の上を何とか四つん這いで進みながら、怒りに顔を歪ませていた。 「ふむ、流石は猪の獣人だ。四足歩行は安定している。実に興味深いデータだねぇ」 私は最後の仕上げとして、「超絶かゆみ爆弾」の入った小袋を、彼らの団子に向かって投げ入れた。


「「「うぎゃあああ!か、かゆい!!」」」


「なんだこりゃ!鎧の中が!かゆくて死ぬ!!」


「掻かせろぉぉぉ!」


もはや、そこは戦場ではなかった。粘液の上で滑り、くしゃみをし、狂ったように全身を掻きむしる、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。


「ふむふむ、猪獣人は皮膚が厚いため、痒みへの耐性が人間より12%高いようだ。だが、猫獣人は毛皮が邪魔をして、一度痒くなるとパニックに陥りやすい…実に有意義なデータだ」


私が腕を組み、満足げに頷いていると、そこに一本の筋が通った声が響いた。


「――そこまでだ!一体、何だこの無様な光景は!」


元騎士のアリアが、剣に手をかけ、呆れ果てた顔で立っていた。


「エラーラ殿…!貴女がやったのか!?これは…これは騎士の戦いではない!あまりにも卑劣だ!」


「卑劣?何を言うか。私は、誰一人として致命傷を負わせず、完璧に相手の戦闘能力を奪ったのだ。これほど合理的で、人道的な戦術が他にあるかね?」


「ぐっ…!」


アリアは言葉に詰まっていた。私の論理は、常に正しいのだ。

こうして、鉄猪団は、たった一人の科学者の手によって、ものの数分で完全に無力化された。私は、痒みとくしゃみに苦しむ彼ら一人一人から詳細なデータを聴取し、満足してラボに戻った。


「さて、と。これで病巣の一つは、その機能を停止した。次は、どの患部にメスを入れようかねぇ」


壁の解剖図を見上げ、私の口元には、またしても笑みが浮かんでいた。


鉄猪団壊滅(物理的な意味ではない)のニュースは、シルヴァングレイドを秒速20メートルの突風の如く駆け巡った。


「聞いたか?鉄猪団の連中、あの白衣の女に手を出して、返り討ちにあったらしいぜ」


「返り討ちって…何でも、ヌルヌルになって、クシャミが止まらなくなって、最後には猛烈な痒みに襲われたとか…」


「なんだその呪いみたいな攻撃は!?」


「しかも、女は誰一人斬りつけず、ただ腕を組んでメモを取ってただけだってよ…」


「「「ヤバすぎる…」」」


噂は尾ひれどころか、翼とジェットエンジンまで付けて、私の評価を「ヤバい白衣の女」から「触れてはいけない超常現象」の域にまで高めてくれた。実に効率的なブランディング戦略だ。

そして、この戦略の最も面白い副産物は、これだった。


「せ、先生…痒みが…痒みがまだ治まらないんですが…」


「俺もだ…クシャミのしすぎで腹筋が崩壊しそうだ…」


そう、臨床試験の被験者であった鉄猪団の団員たちが、今や私の忠実な患者モルモットと化していたのだ。私は彼らに痒み止めの軟膏と、腹筋を効率的に回復させるためのストレッチ法を処方してやり、その代償として、彼らの詳細な身体データと戦闘経験に関するレポートを提出させた。実に有意義な取引じゃないか。


一方、私の「オペ」によって面子を潰されたブロンズスケイル商会の会頭、ゴルディアンは、屋敷で怒り狂っていた。


「使えん豚どもめが!たった一人の女に、何を手こずっておるか!」


彼は次の手を考えていた。鉄猪団がダメなら、より狡猾な影蛇団を雇うか?いや、それでは芸がない。もっと根本的に、あの女の支持基盤を崩さねばならぬ。


「そうだ…水だ」


ゴルディアンは下卑た笑みを浮かべた。 この街の主要な井戸は、全て彼が管理している。薬をタダで配られても、人間、水を飲まねば生きてはいけないのだ。


「あの女のラボ周辺の井戸の利用料を、明日から10倍に吊り上げろ。そして、逆らう者には水を売るな。あの女が、真の支配者が誰なのか、思い知ることになるだろう…」


その頃、私のラボでは、新たな研究テーマが持ち上がっていた。 「ふむ…」 私は、患者たちの治療データを見て、首を傾げた。ザ・マイアの住民だけでなく、街のあちこちで、軽度の脱水症状や、特定の鉱物の過剰摂取による結石の初期症状が見られる。


「モルモット君1号、この街の水のサンプルを採取してきたまえ。全ての井戸からだ」


「は、はい先生!」


ギュンターが持ち帰った水を分析した結果は、実に興味深いものだった。


「なるほどな。ブロンズスケイル商会が管理する井戸は、その全てが微量の毒性を持つ鉱物層に繋がっている。長期的に摂取すれば、健康を害するのは必然。実に非人道的なビジネスモデルだが、同時に、水質と健康被害の相関関係を示す、実に貴重なデータでもある」


そして、その翌日、商会による井戸の利用料値上げの報せが届いた。


「なんと分かりやすい。敵が、自ら次の執刀箇所を指し示してくれているじゃないか」


私は、ラボの壁に貼った「街の解剖図」の、「ブロンズスケイル商会」と書かれた部分に、大きくバツ印をつけた。


「経済の血栓は、完全に除去するに限る。モルモット君たち、新たな実験の時間だ!」


私は、痒みと腹筋崩壊から回復した鉄猪団の団員たちをラボの前に集めた。


「君たちに、仕事を与える」


「し、仕事…ですかい?」


団長のガンツが、まだ少し痒そうに身をよじりながら尋ねる。 「うむ。君たちの有り余る運動エネルギーを、実に有意義な社会貢献活動に転用するのだ。報酬は、痒み止めの特製クリーム一年分と、腹筋をバキバキに鍛えるための私の特別トレーニングメニューだ」


「「「やります!!」」」


彼らの返事は、実に気持ちが良かった。

私が鉄猪団を率いて向かったのは、街はずれの、ただの荒れ地だった。


「先生、こんな場所で一体何を…?」


「黙って見ていたまえ」


私は地面に突き立てた数本の鉄杭に耳を当て、地面を伝わる音の反響を入念に分析する。私の地質学の知識によれば、このシルヴァングレイドの地下には、巨大な石灰岩の層があり、そのさらに下に、汚染されていない清浄な水脈が眠っているはずだ。


「よし、ここだ。ここを掘りたまえ。目標深度は地下15メートル。誤差は許さん」


「じゅ、15メートル!?」


鉄猪団の連中は、私の無茶な指示に顔を引きつらせたが、痒みと腹筋への恐怖には逆らえなかった。彼らはヤケクソ気味に、しかしその有り余るパワーで、地面を掘り始めた。


その様子を、遠巻きに見ていた者たちがいた。獣医師のケンジと、元騎士のアリアだ。


「一体、何が始まるんだ…?」


「分からん。だが、あのエラーラ殿のことだ。常識で測れるようなことではないだろう」


作業が始まって数時間後、商会の用心棒たちが現れた。


「てめえら!会頭の許可なく、何をしている!」


「ああん?俺たちは、エラーラ先生の指示で、温泉を掘ってんだよ!」


ガンツは、なぜか目的を「温泉掘り」だと勘違いしていたが、その気迫は本物だった。用心棒たちとの間に、一触即発の空気が流れる。 その時、アリアが静かに前に出た。


「やめないか。彼らは、街のために働いている。それを邪魔する権利は、君たちにはないはずだ」


「ちっ、女騎士様のお出ましかよ…」


アリアの介入により、用心棒たちは手出しができずに立ち往生している。


「ふむ、実に興味深い。抗体『アリア』は、特定の条件下では、私の行動を補助する方向に作用するようだ」


私が顎に手を当てて分析していると、その瞬間は訪れた。

ゴゴゴゴゴ…! ツルハシの先が、硬い岩盤を突き破った。そして――。


「「「うおおおおお!水だ!水が出たぞ!!」」」


泥水にまみれた鉄猪団の男たちが、子供のようにはしゃいでいる。勢いよく噴き出した水は、どこまでも澄み渡っていた。 街の住民たちが、歓声を上げながら集まってくる。ケンジがその水を桶に汲み、匂いを嗅ぎ、そして驚愕の表情を浮かべた。


「すごい…全く不純物がない、本物の『命の水』だ…!」


こうして、シルヴァングレイドの住民は、ブロンズスケイル商会の支配から、完全に解放された。 私は、歓喜に沸く人々には目もくれず、ただ、採取したばかりの新鮮な地下水のサンプルを、うっとりと眺めていた。


「素晴らしい…実に素晴らしいじゃないか!」


新たな井戸の完成は、街に真の自由をもたらした。そしてそれは同時に、追い詰められたゴルディアンが、より危険で、より狡猾な「次の一手」を打つことを意味していた。 私の視線は、ラボの壁の解かていた。


シルヴァングレイドは、祝祭の雰囲気に包まれていた。 私の掘り当てた新しい井戸――いつの間にか住民たちは「女神の泉」などという、実に非科学的な名前で呼んでいる――の前には、水を汲むための行列ができていた。人間も獣人も、誰もがその澄んだ水を口にしては、歓声を上げている。


「うめえ!腹を壊さねえ水なんて、いつぶりに飲んだか!」


「エラーラ先生様様だな!」


「だが、あの人、昨日も鉄猪団の連中相手に、関節の可動域がどうとか、嬉しそうに講義してたぜ…」


「やっぱヤベえ人だ…」


ふふふ、尊敬と畏怖が、実に良いバランスで混ざり合ってきたじゃないか。恐怖による支配は非効率だが、適度な畏怖は、無用な干渉を避けるための潤滑油になる。実に興味深い社会心理学のデータだ。


その様子を、獣医師のケンジと元騎士のアリアが、少し離れた場所から眺めていた。


「街は、確かに良い方向に向かっている。だが…」


アリアは、私のラボの方を見やりながら、眉をひそめる。


「彼女のやり方は、あまりに常軌を逸している。まるで、巨大な実験動物でも観察するように、この街を…」


ケンジは苦笑した。


「でも、彼女の『実験』のおかげで、救われている命があるのも事実だ。今は、見守るしかないんじゃないかな」


彼らの懸念など知る由もなく、私はラボで、新たな「オペ」の準備に胸を躍らせていた。


その頃、ブロンズスケイル商会の屋敷は、絶望的なほど静まり返っていた。 会頭ゴルディアンは、蝋燭の薄暗い光の中、一人、震えていた。薬も、水も、その支配の源泉を、あの白衣の女はことごとく破壊していった。鉄猪団という暴力装置も、今やあの女の忠実なモルモットと成り下がっている。


「こ、このままでは…終わってしまう…」


ゴルディアンが恐怖に打ちひしがれていると、音もなく、彼の背後に一つの影が立った。


「――お呼びでしょうか、ゴルディアン殿」


「ひっ!?」

そこにいたのは、蛇の鱗を思わせる黒い革鎧に身を包んだ、蛇の獣人ヴィペラの男だった。彼の瞳は、獲物を狙う蛇のように冷たく、音もなく動く様は、まさに影そのもの。 彼こそ、シルヴァングレイドのもう一つの傭兵団、「影蛇団」の頭領、サイラス。


「さ、サイラス…!来てくれたか!」


「報酬さえいただければ、どこへでも」


サイラスは、感情の読めない声で答えた。


「依頼は、例の白衣の女の『排除』ですかな?」


「そうだ!殺せ!八つ裂きにしろ!あの女さえいなければ!」


「結構。ですが、我々は我々のやり方でやらせていただきます。成功報酬は、これまでの倍。そして前金でその半分を」


「わ、わかった!くれてやる!だから、頼む!今夜中に、あの女の首を…!」


サイラスは、ゴルディアンが差し出した金貨の袋を音もなく受け取ると、再び影の中へと溶けるように消えていった。


私のラボでは、実に興味深い現象が起きていた。 「ふむ…」 私は、ラボのドアノブに付着した、ごく微量の粉末をピンセットで採取し、分析していた。 「なるほどな。『黒百合』から抽出した、遅効性の神経毒か。ごく微量だが、常人ならば半日は指先の感覚が麻痺するだろう。実に芸が細かい」

窓の外では、いつも決まった時間に鳴くはずの夜鳥が、今夜に限って沈黙している。空気の流れも、不自然に淀んでいる。 これらは全て、これから起こる事象を示唆する、明確なデータだ。


「モルモット君1号!」 「は、はいぃぃ!」 「来客用の準備を始める。例のブツを、ラボの周囲に設置したまえ」


「れ、例のブツ、ですかい…!?先生、あれはあまりにも…」


「心配するな。殺しはしない。ただ、実に面白い生体反応が観測できるだけだ。さあ、急ぎたまえ!」


ギュンターは、青ざめた顔で、私が開発した数々の「歓迎用トラップ」を抱え、夜の闇へと消えていった。 ふふふ、実に楽しみじゃないか。鉄猪団の連中とは違う、知能の高いモルモット君たちのお出ましだ。最高のデータが取れるに違いない!

その夜更け。 サイラス率いる影蛇団の団員たちが、亡霊のように私のラボに迫っていた。彼らの動きに無駄はなく、音もなく、闇に溶け込んでいる。実に訓練されている。

一人が、ラボの前の地面に仕掛けられた、極細の糸に気づき、手信号で仲間たちに知らせる。 (…古典的な罠だ。これを切れば、鐘でも鳴る仕組みか) 彼は慎重に糸を避け、ラボの壁に取り付いた。

だが、それが私の思う壺だった。 糸は、鐘を鳴らすためのものではない。それは、私の開発した「超高感度指向性集音マイク」のスイッチだったのだ。

ラボの中、私はヘッドフォンのような機材を耳に当て、にやりと笑う。


「ふむ、侵入者は5名。心拍数から察するに、2名は獣人。1名は極度の緊張状態にあるようだ。面白い」


壁に取り付いた暗殺者が、窓を特殊なオイルで溶かし、音もなく侵入しようとした、その瞬間。 プシュッ、と小さな音と共に、彼の足元から白い霧が噴出した。


「なっ…!?」


霧を吸い込んだ暗殺者は、声もなくその場に崩れ落ちた。


「ふむ、カエルから抽出した、即効性の筋弛緩剤だ。効果時間はきっかり30分。実に正確に作用している」


残りの4名は、仲間の異変に気づき、散開する。実にクレバーな判断だ。 だが、彼らが踏み込んだ草むらで、無数の小さなガラス玉が、パリン、パリンと軽い音を立てて割れた。


「なんだこりゃ!?」


「くっ、臭い!目が…目が開けられん!」


ガラス玉から漏れ出たのは、私の特製「超濃縮タマネギ催涙エキスver.2」。涙と鼻水で、彼らの隠密行動は完全に無力化された。


「ちっ、素人ではないな…!」


頭領のサイラスだけが、全ての罠を冷静に見切り、ラボの屋根へと到達していた。さすがはリーダー格だ。最も質の良いデータを提供してくれそうだ。 彼は屋根瓦を一枚、音もなく剥がし、中を覗き込んだ。


そこには、椅子に座り、優雅に薬草茶を飲む、私の姿があった。


「やあ、待っていたよ、モルモット君。君が最後の一人だ」


「…気づいていたか」


「当然だ。君たちの潜入計画には、7つの致命的なエラーがあった。だが、それについては、後でゆっくり講義してやろう」


サイラスは、躊躇なく天井から飛び降り、私の喉元に短剣を突きつけた。 だが、私の表情は変わらない。


「実に愚かだねぇ。この部屋には、すでに無色無臭の、空気より重い麻酔ガスが充満している。君が天井から降りてきた時点で、すでに致死量の3倍は吸い込んでいるはずだが?」


「なっ…!?」


サイラスの目が、驚愕に見開かれる。彼の体から、急速に力が抜けていくのが見て取れた。


「さあ、おやすみ、モルモット君。明日からは、君を被験体とした、実に面白い実験が始まるのだからねぇ」


崩れ落ちるサイラスの体を、私は興味深そうに観察していた。 そこに、ラボの扉が勢いよく開け放たれた。


「エラーラ殿!無事か!」


アリアが、剣を抜き放ち、決死の形相で飛び込んできた。その後ろからは、ケンジが心配そうな顔で中を覗いている。 彼らは、床に転がる影蛇団の団員たちと、平然とお茶を飲む私を見て、呆然と立ち尽くしていた。


私は、新しいお茶を淹れながら、にこりと笑って彼らに言った。


「やあ、二人とも。ちょうどよかった。この蛇の獣人君の毒腺の構造について、実に興味深い仮説を思いついたのだ。ぜひ、明日の解剖…いや、精密検査を手伝ってはくれないかね?」


アリアとケンジの、引きつった顔が、実に面白いデータを提供してくれたのは、言うまでもない。


翌朝、私のラボは、実に興味深い光景を呈していた。 薄暗い室内に、影蛇団の団員たちが、まるで出荷を待つ標本のようにずらりと並べられ、特殊な樹脂で固めたロープで拘束されていた。昨夜の筋弛緩剤の効果が切れ、彼らは困惑と恐怖が入り混じった顔で、私を見上げている。


「おはよう、モルモット君たち。昨夜は、実に有意義なデータを提供してくれた。礼を言うよ」


私は、淹れたての薬草茶を片手に、彼らの前に立った。


「さて、昨夜の君たちの潜入計画だが、実に興味深いエラーが散見された。今日はそのレビューから始めようじゃないか。議題その一、なぜ君たちは、風下からアプローチするという初歩的なミスを犯したのかね?」


私の楽しげな講義が始まった。リーダーである蛇の獣人ヴィペラ、サイラスは、苦々しい顔で私を睨みつけている。


「…貴様、俺たちをどうするつもりだ」 「どうする?決まっているだろう。君たちは、実に貴重な研究サンプルだ。特に君、サイラス君。君のその蛇獣人特有の毒を生成する器官の構造には、前々から興味があってねぇ」


「ひっ…!」


私の純粋な知的好奇心に満ちた笑顔に、冷徹な暗殺者であるはずのサイラスの顔が、わずかに引きつった。

そこに、ラボの扉が開き、ケンジとアリアが入ってきた。


「エラーラ君、彼らは…」


「やあ、二人とも。ちょうどよかった。これから、昨夜の臨床試験に関するカンファレンスを始めるところだ」


ケンジは、私の言葉を無視して、拘束された団員たちに近づき、彼らの怪我の状態を診始めた。


「催涙エキスで目が痛むだろう。すぐに洗浄液を持ってくるよ」


「…なぜ、俺たちを治療する?」


「怪我人がいれば、治す。医者として当然のことじゃないか」


ケンジの当たり前のような優しさに、団員たちは戸惑いを隠せない。実に面白い。非合理的な善意が、彼らの思考にどのようなバグを引き起こすのか。


一方、アリアは私の前に立ち、厳しい表情で問いただした


。 「エラーラ殿。彼らを裁くのは、街の法であるべきだ。私的な尋問や拷問は、騎士として見過ごすことはできない」


「拷問?心外だな。私はただ、彼らと科学的な対話を楽しんでいるだけだ。それに、私はもう騎士ではない。私の行動を縛るものは、真理の探求という目的だけだ」


私はアリアに向き直り、フラスコを一つ、掲げて見せた。


「それに、チェックメイトは、もう済んでいる」


フラスコの中には、淡い紫色の液体が満たされている。


「これは、君、サイラス君が使う『黒百合』の毒の、ユニバーサルな抗毒薬アンチドートだ。君の毒の成分を昨夜のうちに解析し、今朝方、完成した。実に美しい化学式だったよ」


「なっ…!?」


サイラスの目が、初めて驚愕に見開かれた。彼の切り札が、一夜にして無力化されたのだ。


「さらに、これもある」


私は、例の指向性集音マイクが繋がれた、蝋盤式の録音機を指し示した。


「ここには、君がゴルディアンに雇われた経緯と、その報酬に関する会話が、実にクリアに記録されている。物証としては十分すぎるほどだねぇ」


私は、凍り付いているサイラスに、最終的な提案を突きつけた。


「選択肢を与えよう。選択肢A、このまま私のラボに残り、私の新しい薬学実験の、末長きにわたる被験体となる。もちろん、安全性は保証しよう。死なれてはデータが取れないからねぇ」


サイラスの顔が、さっと青ざめた。


「そして、選択肢B。君たちは、ゴルディアンの犯罪を告発する証人となる。その後、影蛇団を解体し、君たちのその優れた隠密能力と戦闘技術を、より合理的な目的に使用する。例えば…」


私は、アリアに視線を向けた。


「元騎士であるアリア君の指揮下で、この街の新しい治安維持部隊となる、というのはどうだろうか。実に効率的な人材活用だと思わないかね?」


「…!」


アリアも、ケンジも、そして影蛇団の団員たちも、私の突拍子もない提案に、言葉を失っていた。 沈黙を破ったのは、サイラスだった。彼は、深々とため息をつくと、観念したように言った。


「…分かった。選択肢Bを、受け入れよう」


彼の決断は、実に合理的だった。未知の薬のモルモットにされる恐怖は、いかなる拷問よりも効果的だったようだ。

こうして、シルヴァングレイドの暗部を担ってきた影蛇団は、私の手によって、実に平和的に、そして論理的に、その機能を停止したのだった。



翌日、シルヴァングレイドに激震が走った。 元騎士アリアに率いられた影蛇団が、ブロンズスケイル商会の屋敷を取り囲み、頭領サイラスが会頭ゴルディアンの数々の悪事を告発したのだ。動かぬ証拠を突きつけられ、最後の頼みの綱だった影蛇団にまで裏切られたゴルディアンは、実に面白いほどあっさりと崩れ落ちた。泡を吹いて気絶した彼の姿は、権力というものの脆弱性を示す、実に興味深いサンプルだった。


街の病巣であったブロンズスケイル商会は、こうして解体された。 街の住民たちは、圧政からの解放に歓喜し、またしても私を「女神だ!」などと称え始めた。実に非科学的で、面白い反応だ。


当然、街の統治機能は一時的に麻痺した。有力者たちは、ゴルディアン亡き後の権力を巡って、醜い議論を始めようとしたが、私はそれを一言で黙らせた。


「実に非効率な議論だ。これより、私が策定したプランに基づき、この街の再構築を開始する」


私は、当然のように街の暫定的な最高指導者の立場に収まった。何しろ、それが最も合理的だからだ。 しかし、私は政治には興味がない。興味があるのは、あくまで「人間社会」という巨大な実験対象だけだ。


「そこで、君たちに協力を要請する」


私は、ケンジとアリアをラボに呼び出した。


「ケンジ君。君には、この街の医療、福祉、そして食料配給の責任者となってもらう。君のその非合理的な感情論は、民衆というこれまた非合理的な集合体を管理するには、最適なアプローチだろう」


「ええっ!?僕が!?」


「アリア君。君には、元鉄猪団と元影蛇団を再編成した、新生『シルヴァングレイド警備隊』の隊長を命じる。君のその融通の利かない正義感は、秩序の維持にはうってつけだ」


「わ、私が…隊長…!?」


二人は戸惑っていたが、他にこの街をまとめられる人材がいないことも事実。結局、私の提案を受け入れた。ふふふ、実に扱いやすいモルモット君たちだ。


こうして、私の指導の下、シルヴァングレイドの「オペ」が始まった。 私はまず、ザ・マイアの衛生環境を改善するため、古代ローマの水道技術を応用した、革新的な上下水道の設計図を引いた。建設作業には、有り余る体力を持て余していた元鉄猪団の連中を動員した。彼らの筋肉は、実に効率的な動力源となった。


次に、商会が溜め込んでいた富を元手に、公平な食料配給システムを構築した。ケンジの管理の下、人間、獣人を問わず、全ての住民に、私が計算した最適な栄養バランスの食事が提供されるようになった。


アリアが率いる警備隊は、元チンピラと元暗殺者とは思えないほどの規律で、街の治安を維持した。まあ、反抗しようものなら、私の新しい「試薬」の被験体にされるという恐怖が、最大の抑止力になっているようだが。


実に平和な夜だった。 私がラボで、影蛇団から採取した毒のタンパク質構造を分析していると、遠くから、火の手が上がるのが見えた。そして、複数の場所から同時に上がる、人々の悲鳴。


「ふむ…」


私は窓から外を眺めた。街の各所で、計画的な放火と、それによる混乱に乗じた略奪が行われている。アリア率いる新生警備隊が懸命に鎮圧にあたっているが、敵は実に狡猾で、一点に留まらず、ゲリラ的に破壊活動を繰り返している。警備隊は完全に分断され、疲弊していた。


「なんと非効率な燃焼だ。それに、この煤煙は私の精密な薬草の調合に誤差を生じさせる。許しがたい。バグは迅速に駆除するに限る」


私は、白衣を翻し、ラボの屋上へと駆け上がった。 そこから見下ろすシルヴァングレイドは、まるで、チェス盤のようだった。炎の赤、逃げ惑う住民の白、そして、破壊活動を行う賊の黒。 アリアの部隊は、南の商業区で、最も大きな賊の集団と交戦している。だが、それは陽動だ。賊の真の狙いは、住民たちが避難している、北の教会。そこには女子供しかいない。実に、実に古典的で、予測しやすい戦術じゃないか!


私は屋根から屋根へと飛び移り、教会へと急いだ。 教会の扉は、既に破壊され、中からは住民たちの悲鳴と、賊たちの下品な笑い声が聞こえてくる。 私が、破壊された扉から静かに中へ入ると、そこは、地獄絵図だった。 十数人の賊が、震える住民たちを取り囲み、略奪の限りを尽くしている。リーダー格の男が、一人の少女に手をかけようとした、まさにその瞬間だった。


「―――実験の邪魔だ。失せたまえ」


私の、絶対零度の声が、教会に響き渡った。 賊たちが、一斉にこちらを振り返る。私の、血に汚れてもいない、純白の白衣姿を見て、彼らの顔に油断と侮蔑の笑みが浮かんだ。


「なんだぁ、白衣の姉ちゃんか。祈祷師様のお出ましか?」


「ちょうどいい、こいつも一緒に楽しんでやろうぜ!」


私は、深々とため息をついた。


「やれやれ。君たちの脳は、なぜ、過去のデータから学習するという、基本的な機能を実装していないのかねぇ」


私は、鞘から剣を抜き放った。


「臨床試験を始めよう。議題は、『集団における指揮系統の脆弱性と、パニック発生の閾値に関する考察』だ」


次の瞬間、私の姿は、消えていた。 最初に、悲鳴を上げたのは、最後方にいた、弓兵だった。彼は、何が起きたのか分からないまま、自分の両手首から、力が抜けていくのを感じていた。腱を、寸分の狂いもなく、正確に断ち切られていたのだ。


「な、なんだ!?」


賊たちが混乱する。私は、教会の高い天井の梁の上から、彼らを見下ろしていた。


「指揮系統の分断は、実に有効だ。次は、君たちの視覚情報を遮断しよう」


私は、梁に吊るされていた巨大な燭台を固定しているロープを、一閃のもとに切り裂いた。燭台は、轟音と共に床に落下し、蝋と火花を撒き散らす。賊たちの視界は、一瞬、完全に奪われた。


その、わずか数秒の闇の中を、私は、舞った。 私の剣は、もはや、人を傷つけるためのものではない。ただ、その「機能」を停止させるための、完璧なメスだった。 ある者は、膝の皿を砕かれ、ある者は、鎖骨を正確に打ち抜かれ、またある者は、肩の関節を外される。誰一人として、致命傷は負わせない。だが、誰一人として、二度と武器を握れないように。


やがて、闇が晴れた時。そこに立っていたのは、私一人。 そして、床には、戦闘能力という名の「機能」を完全に切除され、痛みと恐怖に呻く、十数人の「標本」が転がっているだけだった。 リーダー格の男だけが、震えながらも、まだ立っていた。


「お、お前は…一体…!?」


「私は、ただの科学者だよ。そして君たちは、私の貴重な研究対象だ」


私は、彼の顎を蹴り上げ、意識を刈り取った。


住民たちは、ただ、呆然と、その光景を見ていた。 アリアが、部下を引き連れて教会に駆けつけた時、そこには、静寂だけが戻っていた。 彼女は、床に転がる賊たちと、剣を納め、白衣についた煤の粒子を、迷惑そうに払っている私の姿を、交互に見つめ、そして、深々と、ため息をついた。


「…エラーラ殿。あなたという人は、本当に…」


「ああ、アリア君。ちょうどよかった。この者たちの身柄を確保し、私のラボまで運んでくれたまえ。実に興味深い、集団パニックに関するデータが取れそうだ」


私の、あまりにも日常的な口調に、その場にいた全員が、再び、凍り付いていた。実に面白い反応じゃないか。


数週間後、シルヴァググレイドは、生まれ変わった。 泥濘んでいた道は石畳で舗装され、汚水の匂いは消え、街角で喧嘩が起きることもなくなった。誰もが平等に食料を手にし、病気になればケンジの診療所で適切な治療を受けられる。 それは、まるで水晶のように、どこまでも清潔で、どこまでも整然とした街だった。


私は、ラボの窓からその光景を眺め、満足げに頷いた。


「素晴らしい。実に素晴らしいじゃないか。私の計算通り、完璧で、合理的なシステムだ」


だが、その時、私の視界の隅に、奇妙なデータが映り込んだ。 広場で遊ぶ子供たちの数が、以前より減っている。 酒場から聞こえてくる陽気な歌声が、ほとんど聞こえない。 人々は、すれ違う時に会釈はするが、以前のような無駄話に花を咲かせることはない。


街は、静かすぎた。 まるで、完璧に管理された、無菌室のように。

ケンジが、心配そうな顔で私のラボを訪れた。


「エラーラ君。街は確かに安全になった。でも、何かが違うんだ。みんな、なんだか…笑顔が減ったような気がするんだ」


「笑顔?それは、生存戦略において、どのような有効性を持つのかね?」


「そういうことじゃなくて…!」


私の完璧なはずの統治システムに、予測不能なエラーが発生し始めている。 効率 + 安全 ≠ 人間の幸福 ケンジの言っていた、あの非合理的な仮説が、再び私の脳裏をよぎった。


「ふむ…」


私は、壁の解剖図に、新たな書き込みを加えた。 『合併症:住民の自発的活動の低下』


「面白い…実に面白いじゃないか!」


私の実験は、まだ終わってはいなかった。むしろ、ここからが本番だ。 「感情」という、最も厄介で、最も興味深い変数の解析が、今、始まろうとしていた。



私の統治下のシルヴァングレイドは、完璧だった。実に、実に完璧だった! 街角からゴミは消え、犯罪発生率は驚異の0%。住民たちは、私が算出した完璧な栄養バランスの食事(味は保証しない)を摂取し、定められた時間に働き、定められた時間に眠る。素晴らしい!私の理論の正しさを証明する、美しいデータが毎日蓄積されていく。

だが、しかしだ。 最近、どうにも看過できない問題が発生していた。


「つまらん…!」


そう、私の実験が、あまりにも退屈なのだ! 検体(住民)たちは、私の予測通りに動きすぎる。まるで精密な機械人形だ。喧嘩もなければ、無駄話もない。酒場で酔ってくだを巻く者も、恋の悩みで仕事が手につかない者もいない。これでは、予測不能なバグから新たな発見を得ようという、私の科学者魂が満たされないじゃないか!


「いかん、このままでは、検体たちが退屈すぎて死んでしまう…!」


そんな私の懸念を裏付けるかのように、街に二つの、実に興味深い「バグ」が発生し始めていた。


バグその一。元騎士アリア。 彼女は、私の完璧な静寂に耐えかねたのか、広場の隅で、何やら奇妙な集会を開き始めた。そう、「剣術道場」と称する、非合理的なエネルギーの浪費行為だ。


「そこだ!踏み込みが甘いぞ、ククリ!」


「きゃん!」


アリアの檄。少年に、ぽこん、と木剣が打ち込まれる。周囲では、他の子供たちが「いけー!」「やっちまえー!」などと、全く無意味な音声を発している。 実に、実に非効率的だ!エネルギーの損失、予測不能な軌道、そして何より、勝敗という曖 昧な結果!だが、面白い。子供たちの目に、私が統治を始めてから一度も観測できなかった、「熱狂」という名の、実に興味深い生体反応が見られる。


バグその二。獣医師ケンジ。 彼は、私の完璧な栄養食が「味気ない」などという、実に主観的で非科学的なクレームをつけ、診療所の裏庭でハーブなるものを栽培し始めた。そして、それを大鍋で煮込み、「風味豊かなスープ」と称して、住民たちに振る舞い始めたのだ。


「う、うまい…!なんだこの、舌の上で爆発するような感覚は!」


「おお…!これが、『スパイス』…!」


住民たちは、生まれて初めて「風味」という名の、脳を直接刺激する快楽物質を摂取し、面白いほどに狼狽していた。ある者は涙を流して感動し、ある者は未知の味覚に悶絶している。 私は、そのスープを一口味見してみたが、栄養価以外の余計な情報量が多すぎて、解析不能だった。危険だ。これは、味覚というインターフェースを通した、一種のハッキング行為ではないのかね?


そして、その二つの「バグ」は、ある日、ついに私の統治システムを揺るがす、巨大な「不協和音」を引き起こした。 アリアの道場に通う猪の獣人の少年、ククリ君と、ケンジの畑を手伝う兎の獣人の少女、ポトフちゃんが、広場の真ん中で、世紀の大喧嘩を始めたのだ。


「アリア先生の剣こそが、この街を救う最強の力だ!」


「違うもん!ケンジ先生の心温まるスープがなきゃ、みんな凍え死んじゃうもん!」


剣 vs スープ。 なんと、なんと非合理的な対立軸だ! だが、その喧嘩は、私の無菌室のような街に、忘れ去られていた「熱」を呼び覚ましてしまった。 その光景を、元鉄猪団の連中が、遠巻きに見ていた。


「へっ、ガキどもは元気がいいな…」


「おい、俺は剣術派だぜ。腹が減っても戦はできるが、武器がなきゃ話にならねえ」


「馬鹿言え、腹が減っては戦はできぬって言うだろ!スープこそ至高!」


彼らの目に、かつての、あの下らない縄張り争いをしていた頃の、生き生きとした光が戻り始めていた。 スラム街だった場所に住む人々も、ケンジのスープの匂いに誘われて集まり、口々に言い争いを始める。


「食い物の恨みは恐ろしいって言うからのう」


「いやいや、力こそパワーじゃろ」


そうだ、これだ! これこそが、私が求めていた、予測不能なカオス! 私の完璧な水晶の街に、初めて明確な亀裂が入った瞬間だった。 壁の解剖図に記された『合併症:住民の自発的活動の低下』* という文字。その横に、私は新たな文字を震える手で書き加えた。


『処方箋(仮説):制御された混沌コントロールド・カオスの導入』


そうだ、分かったぞ!人間という検体は、完璧な健康状態では、かえって生命活力を失うのだ!適度なストレス、適度な競争、そして、適度な無駄!それら全てが、彼らを生かすための「スパイス」だったのだ!


「面白い…実に面白いじゃないか!」


私の実験は、まだ終わってはいなかった。むしろ、ここからが本番だ。 「感情」という、最も厄介で、最も興味深い変数を、私の手で完全に制御し、最高の街を設計してやろうじゃないか!


「ふふふ、まずは『シルヴァングレイド第一回・最強は剣かスープか大論争祭り』でも開催するとしようか!実に、実に、楽しみだねぇ!」


私の宣言から三日後、「シルヴァングレイド第一回・最強は剣かスープか大論争祭り」の準備は、実に興味深いカオスの中で進められていた。


「いいかね、モルモット君1号!祭りのメイン会場となる広場には、私の考案した『感情動態観測システム』を設置する!参加者の心拍数、発汗量、そして声量のデシベル値をリアルタイムで計測し、集団ヒステリーの発生メカニズムを解析するのだ!」


「は、はいぃぃ!ですが先生、この大量の銅線とカエルの脚は一体…?」


「ふふふ、企業秘密というやつだよ」


私は街で一番高い時計塔のてっぺんに陣取り、複雑怪奇な観測装置の設置に没頭していた。眼下では、街の住民たちが、実に生き生きとした表情で準備を進めている。素晴らしい!私の予測通り、彼らは「目的」という名のガソリンを注がれたことで、再び生命のエンジンに火がついたようだ!

街は、見事に二つの派閥に分かれていた。


【剣術至上主義派】

元鉄猪団の連中と、アリアの道場に通う血気盛んな子供たちが中心だ。彼らの主張は「腹が減っても剣は振れるが、剣がなければスープも奪われる!」という、実に単純明快な脳筋理論。広場では、巨大な丸太を木剣で叩き割るという、無意味なデモンストレーションを繰り返している。


【スープ原理主義派】

元スラムの住民たちと、腕力に自信のない人々が中心。彼らの主張は「どんな屈強な戦士も、お腹が減っては戦えない。一杯の温かいスープこそが、全ての力の源泉だ!」という、これまた感情に訴えかける非合理的なものだ。彼らは巨大な寸胴鍋を持ち出し、祭りの日に振る舞う「最終決戦用ボルシチ」の味見を繰り返している。すでに数名が味見のしすぎで満腹になり、戦線離脱していた。


実に、実に面白いじゃないか! 論理ではなく、信念と食欲がぶつかり合う!これこそが、人間という検体の、最も興味深い生態なのだ!


そして、祭りの日。 時計塔の鐘が高らかに鳴り響き、世紀の論争の火蓋が切って落とされた。 最初の競技は、「弁論大会」。実に文明的だ。


「まずは剣術派代表、ククリ君!前へ!」


猪の獣人の少年、ククリ君が、誇らしげに胸を張って演説台に立つ。


「うおおお!剣は強い!硬い!かっこいい!スープは、飲んだらなくなる!以上だ!」


なんと!わずか15秒!要点だけを述べ、あとは筋肉を誇示するという、実に潔いスピーチだ。剣術派の連中から、地鳴りのような歓声が上がる。


「続いてスープ派代表、ポトフちゃん!」


兎の獣人の少女、ポトフちゃんが、おずおずと演説台に立つ。


「え、ええと…。皆さん、お腹は空いていませんか…?昨日から煮込んだ、とっておきのスープがあります…。どうぞ、召し上がれ…」


彼女がそう言うと、スープ派のメンバーが、湯気の立つスープを観客に配り始めた。 次の瞬間、会場の空気が一変した。


「「「う、うまい…!!」」」


「なんだこの深いコクは!俺は、今まで何を食っていたんだ!」


「おお…心が…心が温まるようだ…!」


剣術派の屈強な傭兵たちでさえ、その一杯のスープの前に、次々と膝から崩れ落ちていく。


「勝者、スープ派!」


という私の判定を待つまでもなく、結果は明らかだった。

だが、剣術派も黙ってはいない。


第二の競技は、「実演対決」だ。 アリアが涼しい顔で前に出ると、積み上げられた10本の丸太を、一瞬の抜刀で、全て綺麗に断ち切ってみせた。その神業に、観客は息を呑む。


対するケンジは、大鍋を手に、過労で倒れていた荷運びのドワーフたちの元へ向かう。そして、滋養満点のスープを飲ませると、ドワーフたちは「力がみなぎってきたー!」と叫びながら、軽々と巨大な岩を持ち上げてみせた。 甲乙つけがたい!会場のボルテージは最高潮だ!


そして、最終決戦。 競技内容は、私の独断と偏見で決めた、「障害物パン食い競走」だ! 両派の代表者たちが、一斉にスタートする。最初の障害は、私が昨夜のうちに設置しておいた「超潤滑性粘液ハイパー・スライム」の坂だ!


「うわっ!ぬるぬるする!」


「進めねえ!」


阿鼻叫喚の地獄絵図。実に素晴らしいデータが取れる! 次の障害は、私の特製「超絶かゆみ爆弾」の粉が舞う、縄のトンネル!


「か、かゆい!」


「だが、パンのためだ!進めぇぇ!」


彼らは、もはや剣が強いかスープが温かいかなど、どうでもよくなっていた。ただ、目の前のパンを勝ち取るためだけに、本能のままに突き進んでいる! そうだ、これだ!人間とは、理屈ではなく、食欲で動くのだ!


最終的に、レースは、剣術派のククリ君とスープ派のポトフちゃんが、ほぼ同時にパンに食らいつき、同着という、実にドラマティックな結果に終わった。


その頃には、派閥などという区別は、もはやどこにもなかった。 剣術派の連中が、スープ派の鍋に群がり、スープ派の子供たちが、剣術派の大人に木剣の使い方を教わっている。広場には、実に心地よい、予測不能なカオスが満ち溢れていた。


時計塔の上で、私は満足げに頷いた。 私の観測装置は、街全体の「幸福度」を示す数値が、計測開始以来、最大値を記録していることを示していた。 私の仮説は、正しかったのだ。


(効率 + 安全) × 制御された混沌 = 人間の幸福


なんと美しい数式だろうか!


「ふふふ…あはははは!実に、実に有意義な実験だった!」


私の高笑いが、活気を取り戻した街に、こだましていた。




私の統治下のシルヴァングレイドは、実に、実に安定軌道に乗っていた。 「最強は剣かスープか大論争祭り」の成功以来、私は「制御された混沌コントロールド・カオス」という実に興味深い統治モデルの実験を繰り返していた。


「いいかね諸君!本日の議題は『シルヴァングレイド第三回・最強の洗濯術は、叩き洗いかもみ洗いか大論争』だ!両派閥は、互いの主張の正当性を、最も効率的に汚れを落とすという一点において証明したまえ!」


街の住民(モルモット君たち)は、私が与える実にくだらないテーマに、実に真剣に、そして実に楽しそうに取り組んでくれた。街には活気が戻り、私の「感情動態観測システム」が示す幸福度指数も、常に高い数値を維持している。素晴らしい!全ては私の計算通りだ! そう、全ては、私の完璧な数式の上で、美しく動いていたのだ。

―――あの日、あの忌まわしい「事件」が起きるまでは。


その日、街を揺るがしたのは、山賊でも、傭兵団の喧嘩でもなかった。


「先生!大変です!畑の作物が!」


農夫のギュンターが、血相を変えて私のラボに駆け込んできた。

畑に広がっていたのは、黒い、粘液質の斑点だった。それは作物に寄生し、その生命力を根こそぎ吸い取っているようだった。


「ふむ…!」


私の科学者としての血が、沸騰するのを感じた。未知の病原体!実に、実に興味深いじゃないか! 私はすぐにサンプルを採取し、ラボでの解析を開始した。数時間後、私はその病原体の正体を突き止めた。これは、通常の菌類ではない。この土地に眠る、過剰な魔力に反応して突然変異した、一種の「魔力粘菌」だ。


「ならば、対処法は実にシンプルだ」


私は、数種類の鉱石と薬草を調合し始めた。この粘菌の魔力構造を中和し、その細胞膜を分子レベルで破壊する、完璧な「対魔力粘菌用・除菌剤」の開発だ。私の計算によれば、これを畑に散布すれば、3時間14分15秒後には、全ての粘菌が完全に死滅するはずだ。ふふふ、なんとエレガントな数式だろうか!


だが、私がこの完璧なソリューションに没頭している間に、あの二つの「バグ」が、またしても予測不能な行動を開始していた。


バグその一。獣医師ケンジ。 彼は、私の科学的なアプローチを完全に無視し、何やら非合理的な民間療法を始めていた。


「この苔だ!この『陽光苔』には、大地の魔力を浄化する力があるって、古い言い伝えに!」


彼は、村の子供たちを引き連れて、岩場に生えた苔を、せっせと集め始めたのだ。そして、それをすり潰し、畑の土に混ぜ込むという、あまりにも非効率で、気休めにしかならないような作業を、歌なんぞ歌いながら楽しそうに行っている。実に愚かしい。


バグその二。元騎士アリア。 彼女に至っては、もはや論理的思考を完全に放棄していた。


「この地の守り神が、眠りについてしまったから、土地の力が弱っているのだ!」


彼女は、どこから引っ張り出してきたのか、古文書に書かれた「目覚めの儀式」なるものを、大真面目に実行し始めたのだ。 アリアは、畑の中心で、荘厳な剣の舞を舞い始めた。その動きは、確かに美しい。だが、それが粘菌に何の効果があるというのか。その周りでは、住民たちが、これまた古い民謡を、大声で合唱している。音波で粘菌を威嚇するつもりかね?実に興味深いが、成功確率は限りなくゼロに近いだろう。


私は時計塔の上から、彼らの実に非合理的な行動を観測しながら、私の完璧な除菌剤の完成を急いでいた。


「まあ、いいだろう。彼らが無駄な努力に絶望した頃に、私がこの完璧な薬で全てを解決してやれば、私の正しさがより一層際立つというものだ。これもまた、計算のうち、だねぇ」


そして、ついに、私の「対魔力粘菌用・除-菌剤ver.3.14」が完成した。 美しい紫色の液体が、フラスコの中で妖しく輝いている。私は、この勝利の美酒を手に、時計塔のてっぺんに立った。眼下では、アリアの剣舞がクライマックスを迎え、住民たちの歌声が最高潮に達している。


「さあ、諸君!絶望したまえ!そして、真の科学の力にひれ伏すのだ!」


私が、高らかに勝利宣言をしようとした、まさにその瞬間だった。

―――奇跡は、起きた。


いや、私に言わせれば、それは「確率0.0001%の、ありえないエラー」だった。 アリアの掲げた剣の切っ先が、夕日を反射して、きらりと輝いた。住民たちの歌声が、不思議なハーモニーとなって、畑全体を包み込んだ。ケンジが混ぜ込んだ苔が、淡い、金色の光を放ち始めた。 次の瞬間、どこからともなく、優しい風が吹いた。 その風に乗り、金色の光の粒子が、畑全体に舞い広がっていく。 そして、その光の粒子が触れた作物の、あの黒い斑点が、まるで雪が溶けるように、すぅっと、消えていったのだ。


数分後、畑の作物は、病気になる前よりも、瑞々しく、生き生きとした輝きを取り戻していた。


「「「うおおおおおおおお!!」」」


住民たちの、歓喜の雄叫び。 彼らは、アリアを「聖女だ!」と崇め、ケンジを「大地の賢者だ!」と讃え、互いに肩を組んで、その非科学的な勝利を分かち合っていた。


私は、時計塔の上で、一人、凍りついていた。 手には、完璧なはずだった、紫色の除菌剤の入ったフラスコ。 私の計算は、完璧だった。私の理論は、間違っていなかった。 だが、現実は、私の完璧な数式を、せせら笑うかのように、最も非合理的な「結果」を選び取った。


なぜだ? なぜ、私の100%の正解が、彼らの0.0001%の奇跡に、負けたのだ? 私は、歓喜に沸く住民を見下ろした。歌い、踊り、泣いて喜ぶ、実に非効率で、感情的で、そして、予測不能な検体たち。 そして、その中心で、はにかみながら互いの健闘を讃え合う、ケンジとアリア。


その時、私は、ついに、結論に達した。 彼らこそが、私の完璧な数式を狂わせる、最大の「バグ」なのだ。 彼らが重視する「過程」や「感情」は、私のシステムに、許容できないレベルの不確定要素エラーをもたらす。彼らがもたらす幸福は、奇跡という名の、ただの「偶然」に過ぎない。


真の幸福とは、偶然に左右されるものであってはならない。 それは、常に100%の確率で保証される、絶対的な「結果」でなければならないのだ。


私の顔から、笑みが消えた。 科学者としての、純粋な好奇心は、そこにはもう、なかった。 そこにあったのは、より、冷たく、より、絶対的な、支配への渇望だった。


「私の実験は、まだ終わってはいなかったのだな…」


私は、手に持っていたフラスコを、強く握りしめた。


「次のフェーズは、全ての不確定要素バグの、完全な除去だ。感情、偶然、そして、非合理的な奇跡。その全てを排除し、論理ロジックだけによって統治される、真に完璧な世界を、この私が、作り上げてやろう」


私の瞳は、もはや、目の前の街を見てはいなかった。 その視線は、この世界の、全ての非合理性を、見据えていた。 私の、本当の実験は、まだ、始まったばかりだった。


ふふふ、実に、実に完璧だ! 私が絶対的な統治者となって以来、このシルヴァングレイドは、かつてないほどの平和と繁栄を謳歌していた。獣のような荒んだ心を持っていた住民(モルモット君)たちも、私の合理的で慈悲深い指導の下、すっかり牙を抜かれた従順な家畜…いや、善良な市民へと生まれ変わったのだ。


私が医者として病を根絶し、騎士として脅威を排除した。そうだ、この街を救ったのは、この私!エラーラ・フォン・クラインなのだ!私の完璧な数式こそが、この混沌の世界における唯一の真理! そう、全ては私の計算通りに進むはずだった。あの、忌々しい二つのバグが、私の完璧なシステムに反乱の狼煙を上げるまでは…!


事件の始まりは、私が市民の生活の質を向上させるために開いた、実に有意義な公開討論会でのことだった。テーマは『人生における無駄の完全撤廃について』。実に素晴らしい議題じゃないか。


「いいかね諸君!恋愛における『切なさ』や『嫉妬』といった感情は、生存戦略において何の役にも立たない、ただのエネルギーの浪費だ!私の開発した『遺伝子適合率99.8%マッチングシステム』こそが、最も効率的に子孫を残すための最適解なのだ!」


私の完璧なプレゼンテーションに、住民たちが感動で打ち震え…ているはずだった。だが!


「異議あり!」


手を挙げたのは、獣医師のケンジだった。なんと!この私が直々に組んでやった、兎の獣人の娘との適合率98.7%のデートをすっぽかして、こんな場所で油を売っていたとは!


「恋愛は、効率だけじゃないはずです!たとえ結ばれなくても、誰かを想う気持ちとか、胸が締め付けられるような切なさとか…そういう、無駄かもしれないけど、温かい何かが大切なんじゃないでしょうか!」


温かい何か!なんだその非科学的な概念は!温度計で計測できるのかね!? だが、会場の空気がおかしい。特に、女性陣が「分かる…」「切ないよね…」などと、実に非合理的な共感を示し始めている!


まずい!私の論理が、切なさ という名の、感傷ウイルスによって汚染されていく! そこに、追い打ちをかけるように、アリアが立ち上がった。


「戦術においても同じことが言える!」


彼女は、私が考案した、負傷率0%を誇る戦闘訓練プログラム『絶対安全ラジオ体…いや、最適化戦闘シミュレーション』を、真っ向から批判し始めたのだ。


「モニターの前でボタンを押すだけの訓練で、真の強さが身につくものか!泥にまみれ、血を流し、仲間の死を乗り越える。その『過程』の痛みを知ってこそ、騎士の魂は磨かれるのだ!」


痛み!魂!なんと非効率で、精神論的な! だが、彼女の言葉は、元鉄猪団の連中の、闘争本能という名の古いOSを、完全に再起動させてしまった!


「そうだぜ!俺たちは、エラーラ先生のヌルヌルとカユカユで、多くを学んだ!」


「あの痛みがあったからこそ、今の俺たちがある!」


「違う!ケンジ先生の切なさこそが、俺たちを人間にするんだ!」


「いや、アリア先生の痛みこそが、魂を震わせる!」


会場は、切なさ派 と 痛み派 に分かれ、私の講座そっちのけで、再び、あの大論争を始めてしまったのだ!私の完璧な教育プログラムが、たった二つのバグによって、完全に破壊されてしまった!


その事件をきっかけに、民衆の支持は、雪崩を打って、あの二つのバグへと傾いていった。


私のラボの前には「完全栄養食ペースト7号の味が、泥にイチゴのヘタを混ぜたようだ」という、実に失礼な張り紙が貼られ、代わりにケンジの診療所の前には「心温まるスープ(日替わり)」を求める、長蛇の列ができた。彼らは、完璧な健康よりも、切なさを感じる食事を選んだのだ!


私の「最適化戦闘シミュレーション」の会場は閑古鳥が鳴き、代わりにアリアの道場は、闘争心を滾らせた男たちで、もはや飽和状態となっていた。彼らは、安全なシミュレーションより、痛みを伴う成長を選んだのだ!


私の完璧なはずの数式が、「慈愛」という名のケンジのバグと、「正義」という名のアリアのバグ、その二つの、あまりにも計算できない壁によって、阻まれていく。


私は、時計塔の上から、その光景を、ギリギリと歯ぎしりしながら見つめていた。 ケンジの周りには、人々の笑顔が溢れている。 アリアの周りには、人々の活気が満ちている。


そして、私の周りには、完璧な数式と、孤独だけがあった。 なぜだ? なぜ、私の完璧な正しさは、彼らの、不完全な温かさに、届かないのだ…?


「面白い…実に面白いじゃないか…!」


私の口から、乾いた笑いが漏れた。


「ならば、証明してやろうじゃないか。私の完璧な『結果』と、君たちの非合理的な『過程』、どちらが、この街の住民を、真の幸福へと導くのかを!」


私の瞳は、もはや、科学者のものではなかった。 それは、自らの正しさを証明するためならば、どんな手段も厭わない、狂信者の光を宿していた。 私の、最後の実験が、始まろうとしていた。


私の完璧な世界設計図は、実に、実に不愉快な壁にぶち当たっていた。 ケンジの言う「心」!アリアの言う「自由」!なんと非科学的で、計測不能で、そして何より私の計算を狂わせる厄介なバグだろうか! 私は時計塔のラボに籠り、来る日も来る日も、この二つの非合理的な変数を、私の統治数式に組み込むための研究に没頭していた。


「違う!『ドキドキ』の変数を加えると、数式全体の強度が7.4%低下する!」


「『痛み』を許容した場合の幸福度最大値は、私の『完全管理社会』のそれより12%も低い!」


「やはり、感情などという非効率なものは、完全に除去するべきなのだ!」


私がフラスコを片手にブツブツと呟き、新たな「全住民感情抑制ガスver.2.0」の開発に着手しようとしていた、その時だった。 街の、あの忌々しい「目覚めの鐘」が、かつてないほど狂ったように鳴り響いたのだ。


シルヴァングレイドの空が、死んだ。

数時間前まで青く澄み渡っていたはずの空は、いつの間にか、よどんだ鉛色の雲に覆われ、街全体が、まるで深海の底に沈んだかのように、薄暗く、息苦しい空気に満たされていた。


そして、街の人々の様子がおかしかった。 誰もが、うわの空なのだ。市場の活気は消え、アリアの道場からは子供たちのはしゃぐ声が聞こえない。誰もが、まるで魂の抜け殻のように、ぼんやりと空を見上げ、何事かを呟いている。


「俺なんて…どうせ…」


「何をやっても、無駄なんだ…」


「疲れた…もう、何もしたくない…」


なんと!街全体の「生きる気力」の数値が、計測不能なレベルまで、急速に低下している!これは一体、どういう現象だ!? 私が混乱していると、ラボの扉が勢いよく開け放たれた。ケンジとアリアだ。彼らの顔もまた、血の気を失い、深い疲労の色を浮かべていた。


「エラーラ!街の様子がおかしい!」


「何か、嫌な感じがする…。まるで、心の内側から、冷たい何かに蝕まれていくような…」


その時、鉛色の空の中心が、ぐにゃり、と歪んだ。 そして、その歪みの中から、ゆっくりと、一つの巨大な「目」が、現れた。 それは、物理的な眼球ではなかった。憎悪と、絶望と、虚無を、そのまま形にしたかのような、禍々しい魔力の奔流。その「目」に見つめられただけで、魂が凍りつき、全ての希望が吸い取られていくようだった。


『……見つけた』


声が、直接、脳内に響き渡る。それは、男でも女でも、老人でも子供でもない。ただ、純粋な、絶対的な絶望の声だった。


『また一つ、壊せる心が、ここにある』


次の瞬間、私の脳内にも、おぞましい幻覚が流れ込んできた。 私が過去に犯した、全ての失敗。弟の病気を治した時の、あの深い孤独。王に裏切られた時の、冷たい失望。私の完璧な数式が、ケンジとアリアの非合理的な感情論に敗れた、あの屈辱の記憶。 それは、私の心を折り、私という存在を、内側から破壊するための、精神攻撃だった。


「ふむ…」


だが、私は、腕を組んで、冷静にその「攻撃」を分析していた。


「なるほどな。高密度の精神感応波を用いて、対象の脳の扁桃体を直接刺激し、過去のトラウマを強制的にフラッシュバックさせる、と。実に興味深いアプローチだ。だが、エネルギー効率が悪すぎる。それに、そもそも…」


私は、空に浮かぶ巨大な目を見上げ、心底、退屈そうに言い放った。


「私に『心』などという、非合理的な器官が、搭載されているとでも思ったかね?」


私の言葉に、空の目が、初めて、ギョロリと動いた。 そうだ。私にとって、過去の失敗など、ただの「データ」に過ぎない。孤独も、失望も、屈辱も、全ては次の実験を成功させるための、貴重な糧なのだ。そんなものを今更見せられたところで、私の心拍数は、1ミリも変化しない。


『…なんだ、貴様は…?なぜ、壊れない…?』


「それはこちらのセリフだ、名もなき検体君。君はいったい何者かね?その精神攻撃のメカニズム、実に興味深い。ぜひ、君を解剖して、その脳の構造を解析させてもらいたいものだ!」


私が、目を輝かせてそう言った瞬間、空の目が、初めて、明確な「恐怖」の色を浮かべたようだった。


「エラーラ!無事か!」


ケンジとアリアが、悪夢から覚めたように、はっと我に返った。彼らは、私の「心が無さすぎる」おかげで、精神攻撃の影響を最小限に抑えられたようだ。 空の目は、私という計算外のバグの出現に狼狽し、ついに、その本体を、我々の前に現した。 それは、もはや、どんな生物のカテゴリーにも分類できない、「何か」だった。 クラゲのような、半透明の身体。その内側には、これまで滅ぼしてきたのであろう、国々の無数の怨念が、苦悶の表情を浮かべて渦巻いている。そして、その身体からは、何百本もの、黒い霧のような触手が伸び、街の建物や人々に絡みつき、その「生きる気力」を、まるで栄養のように吸い取っていた。


「あれが…本体か…!」


アリアが、剣を構える。だが、触手は物理的な攻撃を、するりとすり抜けてしまう。


「物理攻撃は無効か!ならば!」


ケンジが、懐から、魔力を帯びた護符を取り出す。だが、彼が呪文を唱えようとした瞬間、触手の一本が、彼の精神を直接攻撃し、その思考を中断させた。


「ぐっ…!考えが…まとまらない…!」


物理も、魔法も通用しない。そして攻撃対象は、精神そのもの。絶望的な状況。だが、私の脳内は、最高の研究対象を前に、かつてないほど活性化していた。


「ふふふ、面白い!実に面白いぞ、検体君!」


私は、時計塔の上から、その怪物の生態を、猛烈な勢いで分析し始めた。


「なるほどな!奴は、生物の『負の感情』をエネルギー源としている!絶望、恐怖、無力感!それらを増幅させ、糧とし、さらに強力な精神攻撃を仕掛けてくるのだ!なんと美しい、負の永久機関だ!」


だが、どんなシステムにも、必ず弱点はある! 負の感情を糧とする、ということは、その逆!「正の感情」は、奴にとって毒になるはずだ! 希望!勇気!そして、愛! なんと!あの二つのバグが、ここで最大の武器になると言うのか!


「アリア君!ケンジ君!聞こえるかね!」


私は、時計塔の上から、拡声器を使って、二人に指示を飛ばした。


「君たちの出番だ!今こそ、君たちの非合理的な『切なさ』と『痛み』を、奴に叩きつけてやるのだ!」


「む、無茶を言うな!」


「だが、やるしかない!」


アリアとケンジは、覚悟を決めた。


「うおおおお!思い出せ!仲間との絆を!守るべき民の笑顔を!」


アリアが、剣を天に掲げ、叫んだ。その身体から、正義 という名の、黄金のオーラが立ち上る!


「みんな、聞いてくれ!愛は、化学反応だけじゃない!ドキドキする心こそが、最強なんだ!」


ケンジが、両手を広げ、叫んだ。その身体から、慈愛 という名の、銀色のオーラが溢れ出す!


二つの強力な「正の感情」のオーラが、怪物に直撃する!


『ぎゃあああああああああああああああっ!!』


怪物が、初めて、苦悶の絶叫を上げた。その身体が、聖なる光に焼かれる吸血鬼のように、ジュウジュウと音を立てて溶解していく! 街の住民たちも、二人の姿に勇気づけられ、次々と正気を取り戻していく。


「そうだ!俺たちには、アリア先生がいる!」


「ケンジ先生のスープを、もう一度飲むまでは、死ねるか!」


彼らの心から生まれた「希望」の光が、次々と怪物の力を削いでいく。 素晴らしい!実に素晴らしいじゃないか!私の計算にはなかった、感情の相乗効果による、対精神汚染フィールド の発生!これは、世紀の大発見だ!


だが、怪物は、まだ死んではいなかった。 奴は、最後の力を振り絞り、その矛先を、ただ一人、この状況を楽しんでいる不謹慎な観測者――この私へと向けた!


『貴様だけは…貴様だけは、絶対に、壊す…!』


おびただしい数の触手が、私めがけて、殺到してくる! だが、その瞬間、私は、ニヤリと笑っていた。


「―――遅いのだよ、モルモット君」


私は、この戦闘の間に、奴の弱点を、完全に見抜いていた。 奴のエネルギー源は、「負の感情」。だが、その膨大なエネルギーを制御するため、奴の身体には、物理的な「制御器官」が存在するはずだ!そして、それは、全ての触手を束ねる、クラゲで言うところの「傘」の中心部にある! 私は、時計塔のてっぺんから、ためらうことなく、飛び降りた。 そして、懐から取り出したのは、一本の、巨大な注射器だった。


「これこそ、私の科学の粋を集めた、最終兵器!『対精神生命体用・超高濃度カフェイン及びアドレナリン混合液ver.FINAL』だ!」


そう!負の感情がエネルギーなら、無理やり、超ハイテンションにしてやればいい!実に単純明快な回答じゃないか! 私は、落下しながら、殺到する触手を紙一重でかわし、怪物の本体の、どてっ腹に、巨大な注射器を、深々と突き刺した!


『な…なんだ、これは…身体が…熱い…!ああああああああああああああああああっ!!』


怪物は、断末魔の代わりに、妙に陽気な絶叫を上げたかと思うと、その巨体を維持できなくなり、まるで、気の抜けた風船のように、萎んでいき、最後には、光の粒子となって、完全に消滅した。


静寂が戻った。鉛色の空は、再び、元の美しい青色を取り戻していた。 街の住民たちは、何が起きたのか分からないという顔で、呆然と立ち尽くしている。 やがて、誰かが、叫んだ。


「…エラーラ様が…俺たちを、救ってくださったんだ…!」 その声が、合図だった。


「「「うおおおおおおおお!英雄!エラーラ様!万歳!!」」」


地鳴りのような歓声が、シルヴァングレイドを揺るがした。近隣の国々からも、この怪物を倒したという報せを聞きつけ、使者たちが次々と訪れ、私を「世界を救った英雄」と讃えた。 私は、シルヴァングレイドの、いや、この世界の、絶対的な統治者であり、英雄となったのだ。


その日を境に、私の日常に、実に奇妙で非合理的な「ノイズ」が混じり始めた。 ある日の午後、私がラボで「英雄の効率的な一日」に関するタイムスケジュールを策定していると、窓の外から子供たちの騒がしい声が聞こえてきた。覗いてみると、彼らは何やら奇妙な遊戯に興じている。「エラーラ様ごっこ」と名付けられたそれは、白衣に見立てたボロ布を羽織った子供が、他の子供たちを巨大な木の枝で追い回し、「カフェインを注入するぞ!」などと叫ぶ、実に科学的根拠のないものだった。私の偉業が、なぜこのような形で伝承されているのか。実に興味深い。


またある時は、市場で奇妙な商品が売られているのを発見した。「英雄様饅頭」と名付けられたそれは、私の顔を実に不細工に模した焼き菓子で、なぜか食べると口の中がピリピリと痺れる仕様になっていた。店主に問いただすと、「先生の、あの理知的で刺激的なイメージを再現しました!」と、実に誇らしげに胸を張るではないか。味覚と理知の間に、いかなる相関関係があるというのか。全くもって非合理的だ。


そして、最も看過できない事態は、私のラボで起きた。 その日、私は、街の子供たちを襲った、原因不明の奇病の解析に没頭していた。子供たちは、外傷もなければ、発熱もない。だが、まるで生きる気力そのものを失ったかのように、日に日に元気がなくなっていくのだ。私の「感情動態観測システム」は、彼らの幸福度指数が危険なレベルまで低下していることを示していた。だが、いかなる医学的検査を行っても、その原因を特定できない。私の完璧な論理が、初めて「心」という名の、観測不能な壁にぶち当たっていた。


私が頭を抱えていると、ケンジが、一匹の子犬を抱いてラボに入ってきた。


「エラーラ君、ちょっと、この子を見てやってくれないか」


私は、自分の研究を邪魔されたことに苛立ちながらも、その子犬を診察した。診断は、単純な栄養失調。すぐに栄養剤を投与し、治療は完了した。


「これで問題ない。さあ、私の研究の邪魔をしないでくれたまえ」


だが、ケンジは子犬を連れて行かず、なぜか、ラボの隅に集まっていた、病気の子供たちの輪の中へと、そっと放したのだ。 子供たちは、最初、無関心だった。だが、弱々しく鳴く子犬の姿に、一人の少女が、おずおずと手を伸ばした。そして、その小さな背中を、優しく撫で始めたのだ。 その瞬間、奇跡が起きた。 私の観測装置が、その少女の幸福度指数が、0.01%上昇したことを示したのだ! 他の子供たちも、次々と子犬の周りに集まり、頭を撫でたり、水をやったりし始めた。そのたびに、彼らの幸福度指数は、ゆっくりと、しかし確実に、回復していく。


「…なんだ、これは…」


「ただ、触れ合っているだけじゃないか。そこに、いかなる科学的根拠が…」


「根拠なんてないさ」


ケンジは、穏やかに笑った。


「ただ、自分より弱い存在を守りたいっていう、温かい気持ち。誰かの役に立ちたいっていう、ささやかな喜び。そういう、理屈じゃない何かが、一番の薬になることもあるんだ。…心っていうのは、本当に面白いね」


心。その、あまりにも非合理的な言葉。だが、私の目の前で、私の完璧な医学を凌駕する「結果」が、確かに出ている。

その夜、アリアが私のラボを訪れた。


「エラーラ殿。子供たちの病の原因について、一つの仮説を立てた」


彼女が広げた古い地図には、街の周辺にある、いくつかの洞窟が記されていた。


「街の古老に聞いた。この地方には、古くから『気枯らしの瘴気』という伝説がある。それは、人の気力を奪う、目に見えない毒。そして、その瘴気を浄化できるのは、月に一度、満月の夜にだけ、この『月光洞』の奥で咲くという、『魂魄の花』の光だけだと」


「馬鹿馬鹿しい!」


私は、即座に否定した。


「瘴気?伝説?そのようなオカルト、私が信じるとでも思ったかね?子供たちの病は、未知のウイルスか、あるいは環境毒素によるものだ。君の言うことは、あまりにも非科学的すぎる!」


だが、アリアは、静かに、しかし、強い意志を宿した瞳で、私を見つめ返した。


「ならば、なぜ、あなたの医学で、彼らを救えない?」


「ぐっ…!」


「私は、行く。たとえ、それがただの迷信であろうと。子供たちの笑顔を取り戻せる可能性が、0.01%でもあるのなら、それに賭ける。それが、私の…私の信じる『正義』だ」


彼女は、そう言い残し、一人、夜の闇へと消えていった。

私は、彼女の行動を「愚の骨頂」と断じながらも、なぜか、目が離せなかった。私は、彼女に無理やり持たせた小型の通信機を通して、彼女のバイタルデータをリアルタイムで監視し始めた。もちろん、あくまで非合理的な行動が人体にどのような影響を及ぼすかを観測するための、純粋な科学的探求心からだ。決して、心配などという、非合理的な感情からではない!断じて!


月光洞は、危険な魔獣の巣窟だった。通信機からは、アリアの荒い息遣いと、剣戟の音が、何度も聞こえてくる。そのたびに、私の心臓が、なぜか非合理的に収縮するのを感じた。 満月が、中天に差し掛かった頃。彼女は、ついに、洞窟の最深部にたどり着いた。 そして、そこに、それは、咲いていた。 岩の隙間から、まるで月光そのものが結晶化したかのように、青白い光を放つ、一輪の花が。 アリアが、その花を手に取った、その瞬間。 通信機を通して、彼女の、心の底からの、歓喜の声が聞こえてきた。


「…あった…!本当に、あったんだ…!」


その声を聞いた瞬間、私の観測装置は、街に残された子供たちの幸福度指数が、一斉に、劇的に上昇したことを示した。 ありえない!ただ、花を見つけたという情報だけで、これほどの効果が!? アリアが、その花を手に、街へと戻ってきた時。子供たちは、まるで、英雄の凱旋を迎えるかのように、彼女の元へと駆け寄った。そして、その花の、青白い、優しい光を浴びた瞬間、彼らの顔から、最後の影が消え失せ、かつての、元気な笑顔が、完全に戻っていたのだ。


その夜私は、時計塔の上で一人、星空を眺めていた。 眼下では、私の英雄譚を祝う、盛大な祭りが開かれている。 全ては私の手の中にあった。 だが、私の心は、奇妙なほど静かだった。 私は、あの戦いの最中に、悟ってしまったのだ。 私の論理だけでは、あの怪物は倒せなかった。ケンジの「心」と、アリアの「自由」への渇望。あの、非合理的な感情の力があってこそ、勝利できたのだと。 そして何より、私自身が、あの戦いを心の底から「楽しんで」しまったことを。


論理 × (慈愛 + 正義) = 真の強さ


私の脳内に、一つの、新しい数式が、浮かび上がっていた。 私の実験は、まだ、終わってはいなかった。 いや、今、始まったばかりなのかもしれない。

数日後、私は、ケンジとアリアを、私のラボに呼び出した。 そして、こう告げた。


「この街の統治者の座を、君たちに譲渡する」


「「はあっ!?」」


驚く二人に、私は続けた。


「私の実験は、一つの結論に達した。私は統治者には向かん。私は、あくまで観測者であり、研究者なのだよ」


私は、一枚の羊皮紙を、彼らの前に広げた。


「これは、私が考案した、新生シルヴァングレイドの統治計画書だ。論理を司る『頭脳』として私に代わる評議会を。慈愛を司る『心臓』としてケンジ君を中心とした福祉機関を。そして、正義を司る『剣』として、アリア君が率いる警備隊を。この三権分立による、制御された混沌こそが、私の見つけた、人間社会の最適解なのだ!さあ、この国の統治を、君たちに『やりなおして』もらおうじゃないか!」


私は、彼らの返事も聞かず、白衣を翻した。


「では、私は次の研究テーマを探す旅に出る。達者でな、私の可愛いモルモット君たち!」


こうして、私は、英雄の座も、統治者の座も、あっさりと捨て去った。

新生シルヴァングレイドは、活気に満ち溢れていた。 アリアの道場と、ケンジの診療所は、いつも人々の笑顔で溢れている。時折、私が残した「無駄を楽しむための祭り開催マニュアル」に基づき、実にくだらないテーマで、街中が大騒ぎしている。 実に、素晴らしいじゃないか。



私は、誰にも告げず、一人、その街を後にするはずだった。 夜明け前、最小限の荷物だけを背負い、街の門を抜けようとした、その時だ。


「いたぞ!英雄様だ!」


「エラーラ様!待ってください!」


振り返ると、そこには、なぜか、街の住民の半分くらいが集まっていた。彼らの手には、松明やら、鋤やら、そしてなぜかスープの入った大鍋やらが握られている。


「英雄様!我々を見捨てないでください!」


「そうだ!あなた様こそ、我らが統治者にふさわしい!」


「せめて!せめて、この新作スープだけでも味わっていってください!」


「いや、俺のこの新しい剣の構えを見てくれ!」


なんと!彼らは、私の旅立ちを阻止するために、集結したというのか! 実に非合理的だ! 私は、彼らを振り切り、駆け出した。だが、彼らの執念は、私が想像していた以上だった。


「待ってくださーい!先生ー!」


「サインください!」


「握手だけでも!」


なんだこの状況は!私の完璧な統治計画書はどうした!あの二つのバグに全てを託したというのに! 私は全力で走った。背後からは、地鳴りのような足音と、私の名を呼ぶ熱狂的な声が、どこまでも追いかけてくる。

それどころか、噂を聞きつけた近隣の村々からも、私の姿を一目見ようと、人々が集まり始め、追手の数は雪だるま式に増えていく。

私は、生まれて初めて、本気で、恐怖した。 怪物でも、王の裏切りでもない。ただ、純粋で、熱狂的な、大衆の「愛」という名の、最も予測不能なエネルギーに!


「よっ、よさんか君たち!私に構うな!私はただのしがない科学者だ!」


私の悲痛な叫びは、彼らの熱狂の歓声に、いともたやすく掻き消された。

丘の上から、その光景を眺める二つの影があった。 ケンジとアリアだ。


「…行っちゃったね」


「ああ。だが、あの人らしいじゃないか」


アリアは、呆れたように、しかし、どこか楽しそうに笑っていた。

その頃、私は、地平線の向こうまで続く、巨大なファンの集団に追いかけられながら、泣きそうになっていた。


「だから!私は英雄ではないと、何度言ったら分かるんだね、君たちはーっ!」


私の、不敵な笑みなど、どこにもなかった。そこにあったのは、自らが解き放ってしまった、あまりにも巨大な「感情」という名の怪物から、必死で逃げ惑う、一人の哀れな科学者の姿だけだった。 私の、新たな探求の旅は、かくして幕を開けたのだった。

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