第6話:上着を脱がない女!
私の名はエラーラ。私の全ての行動原理は、ただ一つ。「知的好奇心」。未知の現象、未知の法則、そして、未知なる人間の狂気。それらは全て、私にとって最高の研究対象に他ならない。
事の発端は、一人の女性、セナが私の研究室に血相を変えて駆け込んできたことだった。
「お願いします、エラーラ様!街の人が、時々、消えちゃうんです!」
聞けば、失踪した人々は、全員が失踪直前に、同じビアバー「憩いの木陰亭」を訪れ、かつ「入店して上着を脱がなかった」という、奇妙な共通点があるという。
「フム…特定の衣服の着脱という行為が、空間転移のトリガーになっている、と?実に馬鹿げている…実に、興味深いじゃないか!最高の実験対象だ!」
私は、そのあまりにくだらないルールに、最高の知的好奇心を刺激され、セナと共にそのビアバーへと向かった。
「憩いの木陰亭」は、アンティーク調の、実に雰囲気の良い店だった。扉を開けると、すぐ脇に、古く立派だが、今は使われていないクロークがある。
「エラーラ様、まずは上着を…!」
セナは、教訓に従い、大急ぎで自分のカーディガンを脱ぐと、クロークのフックに掛けた。そして、私を振り返り、懇願するような目で見てくる。
しかし、私は、自らのトレードマークである白衣を脱ごうとしない。
「エラーラ様、その白衣を!それは上着です!エラーラ様も消されてしまいます!」
セナが、半泣きで私の袖を引く。
「これは白衣だ。私のアイデンティティであり、研究者の制服だ。断じて『上着』などではない」
「でも、外で羽織るものは、全部上着です!お願いですから、脱いでください!」
「フム…面白い。では、君に問おう。『上着』とは、なんだね?素材かね?形状かね?着用する状況によって、その定義は変化するのか?実に興味深い哲学的命題だ」
「哲学はどうでもいいんです!とにかく脱いでください!」
私が白衣を着たまま席に着くと、店の空気が、すっと冷たくなった。そして、どこからともなく、老紳士のような、丁寧だが、切羽詰まったような囁き声が聞こえ始めた。
『お客様…その、お召し物を…お脱ぎにならないと…ルールでして…大変なことに…』
なんと、怪異自身が、私の身を案じて、必死に警告してくるのだ。
「ほら!怪異もこう言ってます!エラーラ様、死んじゃうかもしれないんですよ!?」
セナが、ほとんど悲鳴のような声を上げる。私は、そんな彼女を、心底つまらなそうに一瞥した。
「フム…ならば、死とはなんだね?生命活動の不可逆的な停止かね?それとも、魂という情報集合体のエントロピーが増大し、拡散した状態を指すのかねぇ?定義が曖昧だ」
「ああもう!話が通じない!」
セナが頭を抱え、怪異が
『お客様、どうか…!どうか、お聞き入れください…!』
と嘆願の声を響かせる中、私は完全に彼らを無視。ビールを注文し、魔導観測器で店内の空間の歪みを計測し始めた。
業を煮やしたセナが、ついに涙目で私に問い詰めた。
「エラーラ様の天才的な頭脳は、私なんかには理解できません…!でも、でも、これだけは教えてください!どうして、そんなにその白衣にこだわるんですか!?何か、特別な理由があるんですよね!?」
私は、観測器から顔を上げると、きょとんとした顔で、彼女を見つめ返した。
「いや?特にこだわりはないぞ」
「えっ」
「なんとなくだ」
セナは、そのあまりに理不尽な答えに、とうとう泣き崩れてしまった。怪異もまた、『そんな…なんとなくだなんて…』と、絶望の声を漏らしている。
観測を終えた私は、満足げに席を立つ。もちろん、白衣は着たままだ。
セナは「ああ、もうダメです…!」と顔を覆い、怪異は『ああっ、ですからお客様!困ります!本当に困ります!』と、パニック寸前の声を上げる。私が出口に向かって一歩を踏み出した瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪み、私を異次元へ引きずり込もうとする。
だが、私は出口ではなく、踵を返すと、一直線に古びたクロークへと向かった。そこには、半透明になった、礼儀正しい老紳士の亡霊が、泣きそうな顔で立っていた。
「ですから、申しましたのに…」
私は、亡霊に自らの白衣を預けるそぶりすら見せない。代わりに、ポケットから、丁寧に折り畳まれた、指先ほどの大きさしかない、人形用の小さなコートを取り出した。そして、それを亡霊の前に、スッと差し出した。
「クローク係君。君の店のルールは、『客の上着を預かる』ことだろう?」
呆然とする亡霊に、私は不敵な笑みを浮かべて続ける。
「ならば、これも預かりたまえ。これもまた、私がこの店に持ち込んだ『上着』だ。私の白衣が上着かどうかという議論は、実に不毛で非効率だ。だが、これは、誰がどう見ても『上着』だろう?さあ、仕事の時間だよ。客のもてなしが、最優先じゃないのかねぇ?」
「お客様の上着を預かる」という絶対的なルールに縛られた亡霊は、目の前に差し出された「完璧な上着」を、無視することができない。彼は、震える手で、その人形のコートを丁重に受け取ると、小さな札を具現化して私に渡した。そして、その小さなコートを、大切に、大切に守り始めた。彼は、もはや「違反者を取り締まる番人」ではなく、「大切なお預かりものを守るクローク係」に戻ってしまったのだ。怪異は、無力化された。
私は、鼻で笑うと、今度こそ堂々と、白衣を着たまま店の外へ出た。空間が歪むことは、もうない。
研究日誌に、私は書き記す。
「結論。『単一のルール』に依存する固定観念型の怪異は、そのルールを肯定しつつ、実行不可能な、あるいは矛盾したタスクを与えることで、その行動原理を無限ループに陥らせ、無力化できる。フム…実に、くだらないが、実に美しい解決策だったじゃないか」
消された人々も、やがて異次元クロークから解放され、街の片隅にポツンと帰ってくることだろう。私は、自らの「こだわり」を貫き通し、怪異すら心配させるという、極めて有意義なデータを取得できたことに、満足げな笑みを浮かべるのだった。




