ジムイ(神彝) 妙義
ジャンが再び洞窟で眼を覚ましたとき、シャオが外で武器を使わぬ素手の闘技の鍛錬していた。
呼吸は乱れず常に一定で、動きは滑らかで、直感的に理に適ったものだとわかった。その理とは天然自然の理である。自然で破調がなく、優しく穏やかで、必殺の美があった。必ずしも円運動ではなかったが、全体に円の本質を持った動きをなしている。ジャンにはそれが読み取れた。
言語化できない言葉で。
攻撃を受けて躱し、躱したその動きが同時にそのまま攻撃であるような、無理・無駄のない動き。
むろん、ジャンが今までに倣い、身につけた剣技にもよくある型であるが、より精妙でより自然であった。何ごともなかったかのように、恐らく敵は季節が来て花びらが落ちるように死ぬであろうと思われるような、そんな動きであった。殺意よりもあたかも慈愛であるかのような、恐ろしい技であった。
ジャンは立った。
「シャオ、その技は」
「ジムイ(神彝)です」
「ジムイか。カムイ(神剣士)の技だ。東大陸の武闘の流派だ。君は神彝裂刀の使い手だったのか」
「いえ。剣は使いませんから。武器は使いません。素手の闘技のみです。それに、使い手というほどではありません。他に伝説的な使い手の方がたくさんいますよ。特に神彝裂刀に関して言えば」
「知ってる。いらふ(伊良鳬)は有名だ」
「そうです。カムイで最も有名なのは、いらふ(伊良鳬)です。
やはり、ご存知でしたね。
島嶼国家コレイ(古羚Κόρη)生まれのコライ(古雷:コレイの複数形。コレイ人の意)の少女ですが、リョンリャンリューゼン(龍梁劉禅=大華嚴龍國)の真正義神奥寺でイア(非在)の奥義を学んで、龍梁劉禅の特殊部隊『非』の外国人傭兵部隊に属していた人です」
「ジムイは有名な流派だが、実物は初めて見た。遠い異国の武技だ。美しい。我が国のイデア精神にはないものだ」
「学んでみますか。この技は魂を癒します」
「自分も騎士である以上、美しい武技なら是非、身につけたいと想う」
「では、明日から始めましょう。少しずつね。怪我もまだありますから」
翌朝から始まった。
優しく静かに滑らかに。美しい調べのように。
ジャンは所作を繰り返すうちに、その本質を、勘をつかみ始めた。
天然自然の理を読み、感じ、同調して溶け込み、調べに逆らわずに、一体となり、ときに促す。動きは滑らかで優しく舞のようでもあり、円の本質を以て破綻がない。
空気の質感を把握し、風や光の波長をつかみ、存在の声を聞く。万象の霊威を知り、親しみを抱く。
呼吸を整え、静寂へ近づき、我執を解く。我執は自己という壁で他者と自己とを隔てる。自己を際立たせ、孤立化させる。
自然との調和への違和となり、隔たりとなり、壁となり、孤立する。穏やかで調和的な自然が、おとなしい、閑かな何かが失せてしまう。損なわれてしまう。
怒りは我執の一部だ。憎悪も。特に愛する者を損なわれた際に生じる感情は我執に通ずる。又は由来する。赤の他人では生じなくても、近親者に生じるのであれば、それは晰らかに我執だ。
とは言え、それは難しいことであった。特に、今のジャンにとっては、とても難しいことであった。
最大の障壁だ。怒りが募ると、自然は遁走した。あたかも、繊細で、か弱い生き物であるかのように。これほどまでに巨大で、強靭で、残酷で、脅威である大自然が。それもまた、妙理妙義というものか。
ジャンは自己超越に苦しんだ。我執を超越することが正しいことはわかっている。倫理的にも正しい。他者のために、自己犠牲。人類の歴史は自己超越の歴史だ。自分以外の他者を実存者として、高いレベルで考えることができるのは人間だけだ。
動物の進化は超越と言える。過去の自分を超えることだから。人間はそれを自然に任せたままではなく、主体的にできる。それが人間精神だ。
だからと言って、殺されたものたちを無念に想うことができるか。哀しみ憤るのは他者を実存者として、精密に認識しているからこそではないのか。
しかしまた、実際に我執が自己超越の妨げにもなっている。どうしたら。
モン先生がやって来た。
「苦しんでやるべきではない。楽しんでするがいい。天穹を凌駕するような高揚感に噴き上げられて。天然自然の理に身を任せよ。そして、それは甚深なるλόγοςと違和するものではない。ロゴス(λόγος)に聴従せよ」
ロゴスとは、世界宇宙の根源原理や秩序や法則、神の言葉、理性、論理的な思考などの意味を持つ。理性や論理などの性質が強調されると、天然自然とは表層的な異互を起こす。しかし、深部では一体なのだと、師は言っているのだ。
さらにモン先生は言った。
「憤りや悲しみを、我執を超越することは容易ではない。むしろ、不可能であるとも言えよう。特に愛する者を損なわれた場合には」
「はい、僕にはできません。自分だけ苦しみから逃れてよいものかと苛まれます」
「憤りも哀しみも、また歓びも愉しみも、皆、生存に由来する。他者の苦しみを自己の苦しみのように感じることも、畢竟、自分の苦しみという我執じゃ。我執は生存に由来する。
生存は自分自身以上の自分自身じゃ。自分より遥かに根源的な自分自身じゃ。自分自身の一切は生存に由来する。細胞の一つ一つから湧く声に逆らえるだろうか。生存は自分自身よりも自分自身の眞であり、自分自身の本質であり、自己よりも甚深な自己じゃ。
生存を大海に喩えるならば、自己はその海面に浮く一枚の木の葉に過ぎぬ」
「では、どのように超越や解脱ができるのでしょうか」
「理論的には不可能だ。だが、理論を越えればできる。體で学べ。考概を越えよ。それが妙義というものだ」
「しかし、それは慈悲や憐憫を捨てることになるのでしょうか」
「論理的にはな。だが、妙義はそれをも超越する。よく心を糾し、気をつけて體で学べ。求めよ、されば得られん」