憎悪
だが、これによって不幸はさらに激しさを増す。
王女の所業を知った王は激怒の上に激怒し、ジャン・マータの死刑を宣告した。
しかし、命懸けの王女の嘆願で、減刑され、永久追放となる。
ベンジミールはそれに納得せずに刺客を送った。
ジャン・マータはほとんど裸体に近い姿で、鞭が刻んだ肉の轍や棍棒で打たれた腫れなど、手当も治療もされないまま、市壁の外まで荷馬車で運ばれ、投げ棄てられた。
土を被った巌の上に転がる。
苦悶のうちに気を失うも、夜露に濡れて意識を戻す。戻るとともに苦吟し、呻く。
「ジャン、しっかりしろ」
どうにかまぶたを上げると、夜明け前の闇にマルタの顔が浮かんだ。
「痛むだろうが我慢してくれ」
どうにか担ぎ上げて馬の尻に乗せ、橋を渡って、落とさぬようゆっくりと森へ入っていく。
聖なるアカデミア天領の西方、山岳地帯にあるエルロイペは二つの大きな瀧に挟まれた強大な岩盤上の大都市であった。
その岩盤を離れると、いくつかの小さな森があり、そのうちの一つの森、アリアドネの森の中には使われなくなった番人小屋がある。そこに最低限の治療に必要な品々と簡易な携帯食料とをあらかじめ用意していた。秋に刈った藁草の山に横たわる。
マルタは薪で湯を沸かし、ジャンの傷を拭いて治癒薬を塗布し、添木を当てた。
流動食を匙ですくって唇に運ぶ。
「君は追放された。それは知っているね? 死刑を免れたのは王女様の御慈悲だ。しかし、ベンジミールがこのまま放っておくとは思えない。僕も相当危険を犯していると承知してほしい」
「わかっている。申し訳ない、マルタ。ありがとう。
家族はどうなっただろう」
マルタは言葉を詰まらせた。
息も絶え絶えに、ジャンは言う、
「想像はつく、しかし、一縷の望みも持っている。知らないことも苦痛だ。どうか、覚悟しているから、真実を教えてくれ」
「伯爵は精神の負担からであろう、突然の発作に襲われて斃れ、そのまま亡くなられた。
君の母上は悲歎し、自害された。
一家は離散し、君の兄弟たちは都の外へ去った。行方は誰も知らない、少なくとも僕の知る限りは」
ジャンは慟哭した。わずかな過ちが幸福だった家庭を悲劇の底へ堕としめた。
その悲裂をマルタの次の言葉が激越な憤怒に変えた。
「全ては猜疑と嫉妬からくるベンジミール様の企みだ。王女様が君に恋慕していると猜疑し、嫉妬した。彼がハンカチーフを盗み、君の巡回の時刻に庭の芝の上に落とし、そして、つい聞のように王に直訴した。直接話しかけられる立場を使って。
これは推測だが、ビルが君の巡回時間を漏らしたと思われる。実際、隠れた場所でビルがベンジミール様と話をしているところを何人かのものが見ている。身分の違いを考えれば、明らかに不自然で、見た者たちの記憶は鮮明だ」
驚きと衝撃と、憤りとで、何も考えられない。
暫時の後、濛濛たる黒煙のごとき怨嗟憤激の地下マグマが黒い岩の火口から籠盛れ上がって炸裂するよう身を牽き裂くがごとく噴き上がった。
「信じられない、そんな、あまりのも酷い、そんな惨いことを、汚いことが。あのような高貴な方が、よくもそんな卑しい、非道なことを。
あゝ、心が裂けそうだ、そんなことのために我が父母は死し、兄弟は悲惨に離散したのか」
「すまない。世が明ける。人々が僕を探すと、君も見つかる。どうかしばらくは無事でいてくれ。約束はできないが、また来る」
そう言って出て行った。
ジャンはじっと考え続ける。心を凝らし。絶望、悲しみ、憤り。それが気力の萎えた苦悶の中でも、繰り返された。
幾許か時間が経った。
「うぬ、あれは」
蹄の音だった。複数の騎馬の荒々しい鼻息だ。心に思った。
「恐らくは、刺客。無念だ。もはやこれまで」
天を仰いだ。しかし、激烈な憤怒の闘氣が湧き上がる。
「否っ! 否っ! あゝ、神よ、このような理不尽、このような非道が赦されようものであろうか。
罪なく陥れられ、名誉も家族も奪われ、身も鞭打たれ、今惨めな乞食となってゴミ屑のように棄てられ、遂には無惨に殺されようとしている。
あゝ、だが、幾千万の庶民たちも、王侯貴族の勝手気ままな欲望のために、このような憂き目に遭っていたであろう。何千年にも渡って、何千万もの無辜の人々が。
あゝ、神よ、これは神の試練なのか。試練というにはあまりにも長く、あまりにも過酷だ。まるで、未来が見えない。
それとも、これは神の無存在証明なのか。
もしそうであるならば、そうであればこそ、神に叛逆し、一矢報いて死なん」
隙間から覗くと、皓々たる月に照らされた鉄の鎧兜の騎士たち。既にこの小屋が怪しいと考えているのだろう、囲まれていた。五人いるように見える。見えない場所にもいるかもしれぬが。
「今飛び出しても、一人も斃せぬ。むしろ、この狭い小屋の中まで引き寄せよう」
待った。
騎士の一人が言う。
「武器は持っていないはず。丸腰だ。警戒する必要もあるまい」
「いや、一人でここまで来られようもない傷であったはず。誰か協力者がいるのだ。その協力者がここまで運んだ。そいつが武器を渡しているかもしれん。迂闊に入り込むのはいかがかと」
「では、火を点けるか」
「山林が燃えても面倒だ」
「比較的乾燥のない季節だぞ」
「とは言え、神はお考えに人の知は及ばず、運命は計り難い。ただ、ただ、用心すべし。失態は聖騎士にとっては赦されぬことゆえ」
「では、拙者がまず一人で行こう。このままでは埒が開かぬ」
剣を抜いて、扉を開ける。
「うぬ」
簡易食と粗末な治癒具が散らかる。藁の山。にんまりとした。
「ふ、愚かな」
刺そうとした瞬間、その一瞬の呼吸、ジャンが飛び出して隙を突きて剣を奪い、斬り殺す。アドレナリンが噴出していたため、痛みを忘れた。体も動く。摩訶不思議だ。これが妙機というものか。
獅子奮迅の気迫、鬼神の勢い。
布を脱ぎ捨て、裸体のまま、剣を持って飛び出し、外の騎士たちが状況を把握する前に機先を制し、一呼吸で三人を斬首、ようやく何が起こったかを解して剣を振りかぶろうとする一人の敵の胴を返す剣で斬った。
最初の見積りではこれで終わりだが、まだ二人いる。
「やはりいたか」
青眼に構えて、いざ勝負するしかないと覚悟。向き合うも、敵は既に気を削がれ、戦意が半分喪失していた。ジャンはこれを憐れみ、
「剣を捨てろ。騎士の約束だ」
「そんな不名誉なことを聖騎士がすると思うか」
怒りに任せて一人が踏み出すも、斬る。完全に相手の氣を呑んでいた。
「さあ、捨てよ、命があれば名誉は取り返せる」
「くそっ」
斬り掛かって来た。
「愚かな、すべては見切られていることがわからぬわけでもあるまい」
完全に勝機を得ていたジャンはあっさりと斬る。
五人分の剣を縛って馬の尻に上手く括りつけ、再び衣を纏って鞍に跨り、行く当てもなく、山野を目指して疾駆する。深い闇を彷徨う。空間を突き抜けるように疾駆する。迷宮から迷宮へ。
「何だ、ここは」
不思議な場所であった。
静寂、黒い岩、滝。霞が棚引き、滴るような桃の実が生る。
気配を感じ、振り返る。
「けけけけ」
全身が長くて白い體毛で覆われていて、小さな翼を持った異形の老人。にんまりと笑う。狒々にも似てる。
「何だ、お前は」
「ひどい怪我だのう、治療が必要じゃのー」
「ええい、近寄るな。妖め」
しかし、気が遠くなり、斃れた。
気がつくと洞窟の中、入り口近くにいた。暗くはない。明るくもないが、それは天気のせいだ。
優しい雨が降っていた。春の雨だ。花のように甘く香っていた。春? まさか。今は秋の初めのはず。
不思議な洞窟だった。
洞窟なのに、湿っぽくない。乾いていた。心地よく暖かい。軽やかな暖かさ。
柔らかい布団の上に寝ている。ベッドだ。
「ここは」
傍の円筒型の木の椅子に坐っている人物は、東大陸の大華嚴龍國(リョン・リャン・リューゼン、龍梁劉禪)の人のような服装の若者だった。眼尻が切れ長で清涼感がある。どちらかと言うと表情が乏しいが、さらりといていて、不快はない。あの毛モノはいずこへ?
「あなたは」
ジャンは尋ねた。
「私はシャオと申します。モン先生の弟子です」
「モン先生?」
「貴方を助けた方ですよ」
「助けた?」
ジャンは理解できずに自問する。
「あ、まさか、その毛むくじゃらの」
シャオは笑った。鈴の音のように。
「そうです。毛むくじゃら、あはは」
「先生と言いましたね? あれは人なのですか」
「人です」
「まるで、怪物だった」
「ええ、そうかもしれません。仙境に入った方ですから。人間を超えてしまいました。修行の末に」
「仙人なのか、あれが」
「ええ、そうです」
「ここはいったい、どこなんですか」
「ここは」
シャオはにっこり笑った。
「エステ(東大陸)の大華嚴龍國と殷陀羅尼帝国(イン=イ・インディス)との国境にある狒々摩羅山脈の崑崙山です。
貴方はそのお姿からすると、乗る手のお方のようですね」
「ええ、アカデミア天領の外周国の一つ、西領域の聖エルロイペ王国です。聖都エルロイペの聖騎士でした」
「アカデミアには時空のねじれがありますからね」
「時空のねじれ?! 戻れるでしょうかっ」
「モン先生には可能でしょう。
傷を癒すことが先です」
「ああ、とても待てない」
そこに白く長い體毛のモン先生が来た。
「そのような憎悪に燃える眼、そのままでは返せない。たとえ、勝利を得ようとも、ただ己が身を滅ぼすだけじゃ」
「貴方には関係のないことです」
「ぉっほほほほほ」
「何がおかしい」
「いずれにせよ、動ける體ではない。しばし静養されよ。果報は寝て待てじゃ」




