〝憂鬱(アンニュイ)〟
心を深く鎮めていた。甚深なる瞑想。妙機、言語ならぬ覺り。言語化できぬ、それは體でしかつかむことのできぬ、行為・行動によってしか覚醒せぬ、経験知だ。
意識にならぬ深い觀想を細密精緻に組み上げて、繁文縟礼なる言の葉の綾を織り做すでもなく、論の蔦を絡ませて荘厳なる城郭を築くでもなく、空想に溺れるでもなく、觀の波の間に間に、神の煌めきと、執著からの解放とを悦ぶでもなく、又は知を弄ぶでもなく、実際を、真実を捉える。
言葉や思考ではそれを為すことはできない。実感の中、体験・経験でしかできない。實體を把握する、かたちのない知識。
古代の知識、宇宙の創生よりも遙かに前の知識であった。
唐突に、明けの明星が眞奥に燦爆するように、明智が啓かれた。晰智は甚深微妙なる奥へ奥へとさらに眞に向かって窮み極まり、叡智へと精華した。
ジャン・マータは開眼した。
剣を持つ。
刃が光を帯びた。螺鈿のような霓色に移ろう不思議な煌めき。刀身に絡む小龍のようなものは雷霆であった。剣を振るうと、いく条もの虹の稲妻が落ちる。
神の恩寵を受けた裂士となった。
あのときの天啓の鮮烈さ。今もまざまざと思い浮かぶ。終生忘れられぬ。強い感覚。生きる意味の全てがあった。
以来、聖剣『霓の稲妻』を操り、無敵となった。
この剣を一振りすれば、北極圏の天穹を舞うオーロラのように、霓色の螺鈿のように燦めく雷霆の群れが襲って一瞬で数千の敵を潰滅させることができる。神のごときと形容されるも無理はない。この力は神の恩寵である。
それが今は虚しく酒場で青い妙薬の香酒を啜る。だが、これも悪くはない。人生は乾燥している。
バー・カウンターでスツールに坐って。
物憂げに表情で、女性のように流麗な顔は完成された古典期の大理石の彫像のように整い、玲瓏ですらあった。體軀も柳葉のよう、たおやかで、明るい金の髪も柔らかく長くて梳られ、絹糸の艶。一枚のシルクの布のように。
どこかもの哀しげな面立ちから〝アンニュイ〟という異名がついた。
それでいて、天下無双の裂士である。
彼ほどの聖騎士が無為の時を過ごすのには事情があった。それは彼がアカデミア天領の外周にある聖都、そのうち西側の領域に栄えた聖エルロイペ王国の聖都エルロイペの古き貴族の家の少年として、エルロイペの王女の近衛の聖騎士となり、少年近衛騎士隊だった時代に遡る。
王女様の近衛を任務とする少年聖騎士であった時代のジャン・マータは、その日、物憂げな表情で、哲学の授業を受けていた。
哲学が嫌いな訳ではない。むしろ、好きな方だ。ただ、今は心が離れていることは確かであった。
体系的で、あたかも、数学のような哲学に。
むろん、学としては、それが正しい。手順を踏めば誰でもある一定の高みまでは到達できる。それが体系立てられた学というものであった。その精緻細密を愛してさえもいる。
それにしても、春の聖エルロイペの都は花の季節、心地よい薫風が香っていた。
ジャンが窓の外に見惚れるのも不思議はない。何もかもが鮮やかで、輝くような華やかさ、全て人の心に優しかった。
その微風に繊細な金色の髪は柔らかい絹糸のように、細やかにさらさら靡く。
腰も覆う長さ。髪が揺れるたびに艶が移動する。
きめ細かでなめらかな膚が流麗で白く高貴な、それでいて少年らしく初々しい顔立ち、その上に名誉ある王女の近衛である少年聖騎士ともなれば、彼がまだ十五歳であったとしても、少女たちならずとも心騒ぎ、ただ歩めば侍女たちがささやく、「見て、彼よ」「歩いているわ」「素敵、あゝ、神様」
ウィリアルム・ソンダーイクなどにはそれが腹立たしい。
「惰弱な」
休憩時間。
「おい、ジャン、俺と勝負しないか」
ウイリアムが声を掛ける。
「でも、ビル(ウイリアムの愛称)、勝手な試合は禁じられているよ」
「試合じゃないさ、遊びだよ」
「でも、練習剣が今はないよ」
「その腰の剣でいいじゃないか。本気じゃないから大丈夫さ」
「真剣で! だめだ、危な過ぎるよ」
「へ、臆病者め、カッコばかりさ」
美しい鞘から剣を抜く。
「ビル、いけない」
剣が振るわれ、ジャンのカフスを切った。
「ちやほやされて、いい気になりやがって、生まれつきじゃないか、顔なんて。何の苦労もしないで。よわっちくちゃ騎士失格だ」
ジャンは理不尽な侮辱と暴力に対して込み上げる怒りを抑えた。
「こら、お前たち、何をやっている」
教官の声だ。
二人は処罰を受けた。
「ちくしょう、ジャン・マータのせいで」
ウィリアムは逆恨みして、両親に告げた。「悪いのはジャンだ」と。ソンダーイク家は古くからの名家で、家の勢いも強く、王とも近しい。ソンダーイク伯爵の訴えを受けて、聖騎士団はジャンに一ヶ月の謹慎を命じた。屈辱であった。
校長から謹慎の処分を受けて騎士団附属の学校から自宅へ帰ろうとするとき、マルタがジャンに囁いた。
「おい、気をつけた方がいいぞ」
ジャンが訝しげに、
「何を?」
「昨日、ベンジミール様がビルと話し込んでいるのを見た者がいる」
「それが、何で?」
「わからないか、陰謀だよ」
しかし、謹慎期間中は何も起こらなかった。
謹慎が明けて、久しぶりに学校へ通い、同時に近衛の仕事を再開した日、ジャン・マータは以前のとおり、庭を巡回していた。それは概ね決まった時刻だった。瞑想に耽っている。美しい花々を眺め、なぜ、美しいのかを思う。これもロゴスの機らきか。
ふと、気がつく。
「おや」
そこで足を止めた。
絹の布か。
身を屈める。ハンカチーフのようであった。それも高貴な。
「誰かが落としたのか。まさか曲者ではあるまい」
拾う。
えも言われぬ芳しさ。尋常ではない、尊い香りであった。
「ああ」
思わず陶酔を覚える。そして、あろうことか無意識に鼻尖に近づけてしまった。遠目にはハンカチーフにキスするようにも見えたであろう。
突然、女性の悲鳴が、
「きゃあ」
驚いて横を見やれば、王女様の次女。すると、これは……
王女が落としたハンカチーフを次女が拾いに来て、その場面を見てしまったに違いない。すぐにそう覚った。
ジャンはすぐに近衛に連行され、尋問された。
彼はありのままを述べた。処罰は免れない。覚悟を決めた。だが、想像を超えた厳罰が待っていた。
「これは」
彼は思わず顔を引き攣らせた。地下牢への入り口。日の射さぬ、暗く臭い、腐臭と糞尿の匂いのこもった地下牢。腐りに繋がれて排泄は垂れ流し、掃除など何十年もされていない、死した者の腐臭も染み付いている、真っ暗な冷たい岩壁の地下牢。
恐ろしさのあまり震えた。それにあまりにも酷い仕打ちだ。人格を否定した処遇、騎士に対するものとは思えぬ不当な扱い、人殺しでもこんなところにはなかなか入らない。
「なぜ、僕が」
彼は知らなかった。
ベンジミールが母を通じて激しく訴えたのである。
「王女様のハンカチーフにはイニシャルがはっきり縫い込まれています。誰の眼にも晰らか。彼は知りながら唇を近づけたのです。匂いを嗅いだなど嘘です。
もっと、疑うならば、慕うあまりに盗んだのかもしれません。王女のお側に侍ることができる職務をいいことにして。
彼は従前から王女に道ならぬ恋慕をしておりました。私は知っております。近衛の騎士にありまじき行為。王女を守る神聖な任務を負いながら、神聖なる王女様に姦淫の罪を犯すなど」
王は激怒し、ジャンを拷問した。一族はあまりの不名誉に社交界はおろか、外へも出られなくなり、父は失意で病に斃れ、母は自害、兄弟は離散して貧困の道に堕ちた。
しかし、実際、ハンカチーフを盗んだのは、口説いた侍女に手引きさせて忍び込んだベンジミールに他ならなかった。なお、その侍女は口封じのため、毒殺されていた。
ジャンの噂を聞いて、王女は自らのせいであのような高貴な騎士を破滅させてしまったことに心を傷め、強く憐れみを催し、
「あの高貴な騎士がそのようなことをするはずがない」
そして、口にこそしなかったが、ベンジミールの讒訴だと察した。はっきりとそう考えたわけではないが、恐らくは妬み嫉み、と漠然と感じていた。
エスカテリーニャは決す。
牢番は驚いた。
「貴方様はもしや」
身分の低い者は尊顔を拝する機会などないが、それでも察せられたのだ。
「王女様」
エスカテリーニャは毅然としていた。それは王家が持つ威厳である。
「通しなさい、命令です」
「し、しかし、王女様をこんな汚れた場所にお通ししたことが王様に知られてしまったら、私は処刑されてしまいます」
「私が命懸けで弁明します。貴方が死ねば、私も死にます、末代に渡って、命ある限り、貴方を守ります」
「いいえ、できません。そうはおっしゃっても、きっと、私は救われないでしょう。我々の命など、木の葉よりも軽いのです。王女様にはおわかりになりません」
本来、そのような非難がましいことは口に出せぬのだが、彼ももはや追い込まれて必死であった。
「では、仕方ありません」
彼女はハンカチーフで口鼻を塞ぎ、小瓶の蓋を開ける。薄すらと煙が立ち、牢番は意識を失った。
朦朧とした意識の中で、まるで光明がさしたかのように、ジャンはまぶたを上げた。
「あ、あゝ、おゝ」
信じられない。こんな場所に、しかも眼の前に、王女エスカテリーニャがいた。
あまりのことに痛みも苦しみも忘れ、呆然とする。
カンテラの灯火を掲げ、王女は息を呑む。
凄まじい腐臭の中、糞尿も垂れ流しで鎖に両腕を繋がれ、ぶら下がるように項垂れ、鞭打たれた傷に打ちひしがれた裸体の美少年。あまりにも酷い。嗚咽する。
「あゝ、私のために、私のせいで、こんな」
「そんな、王女様、いけません、こんな汚れの場所に。あゝ、もったいないお涙。どうか、早くこの場所から、お出になってください。
僕のような卑しき者に、そのようなお言葉、あゝ、あり難過ぎて、もはや死んでしまいそうです。この身に余る、分不相応な憐れみをいただき、感謝の言葉もございません」
天にも昇るほど幸せを感じた。