一つのエピソード
ジャン・マータは古代から続く高貴な家柄に生まれ、その上にも増して世にも稀なる美しき少年であった。
齊暦八九六四年に生まれたときから、既に玉のように燿かしく、誰もが思わず微笑むほどに、愛くるしい嬰児であったという。
言葉を概ね解するようになると、乳母の読み聞かせる書物に深く心奪われ、恍惚としたり、眼を輝かせたり、丸くしたり、またときには深く憂うかのようでもあった。
やがて、父ジョゼフ・マータ伯爵の選んだそれぞれの部門の優れた家庭教師から習うようになる。学を悦び、剣を楽しみ、条理ある話を好み、倫理を尊び、その精神は清廉であった。
七歳のときに聖騎士の学園の年少学部に入学した。たくさんのお祝いが届く。
早くも熟達して、十を過ぎた頃から騎士の試験を受け、二年後、晴れて若干十二歳の、すらりとした天使のような少年騎士となった。
その姿は神々しく学園外でも「神に愛でられた者」と囁かれるようになった。
後にジャン・〝アンニュイ〟・マータと呼ばれるようになった天才騎士も当時は未だ夭き騎士であったが、その頃から既に、神の特別な恩寵を得たかのごときであったのである。
天賦の才に恵まれ、剣技は精妙を極め、神学にも通じて妙義を得ていた。そのため、十五になった年に、聖騎士の位を叙された。
その頃は身の丈が4キュビット(エルロイペ王国において1キュビットは1.47フィート、44.8センチ)近くあり、父の背丈にわずか足りないくらいであった。髪の毛は絹のように滑らかな艶のある明るい金で、双眸が南の島嶼の海のような碧であったため、宮廷の婦女子や諸侯の子女の間で噂が広がり、持て囃された。
噂はやがて侍女たちを通じて女王エレクティレアの耳にも入り、一眼見んと思い、王の閲兵の儀の際に……
澄み切った初夏の蒼穹に翳された閲兵壇上の天蓋の下、王の後ろに控えながら、
「その噂の騎士とやらは、いずこに」
と侍女に尋ね、
「女王様、あちらにございます」
侍女は目立たぬよう、そっと指差す。
その方向へ眼を遣ると、何やらそこだけが光り輝いているかのよう。
碧き双眸、赤き唇、白皙の滑らかな頬、眩い金髪の美少年がいた。
「おや、まことに。何と言うことか。噂に違わぬとは、このこと。素晴らしい騎士だ。それにしても、あゝ、信じられぬほど美しい。
この世のものか、と疑わんばかりの天上の美よ、まるで、あそこにだけ光があふれるかのようである」
その姿の清らかさを愛おしみ、一目惚れ?した王妃は第一王女の近衛たる少年聖騎士となるべく、そっと王ザブレクツに推挙したのであった。王は兼ねてより高潔の士と聞いていて、その少年のことを充分に知っていたので、快諾する。
直様、使者がマータの家に赴き、除目の日に参上するよう命ぜられ、聖騎士団の副団長レグゼブルに伴われ、数名の少年らとともに、王の御前で勅命を受け、正式に近衛聖騎士団の少年部門とも言える近衛聖少年騎士団の騎士に任じられた。
その名誉に伯爵家は歓喜し、一家は幸せの頂点であった。
このことを祝し披露するため、父伯爵の主催による祝賀の会が開催され、親類縁故・古き知人をはじめ、恩顧の師や誼みの深い貴族たちが招かれる。
まことに華やかで盛大であった。
当然、俗なる世の眼の妬み嫉みの対象ともなった。
古き良き家柄とは言っても、王にも重んじられる大貴族らとは異なり、やや格下、しかもここ数十年は零落し、その気高さや潔癖さが今の世には少し馴染まぬ家風にあれば、何かと辛き目に遭ったものである。
後には、さらには長身となり、凛々しき騎士となる彼も、当時は未だ華奢であった。いや、華奢というだけでは足りない。女性のように嫋やかでしなやかに、か細くあった。
顔も細く崇高で、白い皮膚は玲瓏、唇は生まれながらのあざやかな朱、瞳は大きく聖なる青碧、まつ毛は長く、蝶の触角や花の雄蕊のように跳ね上がっていた。
いつも憂いに満ちた眼差しで、微笑みながらもどこか哀しげ、人はいつしか彼のことを〝アンニュイ〟という渾名で呼ぶようになる。
彼が近衛となった王女もまた美しき人であった。
聖王の統治する聖エルロイペ王国の王女エスカテリーニャは曙光のような美しさ、薄く蒼く澄んだ聡明な双眸、紛れもなく正統な王の娘でありながら、愛妾エスメラルダの娘ら(彼女らも最初はエスメラルダに唆されてのことであったが)の悪意、憎悪、嫉みに晒され、鬱悶たる想いに沈むことがあった。
しかし、幼くはあっても誇り高き王女は毅然とした明朗さを失うことはなかった。
内面からも光る美貌で世に通っていたため、わずか十一にして、近隣諸国にも名が轟き、各国の王家から縁談の申し込みの絶えることがなかった。
むろん、王家の婚姻は政治の意味が強く、美貌など関係ない。
されども、いかに王家の結婚に恋愛など関係ないと言っても、当人の意向を全く無視しては上手く行かぬゆえ、いずれの国もその国の王子が受け入れ易い王女を選ぶ方が面倒が少ない。
すなわち、魅惑的な婦女子であった方が話を進めることが容易いため、選択肢としてエルロイペのエスカテリーニヤが多く選ばれたのである。
さもありなん、聖都エルロイペを要するエルロイペ王国は家柄尊き古き名家であって、栄華を極め、繁栄し、殷賑であり、財に富み、従って軍も強大であり、権力者たちの望むものの全てがあった。
十五のジャン・マータが着任したとき、王女エスカテリーニャは十二であった。
その頃、王の愛妾であったエスメラルダの長子ベンジミールは十六であり、美しきエスカテリーニャに恋慕していた。
儀式のたびに、王女の周囲を装飾のように近衛聖少年騎士団が囲むが、美しき者と名高いジャン・マータの上に王女の眼が注がれるのが気になっていた。
ある日、無作法にも、王女が侍女たちと庭の噴水近くで、人に見られずに戯れ笑いさざめく傍に、そっと近づく。
本来ならば、庶子が嫡子に向かって対等に話し掛けることなどできるはずもなかったが、王の寵愛を一身に受けて栄華を誇っていたエスメラルダとその息子・娘たちは思い上がっていた。
噴水の盤のふちに腰掛ける王女に囁く、
「王女様にあられましては、天地の理に適い、神の與えたもうた美をまとい、臣下を始め民人に至福を降り注ぎ、意に適わぬものとてなく、まことにご機嫌麗しゅうして、祝着至極にございます」
「驚きましたわ、ベンジミール様、このような女の戯れの場に殿方が」
「大変失礼いたしました。母を探して、つい庭の心地よさに惹かれ、迷い歩くうちに楽しげなお声が聞こえたものですから。天使の声に惹かれる者のように、知らす知らずのうちに推参した次第でございます。
どうか心弱気者にお赦しを」
「かまいませぬ、同じ父の血を受け継ぐ者。人としては、言わば、兄妹のような間柄ですから」
「ご寛容なお言葉、感激の極み、感謝いたします」
「いいえ。
それにしても、人眼にはどのように映るやも知れませぬ、どうか速やかにお立ち去りいただきたく思います」
「むろん、否を言うはずもありません」
「では、ごきげんよう」
「はい、王女様に神のご祝福がありますように」
そう言って、立ち去るかに見えたが、くるりと振り返り、
「ところで、王女様」
「何でしょうか」
エスカテリーニャは訝しげにそう問うた。
ベンジミールは作りものの笑顔で、いかにもわざとらしき口調で、
「いえ、何でもありません。
ふと、思ったのですが、王女様にあられましては、最近、近衛のジャン・マータを特にお気になされている御様子で」
「何をお戯れ申しますか。ベンジミール様。さようなことはありません。母の選んだ美々しき騎士、噂に高きジャン・マータを珍しき者と想いつつ、興味深く眺めたことはほんの一度、ありますが」
「さよう、いやいや、そうでありましょう、さぞかしさようでありましょう、さぞかし。たわいもない、少しばかりの戯れ言です。お気に遊ばすなかれ」
そう言って、何事もなきかのように去った。
その面相には邪悪な翳りが凄絶に泛んでいた。齊暦八九六四年のことであった。