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齊暦八九八七年

 ジャン・〝アンニュイ〟・マータはBar(バル)で碧い酒を啜っていた。眩く燦めく黄金の髪を床すれすれに垂らして。


 白く細く長い指に摘んでいるそれは金製の古びた小さなカップである。細かい傷のせいであろうか、ところどころ曇っていた。はっきり見える傷も走っている。ともに旅をして、年月を経たせいであろうか。しかし、彼は未だ二十三歳であった。だが、流浪も八年になる。


 カップには短いステムがついていた。食前にシェリー酒を注ぐカップによくある型である。

 ステムを人差し指と親指とで挟み、中指を添えていた。傾けて、すっと呑む。金製であるばかりでなく貴石の宝飾も嵌め込まれていたが、決して派手でも艶やかでも眩くもなく、豪奢でも瀟洒でもなく、いかにも骨董品らしい、燻したような剥落感があった。

 それはアンティークショップを当てもなく彷徨ううちに、偶然見つけたものである。それを探し求めて見つけた訳ではなかった。


 アンニュイは歎息とともにそれをしみじみ眺める。


 ここは小さな村であった。砂岩を積んだ乾いた家がならぶ。周囲は、岩だらけの山岳地帯で、ただ、寂しい灌木がわずかに点在しているだけであった。整備の悪い街道が通り抜けている。


 Bar(バル)とはイギリスのパブやイタリヤのバールのようなものであった。立ち飲みの酒場で、安価に酒が飲める。そのため、誰もが毎日、気軽に立ち寄っていた。村の男たちは欠かさず一日に一度は来て様々な話をする。ハムとチーズのサンドイッチなど、軽食もあった。


 カウンターのスツール席は別料金だ。男たちは雑談しながら飲んでいた。今は昼時であったが、朝は仕事に向かう職人たちで賑わっている。仕事の前に飲むためであった。彼らはジョッキを二度目の朝食と呼んでいる。そういう職人たちは、バルの中にあるキーのついたロッカーに自分のジョッキを保管しているのであった。


 アンニュイは午後の気怠い時間に、この二週間、気前よくチップをはずんで毎日スツールに坐っていた。 

 流れ者には愛想のない土地柄だが、亭主は彼を丁重に扱っている。

 だから、チップをはずまなくては申し訳ないと彼は思っていた。


 彼はバルにも自前のカップを持ち込んで飲む主義である。いくら無敵の彼も毒殺にはやられる可能性があった。カップは毒があれば器の内側の色が変わる仕様で、ただ骨董品であるというだけのものではない、なかなかの技ものである。


 そして、今日もカウンターの同じ場所で、彼はスツールに坐っているのであった。


 スツールはかなり坐面の位置が高いもので、背丈があって脚の長い彼が坐っても爪先が触れるのみ、床上一フィート半の高さにあるバーにブーツのヒールを置く。

 そんなに坐る位置が高くても、長い髪は床につきそうであった。

 髪はシルクのように滑らかに燦々とした明るい金髪で、本当に一反のシルクのようで、櫛目が見えず、さらさらと軽い。


 顔立ちは人間主義の理想を追究して黄金期を迎えた古典時代の大理石の彫刻のように完璧に整い、毛穴もない艶やかさで白皙であった。双眸は爽やかなパステルの青で海のように深く、細波のように光を放つ。

 柳のようなしなやかさ、流璃で、細くたおやかで、まるで、女性のようであった。


 それゆえか、侮る愚か者が稀にいた。〝アンニュイ〟を知らぬ者などいないはずだが、時折、どうしようもないやくざ者か、無知で低級な傭兵くずれか、何も気がつかずに、いちゃもんをつけてくるのだ。


 その日も四人の傭兵らしき愚連隊ががさつに笑いながら唐突に店に来て「酒を出せ」と喚き、そのうち一人がアンニュイに気がつくと、 

「おい、見ろよ、綺麗な姐ちゃんだと思ったら、どっこい、男じゃねえか。胸糞悪い、女々しい野郎だ。一丁前に剣を佩いてやがる、どこぞのぼんぼんか」


 そして、アンニュイの腰にぶら下がる剣を見遣る。かの有名な剣『霓の稲妻』だ。剣の柄や刃を収める鞘には、金や螺鈿や貴石が象嵌され、聖語やさまざまな神の象徴などを描く金の線彫など、細工の繊細さから高貴な御方か、名のある騎士と察しがつくにも拘らず、愚か過ぎるのか、嘲り嗤い、言う、

「えへへへ、おめえにはもったいねえや、よこしな」

 手を掛けようとする。


 それを見ていた亭主は真っ青。あろうことか殉真裂士に手を出すなんて。

 アンニュイはつぶやくように、

「一つだけ、言っておく。この剣に触れようとしたら、触れる前に、お前のその手は切り落とされる」

 凄みのあるセリフだが、声はやや低くも掠れて優しく、か細い。


 一瞬、男の手止まってあぜんとしたが、すぐに苦笑い混じりにどす黒く憤った表情となり、

「ふ、精一杯の強がりか、臆病者が」

 触れた、いや、触れようとした直前、手首が落ちた。あまりに正確に垂直に切られ、切り口は完全な平面、綺麗に切られ過ぎていて、一瞬、血が噴かない。同時に、男はバランスを崩して半回転し、アンニュイに背を向ける体勢となった。そのコンマ2秒後、噴き出した血が彼の仲間に降りかかり、滴り落ちて床を汚す。


「うがあああああ」

 狭いバルのスツールに坐ったまま、眼にも留まらぬ速さで抜剣し、切り落としてまた剣を鞘に収めたのだ。全く剣筋が見えなかった。 

 だが、男の仲間たちは実戦経験から来る武者の勘で覚っていた、凄まじいスピードで斬られたのだ、と。

 動いた軌跡に、金の霧が漂っている。


 手首を切られた男は蹲り、歯を食い縛って悶え、動けない。他三人は一人が後退りし、二人が憤って一歩前に出た。

「てめえ」

「この野郎」

 アンニュイは席を立たなかった。

「一応、言っておく。ここまでにしないと、お前たちは死ぬ。私は既に警告した。それでも向かって来るなら、死を了承したと解す」

 一人はビビって、フリーズするが、もう一人は臆病者にありがちな逆上で激怒し、

「何だと、てめえ、舐めんな」

 抜剣し、振り被ったかと思う間もなく、何か強力な力で弾かれたかのように、半開きのドアから外へ吹き飛び、人通りのない裏路地でようやく縦裂きに真っ二つになって、血飛沫とともに左右に斃れた。


 最初に後退りしていた漢は既に逃げの体勢だったので、「ぅわああ」と半ば泣きながら叫び店を飛び出したが、もう一人は「ひえええええ」と魂が抜けたような声で腰が抜けしゃがみ込んで失禁し、立てなくなってしまった。


 アンニュイが亭主に向かって、

「すまぬ、店を汚してしまった」

「いえ、アンニュイ様、こんな場所ですから、流れ者や荒くれが多くて、血が流れるのはときどきあることです」

 それを聞いて、失禁男が叫ぶ、

「アンニュイだって! そいつを先に言っておくれよっ!」


 殉真裂士は一瞥したのみで、あとは亭主に丁重に謝り、金貨を置いて出て逝った。



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