7話 ポケットの中の現実
ひたひた、そんな擬音がしっくりくる気味悪さで、黒い獣──魔物が木立から出てくる。
「どうかなさ──ひっ!」
ルシンダ様が悲鳴を飲み込む声が聞こえた。母子三人で身を寄せ合う気配を背中で感じる。
「ルシンダ様、パトリシア様、カロライン様。どうか落ち着いて聞いてください」
返事は無いけど、聞く姿勢にはなってくれてるっぽい。
魔物から目を離すわけにはいかないから三人の様子は見れないけど、そうだと、聞いてくれてるんだと信じよう。
「私が正面の窓から外へ出ます。その後、皆様は背後の出入口から本邸へ向かってください」
「そ、それではヴィクトリア様が危険です。このまま助けを待ったほうが」
「いいえ、ここはダメです。この温室はガラス張りですから、とても持ち堪えられません。すぐに侵入されて襲われます。ですから、私がやつを引き付けるのが最善です」
「ですが、ヴィクトリア様おひとりでは」
「私は騎士を志す身です。ここで立ち向かわなければ、騎士になる資格がありません。父に叱られます」
「そんなことは!」
「お母様」
反論しようとするルシンダ様をパトリシア様が止めてくれた。押し問答してる時間も惜しいから助かる。
パトリシア様の声は少し震えてるけど、それでも落ち着いてるのがよくわかる。
「ヴィクトリア様。私達がここから離れるにあたって、気を付けるべきことはありますか?」
「やつが私に狙いを定めるまでは、決して目を離さないでください」
「つまり、背を見せないようにすればよろしいのですね?」
「はい」
パトリシア様の物わかりが良くて助かる。話が早くていいね。
魔物を見据えたままドレスの裾をたくし上げて、靴下留めも兼ねた剣帯から短剣を引き抜いた。
短剣をドレスの中に仕込むなんて普通はしない。背中に視線をビシバシ感じるけど、気にしてられない。
そのままドレスの裾を切り裂いていく。こんな長い裾のドレスは邪魔にしかならないからね。
バサバサと布の切れ端が落ちるほどに身軽になってく。ほんと、ドレスって無駄に重いんだから。
「恐ろしいでしょうが、どうぞお願いします」
「な、なにを仰いますの! 私達よりも、ヴィ、ヴィクトリア様のほうが、もっと、もっと……!」
「カロライン、ダメよ。落ち着いて、涙を拭かないで。ヴィクトリア様の言葉どおりにするのよ」
「うー……! わかってる、わかってるのよ、お姉様!」
カロライン様も、ルシンダ様と同じ。怖くてたまらないはずなのに、私の心配もしてくれる。
パトリシア様はそんな二人を支えながら、最善を尽くそうとしてくれてる。
良い親子だな。こんなの、泣きたくなっちゃうよ。
「では、いってまいります。私が外に出てから、動いてくださいね」
「ヴィクトリア様」
「なにか?」
「どうか、ご武運を」
緊張でかたくなって震えた声だけど、ルシンダ様の言葉はどこまでも暖かい。
振り向きたくなるのを必死で我慢して、一歩一歩ゆっくり足を進める。
武器は短剣だけ。
装飾過多の、名ばかりの護身用のものじゃないだけマシかもしれない。
身を守る鎧は無し。身動きが取れなくなるような怪我でもしたら一巻の終わりだね。
破裂するんじゃないかってくらいに心臓はバクバクしてる。
手が震えてるのは武者震いだってヴィクトリアなら言えたのかもしれないけど、私には無理。
怖くて仕方ない。
それでも勇気を振り絞って扉から外に出た。
魔物と私を隔てるものはなにも無い。冬の冷気と敵意が肌をザクザクと刺してくる。
魔物はじわじわと距離を詰めながら、徐々に上体を起こしていく。思っていたよりもデカい。
毛皮は炭のように硬く乾いてて、私の短剣だとちょっとやそっとの攻撃では毛皮さえ傷つけられないかもしれない。
魔物の皮についてる血は……魔物自身のものと、返り血の両方みたい。
血が誰のものなのか気になるけど、今は考えないようにしないと。
細く長く吐き出した息が白く長い。
短剣を構えて、腰を落とす。使い慣れない武器で、しかもリーチが短い。間合いに入るには、全身を撥条みたいに使わないといけない。
魔物が完全に立ち上がった。私の倍くらいの体から出てる威圧感ときたら。
向き合ったまま、ジリジリと相手を窺い合う。
目は離せない。離した途端、飛びかかられる。
間合いと機を探り合い。相手の姿かたちをしっかり頭に叩き込む。
魔物の赤い瞳がギラリと光った。
「ガアアアアアアアアア!!」
長く大きな腕が迫ってくる。
私は反射的に、前へ飛び込んだ。
すさまじい風圧で髪が暴れるのもお構いなしで、がら空きの体に刃を滑らせた。
どす黒い血が吹き出す中、足を止めずに距離を取る。
コンマ数秒前まで私がいた場所に鋭い爪が振るわれた。
二撃目、三撃目が来る! がむしゃらに距離を取って追撃から逃れる。
魔物の爪先が脇腹をかすめていったけど、ドレス用のコルセットに守られた。
予想外の防御力。コルセット甘く見てた。
かわして、斬りつけて、離れて。それを繰り返していくうちに、呼吸が荒くなる。
でも反対に、頭がみるみる冴えて、冷静になってく。
当たれば最後、ヒット・アンド・アウェイを心がけろ! 調子に乗って攻め続けたら手痛い反撃が来る!
動きはわかるんだから、焦らなければいける。
まだ怖い気持ちはある。でも、不思議なことに勝てる確信がある。
魔物が体を丸めた。
考えるよりも先に足が地面を蹴っていた。全速力で右へ右へと回り込む。
そんな私の横を黒い弾丸が唸りを上げて走り抜けた。木が何本もなぎ倒されていく。
自力じゃ止まれない魔物は、まさに激突っていう言いかたどおりの激しさで高い塀にぶつかった。
ドォォンと骨にまで響く物音は魔物自身が受けた衝撃の強さを意味してる。
つまり──。
「ああああああああああああああああ!」
これは大きなチャンスだ。
限界までの身体強化を足に乗せ、風になる。周囲の景色を置いていき、魔物の背中に肉薄する。
勢いのまま短剣を突き刺した。
「ガアアアアアアアアアアアア!」
魔物が大きくのけぞった。
血を噴き出してる傷が、笑えるくらい無防備に私の眼前へ晒された。
どうすればいいか、私は知ってる。
「獲った!!」
もう一度、同じところに短剣を突き立てた。
今度は短剣を伝って残る全部の魔力を注ぎ込む。
「ギヒャアァァァァァアアアアアアア!!」
断末魔の叫びと共に魔物の上半身が爆ぜた。
弾け飛んだ魔物の肉片や血が壊れたシャワーみたいに降り注いできた。気味悪い生暖かさと悪臭を全身で感じるけど、それどころじゃない。
私、いま、なにをした……?
さっきまでとは違う、別の寒気に全身を襲われる。
だって、だって、だって!
今の動き、私が知ってる!
何度も何度も『シャドウブリンガー』のゲーム内でやった重攻撃と、敵に大ダメージを与える特殊攻撃の『影抜き』の動きそのまんまだった!
全身の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。
手からこぼれた短剣が短くなったドレスの上を滑って、赤く濡れた地面へ落ちてった。
下半身だけになった魔物は血の水溜りで横たわってる。
一つ気付いてしまったら、さらに嫌なことに気付いてしまった。
どうしてあの魔物の動きがわかったのか。
訓練の成果だとか、ヴィクトリアが強いからじゃない。魔物の実物を見るのも実戦も初めてだ。
それなのにわかったのは、私が知っていたから。
あのゲームの最初のボスは、まさにこの魔物みたいな姿で、まったく同じ動きをしてた。
これが意味することって、考えつくのは一つしかない。
ここは『シャドウブリンガー』の世界でもあるかもしれないってこと。
返り血で真っ赤に染まった両手越しに、魔物だったモノに呆然と視線を向ける。
偶然だって笑うには状況が悪すぎる。
だって、私はすでに『さきはな』っていうゲームの中にいて、四年以内に死ぬかもしれなくて。他にイレギュラーがないなんて保証は、どこにもない。
「嘘だと言ってよ……」
そう呟いたが最後。
絶望と疲労感に押しつぶされ、私は意識を手放した。