2話 厳しい世界
「うーん……わかってはいたけど、実際に持つとすごいなぁ……」
両手に握った代物を掲げながら、思わず呟いた。
ヴィクトリアの朝の稽古は修練場の走り込みのあとに素振りをし、父親かテイラー侯爵家の騎士と打ち合って指導を受けるというもの。走り込みもただ走るわけじゃなく、武器と鎧のセットと同じくらいの重りを詰めた背嚢を背負って走る。
遙華だったら数秒持ち上げれるかどうかって重さだけど、ヴィクトリアなららくらく持ち上げられる。このスラッとした体のどこにこんな筋力があるのか不思議で仕方ない。
ついでにいうとコルセットで抑えてるはずのたわわが重い。遥華の胸よりも立派すぎて、胸と呼ぶのもはばかられるほどのたわわは運動時の振動やら痛みやらが段違いだ。
それはそれとして。剣の稽古と言ってるけどあくまで便宜上。ヴィクトリアの持ち武器は剣じゃなく、いかつい見た目のでっかい斧槍だ。
このゲームのオタクがジャンル外のオタクにヴィクトリアを紹介すると、ほぼ確実に「ハルバードをぶん回すお嬢様」って言う。大事なことなので私も何度か言いました。
そんなわけで当然、訓練はハルバードでやる。
自分の腕だけでこんな武器を持ち上げる日が来るなんて思いもしなかったよ。これ、何kgくらいあるんだろ。
ヴィクトリアは身体を魔力で強化して戦うという設定だけど、もともとの筋力もちゃんとある。だから今も、自分の力だけで持ち上げられるってわけ。
そのおかげで──
「思い知らされてるなぁ……」
これだけ身体を動かせば、嫌でもわかるよ。これは現実なんだ、自分の体じゃないんだって。
夢じゃないかっていう期待が、綿あめくらいに甘かったんだってよくわかる。
ブンブンどころかブゥゥンブゥゥンと空気を唸らせる素振りが終わった。流石のヴィクトリアでも汗でびっしょりだ。
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとう」
そう言ってタオルを差し出してくれたのは騎士のジェイクだ。テイラー侯爵の懐刀でもあるから、よく稽古をつけてくれる。優しげな見た目そのままの、柔らかい雰囲気の人だ。
『咲き誇る花の如く』にジェイクという登場人物はいなかったけど、それっぽいモブはいたから、あれがジェイクだったのかもしれない。
とはいえ、ジェイクっていう名前の騎士は遙華にも馴染みがある。
原作もとい『さきはな』と同時進行でこつこつやってた別のゲームにいたんだよね。ずっと兜を被ってたから顔はまったくわかんないから、似てるかどうかもわかんないんだけど。
わりと友好的なキャラなんだけど、彼のストーリーを進めちゃうと死んでしまう。まあ、あのゲームのNPCってほぼほぼ死ぬんだけど。
だからって名前が同じってだけで死ぬキャラと重ねて見ちゃうのは失礼だよね。
汗を拭き終わるタイミングで従僕が水とレモンのはちみつ漬けを持ってきてくれた。
運動した身体には甘酸っぱいものが効くんだよね。子供の頃、めいっぱい遊んだあとに遙華の父親が手作りのものを食べさせてくれたっけな。
このはちみつ漬けも美味しいんだけど……侯爵家で出されるようなものだからかなりの高級品ではあるけど、父さんが作ったやつのが美味しく感じるのは思い出補正かな。
……うん、よかった。昔のこともちゃんと思い出せる。大事な思い出だから、情報整理のときにちゃんと書き出そう。
稽古は休んで先に状況を把握したほうが良かったかもってちょっと思いはしたけど、まとめたほうがいいことを確認できたからこれでよかった。
「お嬢様、まだ休まれますか?」
はっと我に返る。いけない、いくら休憩中だからって気を散らしすぎた。ちゃんと集中しないと怪我をする。
「ごめんなさい、少し考えごとをしていただけ。もう大丈夫よ」
クールダウンは大事だけど、これ以上休むとまた遙華のことを思い出そうとしてしまう。稽古に戻ろう。
「ではジェイク、今日もよろしく」
「はい、お相手いたしましょう」
訓練用のハルバードではあるけど、実戦でも使える物の刃を鋳潰してるだけ。ただ刃を撫でたところで斬れはしないけど、こんなもの叩きつけられたら鎧をつけてても骨折待ったなしという状態。
そんな代物で打ち合い稽古なんてやるんじゃないって普通なら言うけど、この世界には便利な魔法がいくつもある。
「『慈悲を』」
重さも刃の鋭さもそのままで、ただただ振り下ろした際の衝撃を消すだけの魔法もその一つ。
同じ魔法がかけられた武器と武器がぶつかれば魔法が打ち消し合ってしまうとかでガツンと衝撃はくるんだけど、魔法をかけられてない体なんかに武器を打ち付けても打撲すら出来ないっていう魔法。
防御魔法として使えるのでは!? と考えもするけど、大きな欠点が二つある。
『自分が持ってる物にしか使えない』、『対象の隅々にまで魔力を流さなくちゃいけないから発動に多少の時間がかかる』っていう二つね。
つまり、防御魔法としてこれを使うなら『剣で斬られそうだからその剣を掴んで魔法を使う! 一・二・三、はい! 魔法成立! 刃さえ当てられなければ、自分がこの剣を握ってる限りはもう安心だ!』ってやらなくちゃいけないわけで。そんな状況のときに相手の剣を握り続けるってのは現実的じゃないし、そもそもそれが出来る人間は防御用にこの魔法が必要かって話よ。
でも、武器を使う訓練には最適。
体の端を指先からハルバードへ伸ばすイメージで縒り合わせた魔力を流す。
発動に時間がかかるって言っても、深呼吸を一回する程度。コントロール自体は難しくないから魔法の維持も楽。
必要な魔力も少なくてほとんどの人が使えるから、訓練には欠かせない魔法だ。通称が『訓練魔法』なくらい。
問題はもう一つの魔法。身体強化の方だ。
訓練魔法と比べると全てが真逆。呪文はいらないし発動もすぐだけど、体の部位や力の強弱に合わせた繊細なコントロールが必要なせいで維持が難しい。
魔力だって、しっかり鍛えてるとはいえ細身の女の子であるヴィクトリアが重いハルバードをぶん回して戦うほどの身体強化ともなると必要量はかなりのものになる。
例えると、水槽いっぱいに水を貯めるだけなのが訓練魔法。長時間だと水もとい魔力を補充しなくちゃいけないけど、基本的にはほったらかしでいい。
身体強化はいわばアクアリウム。しかも熱帯魚がいるタイプ。水質や水温の管理から始まり、水草の育成に照明もいれてなどなど、お金と手間をかけないといけない。
とはいえそのアクアリウムの例えも、あくまでもヴィクトリアもとい女の人の場合。
男の人は剣を振り下ろしたり、逆に相手の剣を受け止めるために踏ん張るときだったり、一瞬だけの強化に使うからコントロールも魔力もあんまり必要じゃないんだよね。
戦ってる間ずっと身体強化をかけておくのはかなりの魔力と集中力が必要だから、もともと力がある男の人はやらない。
数分戦ってはい終わりなんてまずないからね。魔法で強化し続けなくちゃいけない人はかなり苦労する。
振るったハルバードからはビュゥゥォンと素振りのときよりも一段重い音が唸る。
ジェイクはその一撃を難なく避けた上で、ハルバードを振った向きと同じ方向に力を付け足すような一打をハルバードの先端に与えてきた。
「ふっ!!」
バランスを崩さないために私は下半身の身体強化の出力を上げてこらえ、お返しとばかりに返す刃でジェイクの胴を狙う。
入った。そう思ったけど──
「甘いっ!」
ジェイクの身体が沈んだと思った次の瞬間、私のハルバードが高く跳ね上げられた。
いくら身体強化をかけてるからって、ただの木刀でそんなこと出来るわけないでしょ! なんて文句を言いたいけど、実際に出来てるっていうかやられてるわけで。
ドクンと、全身で感じるほどに鼓動がやけに強く響いた。無防備すぎる体に背筋が凍る。
がら空きの懐めがけてジェイクが飛び込んでくる。
すぐに引き戻せないハルバードの代わりに、私は全力で身体強化をかけた脚で蹴りを繰り出した。
攻勢に出ていたジェイクは避けられなくて、地面に手を付いて勢いを殺し、ギリギリ耐えてみせた。かなり力んだみたいで、土には大小の七本の溝。指五本分の細いものと、二本の足による太い溝だ。
肩で浅い息を繰り返す。
ジェイクのあの体勢なら蹴りは綺麗に入ってそのまま訓練場の端まで吹っ飛ばせると思ったのに。
彼の状態と手応えならぬ足応えからして、ギリギリのところで防御されてしまったらしい。
心臓がドクドクと波打ってる。
「良い蹴りです」
「防がれたのに?」
「ご不満のようですね。では言い換えましょう、良い判断でした」
パンパンと手についた土を払い落としながらジェイクは言う。
ヴィクトリアの得物が得物だから、打ち合い続けるよりも体が覚えているうちに反省させるっていうのがお父様の指導方針だ。とうぜん、ジェイクもそれに倣っている。
「その武器をお使いになる以上、一撃必殺を心がけねばなりません。それはおわかりですね」
「ええ。言葉でも、稽古でもそう教えられてきたもの。身にしみてるわ」
「結構。しかし、それが出来ないことは往々にして出てきます。その時の対応策を増やすことが肝要です」
ヴィクトリアはこれまでの稽古で武器を引き戻そうとして何度も失敗してきた。
ときにはただ手首を返して、ときには身体強化を限界までかけた腕力に物を言わせて。
でも、それじゃ駄目だとその度に体へ木刀を打ち込まれ、言葉でも指摘を受けてきた。
訓練魔法のお陰で怪我をしないとはいっても、自分の力不足を実感しては歯噛みして、繰り返し稽古を願う──ヴィクトリアはそうしてきた。
浅く、荒くなった呼吸を何度も深呼吸して整える。
「武器を体の一部として馴染ませるのは騎士として、戦う者として必ず通る道です。けれど同時に、武器はどのような時でも使えるものではなく、最後に頼れるものは自分の体であることを忘れないでください」
武器を掲げる『綺麗な』戦い方への固執は、簡単に命を落とす要因となりうるのですよ。
優しそうな顔だけど、言ってることの厳しさときたら。
ゴクリとつばを飲み込んで柄を強く握る。ハルバードがさっきまでよりもはるかに重く感じた。
ちゃぷんと水音が浴室内に響き渡った。
温かいお湯が身体を温めてくれるのに、体の芯は温もるどころか冷えていく感じがする。
「何が、思い知らされてる、よ」
広いバスタブの中でせせこましく膝を抱える。今になって体が震えてきた。心臓もバクバクと早鐘を打ってる。
稽古の間は体が反射的に動いてくれてたからか、遙華もそれ相応に興奮というか、高揚というか、そんな精神状態だったけどさ。
武器を振るうたびに、戦わなきゃいけない──命を賭けなきゃいけない世界にいるんだっていう実感が湧いてきて。木刀で打たれるのがどんどん怖くなっていった。
だって、学生の時の部活どころか体育の授業でも、剣道はもちろん、柔道や空手なんかの格闘技だってやったことない。人に叩かれたことだって覚えがないのにさ。
木刀で打たれるのですら怖いのに、これが本物の武器だったらって想像しただけで泣きたくなる。
それでも体が動くのは、ヴィクトリアが積み上げてきた成果だってこと。
素振りのあと、本当に自分の体じゃないんだ、ヴィクトリアの体なんだって物悲しくなったりしたけど、私はまだわかってなかったんだ。
ただゲームの世界のキャラになってるなんて認識じゃ駄目だ。
平和な日本よりもはるかに死が近い世界の、戦うことを使命として生きる人間になってるんだ。
これから、このことを何度も何度も突きつけられていくんだと思う。
それが怖くてたまらない。
「父さん……父さん……」
涙が次々にバスタブへ落ちてく。
父さんに怖い、助けてと縋って泣いて、大丈夫だよと抱きしめてほしい。でも、現実に私の肩を抱くのは見慣れないヴィクトリアの白い手だけだった。