20話 永遠のヴィクトリア
花の匂いがする。
甘い、甘い花の香り。
とても強い匂いなのに、重たくは感じない。
それどころか、ずっとこの香りの中で浸っていたくなる──そんな匂い。
水の中から水面に顔を出すような心地で瞼を開いた。
まるで海みたいに無数の花が咲き誇る世界が広がっていた。輪郭がぼやけて見えるくらいに明るい。
その中に、一人の女の子の背中が見えた。
うっすらと緑がかった銀の髪は、半年前から私のものになった髪とまったく同じ。
ヴィクトリアだ。
彼女は私に背を向けて、歩き続けてる。
「ヴィクトリア!」
名前を呼んだけど、ヴィクトリアは振り向かない。
なぜかはわからないけれど、これが最後だって、そんな気がする。
ううん、これは確信。
私がヴィクトリアに会えるのは、これが最初で最後なんだ。
追いかけたいのに、前へ進むことが出来ない。
まるで、目に見えない壁のようなものがあるみたい。
「ヴィクトリア!」
もう一度、もっと大きな声で叫んだ。
どうしても振り返ってほしくて、話がしたくて。
でも──何を?
私は何を話したいの?
謝るのは、違う。
そんなの、ヴィクトリアの存在を、ヴィクトリアの全てを奪ってしまった私の罪悪感を晴らしたいだけの自己満足だよ。
私を守ってくれた彼女の最期に、そんな情けないことしたくない。
「ヴィクトリア!!」
声を振り絞って名前を呼ぶ。
やっぱり彼女は背中を見せたまま。
だけど、もう私は待たない。
「ありがとう!!」
ヴィクトリアの足が止まった。
彼女はどんな気持ちで聞いているんだろう。
「私、頑張るから! 生きてみせるから!!」
だから、だから、だから。
気持ちだけがあふれて、言葉が出てこない。
それなのに、涙はこぼれてしまいそうなのが悔しい。
「ヴィクトリアが誇れるように、生きてみせるから!!」
なりかわっておいて都合のいいことを言ってるって、わかってる。
でも、でも、でも!
私がヴィクトリアに言わなくちゃいけないことは、これしかないから。
立ち止まったままのヴィクトリアがゆっくりと振り返る。
ふわりと翻った銀髪が落ち着いたとき、そこに浮かんでいたのは笑顔だった。
唇は柔らかな曲線を描いていて、透き通った碧眼は強く輝いてるのにどこまでも優しい目で私を見てる。
ゲームでも設定資料集でも見たことがないくらいに綺麗な笑顔。
我慢してた涙が目尻からこぼれ落ちてく。
ヴィクトリアの表情を目に焼き付けたいのに、拭っても拭っても溢れてくる涙で滲んでしまってよく見えない。
「ハルカ。──」
私を呼んだ後の言葉が聞こえない。
一斉に花びらが舞い上がった。まわりの光が強くなってって、ヴィクトリアがどんどん見えなくなっていく。
それでも、私はめいっぱい手を伸ばした。届かないってわかってるけど、少しでも近づきたくて手を伸ばした。
輪郭が消えていく私の手の向こうで、ヴィクトリアの姿が完全に見えなくなる。
かわりに、彼女が私に向けた言葉が鮮明に浮かんでくる。
『後を頼みます』
もう時間だってばかりに花びらに視界を遮られると、私の意識は花の中に溶けていった。
「んっ」
目を開けたら、いつもよりも暗闇が柔らかく広がってた。
体調が悪いって言ったから、心配したコニーがランプを点けたままにしたのかも。
光源に目線を向けると、コニーの代わりに別の人がいた。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「エラ……」
私とフローレンスの乳母で、リサの母親でもあるエラだ。
今はこのタウンハウスのハウスキーパーをしてもらってるんだ。
「水を飲まれますか?」
「お願い」
口に含んだ水がやけに甘く感じる。すごく美味しい。
寝衣が肌に張り付いてるし、もしかして。
「私、熱が出てた?」
「はい。高熱ではありませんでしたが……失礼しますね」
エラの手が額、次に首筋に触れる。
ひんやりしてて気持ちいい。
「落ち着いたようですね。移動の疲れが出たのでしょう」
多分、違う。理由は誰にも言えないけど。
「コニーは?」
「休ませました。まったく。あの子ときたら、寝ずにお側に控えようとするんですから」
「コニーもエラの言うことなら素直に聞くわね」
「あの子の指導をしたのは私ですからね。あと十年は頭を上げないでもらいたいものです」
「ふふっ」
そんなやりとりの間に、エラは水桶にタオルをさっと浸して濡れタオルを作って、私の寝衣のボタンを外して体を拭いていく。
惚れ惚れするくらいにスムーズ。
小さかった頃のヴィクトリアが熱を出すたびに、エラは今みたいにお世話してくれたんだよね。
「今は……夜明け前ね」
「熱は下がってますが、朝の鍛錬は控えてくださいね」
「そうするわ。コニーに余計な心配をさせたくないもの」
私がそう言うと、エラがふっと微笑んだ。
汗で濡れた寝衣から新しいものに袖を通す。
そのボタンをエラが一つ一つ留めてくれた。
「成長されましたね、お嬢様」
「そう?」
「ええ。自分を心配する人がいる──それを知っているか知らないかでは、同じ行動でも心の持ちようが代わりますから」
光の加減かもしれないけど、エラの目が寂しそうに揺れている。
もしかしたら、お母様のことを思い出してるのかもしれない。
「お嬢様、もう少々お眠りになられますか? それともお茶をお持ちしましょうか?」
「お茶はいいわ。眠れるかわからないけど、横になっておこうかな。
そう言えば、今日は午後から採寸だったわね」
「断りの連絡を入れるつもりでしたが、お呼びしても大丈夫そうですね」
「ええ、大丈夫よ。これからこちらに来ることが増えるから、何着か仕立ててもらいたいし」
「かしこまりました。他になにかございますか?」
「いいえ。また用があれば呼ぶから」
エラに見守られながら、またベッドの中に潜り込む。
シーツの上からぽんぽんって優しく叩かれると、子供扱いされてるくすぐったさを感じるけど、あったかい気持ちになる。
私もヴィクトリアも母親の記憶はほとんど無いけど、きっと母親ってこんな感じなんだろうな。
大人しく瞼を閉じる。
自分でも驚くくらい、私はすんなりと眠りに落ちていった。
さらさらと、ペンが紙の上を走る音が静かに響く。
「ずいぶんと大人っぽくなられましたわ。ヴィクトリア様ぐらいのお歳のお嬢様がたは、半年で別人のように変わられますわね。
それでなくとも、小さなお嬢様のドレスを仕立てたのが昨日のことのように感じるのですから、時の流れときたら川の流れのように捕えられないものですわ」
ポーター婦人はお母様が独身のころから贔屓にしてる仕立て屋だ。
エラと同じく、小さな頃のヴィクトリアを知ってる人ってわけ。
だから、ヴィクトリアの好みも当然知ってる。
何反もある布地の山に一反だけ紛れ込ませたローズレッドの布が目を引いた。
間違いなく、私が拒否するのをわかってて持ってきてるやつだ。
いつも同じようにヴィクトリアが好まないピンク系統の布を持ってきて、「当ててみるだけでも」って言って体に布地を当ててくれる。
で、ヴィクトリアに拒否されるまでがお約束なんだよね。
「こちらは私が一目惚れして仕入れたものですわ。レースのように繊細な模様は、職人の手描きによる染め抜きです。
ここまでの布はなかなか出回りませんから、ヴィクトリア様にも見て頂こうと思って持って参りましたの」
ポーター婦人の言い訳じみた言葉に苦笑いがこぼれる。
咎めるつもりで見てたわけじゃないんだけどな。
「当ててみるだけでもいかがでしょうか?」
「じゃあ、お願い」
間近で見ると、ポーター婦人の説明どおりに細かい模様が浮かんでる。
落ち着いたピンクのローズレッドがそれを際立たせてる。
うん、すごく綺麗な布だね。
なんとなくだけど、ヴィクトリアみたいだなって思う。
「いい布ね」
「たまにはいかがですか?」
「そうね……」
ピンクの布地を当てられてるのに、胸はざわつかない。
ただ素直にいいな、綺麗だなと思える。
それがどうしようもなく寂しい。
「いつか、着てみるわ」
ポーター婦人が目を丸くした。
薦めておいてとは思うけど、過去のヴィクトリアの拒否っぷりを考えれば仕方ないかな。
「私が私に誇れる自分になれた時に、この布でドレスを仕立ててもらうわ」
その時はヴィクトリアみたいなこの布地のドレスで、胸を張って笑おう。
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