9 巣立ちの時
「今回出向いてもらう先は、『文旦座』です。任務内容は、間尼 怜斗のボディーガード……です」
「じいちゃん!」
私は、仕事の説明をしようとしている万田さんを遮って抗議した。
「面白くないのは解るぞ、柑奈。向こうさんも、こちらの調査がどの程度進んでいるのかを探りたいのだろう。なにせ右腕として働いていた男は、こちらで確保してしまったからな。一方で、我々にとっても、これはチャンスなんだ。今まで以上に深く潜って、真相にたどり着こうじゃないか」
「では、続けてよろしいですね」
万田さんが後を引き継いだ。
「『文旦座』で開催されるファッションショーが舞台です。今年のファッションショーのテーマは『オペラ』。参加するブランドがそれぞれ持ち時間30分のショーを、テーマに合わせて演出するという趣向だそうです。間尼さんのブランド『エシカル・ジャム』も参加ブランドのひとつです。ファッションショーに出席の際、警護を勤めるのが今回の依頼内容です」
祖父が私達一同をじっくりと見渡してから付け加えた。
「一般客を装って会場入りしてもらう。柑奈、お前と……エスコート役が必要だな……青島君を連れて行きなさい」
ーーー
「うん、なかなかいい店じゃないか」
当然自分の事を知っているだろうなと言わんばかりの態度で、その男は店に入ってきた。
「あなたは……どこかのパーティーでお会いしましたっけ?」
「……うっぐ……いいか、あんたの夫は海外で失踪したろ?」
「はぁ……」
「でもっ、知り合いの刑事さんに頼んで、現地の警察に探してもらっています。そうだよね? お母さん」
「娘さんには悪いが、見つかるとでも思っているのかい? 彼は僕から借りたカネを返せなくて困っていたのだよ。きっと自分の意志で行方不明になったんだ」
「そんな……夫からは何も……借金だなんて……」
「と、に、か、く、期日までに全額返してもらいますよ。そういう契約なんだから。約束も守れないなんて、娘さんに示しがつきませんよねぇ」
男はそう言っている間にも、店内をウロウロと物色し始めた。
「それでは、こうしましょう。カネを返せないのであれば、この店舗を頂くってことで手を打ちますよ。見たところ、なかなかいい店じゃないですか……」
男はそう言いながらも、近くに置いてあるツールボックスをひっくり返したり、壁一面に設置された棚に収納されている服地の感触を、指先で弄んで楽しんだりしていた。
「うん、立地条件は最高だし……設備は……古くさいが、好事家には高く売れるでしょう」
「触らないで! まだあなたのモノじゃない!」
「ずいぶん威勢のいいお嬢さんだ。亡くなったお父様もさぞかし鼻が高いでしょうね」
「や……めて、やめて! お父さんは必ず帰ってくる!」
「お嬢さんみたいなタイプ、嫌いじゃないですよ。どうです? 私の会社で働きませんか?」
「誰があなたなんかの会社で……」
「何故です? 仕事は必要でしょ。この店はもうじき無くなるんですから。あぁ可哀想に。父親に捨てられたことにも気付いていなかったなんて……」
「娘が失礼なことを申しまして……あの、お金なら返します。幾ら借りているんですか? できるだけ早く……」
ドン! 男が両方の掌でテーブルを叩いた。
「これでもギリギリまで待ったんだ。僕は慈善事業をやってるわけじゃないんでね。未来あるお嬢さんの為にも、この店を手放すのが一番ですよ。安心して下さい。悪いようにはしません」
その時、店内の緊迫した空気を振り払うかのごとく、真鍮製のドアベルがチリンチリンと鳴った。
「邪魔するよ……。春海さん、その後、弟さんはどうしているかね……」
「刑事さん!」
「何? け、刑事? 今大事な話の最中なんですが、割り込まないでくれますか?」
白髪頭を短く刈り込んだ年配の刑事が先客に歩み寄った。後から入ってきた若い刑事も、周囲を警戒しながら先客の背後にさりげなく回り込んだ。
「我々にもその『大事な話』とやらを、聞かせてくれませんかね……まず、あなたのお名前は?」
「間尼怜斗だ。そっちは?」
年長の男が警察手帳を見せながら言った。
「南番館北署の馬弓刑事と」
「橘刑事だ」
ーーー
ーーー
「このたびは……ご愁傷様で……」
「春海さん、私どもにできることがあれば……」
弔問客はそれぞれ春海に声を掛けようとするが、痛ましい姿を前にすると、言葉が見つからないでいた。どんな慰めの言葉も空虚に霧散するだけのように感じるからだ。代わりに、春海には聞こえないところで、口々に感想を吐露していた。人が亡くなると……特に自分よりはるかに若い人物が亡くなると、人生に対する漠然とした不安や疑問が沸いてくる。それを払拭する為にこういう儀式も時には必要だ。
「陽ちゃん、気の毒なことで……」
「ねぇ、仕事帰りに通り魔に襲われるなんて、誰も思わないわよ」
「深夜だったんだって? 働きすぎなんだよ」
「ほら、『テイラーフジ』、つぶれちゃったでしょ。自分がいつか店を再開するんだって……」
「ご主人もあんなことになった後ですからね。春海さんの心労も相当なものでしょ」
「春海さんの旦那さん、亡くなったんだよな?」
「海外で行方不明になっていたんだけど、遺体が見つかったらしいわ」
「わたくしが聞いた話だと、借金をこさえて愛人と一緒に海外に逃げていたとか……」
「ご主人、実直そうに見えたが……店の方だって堅実な経営をしていたじゃないか」
「あら、あなた知らないの? 仕立て上がりが良くないとか、粗悪な材料を使っているとか散々に言われていたのよ」
「あんたたち、そんな情報どこで調べたんだ? うちの商店街の連中はそんな事、誰も言ってなかったぜ」
「ネットよ、知ってる店の話だったからつい……」
ーーー
祖父の昔語りを、固唾を呑んで聞いていた青島さんが深いため息をついた。
「ネットって、便利な反面そういうところが怖いわよね。よく、『人の噂も75日』と言ったもんだけど、ネットの場合、人をもっと長い間苦しめることになる。それがおもしろ半分に作り出された虚像だとしてもね」
「さらにそれを単純な善意で広めてしまう人間もいますから。そんなことをされては、個人事業主では対処が難しいでしょう。もしかして、間尼は……」
万田さんが何かに気付いて、祖父に話しの続きを促した。
「ああ、春海さん達の店はオフィス街の一角にあった。立地条件はすこぶる良かったんだよ。間尼は最初から土地を乗っ取るのが目的だったんだろうな。その証拠に今、その土地には間尼の会社のビルが建っておる。なんなら悪い噂を流した張本人が間尼だったとしても、驚かないな」
「春海さん、普段の様子からは想像もできないけど……そんなことがあったんだね……」
「不幸な出来事というものは、起こる場所や時間を選べない。だがな柑奈、そこで腐ったり諦めたりしちゃあならない。時は歩みを止めて、待っていてはくれないのだからな。嵐の間は安全な場所に隠れていればいい、転んで怪我をしたのなら傷を癒やせばいい。やがて準備が整ったのなら、こう……キリッと前を向いて立ち上がるんだ。『負けるもんか、運命のバカヤロー!』とな、そうやって人生は続いていくんだ。誰もがヒーローやスターになれるわけじゃない。しかし何が起きても折れない強さは、身につける必要がある。春海さん、いつもニコニコと『不知火』を切り盛りしているだろ? あれが彼女なりの覚悟の現れなんだろうな」
「おっす、柑奈ちゃん」
「求令武刑事、それと清見刑事も。お二人そろって、今日はどうしたんですか?」
「僕の方は、間尼を一気に追い詰める算段がついたと聞いたのでね、詳しい話を聞きにきたんですよ。こちらで預かって頂いてる芹井の様子もついでに見ておこうと」
「私は……注意喚起にね」
「何かあったんですか?」
「柑奈ちゃんは大丈夫だろうが、『MJ8BY』という新種の薬物を知っているかい? 最近一部の若者の間で流行っているんだ。末端の売人はぼちぼち摘発しているんだが、まだ大元締めにはたどりつけていなくてね」
「海外でも見つかっているだろ、グレちゃん。何かの取引に紛れ込ませてる可能性が高いだろうね」
「ああ、そこら辺はキヨのところにお任せだよ。私のところは、モグラたたきに専念するさ。柑奈ちゃんみたいな娘は、胡乱な輩には近づかないだろうが……ピンクとミントグリーンの二色の錠剤だ。かわいらしい色に惑わされんようにな」
「柑奈ちゃん、青島さんと万田さんも……いつもお越し頂いて、ありがとうございます」
「毎日でも来たいくらいよ」
「青島さん、あなたは毎日来ているでしょうが」
「えへっ、ばれてた?」
「残念ですが、明日からしばらくの間、お店を閉めるんです。せっかくご愛顧頂いているのに、申し訳ないのですけど……」
「ご旅行ですか?」
「え、ええ、まあ……いつ帰ってこられるか、わからないものですから」
「自由気ままな旅かぁ……いいわね」
「我々にとっては残念ですが、ゆっくりと休養なさって下さい」
「……春海さん、旅行から戻ったら、この店を再開するよね?」
私はつい聞いてしまった。この時の春海さんの微笑みが、ほんの少し影を纏っているように感じたから……。
「ありがとうね、柑奈ちゃん。多分……そうできたら……」
衣装部屋では、すでに身支度を終えた青島さんが、鏡の前でポーズの練習をしていた……鼻唄まじりで。
「ふふん、ふんふん……今日って、マスコミも集まるんでしょ? いつカメラを向けられてもいいように、心の準備をしておかなくっちゃ」
「うん、そうだね……」
「あらあら、みかんちゃん、暗い顔をするのはおよしなさい。せっかくワタシが素敵なドレスを用意してあげたんだから」
「それにゴージャスなエスコートもね。青島さん、とても似合ってます」
「うふふ、知ってるわ」
本人が知っていることは、私にもわかっていた。
「今日は大事になりそうな気がする。青島さんは緊張したりはしないの?」
「緊張ぐらい、どうってことないの。いい? みかんちゃん、適度なテンションは推進力になる。でもその反面、張り詰めすぎるとかえって脆くなるものなのよ。だからね、今は楽しい事だけを考えましょう。さてさて、みかんちゃんの今日の服は……これよ!」
ドレスの上半身は、複雑なドレープがきっちりと配置されていて、まるでボディアーマーのようだ。スカート部分は、細く高く見えるように細工されたウエストから、流れるようにふんわりと脚を包んでいる。張りのあるベージュピンクのモアレ地の上に黒いチュールレースを重ねることで、立体感と躍動感が生まれている。視覚のトリックか?
「不思議でしょ? 色は地味目なのに、ウチに秘めたエネルギーも感じられる。いかにも女スパイって感じ! つまりみかんちゃんにお似合いなの!」
さらに青島さんが取り出したのは、数本のチェーンを絡めてロープ状にした、ネックレスだった。大粒のしずく型の宝石が付いている。ピンク色とオレンジ色の中間のような宝石だ。
「あと、靴はコレを履いて。踵にジェット噴射が付いている。あっ……心配しないで、ワタシがテスト済みだから……はい、準備完了!」
青島さんは部屋のドアを開け放った。
「さあ、ショーを始めるわよ」
車から降りると、沿道には沢山の見物人が集まっていた。おそらくは招待されているセレブの入り待ちだろう。だが、何故だか私達が通り過ぎる時、ギャラリーの歓声が一際大きくなった。隣を歩いている派手派手男が愛嬌を振りまいていたのだった。
「遅い!」
別の車で先に到着していた間尼がイライラとのたまった。
「先に行くぞ」と、さっさと建物の中へ入っていってしまった。
「ガミガミガミガミ余裕のないやつねぇ……さっ、ワタシたちも早く中へ入りましょ」
会場に使われている文旦座は、普段は歌舞伎や文楽の上演を中心に行っている劇場だ。今回は、舞台から客席へ向けて突き出ている花道を、そのままランウェイに使用することになっている。場内の照明が徐々に真っ暗になると、ざわついていた客席は、波が引くように静かになった。やがて静けさの中、舞台上が照らされて音楽が流れ始めた。ファションショーの開幕だ。
場内に灯りが点いた。大音量の音楽とめくるめく光線にさらされた頭をクラクラさせながら、私はやっとのことで立ち上がって深呼吸した。最前列の席にいた間尼も席を立っていた。どこかへ向かうようだ。
「一応アイツのボディガードだから、後を追うね」
青島さんに声を掛けて、私は間尼の後を追うため、座席の列をすり抜けた。
「待って、みかんちゃん、ワタシも行くわ。アラ、ごめんなさい、通して……アラ、アラ、ごめんなさいね」
椅子と椅子の間に挟まって、抜け出せないでいる青島さんをそこに残して、私は間尼の後を追った。
バーラウンジには、結構な数の客で溢れかえっていて、お酒と軽食と会話を楽しんでいた。入り口から見て奥の方に間尼がいた。ウェイトレスに何か言っていると思った次の瞬間……ウェイトレスが持っていたトレーが宙を舞った。間尼がいらだちのあまりに払いのけたのだ。二人が立っている辺りの床一面、飲み物でベタベタだ。カラになったグラスが転がっていた。次第に周辺にいた客も、間尼の存在に気付き始めた。私は人々をかき分けるようにして間尼に近づこうと、もがいていた。そんな私よりも先に間尼の元に駆け寄った女性がいた。ここの責任者のようだ。
「お客様、何か不都合な点がございましたか?」
後ろ姿しか見えないその女性の声を、私は知っているような気がした。
「この娘が……注文を間違えた上、僕の服を汚したのだよ」
服が汚れたのはその娘のせいじゃないでしょうに。
「申し訳ございません!」
「すぐにこちらでクリーニングにお出ししますから……」
「ふんっ、クリーニングだと? このスーツはな、イタリア製のオーダーメイドスーツなんだ。こんな……染みが普通のクリーニングで落ちるとでも? 生地を傷めたらどうするんだ? お前たちに弁償ができるか?」
私はコブシを握りしめて前へ進み出ようとした。
「みかんちゃん、待ちなさい」
やっと追いついてきた青島さんに止められた。
「彼はクライアントよ。それを忘れないで」
「相変わらずの傍若無人ぶりですね、間尼さん」
それまではひたすら間尼の怒りに平身低頭でいた責任者の女性が、突然豹変してこう呟いた。
「はぁ? お前、何て言った?」
「何年経っても成長しないんですねと申し上げました。間尼怜斗さん」
「おっお前、誰だ! なぜ僕の名を?」
「まぁ、覚えていないんですか? そりゃあなたにとっては覚える価値など無いのでしょうけれど……『テイラーフジ』の不知 春海です。その節は夫が……お世話になりました」
「『テイラーフジ』? あぁ、あの……時代に取り残された哀れな……潰れかけていたのを僕が救ってやったのだ」
「……救ったって……あの店は上手くいっていたんです。あなたが手を出すまでは。仮に、いつかは店を畳む日が来たとしても、夫や……娘があんな思いをする必要はなかった……」
「あの店が楽に寿命を迎えられるように、手を貸してやっただけだ。あんな一等地にしょぼくれた店なんか……それに僕にとっても必要なことだったからな。今、あの店の跡地に何が建っているか見たかい? なかなかイカすビルが建っているだろ? 僕の会社の一部になったんだ、光栄に思いたまえ」
かすかに音楽が聞こえてきた。休憩時間が終了してショーが再開されたのだ。
「あなたに……あなたに何が解るというの? ウチの夫はね、家族と店を守るのに必死だったのよ。そのためにはなんでもやった。それをあなたは利用したの」
「何がいけないんだい? あの店はいわば……そう、小さな芋虫だ。私という存在の餌になるしか道はなかったんだ。役に立ててよかったな」
「なんて言い草!」
春海さんは、さっと間尼の背後にまわりこんで、彼を羽交い締めにした。間尼の首筋を、冷ややかに銀色に光るアイスピックが狙っていた。
「少しでも動いたら、これが刺さるから……」
「は? お、おい! お前、何をする! そこの女、お前、僕のボディガードだろ? この女をなんとかしろ!」
「春海さん……こんなことはやめて。つらかったよね、苦しかったよね。でも、でもね、これじゃ春海さんが犯罪者になっちゃう」
「止めないで、柑奈ちゃん。これから先のことなんてもう、どうでもいいの。私はとっくに牢獄に囚われていたようなものだから。……夫と娘を亡くした、あの時からずっと……」
「くっ、こんなことをして只で……」
「わかっている。只で済まそうなんて思っていません。あなたの悪事もね。もうあなたのやることを見過ごしにできなくなっただけ。この前、あなた『メゾン・ド・ホワイト』のオープニングにいたでしょ?」
「ああ、それがどうした」
「何故島 摩舟さんはね、うちの夫の友人だった。夫が行方不明になった時も、店の経営が上手くいかなくなったときも、親身になって手助けしてくれた。ご自身だって病気を抱えてたいへんだったのにね……。そんな人の娘に……紅ちゃんに、ウチの娘みたいな思いはさせたくない。二度と……二度と」
「はん? 僕の方こそ摩舟のヤツには幾度も煮え湯を飲まされてきた。学生時代から……いつも僕の目の前を歩いていて……目障りだったんだ。やっとこの世から消えてくれて、この僕が時代の寵児に躍り出るはずだったのに……ブランド復活だと? ふざけるな。いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも、僕の邪魔ばかりして……だから塵も残らないようにしてやろうと思っていたところだよ」
「ウチの娘みたいにあなたの会社で取り込んで使い潰すつもり?」
「お前の娘? わざわざ僕のところで仕事の世話をしてやったのに……あんな事件に巻き込まれるような真似をして。僕の会社に非があるように言うなよ。恩知らずな……」
「何ですって!」
周囲の人々は、私も含めて、凍り付いたようにその場に立ち尽くすしかなかった。折しも、ファッションショーの会場から、バリトン歌手の悲嘆に暮れる歌声がもれ聞こえてきた。娘を奪われた父親の慟哭の唄だ。
「陽は……陽はね、あなたの会社なんか本当は嫌で堪らなかったはず。でも就職活動がなかなか上手くいかなくて……いつも面接までは進むのに、ウチの店のことを知ると必ずお断りされるの。内定までもらっていたのに、手続きの締め切り前日に、向こうから断ってきたことも何度かあったわ。もしかして……あなたが手をまわしていたんじゃないの?」
「ああ、よくわかったな。ぜひともウチで欲しい人材だったからな」
「奴隷として使い潰す為にね。陽はね、あなたの会社でとても惨めな思いをしていた。ひとりでは処理しきれない量の仕事を押しつけられて……あなたの子分の、陽の上司は、それは陰険で横暴で、毎日罵詈雑言の嵐だったそうよ。それでも、店を取り戻したい、ただその一心で……それを、それをよくも……」
春海さんの手に握られていたアイスピックが、銀色の牙のごとく空を切り裂いた。
「やめてくれ! もうやめるんだ、姉さん!」
バーラウンジの入り口から、今やって来たばかりの男が叫んだ。
「びん……ちゃん……?」
春海さんがそちらに気を取られた隙に、私は春海さんからアイスピックを奪い取った。
「姉さん、やめてくれ。この男は俺がなんとかするから」
「芹井く……えっ? 姉さん? しばらく姿を見せないと思っていたら、そういうことか。お前も裏切っていたのか?」
「裏切った……だと? 最初から味方なんかじゃなかった。自分の事にしか興味がないあんたに、わかるわけないか……。姉さん聞いてくれ。俺、この男がやってきた事を何もかも知っている。だからもう、安心して。この男には必ず罰を受けさせてやる」
「ふん、お前に何ができるっていうんだ。この僕を逮捕できるっていうなら、お前も共犯者だぞ。ああ、そうだ、お前にそそのかされたって事にだってできる」
「それは無理です」と、私は会話に割って入った。
「するがやさんの事件にしたって、あなたの差し金だったって事は、ばれている。甘夏島ホテルのバラの件はどう? ライバル企業ってわけじゃないから、うっかり見過ごしちゃいそうだったけど、あれもあなたの仕業だったんでしょ?」
「僕だって、僕の会社だって……誰も見たこともないバラをもう少しで咲かせることができそうだったんだ。あれで世間の賞賛を一身に浴びるようになるはずだったのに……」
「あの時、あなたの会社でバラの色を変える染料を開発していたでしょ? 記者会見を見たわ」
今度は青島さんが会話に割り込んだ。
「あの、あなたの会社にしかない染料が、ムッシュマシューの娘さんのところに届いた脅迫状に付着していたのよね」
「あれは俺が付けておいた。後々必要になるかもしれないからな」
「あら、芹井さん、あなたって先見の明があるのね」
「するがやさん、メゾン・ド・ホワイト、甘夏島……これで3件ね」
「あと、何とかいう映画の小道具もな。ジークワッサーは狙っていたが、他の集団に出し抜かれたよな」
「どう? これでも自分は全然悪くないなんて言うの?」
「これでは、僕の計画が……」
「あなたの計画? それは一体何なの?」
「僕には理想の世界がある。この僕が世界を創造するんだ。手始めに僕が生み出した服だけでこの世界を埋め尽くす。富める者も貧しい者も、一緒のお揃いで暮らせるんだ。みんな平等、誰も傷つくことはない。優しい世界だろ?」
「そんなの退屈だわ! ナンセンス!」と、青島さんが憤った。
「どうしてだい? この僕が最高峰の技術で開発した最先端のファッションを提供しようというのだ。これほどありがたい話はないと思うが……。もう、お前のような……」と間尼は私のことを指さした。
「お前のような粗野な娘が、自分を恥じる必要もなくなる」
「私はね……」
「んまぁ、失礼しちゃうわ。みかんちゃんはね、粗野なんかじゃないの。ただ未熟なだけよ」
「うっ……ゴホン……私はね、他人と違うという理由で自分を恥じたことなんてない。そうやって自分の偏見を、むりやり他者になすりつけて、哀れんでみせるのはやめた方がいいよ」
「あっあああ、お前もか……お前も僕の親切を拒絶するのか。本当にこの世は歪みきっている。だからこの僕が治療してやるのさ、正してやるのさ」
「あなた自身の姿勢を正せば解決するでしょ。背筋をピンってしてみて? 背筋ピンって……」
「青島さん……もういいから……。もうじき警察がここにやって来る。今ここでの話、全部録音させてもらったから」
「ふん、忌々しい!」と、間尼は吐き捨てるように言うと、堂々とバーラウンジから歩み去った。私は、慌てて後を追いかけた。
一階のバーラウンジと建物の入り口部分は小階段で区切られていた。階段を下りると、左手側にエントランス、右手側には、装飾を施された大階段があって、ここを上がって客席に入るようになっている。間尼は外に出ようとしたが、入り口前にパトカーがやって来たのを見て取って踵を返した。そして大階段の脇にあるエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの上向き矢印が点灯したのを見届けてから、私はうんざりとした気持ちで大階段へ向かった。
「まったく……上の階に逃げるのやめてくれないかな。追いかけるの大変なんだから」
客席があるのは2階までで、3階は楽屋と稽古場、4階には、すぐ近くの港を一望できるレストランがある。さらに屋上にはヘリポートが設置されていた。私が向かった大階段は、建物中央部の吹き抜けを螺旋状に貫いていて、四方を透明な壁が囲っていた。私は2階まで階段を駆け上がった。ドレスの裾をどこかに引っかけて破ってしまったようだ。ちょうど良い機会なので、スカートを走りやすい長さに引き裂いて調整した。間尼が客席に舞い戻った可能性はゼロに近い。私はさらに上階を目指すことにした。3階に着くと、楽屋の一つから間尼が飛び出してくるのが見えた。1階にいた時は持っていなかった、黒い小さなバッグを小脇に抱えている。
「いた! 待て!」
間尼はさっさとエレベーターに乗り込んで、ドアが閉まった。間一髪で間に合わなかった私は、エレベーターが上昇したのを確認してから、再び階段へ戻った。3階から4階に上がる途中の踊り場まで来ると、4階から屋上へ向かう人物がチラッと見えた。きっと間尼だ。こうなったら……私が使った奥の手はこれだ。
私は、付けていたネックレスを引きちぎると(簡単にとれるようになっていた)、チェーンについていた宝石を握ったまま、チェーンを上に向かって放り投げた。宝石に格納されていたチェーンはするすると伸びていって、4階の手すりに絡みついた。靴の踵に着いている噴射スイッチをオンにする。チェーンを支点にしてブラ下がってから、一気に透明な壁を螺旋状に駆け上った。あっという間に間尼の背中に追いついた。
「ま、あ、ま、さん!」
ポンと肩を叩いた。間尼はびっくりしてうろたえる余り、持っていた黒いポーチを取り落としそうになった。
「ひぃぃ、お前、いつの間に……」
「びっくりした? ねえ、そのポーチ、何が入っているの?」
「べっ別にたいした物じゃない」
「そんなことはないでしょ? 逃げる途中にわざわざ持ち出すほどの物だもん。私にも見せてよ」
「断る!」と言い捨てると、間尼は屋上のドアを出た。
「間尼さん! 逃げても無駄だよ。あなたはもう終わり」
「そうはならない。じきにヘリが僕を助けに……」
言葉通り、ヘリコプターが一機やってきた。
「遅いじゃないか!」
間尼がヘリから降りてきた人物に詰め寄った。
「What?」
降りてきた人物がヘルメットとサングラスをはずした。
「お前……誰?」
「デ=コポン捜査官!」
「やあ柑奈さん、また会ったね」
「どうしてここへ?」
「宝石の密輸犯を追ってね。ここに来ていると聞いたのだけれど……」
デ=コポン捜査官は間尼をジロジロと観察している。
「本来なら僕の仕事ではないのですが、悪質でしてね。我が国から大量に宝石を持ち出して、代わりに薬物を持ち込んでいるんです。見過ごしにはできません」
「……薬物……ですか……」
「ええ、困ったことに、最近はやっています。ピンクとミントグリーンのツートンカラーのやつです」
心なしか、間尼の背中がギクッとびくついたような気がした。
「今日、ここで取引があるという情報を得たのですが……柑奈さん、ご存知ないですか? マアマレイトという男です」
「ヒッ、ヒィィィ!」
間尼は、持っていた黒ポーチを取り落とすと、回れ右をした。前方に私、背後をデ=コポン捜査官に挟まれて、間尼は絶体絶命のピンチだった。
「彼……は?」
「デ=コポン捜査官、彼が間尼怜斗です! 今、別件で追いかけていた所なんです」
やっと追い詰めたことで、気の緩みがあったのかもしれない。間尼が私達の横をすり抜けて逃げ出したのだ。
「ちょっ……と」
間尼は階下へ通じるドアをガチャガチャやっている。慌てているせいでうまく開けられないようだ。ドアが開く前にしとめなければ……。
「痛かったらゴメンね」
私は、間尼の背後から拾った黒ポーチを投げつけた。少し強すぎたかもしれない。黒ポーチは間尼の後頭部に当たって、前のめりに倒れたこんだ間尼は、顔をドアノブに打ち付けた。
「あっ……本当ゴメン、加減がわからなくて……」
鼻から血を流しながらも、間尼は皮肉を言うのを忘れなかった。
「ヤバリ……ドヤナムズメダ……」
デ=コポン捜査官と一緒に間尼を連行して1階に下りると、警察がいた。
「柑奈ちゃん、お手柄だったね。あとはこちらへ。デ=コポン捜査官! またお会いできてうれしいです。今回もお仕事ですか?」
「はい、このマアマさんに用事があります」
「では、私の用事が終わってからですね」
「清見刑事。これもお渡しします。間尼が3階のとある部屋から持ち出したポーチです」と、間尼が落とした黒ポーチを渡した。
「中を改めます」
中にはピンクとミントグリーンの錠剤が入った小袋がどっさりと入っていた。
「このポーチは、お前のものだな」
「ああ、そう言えるかな。ショーが終わった後、あるものと引き換えに、渡す予定だったんだ。」
「清見刑事、手錠を……」
後ろからやって来た人物が言った。橘警視正だった。
「間尼怜斗、お前を逮捕する」
「橘のおじさん……」
「橘さん! おえらいさんがこんな所まで来てどうすんですか?」
「悪いな、清見くん。ついに間尼を逮捕できると聞いてな。何年も前からこの日を待っていたんだ。私にも出番をおくれよ」
「では……デ=コポン捜査官、一緒に来ますか?」
「モチロンです」
バーラウンジに戻ると、春海さんに寄り添う芹井さんと、青島さん、そして祖父も来ていた。
「みかんちゃん! そのスカート!」
青島さんが悲鳴を上げた。スカートを短くしたのを忘れていた……。
「青島さん……あの……すそが邪魔だったから、短くしたんだ。せっかくの素敵なドレスだったのに……ゴメン」
「……仕方ないわね。直せばまた着られるようになるわ」
春海さんは、両脇を警官につかまれて歩み去る間尼の姿を目で追っていた。長年積み重なった気持ちの澱が、やっと塵となって消えたのだ。すっきりとした安堵の表情に変わっていた。
「橘! お前さんも来とったのか……」
「おやじさん……ついにヤツを追い詰めたと聞いてね。いてもたってもいられなかったんだ。引退までにとっ捕まえたい犯人リストの最上位だったでしょ」
「ああ、俺らの悲願だった。ついにやったな、橘」
二人はがっちりと握手を交わした。
間尼の逮捕から2ヶ月後のある日のこと。
「みかん……さみしくなるよぉ……気をつけて行ってきてね」
「うん、小菜津ちゃん、見送りに来てくれてありがとうね」
「あっちはまだ寒いそうじゃない。風邪ひかないようにね。ワタシがあげたコート、似合ってる」
「青島さん……このコートを青島さんだって思うことにする」
「やだぁ、みかんちゃん、カワイイこと言うじゃない」
「柑奈さん、あちらの……デ=コポン捜査官には飛行機の到着時間を伝えておきましたから、迎えをよこしてくれるそうですよ。到着したらそのままアパートへ案内してくれるそうです。ご近所に配るお菓子は持ちましたね。ちゃんとご挨拶に回るんですよ」
「万田さん、ママみたい……心配しないで。私、ちゃんとやれるから」
「しかし、柑奈が留学したいと言い出した時は結構驚いたぞ。探偵の仕事にここまで熱心になるとはな」
「うん……自分でも意外だった。この仕事をやってみてわかったの。自分にはまだまだ、できないことの方が多くて、ゴールは見えているのに手が届かなくて、そのことがもどかしいって……」
「自身の足りない部分を知ることこそが、成長の階段の一段目なんだ。一段目を克服できたら次の段……と、徐々にステップアップしていくのだぞ」
「今ならわかるよ、じいちゃん。そうやってこの仕事を続けていきたいと思った。事件で知り合った紅ちゃんや……春海さんみたいに、途方に暮れている人、人知れずあがいている人の手助けができれば、と思っている」
「さすが、この私の跡取りだ。フォッフォッフォッ」
『オレンジ航空246便に搭乗のお客様は……』
私が乗る飛行機の手続きが始まったようだ。歩きながらふと窓の外を見ると、一匹の黒いアゲハチョウが植え込みに止まっていた。私はふと、早春の頃庭先で見た黒いアゲハチョウを思い出していた。じっと止まったまま不安げに揺れていたっけ。今目の前にいるアゲハチョウは、私の目の前で艶やかな黒い羽を静かに広げ、遙かな空へと果敢に飛び立っていった。(完)




