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7 ダイヤモンドは袋小路に

「君、しばらくの間、休暇を取りたまえ」

「は? 私、何かやらかしましたか? 確かに先週、ミスがあったのは事実ですが……、その後先方にもちゃんと謝罪しましたし……」

「そういう意味ではなく、有給休暇がだいぶたまっているだろう? 消化してくれないとこちらも困るんだよ」

「ええ……ですが、今、休むのは……」

「柑奈のことなら、退院の日取りも決まったことだ。かまわんよ。その代わりといってはなんだが……」

「へっ?」

「警察主催の犯罪情報セミナーに講師として出席してくれ。橘の奴に頼まれてな」

「講師……ですか? でも、それ、休暇とは言わないんじゃ……」

「ま、まあ、そう言わずに。講師の仕事は一日だけだ。一週間ほど休んでゆっくり温泉にでもつかってこい。予約してあるホテルにはプールも付いているそうだぞ。命の洗濯ができそうだな」

「はぁ……」

「じゃあ、頼んだぞ」

それだけ言うと所長は下を向いて書類仕事に没頭し始めた。

「あの、交通手段は? 自分持ちですか?」

「いやぁ悪い悪い。そんなことはないぞ。Qのところへ行って車を借りてくるといい。なんでも、ピッカピカの改造したての車を貸してくれるそうだ。楽しみだろ?」

「そうですか、改造したての車を……なぜ?」

「試してほしいことがあるそうだ。あっそうそう、言い忘れていた。青島君も一緒だからな」

「えっ? 青島さんも行くんですか? それは、それは……賑やかな旅になりそうですね」

「そうだろ? 良い上司を持ったおかげだな」






 私は万田鈴(まんだりん)。馬弓探偵事務所で情報分析を担当している。所長は時々無茶な指令を出すこともあるが、なんとか凌いできた。だが、最近は一層要求が厳しくなっている。なにか、鬼気迫る勢いで仕事に打ち込んでいるのだ。孫娘の柑奈さんがあんなことになったのだから無理もない。できる限りのサポートをして心労を取り除いてあげるのが、良い上司を持った良い部下である私の勤めだ。

 所長の部屋を出ると、青島さんが通路の向こうから飛んできた。嘘のようだが、本当に地面から浮き上がってフワフワと飛んできたのだ。こんな姿でも彼は私の先輩であり、明日からの旅の相棒だ。

「万田ちゃん! 会いたかったわ! ……っとっとっと、わっ……ぎゃぁぁ」

勢い余って壁に激突しそうになったのを支えた。

「わぉ、ふうう……ありがと」

「その靴はなんなんですか?」

靴の踵に仕掛けがあるようだ。

「ジェット噴射シューズよ。Qに頼まれてね、今実験しているの。思っていたのとは全然違うわ」

「どんなのが良かったんですか?」

「ある時は蝶のように優雅に舞って敵を翻弄し、またある時は鷹のように鋭く突進する姿をイメージしていたの」

「……うっ……」

 巨大な蝶になった青島さんがうっとおしく飛び回る姿を想像した。仮想敵には心底同情申し上げる。

「あら、万田ちゃん、二日酔い? 大丈夫? ワタシ、万田ちゃんと二人で遠出なんて、すっごく楽しみなんだから……」

「私も楽しみにしていますよ」

「温泉付きのホテルなんでしょ?」

「はい、プールもあるそうですね」

「ゆったりとくつろげそうね」

「私はそれどころじゃないですけれどね。講師役を頼まれてしまいましたから」







 Qが貸してくれた車は、どちらかというとクラシカルな車だが、パワーは充分、操作性も抜群で、スパイ映画の主人公のような気分になれる。しかしながら、同乗者が次から次へと繰り出すおしゃべりには、気が遠くなりかけた。運転席の窓を開ける。件のスパイもこの攻撃にはとてもじゃないが耐えられまい。

「この先にショッピングモールがあるから、そこで停まりましょ。そしたら運転代わるわ」

駐車場に車を駐めて、建物の中に入った。

「何か食べる物を買ってきますから、青島さんはここで大人しく待っていて下さい」

「ワタシ、コーヒーじゃなくて炭酸水がいいわ」

「ええ、わかっています。美容にいいのでしょ」

 買い物を済ませて車に乗り込むと、駐車場脇の遊歩道に、母娘がたたずんでいた。母親が小さな娘に諭すように何かを言っているが、娘はイヤイヤをして悲しそうに木の上を見つめている。

「ちょっとワタシ、行ってくる!」

「あ、青島さん!」

止める暇もなく青島さんは車から飛び出して母娘の元に駆けつけた。

「この子が持っていた風船が木にひっかかってしまったんですって」

遅れてやって来た私に、青島さんが説明した。少女は手を伸ばして力一杯ジャンプしている。

「そこのショップで配っている奴ですね」

「はい。もうあきらめなさいって言ってるんですが、どうしても持って帰りたいって聞かなくて……」

「大丈夫よ。ワタシにまかせなさい」と告げると、青島さんはふわりと跳びあがった。昨日オフィスで見た、Q特製シューズの出番だった。着地した時、青島さんの手には風船が握られていた。

「さあ、どうぞ」

「うっわあ、すっごい! お兄さん、ありがとう」

「あらあら、かわいい帽子! うさちゃんが付いているのね?」

「うん、ママが付けてくれたんだ」

「そう、とっても似合ってる!」

先ほどまで半分泣きそうだった少女は、すっかり気分を取り直したらしく、尊敬の眼差しで青島さんを見上げていた。さすが……腐ってもイケメンである。

「……ありがとうございます。あの……どうやったんですか?」

母親が不審に思うのも無理はない。

「え? この靴にね……秘密があるの。ナイショよ」

「そ、そうですか……あの、本当に助かりました」

再び車に乗り込もうとしたところで、さっきの母娘がやってきた。

「あの……これ、よろしければ……お持ちになってください。先ほどのお礼です」とペットボトル飲料を差し出してきた。

「いえ、そんな。かえって悪いです」

「あら、せっかくだから頂戴するわ。ありがとね」

「バイバイ!」

こうして青島さんと私は旅へと戻った。






 ショッピングモールからしばらく車を走らせると、松の並木道が続いて、さらに進むと、左手側に海が見えてきた。

「うわぁ、万田ちゃん、見て見て!」

「ええ、見ています。青島さんはよそ見しないで前を見て」

運転中の青島さんには悪いが、景色を思いっきり堪能した。この辺りに来るのは初めてではない。だが、何度来ても自然の偉大さには圧倒される。遠くどこまでも続く、空と水平線。その狭間を海鳥が悠々と旋回している。地上に留まるしかない我々を挑発するかのように。

 潮の香りを胸いっぱいに吸いたくて、助手席の窓を開けた。ふと前方を見ると、4から5歳くらいの小さな男の子がひとりきりでトコトコ歩いている。この辺りの子供か? 何かを捜して彷徨っているようにも見える。ほどなく、その子は道路を無理矢理横断しようと、私たちの車の前に飛び出しかけた。

「危ない! 坊や、気をつけなさい!」

「大丈夫かい? 怪我はなかったかな?」

路肩に車を停めて、私たちは少年に駆け寄った。

「ねえ、坊や」

「僕はミネオだよ」

「ミネオくんか、いい名前ね。ワタシは青島、こっちのお兄さんはね、万田くんっていうの。ミネオくん、どうやってここまで来たの? 誰かと一緒に来たのかな?」

「僕はね、おじいちゃんちに遊びに行く途中でミライとはぐれちゃって……」

「ミライ? ミライっていうのは、ミネオくんの……」

「僕の犬だよ。いつも一緒なんだ」

「そうなんだ……でもここをひとりで歩くのは危ないな。お兄さんたちにも一緒にミライを探させて」

「うん、いいよ」

3人でミライの名を呼んで探し回ったが、ワンともスンとも返事は返ってこなかった。

「困ったわね」

青島さんはしばらく迷ったあげく、ミネオくんの目線にしゃがみこんだ。

「じゃあミネオくん、こうしましょう。ひとまずお家の人に連絡して、ここまで迎えに来てもらいましょ。それまでワタシたちが一緒にいるから。ミライはその後で探しましょ」

「うん!」

「電話番号はわかるかな?」

ミネオくんはおじいちゃんの家の電話番号を間違えて覚えていたようだった。ミネオくんの両親も、海外出張中だそうで連絡がとれなかった。

「お兄さんたちどこかへ行く途中なんでしょ? 僕は……ひとりでも大丈夫だから」

「そんなわけにはいきません」

「そうよ。ねっミネオくん、君をここに置いていくわけにはいかない」

「……青島さん、こうなったら……」

「そうね。聞いて、私たちと車でおじいちゃんちへ向かうって言うのはどうかな。電話番号を思い出せたらまたかけるの」






 ミネオくんの案内で私たちは再度出発した。

「ミネオくんは、いつもひとりでおじいちゃんちへ行くのかい?」

「うん、だいたいね。僕、道を知っているからひとりでも平気なんだ。それにいつもはミライと一緒だから」

「それは偉いな」

「あ……万田ちゃん、車を停めて!」

車を緊急停止させると、急に道端に座り込んだ人物の方へ近づいた。この近くの学校の生徒であろうか、制服を着た少女だ。

「あなた、どうしたの? 大丈夫?」

「はい……」

「頭は打ってないですね。さあ、ここに座って」

「弟が入院している病院へ行こうとしたんですけど、途中でなんか……頭がクラクラしてきて」

「熱中症かしらね。今日は蒸し暑かったから……そうだわ、ちょっと待っていてね」

青島さんは車に引き返して、先ほどの母娘にもらったペットボトル飲料をクーラーボックスごと持ってきた。氷もたっぷり入っている。

「さあ、これで冷やして……ドリンクを飲むといいわ」

「少し休んだら病院へ送りましょう」

「いいえ、歩けますから」

「そんなのいけないわ。弟さんが入院しているのはどこの病院?」

三宝病院(さんぽうびょういん)です」

「僕知ってるよ。すぐ近くにある大きな病院だよ」

ここで私たちは4人連れになり、近くの病院を目指すことになった。






 ミネオくんの誘導で近くの三宝病院へ彼女を連れていった。弟が入院しているという病棟は、小児病棟だけあって、そこかしこにおもちゃや人形が飾ってある。私たちが待機していた談話室にも……。私が足下に転がっていた犬のぬいぐるみを何気なく拾い上げると、それを見た看護師が近づいてきた。

「元あったところに片付けなさいって言ってあったのに……」

「やけに毛並みのいい犬ですね」

フサフサの長い毛の上をスルスルと指が滑る。

「ああ、その子ね。だいぶ前、10年くらい前だったかしら……その頃に入院していた男の子のものだったの。犬が大好きでね、退院したら飼わせてもらうんだって楽しみにしてたな……」

「その子は?」

「結局退院することはできないまま……ご家族にそのぬいぐるみを返す機会もなくて……」

私はその時、そのぬいぐるみを間違いなく看護師に手渡したと今でも確信している。

 そのうちに、少女の母親が入院中の弟と一緒にやってきた。

「ミネオくんと同じくらいの年齢の子かな? ね、話しかけてみたら?」

そう言って振り返ったが、ミネオくんはふっとどこかへ消えてしまっていた。あとで探しにいかなければ。

少女の母親は沢山の感謝の言葉と温泉まんじゅうを一箱私達にくれた。この辺りの名物だそうだ。

「わたし、ここの店の温泉まんじゅう、一番好きなの」

病院から車に戻るすがら、青島さんがそう言った。

「僕も!」

いつの間にか戻ってきていたミネオくんが同調した。

「ミネオくん、いったいどこへ行ってたんだい?」

「ずっとお兄さんたちのそばにいたよ」

「まあ、いいか。私もその店知っていますよ。『行列のできる店』とか、よくメディアで紹介されていますね」

「そうだ! 帰りにこの店に寄っていきましょうよ。みんなへのお土産に……」

「僕、お腹すいた!」

「もうじきお昼でしたね……どこかへ寄っていきましょうか」

「そうねえ、せっかくだから新鮮な海の幸が食べたいわねぇ」

「おっ、いいですね」

「僕ね、ハンバーグ!!」

「……ハンバーグかぁ……お魚は嫌いなのかな?」

「嫌いじゃないけど、ハンバーグがいい!」

「そうか、あるといいね」

後部座席のミネオくんを見ると、さっきの犬のぬいぐるみを大事そうに抱えている。

「しまった、返してきたつもりなんですがね」

「気に入っているみたいだし、取り上げるのもかわいそうじゃない? あとで病院にお詫びの電話でもしておけばいいと思う」

「しかたありませんね」






 まもなく、ファミリーレストランが見えたのでそこに入ることにした。駐車場に入ると、女性が叫び声を上げるのが聞こえた。

「ご……強盗です! 助けて」

叫んだ女はその場にへたり込んで、犯人が逃げたらしい方向を指さしている。

「青島さん、ここはお願いします」

青島さんが背後で何かを叫んでいるようだが、私は気にせず女の指さす方向へ飛び出した。







「早く……取り戻さないと」

「落ち着いて。犯人の追跡はもうやってる。ねっ、ここに座って。何があったの?」

「赤信号で停車中に男が近づいてきて窓を叩いたんです。何事かと思って窓を開けたら、無理矢理車に乗り込んできて……あっと思った時にはもう助手席に置いてあったアタッシェケースが奪われていたんです。追いかけたんですがそこで突きとばされて……」

「貴重な品が入っていたのね」

「はい、実は私、宝石店の者なんです」

女性が差し出した名刺には『ジュエリーMIYUKI 雪見坂 幸(ゆきみざか みゆき)』と書いてあった。

「お客様から預かっていたジュエリーを届ける途中だったんです」

「それは大変な目に遭ったわね。今、私の後輩が追いかけているからここで待っていてね。私も行ってくる」







 一方、私の方はというと、アタッシェケースを小脇に抱えてフラフラ迷いながら走る男の姿をすぐに捉えた。

「待て!」

海岸線に沿って松並木を抜けると急に目の前が開けた。目線の先は青空、足下は崖っぷち。とにかく、警察が到着するまでは時間稼ぎをしなければ。ジリジリと崖のある方向へ男を追い詰めると男の方から私に話しかけてきた。

「待ってくれ……あんた、警察か?」

この陽気の中、スーツにネクタイ姿では誤解されてもしかたない。

「探偵事務所の者です」

「探偵? あの女に雇われたのか?」

「違います。たまたま近くを通りかかっただけですよ。ですが、見過ごしにできませんね。その荷物、あの女性から奪ったのでしょ?」

「これには事情があるんだ。あの女の物なんて……冗談じゃないよ。あの女はな、俺の叔母から大事な宝石を騙し取ったんだ」

「それが本当だという証拠は?」

「……証拠……証拠か。そうだな、こっちへ来たら教えてやる」

迂闊だった。男に押しのけられて、崖の方へ押しやられてしまった。

「まずい!」

そう思ったときにはもう、足が滑って目前に迫るのは崖の土肌だった。瞬時に、視界に入った頑丈そうな岩にしがみつく。

「だ……誰……か」

腕の力だけでぶらさがり続けるのも骨が折れる。足場を探して慎重に足を動かしてみたものの、更に滑り落ちてしまいそうで諦めた。先ほどの男は、崖にぶら下がっている私を見に来て、

「悪いな、兄ちゃん」とだけ言ってどこかへ行ってしまった。……と思ったら、格闘しているらしき声が聞こえた。格闘の相手は……。

「うわ……何をする……」

「ワタシの後輩をどこへやったの!」

青島さんだった。しばらくすると煙で視界がゼロになった。

「ぶっはっ……ゴホ……ゴホゴホゴホ」

誰かが咳き込みながら、もうもうと立ちこめる煙の中から姿を現わした。

「万田ちゃん、どこ?」

「ここです!」

ほっとしたのもつかの間、緩くなった地盤がポロポロと崩れ出した。私自身の身体の重みでズルズルと滑り落ちそうになる。それに手が痺れてきた。次第に意識まで遠のきそうになった。

「くっ……これまでか……」

そう思って目をつぶった矢先、大きな手が力強く私の手首をつかんだ。

「お待たせ、万田ちゃん」

想像以上の力強さで青島さんが私を引っ張り上げてくれた。青島さんは、ガスマスクをつけてフワフワと地面から浮いている。Qが作ったジェット噴射シューズが再び役に立ったのだ。

「来てくれると思っていましたよ」

助け起こされて辺りを見回すと、先ほどの男がそこでのびていた。

「彼は? 気絶しているだけですよね?」

「安心して、煙幕が多すぎただけよ。催眠効果のある煙だったから」

「アタッシェケースは?」

「ここにあるわ。さっきの彼女に返しに行きましょう。ミネオくんもおじいちゃんちに送り届けなければならないし……」

「うっ……」

手が痺れて、思うように動かせない。

「万田ちゃんジム通いは続けてる?」

「ええ、あなたが紹介してくれたところに、今でも通っていますよ」

「そうね……今度はボルダリングでも始めてみるのはどうかしら」

「え? 今は絶壁の事なんて考えたくないです。勘弁してくださいよ。それはそうと、青島さん、さっきは何を言おうとしていたんですか?」

「んん? ああ、この靴を履いているんだから私が追いかけた方がいいかと思ったの。でも気づいた時にはもう万田ちゃんが飛び出した後だったから」






 駐車場でひったくりにあった女性、雪見坂さんにアタッシェケースを返却した。

「ありがとうございます」

「中身を改めて下さい」

ちらりと見えたアタッシェケースの中には、ビロード張りの箱がいくつか収まっていたが、雪見坂さんはアタッシェケースの中身をザッと一瞥しただけでそそくさと帰り支度を始めた。

「では、先を急ぎますので……」

彼女はとても落ち着かない様子だった。ひったくりに遭ったばかりだ。まだ動揺が収まらないのかもしれない。

「ね、被害届を出しなさいね。ひとりで大丈夫?」

「はい、お世話になりました」

雪見坂さんは自分の車に乗り込んで大急ぎでその場から立ち去った。

「雪見坂さんが言うには、アタッシェケースには顧客から修繕のために預かっていたジュエリーが入っていたそうなの」

車へ戻りながら私たちは情報を共有した。

「彼の方は、自分の叔母が所有していた宝石を彼女が騙し取ったんだと言っていました。あの場から逃げ出すための方便でしょうか……青島さん、気づいたことがあるんです……」

「彼女すごく慌てていたわね」

「はい、最初はあんな目に合ったショックのせいかと思っていたんですが……。それに大事な物だと言っていた割には、鞄の中身を碌に確認しようとしなかったんです」

そこへ先ほどの男がヨロヨロと私たちの方へ近づいてきた。

「おい、アタッシェケースはどうした?」

「あら、目が覚めたのね。彼女に……ジュエリーMIYUKIの雪見坂さんに返したわ」

「……ったく、なんてことをしてくれたんだ。俺がせっかく……」

「なにがあったのか説明してくれる? ワタシたちは探偵事務所の者よ。もしかしたらお役に立てるかも」

「ジュエリーMIYUKIなんてのは嘘っぱちだ。あの女はな……詐欺師なんだ。……あれは、先週のことだった。叔母のところに弁護士を名乗る女から電話があったんだ……俺が…この俺が、会社の金を横領した……と」

「……やったんですか?」

「まさか! その弁護士先生は、示談で済ませることができるから今日中に1000万円よこせと言ってきた。叔母はそんな大金すぐには用意できないと……そうしたら同じくらいの価値のある宝石でもいいと。現金化する当てがこちらにはあるからと……俺はその頃海外出張で、事態に気づいた時にはもう、あの女に宝石が渡っていた。俺は……そんなに叔母に信用がなかったのかな……」

「そうじゃないわ! パニックのあまり判断能力が怪しくなってしまうことはよくあるの。ましてや弁護士を名乗ってきたのなら、その人物を信じてしまうのも無理ないわ。自分を責めるんじゃありません。方法は感心できないけれど……こうして必死で宝石を取り戻そうとしていたじゃない。ワタシがあなたの叔母様だったらきっとすっごくうれしいと思う」

「最初から、叔母様が持つ宝石を奪うことが目的だったように思えますが……叔母様は有名な方なのですか?」

「有名……かどうかは知らんが、昔はよく雑誌に載っていたそうだ。……そうだ、この写真を見てくれ。俺の隣にいるのが今回被害に遭った叔母で、首につけているのが盗られたダイヤのネックレスだ」

「あら、素敵……うん、あなたの言うこと、本当かもね。万田ちゃんはどう思う?」

「今『ジュエリーMIYUKI』について調べてみました。この名刺の住所にはそんな店はないですね。彼の言うことを信じることにしましょう」

「じゃあ、善は急げね。あの女を追跡よ」

「あなたも乗って下さい。……ミネオくん、ごめんね。ご飯はもう少しあとで。お腹空いたらそこの温泉まんじゅうを食べていなさい」

「なあ、あんたたち、名前は?」

「ワタシは青島、青島丈よ。助手席にいるいるのが万田鈴。ふたりとも馬弓探偵事務所の者よ。そしてそっちの子がミネオくん。ん? どうかした?」

「いや……」

男は心のなかで思った。犬のぬいぐるみに名前をつけて呼びかけるなんて、ずいぶん変わった人たちだな……と。ミネオなんて俺の従兄弟の子供と同じ名前だ。それに、このぬいぐるみ、見覚えがあるような……。






「なあ、どうやって女を追うんだ?」

「こんなこともあろうかと、アタッシェケースにGPS装置を仕込んでおきましたから」

「あんたたち、結構いい奴だな」

「あの女を取り逃がしたのは、ワタシたちにも責任があるから……大船に乗ったつもりでワタシたちに任せなさい」

 私たちが走る道路は、海岸線に沿って大きくUの字に湾曲している。道の先は、遠く右手側に見えていて、そこを走る車は私たちの車が進むのと反対の方に向かって走っていることになる。

「ああ……あの車ですね」

右手側の道で先頭を走る赤い車がそれだった。

「逃げられちまうぞ、どうするんだ?」

「ショートカットするわよ」

道路から外れて右へ逸れると、私たちの車は海へ突進した。

「うぉおおい、何をす……水上も走れるのか……」

車はスイスイと滑るように進んだ。周りにいた人々は海上を走る車を見つけて、盛んにはやし立てたり動画を撮影したりして、ちょっとした騒ぎになった。雪見坂幸も私たちに追われているのに気づいたらしく、私たちが上陸する直前にスピードを上げて走り去ってしまった。

「あああ……逃げられた……これからどうするんだ?」

「まだまだ、これからですよ。われわれからは逃げ切れない」と私は、GPSが点滅している画面を指で示した。

「少し先で道がふたまたに分かれています。右へ行くと突き当たりが海で行き止まりになってる。右へ曲がるように誘導しましょう」

道路の右手側は防波堤、左手側は民家が連なっている。雪見坂の車までは3台ほど他の車を抜かさなければならない。早く追いつかないと分岐点を通り過ぎてしまう。

「みんな、つかまって!」

「うん? 今度は何が起こるんだ?」

 我々の乗った車は小さくジャンプすると、防波堤の側面に乗り上げて地面と平行に走り出した。滑り落ちないためには猛スピードで進まねばならない。

「うっ……胃が気持ち悪い……」

「がまんなさい、あと少しよ」

防波堤を爆走して道路の分岐点に着地することができた。車は180度回転して雪見坂の車を通せんぼし、左側に曲がることを阻止した。仕方なく右側の道へ進む雪見坂。無茶な走行をしたせいか、パトカーのサイレンが聞こえる。

「これで袋のネズミね」

雪見坂は車を降りて私たちのほうへやってきた。本性がばれているとも気づかずに……。

「あの……あっ先ほどの……何か? 忘れ物でも?」

「ええ、そのアタッシェケースをね」






「ぜひ、うちの叔母に会っていって下さい。すぐに呼んできますから」

そこはかなり大きな日本家屋の前で、表札には『雷小路(らいこうじ)』と書いてある。

よく手入れされた広い庭が門からチラリと見えた。すぐに屋敷の中から老婦人がやって来た。

「まあ、あなたたちがダイヤを取り戻して下さったのね。本当にありがとうございます。さっ中へ入って下さいな」

「しかし、こんな恰好ですから」

私と青島さんは、それに雷小路さんの甥は先刻の崖っぷちでのバトルで服が汚れたままだった。

「どうぞ遠慮なさらずに。今タオルを持ってこさせますから」

「おばには素直に従った方がいいですよ」と、雷小路さんの甥が言った。

玄関でできるだけ身だしなみを整えると、私たちは美しい庭を見渡せる客間に通された。

「今お茶を出しますね。あなたはこっちへ来なさい。話があります」と、雷小路さんとその甥は部屋を出て行ってしまった。

「あれ? ミネオくんは?」

「あらヤダ、どこへ行ったのかしら。車を降りるときはそばにいたのに……ワタシ車に戻って捜してくる」

「じゃ、私はこの部屋の周りを捜します」

庭にいないかどうかを確かめて、部屋から出て行きかけた時、飾り棚が目に止まった。写真がいくつも飾られている。

「あっちにもいなかったわ……」

ミネオくんが抱えていた犬のぬいぐるみだけを持って青島さんが戻ってきた。

「どうしよう……」

「大きな家ですから、迷子になっているのかもしれません。雷小路さんが戻ってきたら家の中を捜す許可をもらいましょう。青島さん……これを見て下さい」

棚の上の写真のうち、何枚かに同じ少年が写っていた。ミネオくんとそっくりな顔をした少年が……。そのうちの一枚は、少年の入院中らしき写真だった。腕の中に、青島さんが持っているのとそっくりなぬいぐるみを抱えて……。

「ミネオくんとぬいぐるみ、似ていますね」

「それだけじゃないわ……ほら、こっちの写真。今日ミネオくんが着ていたのと同じ服よ。……ねえ、万田ちゃん、もしかして……」

「すっかりお待たせしてしまって……あら、どうかなさいまして?」

「あの、雷小路さん、この写真の少年は?」

「ええ……孫の峰男(みねお)ですよ。犬が大好きでねぇ、将来は犬のお医者さんになるんだなんて言っていましたっけ」

「お孫さん……今は?」

「……峰男はこの写真を撮った一年後に亡くなりました」

冷や汗が吹き出した。青島さんもかすかに震えている。

「あ、あら……つらいことを思い出させてしまったわ……ごめんなさいね」

「いいえ、もう10年以上も前のことですから。確かにつらい経験でしたし、今でも峰男のことを思い出すと悲しくなります。ですが、楽しい思い出もたくさんあるんですよ。ね、おふたりとも、この写真を見て。入院中だっていうのにとてもうれしそうに笑っているでしょ。私の夫が犬のぬいぐるみをあげたら、『ミライ』って名前を付けてかわいがっていたんですよ。ボクの宝物だって言って……。あら、そのぬいぐるみ」

「もしかしてこれ、峰男くんの物かしら……」

「峰男の犬でしたら、ネームプレートが付いていたはずです」

青島さんが持っているぬいぐるみの首輪には、表に『ミライ』、裏側に『ミネオ ライコウジ』と書かれたネームプレートが付いていた。

「どこでこれを? 峰男が亡くなった後、どこかへ行ってしまって」

「三宝病院の小児病棟です。持ってくるつもりはなかったんですが、なぜかついてきてしまったようで……」

峰男くんの幽霊かもしれない子と一緒だったことは黙っておこう。

「……峰男が……峰男が、お二人をここへ連れて来たのかもしれませんね」

老婦人は、犬のぬいぐるみを愛おしそうにかき抱いた。







「さて、そろそろお暇しましょうか」

「すっかり引き留めてしまって……あの、こちらをお持ち下さい」

雷小路さんはビロード貼りの小箱を私たちに渡そうとした。

「今日のお礼として、是非持って行っていただきたいの」

青島さんが小箱を開けると、巨大な薄ピンク色の透明の石がついた指輪が入っていた。太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。

「これって……ピンクダイヤモンドよね」

「そんなつもりで助けたわけではないですよ。こんな高価な物はいただけません。それに大事な物なんでしょう?」

「これは、私の元に甥とダイヤのネックレスを……、それに峰男の宝物を送り届けて下さったお礼です。お二人は探偵事務所の方だそうですね。今日の報酬ということにして下さいな」

「ですが……」

「正直申しますと管理に困っていましたの。老い先短い私ですが、譲り渡したい女性の身内もいませんし、かといって金庫に入れっぱなしというのも、宝石がかわいそうですからね」

「わかるわぁ、ワタシ。こういう石はね、物語を背負っているの。宝石を加工した人、プレゼントした人、された人……様々な人の思いがさらにこの宝石を磨き上げたの。多くの人の手を渡れば渡るほど、こめられた思いは増幅してさらに輝きを増すのよ」

「私が言いたかったのもそれですよ。あなた、私と気が合うわね。うふふ……」

「奥様にそう言って頂けてワタシうれしいわ、ウフフフフ」

「ねっおわかりでしょう? 仕舞っておくくらいなら誰かの手に渡ってほしいのですよ」

「……では、ありがたく頂戴いたします」

「またいらして下さいね」







 静かな水面から突如滑るように現れたその肢体は、軽く日焼けしていた。水の滴る柔らかそうな髪の毛、ふっくらと肉付きのよい上半身、見事に引き締まった腹部、しなやかに伸びた脚。やがて全体像が水中から露わになると、周囲がざわめいた。特に女性たちはうっとりと眺めている。……青島さんだった。昨日の疲れを癒やすため、今日は一日ホテルのプールで過ごすことにした。人気者の青島さんをよそに、私はビーチベッドに横たわって本を読むことにした。

「万田さん! ここにいたんですか」

清見刑事がやって来た。

「昨日はお手柄だったそうですね。こちらの県警の方に話しを聞きましたよ。昨日捕まった女、特殊詐欺の常習犯だったようですよ」

「どうりで、嘘をつくのも手慣れている感じでした。名刺まで持っていて、危うく私たちも騙されるところでした」

「アタッシェケースの中には高価な宝石類がジャラジャラ入っていたそうでね、高飛びでもするところだったんでしょうかね。手続きが済んだらそれぞれ持ち主に返されるそうですよ。そういえば青島さんはどこです?」

プールの、ひときわ騒がしい一角を指さした。

「万田ちゃん! 清見ちゃん! 楽しんでる?」

はしゃいで手を振る青島さんへ私は気だるく手を振り返した。

「おふたりとも、お疲れでしょう。今日は一日じっくりと英気を養って、明日の講師のお仕事、しっかりお願いしますね」

まだ肝心の仕事が残っていた。


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