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4 この瞬間こそがプライムタイム

 太陽の光で、庭の植物たちが一斉に目を覚ます。心躍る一日の始まりだ。ふくふくと柔らかい土には、かわいらしい若芽が整列している。庭の別の場所では、我先にと育った大輪の花たちが、水滴を纏ってより一層元気よく咲き誇っている。 室内を歩きまわっていた足音がふいに立ち止まった。

「ちづちゃん?どうしたのこんな時間から……。ええ……ええ、わかった、私がすぐにそっちへ行くから。鍵とカーテンをしっかり閉めて、おとなしく待ってなさい」

すがすがしい光に満ち溢れた光景に、少しだけ影が差した。






 私がオフィスの応接室に入ると、万田さんと客人がふたりいた。

「柑奈ちゃん、この前ぶりね」

この人は紅面多院 花音、ある事件で知り合った女優さんだけど、探偵の仕事にものすごく興味があるようだ。

「こちら、有珠田 千鶴(ありすだ ちづる)。私の事務所の後輩なの」

「有珠田さん……存じ上げてます。『凍てつく瞳のフロイライン』、確か今度の土曜日公開なんですよね。私、もうすっごく楽しみで、絶対見にいこうねって友達と約束してるんですよ」

「あっ……ありがとうございます……」

テーブルの上のグラスに付いた水滴をぼんやりと見つめていた千鶴さんは、力なく微笑んだ。

「ごめんなさいね。彼女、今トラブルにまきこまれていて」

「だからここにいらしたんですよね。詳しく話してください」






『ここだけが唯一のオアシスだった……あの日までは。賢明な抵抗も虚しく、こぼれ落ちていく生命。瀕死のボスが残した敵の正体とは……。この夏再び、血の祝祭が幕を上げる』

「はい、今ご覧いただいたのは、皆志 玄須(みなし とらす)監督の新作映画『凍てつく瞳のフロイライン』の予告編です。皆さんもテレビCMなどで目にすることが多かったと思いますが……、なんと!昨日、その映画の完成披露試写会の終了後、主演グラッドアイス役の女優有珠田 千鶴さんが失踪したのです。いったいこれはどういうことなんでしょうねえ、山本さん」

「怪しからんですな。この映画を楽しみにしていた人たちの気持ちを考えたのでしょうか。さっさと関係者が会見を開いて、われわれに事情を説明するべきです」

「この映画は舞台『薄氷を踏むフロイライン』の続編となっているんですが、『薄氷を踏むフロイライン』といえば山本さん、数年おきにリバイバル上演される、お芝居ファンにはお馴染みの作品なんですよ。初代の主演女優は(だいだい) かほりさん。その後も当時の人気女優たちが代々主演を務めてきました。今年は、初演舞台から50周年の記念の年ということで、映画が公開されたわけですが……その映画の舞台挨拶の席から主演女優が失踪という、大変スキャンダラスな事件が起きてしまいました。一体全体、有珠田さんに何があったんでしょう。CMの後、本日のゲスト、フルーツコーディネーターの森山さんと一緒に詳しく掘り下げていきたいと思います」







 つけっぱなしになっていたテレビを消すと、万田さんは私たちに向けて言った。

「有珠田さんには、しばらくこの地下室で暮らしてもらいます。あちらに個室がありますから、そこで寝泊まりして下さい」

万田さんが案内する後を、千鶴さん、私、そしてここまで付き添ってきた花音さんがぞろぞろとついて歩いた。個室といっても、深夜残業したスタッフが泊まれるように、ベッドと小さなテーブルとテレビが置いてあるだけの簡素な部屋だった。

「この地下では携帯電話は使用できません。どちらにしろ、しばらくは外部との連絡は絶っていただいた方が賢明でしょう。ここにいることを第三者に知られないように」

「匿っていただけるだけでも……ありがたいです」

個室の中をグルっと観察してから(狭い部屋なので一瞬で済んだ)千鶴さんが言った。

「ほらっ、隣にキッチンもあるんですよ。私もよくここで夜食を作ります!」

少しでも励まそうと、私は余計な情報を伝えたところ、万田さんの眼鏡が冷酷に光った。

「あなたの家はすぐそこでしょうに、柑奈さん。どうしても必要な時以外は、ここに泊まらないようにと、言ってありましたよね」

「えっ……そ、そうですね……つい……面倒で……」

「それでは、他の社員に示しが付きませんよ」

「これからは気を付けます、はい」

「……元気出して、ちづちゃん。私もできるだけここに来るようにするから。少しの間の辛抱よ。きっとそれほどかからずに解決する。今だってあなたを追い回している人物の正体をここの皆さんが調べてくれている」

「花音さん……でも……私、監督とか、他の皆さんに申し訳なくて……社長にも何も言ってこなかったし」

「何もかも済んだら事情を説明しましょう。……ねぇ、万田さん、こんな地下室に一日中いたんじゃ気が滅入ってしまうわ。何とかならないの?」

「そうですね……そこのドアから出て、地下駐車場のエレベーターで上がると、オフィスの中庭に出ることができます。そこなら外部の者の目に触れる心配もないでしょう。社員には箝口令を敷いておきましょう。柑奈さん、あとで案内して差し上げて下さい」







 男は時間を確認した。30分ほど前から何度も時計をにらみつけているものの、待ち合わせの相手は一向に現れない。こみあげてくる怒りを鎮めようと、窓の近くに寄って下を見る。眼下にはミニチュアのような街の風景が広がっていた。車や人間が慌ただしく行きかう様は、蟻の巣のようだ。こんな部屋で日がな一日過ごしていたのでは、世界を手中に収めたような気になってしまうのも無理はないだろう……あの男のように。もう少しで沸き起こりそうになった同情心を押し殺して、あの男の部下になった本当の目的を思い出した。どこで何をしていても忘れることのない痛み。手にしていたグラスの中身を一気にあおった。

 エレベーターが停止する音がした。

「先に始めていましたよ。間尼社長」

「あ、ああ。……どうだ。順調かい?」

「……前も言いましたが社長、今回の件、計画通りに進めるのは厳しいでしょうね」

「どうした、君らしくもない。ヤケに弱気じゃないか」

「不確定要素が多すぎるんですよ。その上、何よりも障害になっているのはあの女の存在です。あんな話を立ち聞きされるなんて……どうして大事な計画を人目のあるところで話そうとしたのか……」

「ん? 何か?」

「……いえ、何も」

「あの女……女優とか言ってたな。こちらに引き込むことはできないのか」

「無理でしょうね」

「即答するねぇ」

「こちらが追跡していることを悟らせて怯えさせろとおっしゃったのは社長ですよ。脅してくる者の要求を快く聞き入れる人間なんて、どれだけいると思っているんです?」

本当に他人の気持ちに無頓着なお人だ。

「……芹井くん、ここのところ失態続きではないかね。湊博物館の件といい、何故島邸の件といい。どちらも目的のブツを手に入れられなかったよな」

「湊博物館の件は、ただ単にツイていなかっただけです。まさかイミテーションが展示されているなんて誰も思わないでしょう」

「甘夏島の件はどうだ? 雇ったヤツは逮捕されてしまったじゃないか」

「新種のバラの発表は遅らせることができました。これであなたの会社で開発している染色バラの方が、先に注目を浴びますよ。それに……彼なら余計なことはしゃべりませんよ」

軍資金をケチるとそれなりのコマしか雇えない。この男に言っても理解できないだろう。……とは言え、立て続けに計画に邪魔が入っているのは気になるところだ。誰かに目をつけられた? ……まさかな。不注意で気まぐれな上司がいるおかげで、俺は必要以上に用心深くなっているのかもしれない。

「いいかい、僕の会社の商品は世間に広く浸透しつつある。今は衣類、宝飾品が主だが、そのうち他の分野にも手を広げるつもりだ。ゆくゆくは世界中を僕の会社の商品で埋め尽くしたい。そのためには、僕の目の前に立ちはだかる邪魔者は排除するしかないのだよ」

「普通に競争して蹴落とせばよいのでは……」

「それでは僕が勝てないかもしれないじゃないか! この僕が作ったもの以外はこの世に存在させてはならないのだよ。僕が、この僕が今あるものよりもっといいものを与えてやるのだから、人々は僕に感謝するべきなのだ」

この横暴で尊大な男はいつか自滅するかもしれない。しかし……それまで待つのか? 胸の奥の迷いを振り切るがごとく、芹井は小さく首を振った。今しばらくはこの男に付き従うしかない。もう少し……もう少しの辛抱だ。

「いいかい、僕の帝国に無能な味方は必要ない。芹井くん、君、今度失敗したらそれ相応の処遇をさせてもらうよ」

「はっ、わかっております」

「まずあの女優を黙らせるんだ」

 建物を出ると、ジットリと暑苦しい空気がまとわりついてきた。会うたびに不愉快になる男だが、目的達成のためには致し方ない。あの男にはもっと悪党として活躍してもらわねば。

携帯の呼び出し音が鳴った。

「ああ、姉さん、こっちも元気だ。……ああ、悪いな……今年中には会いに行くよ。墓参りもしたいからな。ああ、わかっている」






 千鶴さんを伴ってオフィスの中庭までやって来た。うちの探偵事務所のレイアウトをざっと説明すると……祖父と私が暮らしている自宅と、千鶴さんを保護しているうちの会社の作戦室は、地下道でつながっている。地下作戦室の出口のひとつは地下駐車場につながっていて、その奥まったところにあるエレベーターに乗ると地上5階建ての探偵事務所のオフィスビルに出ることができる。オフィスビルと向かい合うようにしてQの作業場があり、二つの建物に挟まれた空間が、事務所の中庭として使用されている。周囲から隔絶された空間ながら、太陽の光と風を肌で感じることができる憩いの場所だ。

「ここなら、外部の人は簡単に入り込めませんから、安心して過ごせると思いますよ。しばらくして落ち着いたら、思いだせる限りでかまいませんから、最初の出来事から教えてください」

「……そう言われても……気づいたら底なしの沼にはまっていて、ジワジワと沈んでいっているみたいな気持ちなの」

「……気持ちはお察しします。でも……あとになってから気づくことってあるじゃないですか。あの時のあれはそういうことだったんだ……と、ストンって腑におちる、そんな状態です。からまった糸でも、他の人の手を借りると、あっけないほど簡単にほどけることがあります。そのお手伝いができればって……」

「うん……思い出してみる……んふふ……」

「どうかしました?」

「柑奈ちゃんって私よりも年下なのに、しっかりしてるね……やっぱり子供のうちから探偵になりたかったの?」

「祖父が探偵事務所を開いた後は、家族みんなが関わっていましたから、自分もこの仕事をやるんだろうなと思っていました」

「辛いことはない? 犯人に監禁されたことがあるんでしょ?」

「うっ……花音さんから聞いたんですね。あの時はすぐに助けられましたから……。大変な面もありますけれど、それでも、やり遂げるたびにこの仕事をやっていてよかったって実感します。……そういう千鶴さんこそ高校在学中から女優のお仕事をなさっていたんですよね。女優を目指すきっかけとかあったんですか?」

「う……ん、きっかけといえるのは、あれかな。私ね、小学校の夏休みの間は、いつも祖父の家に預けられていたんだ。その祖父が古い映画のファンでね、よく鑑賞会に付き合わされたものよ。中でも女優の(だいだい)かほりの大ファンでね、出演作品のビデオはだいたい揃っていたんだ。ほとんどがモノクロ映画だったけど、小学生女子の目にはまぶしく見えたな。……なんていうか……白黒なのに色鮮やかに見えるっていう感覚……わかる?」

「……想像できます」

「衣装やセットの色をイメージして絵に描いてみたこともあった。特に悪女役をやっていた作品が気に入ってね、ひと夏中口調をまねてしゃべっていたこともあったくらい」

「それってもう演技の練習をしていたようなもんですね」

「うん……まあ、原点といえるかもね」

「橙かほりといえば……確か……『薄氷を踏むフロイライン』初演舞台の主演じゃなかったですか?」

「そうそう、よく知ってたね。奇しくも同じ役をやることになって……祖父には一番に報告した。今回のお仕事をもらえて、私ほんっとにうれしかったんだ。だから……こんな事になってなおさら悔しくて……劇中に出てくる『古の魔導書』が現実にここにあったら、犯人たちに使ってやりたいくらい」

「『古の魔導書』?」

「劇中で使われる小道具。私が演じた女は先祖代々魔導士の家系でね、地下深くに封印されていた魔導書を見つけるの」

「それが『古の魔導書』……ですか。とても危険そうな代物ですね」

「そのとおり! それでね、使用するには類まれなる才能が必要で……って、あとは映画を見てのお楽しみ。でね、その小道具の『古の魔導書』なんだけどね、舞台初演からずっと同じものを使っていたの。さすがに近年では、演技の時に使用するのはコピー品で、オリジナルは大事に保管されているんだけどね。私、この役に決まった時にオリジナルの『古の魔導書』を見せてもらったけど、私と同じ役をやった女優達が、千秋楽にメッセージを書き込んでいっているの。もちろん、いちばん最初のページは橙かほり。私自身も映画の撮影最終日に末席を汚させてもらった。一種の儀式みたいになってて、厳粛な気持ちになったな」






 千鶴さんが地下室へ戻ったので、Qの作業所へ足を伸ばした。

「Q、いる?」

「はいよ!」

たくさん置いてある車体のうちの一つから人間の足がニョキッとつきだした。その足は、Qがいつも履いている靴を履いていた。

「これね、先週、ツルの部分が壊れちゃったんだ。直せる?」

最初の任務でQからもらった『プライベートアイNo.3』を差し出した。

「こりゃまた荒っぽいまねをしたもんだねぇ。まあ、嬢ちゃんの仕事じゃ致し方ない……か」

「犯人ともみ合っているうちに落ちたのを踏まれちゃって……」

「私のところで預かっとくよ。明日の朝になったら、取りにおいで……。ぼうずたち! 今朝頼んだ作業は済ませたんだろうね?」

Qのすぐ背後をソロソロとすり抜けようとしていた3人の少年に向かって、Qが突然話しかけた。顔はこちらを向いたままで……。

「ぅひっ!」

「はっはい!」

「ちぇっ……背中に目がついてんのかよ……」

「は? 何か言ったかい?」

「ひぇ……何も……」

「あんたたち……どこかで……」

3人の少年の顔には見覚えがあった。

「彼らは夏休み一杯私のところで預かることになったんだよ。橘のボンに頼まれてな。何とかいうファッションデザイナーの家で肝試しごっこをしたそうだ」

「やっぱり……あの時の……」

「そうだったね、嬢ちゃんが捕まえたんだね。思うところはあるだろうが、よろしく頼むよ。左から順番にゆう、そう、たく だ」

「よろしくね」

「うっす!」

「毎日ここに通うのは大変でしょ……」

「3人は私のウチに下宿させているんだ。家周りの雑用もやってもらえて助かっとるよ」

おイタをした懲罰とはいえ、かなりハードモードな毎日だろう。

 Qの家は、ここから歩いて行ける距離の、広い敷地に建っている。自身の発明品を商品化することで、かなり稼いでいるようだ。先日の、何故島邸で活躍したお掃除ロボット『平ちゃん』も、一般家庭用に改造がほどこされ、賊の平定と床の浄化を目的とした、セキュリティロボット『HeyHey平ちゃん』として生まれ変わり、ほどほどの人気者になっている。だから、夏の間男子高校生3人を自宅に下宿させることなど造作もないというわけ。

 3人は黙々と部品を組み立てている。

「何が始まるの?」

「これから新型ホースノズルの試し撃ちをしようと思ってな。嬢ちゃんも見物していくかい?」

「もちろん! 何に使う物なの?」

「材料がそこにあるから物を作る。目的は後から決まるもんさ」

ノズルの仕組みを私にも見せてくれた。大小2枚の円形のプレートに複数の穴がリング状に開いている。このプレートが回転することで、加速のついた水の弾丸が飛び出すのだ。

「対象物を破壊しないよう、威力は調整してある。だが、しつこくこびりつく汚れを落とす程度には、充分役に立つね……さぁ、ぼうずたち、始めるよ。ゴーグル装着!」

物々しい合図とともに少年たちはスタンバイした。

「レディ? ファイア!」

空に向けて設置されたノズルの先から水が勢いよく放たれた。Qの新作が成功したことを祝福するかのように虹ができた。遥か高くまで続く青空をバックにして……





<半年前 とあるバーで>

「千鶴さん、いらっしゃい。久しぶりですね」

「やっと映画の撮影が終わったの、もうくたくた」

「お疲れ様。今日は何になさいます?」

「……あっと、……知り合い見つけたから、またあとでね」

『知り合い』というのは、古物商の澄右 仁(すむう じん)だ。

「ショービジネス関連のお宝を専門に扱っています」と本人は言っているが、正直なところ何を生業としているのかよくわからない人物だ。だが、あちこちの集まりにちゃっかりと参加している抜け目のなさは、なかなか侮れない。

「今晩は。澄右さん」

「おやっ、有珠田さん。今晩は。いやいやいやぁ今日もお美しい……」

「そういう澄右さんこそ……景気がよさそうですね」

「おっわかりますか?」

「ええ、お肌もツヤツヤで……うらやましいなぁ」

「いやいやこりゃ参りましたないやいやいや……ところで有珠田さん、何か耳よりな儲け話はありませんか?」

「私なんかが知っているわけないですよ。他をあたってください」

千鶴は、入口から一番遠いところにある薄いカーテンで仕切られたVIP席に澄右が入っていくのを見送った。席に戻っておしゃべりとカクテルを楽しんだ後、化粧室に立った。他のルートもあったのだが、あえてVIP席の傍を通ることにした。立ち聞きは趣味ではない……が、偶然聞こえてしまったのなら仕方ないでしょ。

 VIP席まであと少しというところで薄いカーテンがフワリと揺れて澄右が出てきた。

「いやいやいや、お戯れを……私のようなしがない古物商に、そんな分不相応な……。それに私とあなた方では流儀が違うようですし。おっと、次の約束に遅れてしまう。これで失礼しますよ」

そう言い捨てると、澄右は脇目もふらず店から出て行った。

 カーテンが揺れた隙間から中の様子がチラリと見えた。中には男がふたりいた。その時、千鶴はうっかり手を滑らせて、持っていたバッグを取り落としてしまった。バッグの口が半分開いていて中身が床にばらまかれたのは、ただの不作為だ。その場にかがみこんで散らばった物をできるだけゆっくりと拾い集める。そうしている間にカーテン内のふたりの会話が漏れ聞こえてきた。

ーーー

「芹井くん、何としてでも例の物を手に入れるんだ。そして曰く付きの芝居の小道具と偽って、二束三文の別物を高値で売りつけるんだ。本物かどうかなんて、やつらにわかるはずがないんだからな。本物は僕がありがたくいただく。価値のわかる者の手元に置くのがふさわしいというものだ」

「ですが社長、かなり難しい状況ですよ、今回は」

「この写真を君も見たまえ。芝居の小道具とはいえ、美しい装丁とそれに加えて、歴代の主演女優のメッセージ入りというプレミアも付いている。これはぜひとも僕のコレクションに加えなければ。いいかい? 芹井くん、手段は問わない。必ず『古の魔導書』を手に入れるんだ」

「澄右さんのことはどうするおつもりで?」

「元々『古の魔導書』の在処を探るためだけに近づいたんだ。あの様子じゃ違法な手段にはかかわりたくないようだからな。愚かな男だ……こちらの身元も知られていない、このまま放置しても害はないだろう」

「……」

「何だね?」

「いえっ」

「そんなことより、次の仕事の話をしよう、ジーク・ワッサーの作品だ」

「その名前、どこかで聞いたような……ああ、タンジェリンナ王国で盗まれたとか……」

「その作品だよ。そしてここ日本にも彼の作品があるとか……。僕の寝室に飾りたいな。いいかい、芹井くん。傑作といわれる芸術作品は、おしなべて美しい女性みたいなものだ。あぁ2枚並べて飾られたところを想像してみたまえ。毎朝、世界中の誰よりも先にこの僕が、僕だけが、至高の美を目にする栄誉に浴することを許されるのだよ」

「……男の寝起きなんか特に興味ないな……」

「えっ?」

「シッ! 静かに……」

ーーー

「有珠田さん。いらしてたんですか?」

顔なじみの店員に話しかけられた。中にいる男のうちのひとりがカーテンの隙間からこちらを静かに監視しているのを感じた。……撤退の時だ。






「私、さっきニュースを見て、その時の会話を思い出したんです」

「このニュースですね」

万田さんが、検索したニュース動画をそこに集まったメンバーに見せてくれた。

『タンジェリンナ王国の個人宅から盗まれた、この“残照”は、画家ジーク・ワッサー最後の作品と言われています。タンジェリンナ王室付文化財捜査部……通称T.C.P.Iは、海外にも範囲を広げて捜索中とのことです』

「あの時、ふたりの男は画家のジーク・ワッサーの作品の話をしていたって思い出したんです。それで芋づる式に記憶をたどってみると、その話題の前は古物商の澄右さんと『古の魔導書』のことで揉めていたってことにも気づいたんです」

「『古の魔導書』ですか? それは何です?」

「『凍てつく瞳のフロイライン』の作中に登場する小道具のことです。今は確かうちの事務所の社長が保管しているはずです」

「その『古の魔導書』というのは、価値のあるものなんですか?」

「ファンにとっては……いくら積んでも構わないという人物がいてもおかしくないかも……」

「つまり、犯罪の相談をしていたのを立ち聞きしてしまったのかもしれないということですね」

「立ち聞きなんて……偶然そばを通ったから……つい……」

「危ない連中には近づくなって、私日頃から口を酸っぱくして言ってたわよね」

「でも……花音さん、花音さんだってきっと同じことをしたと思う。カーテンを閉めて密談していたんだもの」

「しかもご自身の出演作に関連する話題で……」と万田さんがとりなした。

「推理小説みたいでしょ」

「……現実はそう簡単ではないですよ。その二人の人相は? 覚えていますか?」

「顔はよく見えませんでしたけれど……確か、ひとりは『芹井』と呼ばれていました。そして芹井という人は、もうひとりの男のことを『社長』と……それに、今思うとその頃からウチのマンションの前で男が見張っているようになったんです……」

「その男が芹井か社長の可能性は?」

「わからないです……。マンションの前にいた男、最初は行き過ぎたファンの方かなと思ったくらいで……でも話しかけてくるわけでもなく、何かを渡してくるわけでもなく……ただただ自分の姿を私に見せて悦にいっているようにも見えました」

「うっわぁ、それってかなり不気味……」

「わかってくれる? 柑奈ちゃん。私もう怖くて……」

「姿をちらつかせるだけでも、暴力とは別の類の脅しになることもありますから。……絶え間ない恐怖は人の心を疲弊させます。大変でしたでしょう。……では、今後の方針ですが……バーにいた男たちよりも先に『古の魔導書』をこちらで引き取りましょう」

「あの……万田さん、千鶴さんのところの社長に事情を話して、こちらで保管させてもらうんですよね?」

「いいえ、違います。この件にはこれ以上誰かを巻き込まないほうがいいでしょう。有珠田さんの失踪は、個人的な事情であって、犯人たちの行動とは全く関係ないと思わせておく必要があります。そのためにも、有珠田さんと『古の魔導書』の行方は知られない方がいいでしょう。たとえ所属事務所の社長であってもです。ですから、柑奈さん、あなたが『古の魔導書』をこっそりといただいてくるんです。そして『古の魔導書』が盗まれたことを、社長さんに大々的に発表してもらいましょう」

「そういうことなら……」

花音さんが身を乗り出した。

「私にひと肌脱がせて」






 花音さんと千鶴さんが所属する『パンプルムース・エンターテインメント』は、3階建てのビルを所有している。1階はロビーフロアで、接客用の空間や記者会見に使用できるスペースまでもがある。2階と3階がワークスペースで、社長室は3階にある。今日は休日だが、万が一にも誰かが出社したりしないように、社員全員でどこかのリゾート地へ研修旅行に旅立ってもらった。花音さんが社長に掛け合ってくれたのだ。チームワークがどうとか、ナントカ・アクションとか、ナントカの能力を向上させるのだそうだ。おかげで誰に見とがめられることもなく、社長室にたどり着けた。

 社長室に入ってすぐ、一番目立つ場所に『古の魔導書』が飾ってあった。実際よりも長い年月使い込んだように加工された、煤けた色の皮表紙。薄っすらと消えかけている魔法の紋章。古いものには違いないので、手袋をはめた手で慎重に持ち上げて、用意してきた特製ケースに収納した。あっけないほど簡単に用事は済んだ。さっさと退散しよう。

 2階まで階段で降りてちょっとした用事を済ましてから振り返るとエレベーターが止まる音がした。慌てて物陰に隠れた。その男の顔には見覚えがあった。忘れはしない。湊博物館と甘夏島で会ったあの男だ。男は、携帯で仲間に指示を出している。

「そのままロビーで待機していてくれ。私ひとりのほうがいいだろう」

私が降りてきた階段は、この2階でいったん途切れる。1階に降りるには、男の前を通ってエレベーターに乗り込むか、男の仲間がいるロビーのド真ん中の階段をシズシズと降りるしかない。どちらを選んでも見つかってしまうということだ。

 今日の自分の身なりを改めて確認した。モスグリ-ンのブルゾンとワークパンツ。今まで青島さんが作ってくれた服の中で一番動きやすい恰好だ。それなのに、今ほど着ている物が重く感じられたことはない。カラッポのポケットがついているだけなのに……だ。キャップを目深にかぶり直して落ち着きを取り戻そうとした。今は上の階に戻るしかない。社長室のある3階の、さらに上の階に向かって階段を上がると、屋上に出るドアがあった。時間稼ぎのためのネタは仕込んでおいた。だが、早めに脱出したほうがいいだろう。

「たいした荷物じゃないから持っておいき」とQから渡された装備を背中から外した。

屋上に設置されたフェンスの強度を確かめてから、降下用のロープのためのフックを固定した。このフックは、協力な磁石でフェンスに噛みつくので、人間ひとりぶらさがったところでビクともしないはず。フックにはロープが、さらにその先端には、ロープが収納されているケースが付いている。このケースを地上に向かって放り投げた。ケース自身の落下の重みでスルスルと収納されているロープが伸びていった。前もって身に着けていたハーネスとロープを接続し、意を決してフェンスの外へ飛び降りた。順調に壁を伝って降りることができたのは、ほんの束の間だった。3階の社長室の窓まで降りたところで、心臓が縮み上がりそうになった。部屋の中に、先ほどの男がいたのだ。私の姿を見つけると、駆け寄ってきた。そして、窓の鍵と悪戦苦闘している。しばらくして鍵との戦いに敗れたのか、急に何かを思い直したかのように、私に向かって去れと手を振って合図した。疑問は残るものの無事に地上に降り立つことができた。重石にしていたケースについているボタンを操作すると、フックの磁力が解除されるとともにロープが自動的に巻き戻っていく。回収終了。





 柑奈が地上に向かったあと、男は社長室の中を荒らし始めた。ファイルキャビネットの中身を床にぶちまけ、目につくかぎりの引き出しという引き出しをすべて開け放った。侵入者が来たことをこの部屋の主が知れば騒ぎになるだろう。できるだけ大騒動になってほしい。男は笑いをかみ殺した。『古の魔導書』が盗まれたことを世間が知れば、社長の詐欺計画は頓挫する。盗まれた物でもいいから買いたいなどという人物は少ないはずだ。その一方で、誰とも知らぬ先ほどの女は困った立場になるだろう。うちの社長の邪魔をしてくるからといって、俺の思惑どおりに動いてくれるとは限らないからな。敵の敵は味方……になるほど世間は甘くない、それはお互い様だ……。だが今回は利用させてもらうさ。2階に戻ると郵便の発送用ボックスが置いてあることに気づいた。休日明けすぐに発送できるように、郵便物が山になっている。山の一番上に本が一冊入りそうな封筒が入っていた。宛名は『馬弓探偵事務所』宛になっている。探偵……か! それならここのところ立て続けに失敗していたことの説明はつく。それとも俺自身ヤキがまわって都合のいい答えに飛びついているだけなのか? 一応この場所を確認してみようか。





「柑奈さん、お疲れさまでした」

「万田さん、私、うまくやれたでしょ?」

「はい、ですが調子にのるのは禁物です。これで向こうさんは私たちの存在を知りました。住所も手に入れたのでいつかは我々の事務所までやってくるでしょう。それは今日かもしれないし何日も後かもしれない……気を引き締めてください」





「芹井くん、どういうことだ?」

「落ち着いてください」

いらいらと室内を歩き回っているボスを、芹井はたしなめた。積み重なった嫌悪感よりも、最近では憐憫の情が勝つことがある。『俺もトシかな』と芹井は苦々しく思った。

「大丈夫ですよ。社長。敵さんの正体がわかりました。馬弓探偵事務所です」

「探偵……だと? あの女優が依頼したのか?」

「そこまではわかりません」

それになんだって、探偵が泥棒の真似事なんかしていたんだか、よくわからない。

「まあ、いい。『古の魔導書』は取り戻せそうか?」

「所在はわかったのですから、取りに行くことはできますよ……。ですが、あの芸能事務所の社長、『古の魔導書』が盗まれたことを公表しましたからね。そっくりな物を売ってボロ儲け計画は難しくなりましたね」

「僕が所有できればそれでいいんだ。誤解するなよ、芹井くん。これはただの金儲けのためだけの行動ではない。社会奉仕だ。この僕のお眼鏡にかなった価値のあるものを、この手元で保護しようというのだから」

「……はぁ、それと、よそ様の大事なものを欲しがるのと、どういう関係があるんです?」

「関係? 君は僕の部下を何年やっているんだ。いいかい? この僕が認めた美しいものは全て僕が保護する。その代わりにこの僕があつらえた物を格安で人々に提供するんだ。どうだい? いい考えだろう? 本来ならば美しい物に触れる資格などないような連中が、自分たちにふさわしい物を簡単に手に入れられるようになる。皆僕に感謝するべきだ。あぁ、早く見たいね。世界が僕の色一色で染まるところを」

「この会社だって、あなたのための場所ですよ」

「まだだ……まだ、まだ足りない……僕の……この手にはこの会社なんてちっぽけすぎる。僕みたいな者にはもっとスケールのデカイ場所が必要なんだ。だから僕の行く手を阻む者はすべて……排除しかない」

「何故島さんはどうなんですか? ずいぶんと才能のある方だったようですが……」

「あ、ああ何故島摩舟……か、彼の場合はこの僕に目をつけられたのが運のツキだな。だいたい、デザイン学校時代から気に入らなかった。僕が受けるべき栄光まで独り占めして……。おまけに彼女まで……ゴホン……と、とにかく僕の行く手を遮る邪魔者には違いない。亡くなった今でもな。だから罰として悪評を流してやった……助けてやる代わりにあの屋敷を譲ってくれればよかっただけなのに、拒絶しやがって……自業自得だよ」

同じだ……姉夫婦が経営していたテーラーが、この間尼怜斗に乗っ取られた時と状況が酷似している。自ら悪評を流しておいて助けてやるだと……どの口が言う。他にもこの汚らわしい手口で人生を破壊された被害者たちは存在する。そろそろこの男のお遊びにつきあうのもおしまいにしよう。





「では、こちらでお待ちください。社長は今、外出中ですが間もなく戻ると思います」

やってきた女性ふたり組は、おどおどと部屋の中を見回していた。特に年上のほうの女は、社長室へ続くドアの方にばかり視線を送っている。

 二人を応接室に送って戻って来た万田さんは、満足そうにうなずいた。私たちは警備室で応接室の監視カメラを監視していた。応接室内に取り残された客たちは、しばらくして立ち上がった。年下のほうの女は廊下に続くドアを少しだけ開けて見張っている。もう一人の女は、だれかと通信しているようだ。ひっきりなしに耳を気にして抑えている。

「他にも仲間が来ているのかもしれませんね。『社内及び建物周辺を捜索願います! 不信な人物がいても、何もせずに監視だけを続けてください』」

画像の中の女は、社長室の中へ消えていった。

「さあ、引っかかった。柑奈さん……と、紅面多院さんも、出番ですよ」






「社長さん、いらっしゃる?」

ノックもせずにいきなりドアを開けた。今日の花音さんはフワフワショートのウィッグをつけて、目力強めのバッチリメイクで、よほどの目利きでもない限り女優紅面多院花音とは気づかれないだろう。

「……なっなんなの、あんたら!」

ドアのところにいた女は突然の乱入者に面食らっていた。

「おかまいなく。私たちここの社長さんに用があるだけなんだ」

「社長、いらっしゃる? お邪魔するわよ!」

花音さんは、ずかずかと室内を横切り、社長室のドアを開けた。後ろに私と、見張り役をやっていた女を従えて……。

 社長室の中にいた女は、突然の来訪者にひるむ様子もなかった。

「あんたたち……誰だい?」

「私たち、『ミモザ』の者でぇす」

花音さんがクラブ『ミモザ』のママ、私が従業員の設定だ。

「『ミモザ』?」

「知らないの? ここから二百メートル先の信号のところを右に曲がってまっすぐに進んで、銀行の横の道を入って……」

「ああ、もういい! その『ミモザ』さんが何の用だい? 社長なら外出中だそうだよ」

「えっそうなの? 残念。来週のママの誕生パーティーのお誘いにきたのに……。ついでに先月分のお支払いいつになるのかなって」

「わかったらもう出て行っとくれよ」

「あなた、ここの社員さんじゃないようだけど、どちら様?」

「あたしらは依頼人だよ。ちょっとメモをとりたくてね、書くものを探していたんだ」

「あら、そう?」

花音さんは女の返事をたいして気にも留めずに机の上を漁り始めた。

「ちょっ……あんたたちこそ、ここで何をしようってんだい?」

「ここの社長さんね、ツケがたまっているの。店に来ていただけるのはありがたいのよ。……でもね……こちらも商売ですからね。今度支払いが滞ったら代わりになるものをいただく約束をしてあったのよ」

「あったよ、ママ。見て」

私は引き出しの中にすぐに見つかるように隠してあった封筒を取り出した。封筒の中身をそこにいる全員が見えるところで確認した。『古の魔導書』だ。

「あっあんた……それをあたしらに譲ってくれない?」

「ん……どうしよっかな?」

私はジワジワと窓辺ににじりよりながら考えているふりをした。

「さあ、いい娘だから、それをこっちによこしな」

年上の方の女が私の持っていた封筒を奪い取ろうとしたので、私は封筒を高く頭上に掲げた。

「強情な娘だね。よこしなさい」

「でも、でも、見つけたのは私だし……あっ」

女ともめているうちにツルッと封筒が窓から滑り落ちていった。

「あああ」

「……見つけた! あそこに落ちてる。取りに行くよ」

女は相棒に合図して部屋から出て行った。年下の方の女は部屋から出て行きしな、花音さんの顔をじっと見つめていた。

「何か?」

「あんたの顔、見たことある。誰だっけ……そうそう、女優の紅面多院花音だ」

「お客さんにもよく言われるの。そんなに似ているかしら」

「おい、何をモタモタやっているんだ。行くよ」

「あっ、はぁい」

窓から外をのぞくと、中庭に封筒は落ちていた。ここまでは計画通り。あとは下で待ち構えているほかのメンバーにまかせよう。私たちは高みの見物だ。それに、中庭に落ちた『古の魔導書』が大至急作られた偽の魔導書だとは、彼女たちは知る由もないのだから。





 芹井は車の中でジリジリしていた。時計を確認する回数が増えるのに比例して、時間が歩みを緩める現象を誰か研究する者はいないのか……と考えはじめるほど待ちぼうけを食らっていた。ふたりとの通信がとぎれてからもう大分経つ。何をグズグズとやっているんだ。俺自身もここに長居しない方が賢明だというのに。もう少しだけ待って、戻ってこなかったら、このまま俺だけ退散しよう。





「さあ、ぼうずたち、わたしらの出番さね。打合せ通りにやるんだよ。慎重に準備、大胆に行動だ!  わかったかい?」

「イエス、マァム!」

私と花音さんは、万田さんと共に中庭の様子を巨大画面でモニターしていた。先ほどのふたり組が中庭に現れた。社長室の窓の下あたりの茂みを一心不乱に捜索している。背後に忍び寄る影にも気づかずに。

「ピピピピピ……」

突然警告音が鳴り響いて、ふたりはその場に凍りついた。

「警告! 警告! 直ちに武器を捨てて投降しろ!」

音声の発生源は、『HeyHey平ちゃん』。何故島邸でも活躍したお掃除兼セキュリティロボットの改良版だ。

「ひいいっ……こいつ何?」

「よくわからないけど、ずらかるよ!」

年上の方の女の手には『古の魔導書』がしっかりと握られていた。青島さんが大はしゃぎで偽造したフェイク魔導書とも知らずに……。

「ピピピピピ……警告無視! 警告無視! 第二段階に移行する」

平ちゃんは何故島邸でも見せた華麗な変身をとげると、植え込みからなんとか抜け出した年下の方の女を追いかけ始めた。中庭をグルグルと……。

「ひっひゃあ……!」

「あははは、走れ走れ!」

「ちょっ、笑って見てないで、助けて下さいよ」

「……待ってな」

そう言うと、年上の方の女は、植え込み脇に置いてあったプラスチック製のバケツを平ちゃん目掛けて投げつけた。

「イタタタタタ……」

平ちゃんはその場でスピンを始めた。

「あはははは……いいザマだね」

「攻撃された、攻撃された。応援を要請する」

そこに颯爽と現れた3少年とQ。

「Q式ガトリング水銃用意!」

「アイ、アイ、マァム!」

「レディ? ファイア!」

炸裂したのは火薬ではなく、強力な水流だった。先日試し撃ちを見学させてもらったヤツだ。年上の方の女は噴き出す水に足をとられ、ジワジワと壁ぎわに追い詰められた。

「いったた……何すんのさ。暴力はん……うっぐ……」

やっと立ち上がった女に向かって、もう一度水の銃弾が飛んだ。

 モニタールームで中庭の出来事を観戦していた私は、画面の片隅に不審な人物が映っているのに気付いた。

「万田さん、あれは……拡大できる?」

「これ以上は……無理ですね。……追ってみましょう」






 芹井は車を降りるとオフィスの敷地に入り込んだ。営業時間中のはずだが、やけににぎやかだ。人目につかぬように、身を隠しながら進んだ。やがて建物に囲まれた広めの空間に出た。自分が派遣した二人の女がキャアキャア笑っている。……用事を済ませてさっさと戻ってこいと命じたはずだが、何を遊んでいるのか。ふと視線を感じて上を仰ぎ見ると、ところどころに監視カメラが配置されていた。

 ビルの中から数人の黒服が出てきて、誰かを探している。……計画変更だ。あのふたりも『古の魔導書』も、正直言ってどうなろうがかまわない。社長は騒ぎ立てるだろうが、そんなのはこちらの知ったことではない。あの男があのまま犯罪の道を突き進むように誘導できればそれでよかった。彼がもみ消してきた幾多の悪行を、白日の下へ晒してやるために、今まで懐刀として活動してきたのだ。だが……もう潮時かな。おそらく俺自身も罪に問われるだろうがな。

「っふっ……」

苦い笑いがこみあげてきた。それもかまわない。彼が頭を垂れて散っていく姿を見られるのなら……。そう、その瞬間こそが俺の復讐劇の幕が降りる時だ。






「犯人のひとりは濡れネズミ、もう一人は中庭で悲鳴をあげながら逃げ回ったというわけ」

花音さんと私は、千鶴さんに今日の出来事を語ってきかせた。今日でウチの事務所の地下室での生活は終わり。あとは明日の記者会見で今までの経緯を説明するだけだ。

「もうひとり……監視カメラに映っていた人物はどうなったんですか?」

「車でここまで来ていたことまではわかっています。今、男の映像と車のナンバーをこの近辺の監視カメラのデータと照合しているそうです。ねっ万田さん」

「はい、その男と車がしょっちゅう出入りしている場所を調べています。ひょっとしたら犯人グループのアジトがつきとめられるかもしれませんね。『古の魔導書』については、彼らの目の前でドロドロになりましたから、もう追いかけることはないでしょう。本物のほうの『古の魔導書』は、お宅の社長さんに、誰彼かまわず見せびらかしたりせず、金庫にでも保管しておいてください……とお願いしておきましょう」

「うちの社長ときたら、ホントそのあたり無頓着で困るわ。私からもよく言ってきかせておきますね」

「社長さんも、花音さんにいろいろ言われて落ち着かないでしょうね」

「あら、柑奈ちゃん、わかる? この間なんか、私の顔を見るや否や回れ右をして逃げ出したんだから」

「もうひとつの、画家の……ジーク・ワッサーだっけ? あの件はどうなったんですか?」

千鶴さんはまだ心配そうだ。

「有珠田さんからの情報提供で警察も動き出しました。絶対に大丈夫とは言えませんが、今までのようにストーキングされることは、もうなくなるでしょう」

「……何はともあれ、私が今日ここに無事でいられるのは、ここにいる皆さんのおかげです。やっと不安な日々が終わって、これからは今まで以上にお仕事に専念できそうです。本当にありがとうございました」

千鶴さんは深々と頭を下げた。心底嬉しそうだった。そんな姿を見て、私は千鶴さんが初めてここにやって来た日のことを思い出した。暗く沈んで微笑む元気すらなかったっけ。

「皆さん乾杯しましょう。千鶴さんの無事を祝うとともに今後ますますのご活躍を祈って……乾杯!」

私はそう言うとグラスを高く掲げた。そう、この瞬間こそが最良の時間。時にはつらく苦しい探偵仕事におけるプライムタイムだ。


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