2 侮らないよ、簡単じゃない
『月に叢雲 花に風
無情な闇の徒花は
無慈悲に雨で散らせましょう
果ては極楽 止まれば地獄
いっそ去りませ潔く
花も実もある身なれども
言わぬが花の吉野山
浮世の澱を打ち払う
モノ言う花をご覧あれ』
お気に入りのドラマが終わるのとほとんど同時に電話がかかってきた。小菜津ちゃんからだ。
「いいタイミングだね」
「でしょ。みかん、絶対に紅面多院花音のドラマ見てると思ったから。明日からの準備できた?」
「まだ、これからやろうと思ってたんだ」
「一週間もリゾートホテルで過ごすなんて、初めて。樹太郎のおじさんには感謝、感謝だよ。ウチのパパもよろしく伝えてくれって」
小菜津ちゃんの父親の橘文太警視正は、ウチの祖父の刑事時代の相棒だ。当時は若手刑事だった小菜津ちゃんのパパだけど、今では出世の階段を順調に登っている。
「私も初めてだよ。あ、今ちょうど甘夏島のCMが流れてる」
『島の全てが当甘夏島ホテルの庭です。アウトドア派もインドア派も満足の充実した設備。島から出ずにバカンスを満喫できます。お越しの際は連絡船のご利用が便利です。……髪をくすぐる柔らかな風、まどろみに誘う太陽……輝く海に抱かれてあなたの季節が今、始まる』
「なんかね、ホテルの支配人とじいちゃん、昔からの知り合いで、無料宿泊券を送ってくれたんだって。よくわかんないけど、なんかのパーティーにも出席してくださいって。バラの庭園があってそこでやるんだって。ウチのじいちゃんも行きたがってたんだけど、どうしても外せない用事があるそうで……」
「じゃあ私たちでうんと楽しんでこなくちゃね。あっ、もうこんな時間、私もう寝るね。みかんも早く支度しなさい。明日遅刻しないように。」
私たちは幼馴染だけれど、私よりも2歳年上の小菜津ちゃんは、時々お姉さん風を吹かせる。
「はあい、明日よろしくね。」
ざわざわと木々を揺らして渡る風が、鼓動を早める。さあ、思う存分休暇を楽しみたまえ……そんなふうに海がそそのかしているかのようだ。そう、小菜津ちゃんとふたり、甘夏島に上陸したのだ。船着き場まで迎えに来たホテルのスタッフが島内の施設について説明してくれた。
「……そのほかにもこの甘夏島には、様々なアクティビティの施設がそろっております。お客様には、それぞれが思い思いの休日をゆったりと過ごしていただけます」
「ホテルの他にコンビニや診療所も島の中にあるんですね」
パンフレットを見ながら小菜津ちゃんが確認した。
「その通りです。島内には日常生活に必要なサービスが一通り揃っております。この島においでになるには、先ほどの連絡船か、島の向こう側にございます小型飛行機用の空港をご利用いただくしかありません。基本的に、ホテルをご利用のお客様と島で働く者たちだけが、この島に滞在していることになります」
ホテルのロビーに入ってチェックインの手続きをしていると、ホテルの支配人がやってきた。祖父の昔の知り合いで、ここに招待してくれた人物だ。
「あの、お客様、馬弓様ですね。樹太郎さんのお孫さんの」
「そうです。祖父からお噂は伺っております。本日はお招きいただき、ありがとうございます。祖父も一緒に来ることが出来ず、残念がっておりました」
「おじい様はお変わりないですか? ああ、なつかしいですわ……まるで昨日のことのようで……ええ、コホン、失礼。つい思い出に浸ってしまいましたわ。おふたりともお疲れでしょう、まずお部屋にご案内いたしますね。それと、馬弓様、おじい様からお話しがあったかと存じますが、あとでご相談したい事がございます。お時間いただけますでしょうか」
「どうだ? 伊予香ちゃん、息災にしておったかのお」
「い、よ、か、ちゃん? 誰?」
「そこのホテルの支配人の伊予香ちゃんだよ」
「伊予香さんって名前なんだね。じいちゃんの元彼女とか?」
「何を言う。伊予香ちゃんは誰のモノでもなかったわ。わしら皆の憧れのマドンナだったからな」
……片思いだったわけね。
「では、事件の話を整理しようか」
この甘夏島は、バラ園が有名な見どころだ。そればかりではなく、新しい品種の開発にも力をいれているそうだ。何年にも渡って交配を重ね、ついに念願だった新種のバラを出現させた。幾重にも重なった薄いレモン色のフリルのような花びらに、銀色の縁取りがついているらしい。花冠を正面から見ると星型に見えることから、『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』と命名された。海外のバラ協会からも審査員を呼んで正式に認定してもらうはずだった。ところが、ある朝、庭師がチェックしに行くと……『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』は、なんとも情けない姿で萎びていた。綺麗だった花びらも焦げ付いたような薄茶色に変色している。何者かに薬剤を撒かれたようだった。費やした年月と費用、何よりもスタッフたちの気持ちを思うとやりきれない。絶対に犯人を突き止めてやると決心した支配人は、旧い友人である祖父に宿泊券とパーティの招待状を送ってあったことを思い出した。早速、祖父に事情を説明し、私を派遣することで話がまとまったのだ。
「伊予香ちゃん情報によると、審査の為にバラ協会からアンコール・ブラッドという人物が訪れているそうだな」
「ブラッドさんなら私もホテルのロビーで見かけたよ」
「そうか、どんな人物だったか言えるか?」
ロビーで見かけた、やたらあちこちにぶつかりながら歩いている不器用そうな中年男性の姿を思い出した。
「なんというか……風船のような……おじさん」
「ところがな、ブラッドさんの母国の警察からの情報では、ブラッドさんは痩せた背の高い女性だそうだ。しかも家族から捜索依頼が出ている。日本の空港に入った直後、行方不明になっとるそうだ」
「それでじいちゃん、私は何からやればいい?」
「まず、明日の晩のガーデンパーティーには予定通りに出席しなさい。本来ならば『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』完成のお披露目パーティーだったそうだが……よぉく目と耳を使って周囲の人々を観察しておくといい。バラが枯れたあとにその島を出た人物は、島外から通勤している従業員だけだそうだからな。この手の犯行の場合、加害者が被害者の様子を観察する為だけにその場にとどまることが多いから、よく気を付けるのだ。何度も口を酸っぱくして言っているから、わかっておるだろうが、決して無茶なまねはするな。今回は青島君も万田君もそちらには行けない。情報収集だけに徹して、直接対決するようなことだけはくれぐれも避けるんだぞ」
「はいはい、わかってますよ」
今回は一人きりの任務だ。半人前の私には少々荷が重いが、任せてもらった以上はできるだけのことをやってみるつもりだ。幸い、荷物の中にQが作ってくれた小道具と青島さん製ドレスが入っている。電話を切ると、荷物の中からドレスを取り出してハンガーにかけた。
ここにくる前日、いつものように青島さんの部屋で試着をした。
「初夏のガーデンパーティだから、お花の妖精さんをイメージしたわ」と青島さんが説明してくれた。光に溶け込みそうな淡い色の、薄くハリのある生地で作られたふくらはぎ丈のワンピース。脚さばきがいいように、目立たないようにスリットが入っている。よく見ると、ウエスト部分から下の方に向かって、葉脈のような模様がうっすらとあしらわれていた。風をはらんだスカートがふわりと広がると、それが羽を広げた蝶のように見える仕組みだ。カジュアルなリラックス感を加えるために、腰のあたりには、マクラメ編みのロープベルトがゆったりと垂らされている。
「このロープベルトについて説明聞きたい? 聞きたいでしょ? こっちの機械を見て」
無理やり回れ右をさせられた目の前には、実験用のケースがあった。ケースの中には短く切ったロープが固定されていた。
「ベルトと同じ素材のロープよ」
ピンと張られたロープの中央を、直径2センチ程の木の棒で横から垂直に押すと……一旦はしなったものの、バチンと跳ね返した。
「鋭利な刃物なんかには耐えられないけれど、面積のある圧力は倍の威力で押し返す性能があるの。何かの役に立つかもしれないから……一応伝えておくわ」
最後にQ特製の小道具が入ったカゴを渡された。かわいらしいコンパクトミラーと、ベルベット張りのケースだ。ケースのフタを開けてみた。バラのモチーフが付いたゴツめの指輪とQからのメッセージカードが入っていた。
『バラのモチーフを右回りにカチッと音がするまで回すと、レーザーカッターになる。細い金属ぐらいなら切れるぞ。利き手じゃない方にはめなさい』
次の日の午前、小菜津ちゃんと一緒にホテルの中を探検した。L字型に配置された建物の内側にバラ園があった。バラの花で彩られたアーチを抜けると、たくさんのバラの花が視界に飛び込んでくる。カッチリと刈り込まれた迷路のような生垣と、花でできた絨毯のような花壇が、計算しつくされて配置されている。圧巻の景色を目の前にして、ふたりとも口をあんぐり開けてその場に立ち尽くした。
「あっ、支配人さんおはようございます」
「橘様、馬弓様、昨夜はゆっくりお休みになれましたか?」
「はいっ、もうグッスリと。お部屋がいい香りで……」
「各お部屋にはアロマポットを置いてあります。こちらの庭園のバラが主な原料になっているんですよ。お気に召しましたら当ホテルのショップでも取り扱っておりますので、ご覧になってはいかがでしょうか?」
「後で見に行ってみようよ、みかん」
「パンフレットで見たんですけど、バラのアイスがこちらのホテルの名物だそうですね。私たち昨日からずっとそれが楽しみで……ショップにありますか?」
「ええ、当ホテル内のショップと、カフェでも提供させていただいています。特に女性のお客様に大人気なんですよ。……そういえば、明日のガーデンパーティでも出される予定です。おふたりともご出席なさいますよね」
「もちろんです」
「はい、楽しみにしています」
庭園の中では、十数人の従業員がテキパキと動き回っていた。その中でも、お揃いの作業服を着た一団が目についた。カーキ色の上着の背中に大きなバラの花が一輪描かれている。
「あちらは庭師さんですか?」
「ええ、背中のバラの絵が赤いのが、当ホテルの庭園部門の担当者です。土壌管理部門が黄色、害虫駆除部門が紫。そして、種子の管理と品種改良部門のスタッフの作業服にはピンク色のバラが描かれています」
「庭園の管理って、やらなければならないことがたくさんあるんですね」
「ええ、ですがここのスタッフは皆優秀で自分のやるべき事を心得ています。支配人としても誇らしいですわ」
「『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』の件、本当に残念でした。私も見てみたかったです」
「『スタートプリンなんとか』って何? 新しいデザートかなんか?」
「……小菜津ちゃん……『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』だよ。新種の、とっても綺麗なバラの名前なの。ここの庭園で交配成功させたんだって」
「えっどこどこ? 私も見たい」
「残念ながら枯れてしまったんですよ。明日のパーティで初披露する予定だったのですがね。……せっかく海外のバラ協会本部から審査員を派遣してもらったのに……あっ、噂をすれば……ちょっと失礼しますね。」
支配人はその人物の方へ歩み去って行った。昨日の祖父の話によると、本物のバラ協会のブラッドさんは日本に入国して以降、行方不明だそうだ。ではあの人物は? 一緒にいる通訳らしき人物は彼の素性を知っているのか? ここにいる(自称)ブラッド氏についてもっと調べてみなくては。
「そうだ、みかんって探偵事務所の仕事始めたんでしょ。調子はどうよ?」
「うん、始めたばっかりだからね。気づいたら一日が過ぎてたって感じかな」
「どんな仕事してんの?」
「なんかね、変身して悪を倒す……みたいな」
「……何それ? かっこいい……魔法?」
「魔法で変身するんじゃないよ、科学技術です。今のところ毎日、無我夢中なだけだけど……。他のスタッフのサポートもあって、無事に過ごせてる」
「そっかぁ、みかんってずっと前から将来は探偵になるんだって言ってたもんね」
支配人お勧めのショップを一巡しながらふたりでそんなことを語り合った。エステの予約が入っている小菜津ちゃんとはそこで別れて、ひとりになった私はロビーの横にあるカフェに入った。さっきブラッド氏が中に入って行ったのを見かけたからだ。
カフェの内部は、中庭に面した側がオープンテラスで、開放的な空間が演出されている。テラス席に座っているブラッド氏を見つけた私は、彼の表情が見えるすぐそばの席に陣取った。ブラッド氏の向かいの席には通訳の人が座っていて、何事か揉めているようだ。私は小型のコンパクトミラーを取り出した。Qの手作り小道具だ。このコンパクトミラーには、小型のビデオカメラが付いている。
「早くここから脱出させてくださいよ」
ブラッド氏が流暢な日本語で話した。やましいことでもあるかの様にヒソヒソ声で。
「パーティーは予定通りにやるそうだから、必ず出席しなくては。お前さんはバラ協会から派遣された役員なんだから、それらしく振る舞うんだ」
「バラ協会の役員なんて、俺様の柄じゃないけどな。ハハハハ……しかし、バラの花を枯らせろなんて、あの御仁も何を考えているんだか……お前、直接会ったことあるんだろ? オレの事、何か言ってたか? ……その……報酬、のこととか」
「働きに期待しているとさ。だからしっかり最後まで役割を演じ切るんだ。今日のパーティーにはあのお方も出席なさるそうだからな。」
「じゃあ、報酬をタップリはずんでくれるよう交渉してみよう!」
「ちょ……待て待て。いいか? 絶対に知らんぷりしておけよ。オレたちとあの方の繋がりを知られるわけにはいかないんだ。わかったな?」
嫌悪感で胸がむかついた。やはり本物のブラッド氏が行方不明になったのと、『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』が枯れた事件は無関係ではないようだ。テーブルの上に置いたコンパクトミラーの角度を、一心不乱に調整していると、いつの間にか私のテーブルにサッと人影が差した。
「ご一緒してもいいかしら?」
びっくりして顔を上げると、私の返事も待たずにその人は向かいの席に座った。紅面多院花音さんだった。
「くっ……紅面多院さん? あっ、いつも見ています。『花の大江戸拾始末』もう、毎週すっごく楽しみで……」
「うふふっ、ありがとね」
ドラマ『花の大江戸拾始末』の内容をかいつまんで説明すると、花音さん演じる敏腕検事が、江戸・元禄時代にタイムスリップする。持ち前の好奇心とお節介を発揮して事件を解決していくのだ。人情もので、単純明快・爽快なストーリーだ。
話をしている間に、ブラッド氏とその連れは、席を立っていってしまった。2人の背中を呆然と見送っていると、花音さんが声をひそめて言った。
「ねえっ、さっきの2人組、なんだか怪しくない?」
「なっ……なんで……怪しいって何がですか?」
「だってさっき、すごぉく普通に日本語を話していたでしょ? 私ね、このホテルに着いた時に、支配人さんにあの男を紹介されたの。ブラッドさんっていったかな? 海外のバラ協会から派遣されたとか……で、日本語は全然わからないって言ってずっと通訳を通してお話していたの。普通そんなところで嘘つく必要ある? それにね、私、バラの育て方のアドバイスが欲しくていろいろと質問したの。そしたらね、バラどころか園芸の知識すら全くないみたいでね、私との会話の途中で逃げ出したんだから」
「へっ、へええ……紅面多院さん……」
「花音でいいわよ」
「花音さん、庭仕事なさるんですか」
「あら、意外だった? もともと身体を動かすことは好きだから……それに花を育てるのって、仕事とは違った達成感があるもの」
「……なんだかわかる気がします」
「それでっ、あの男怪しいとあなたも思うでしょ?」
「ど……どうしてそれを私に」
「支配人から聞いたの。あなた探偵さんなんですって?」
「え、ええ……まだ駆け出しですけど」
「偉いなあ、あなたぐらいの年齢の娘が……がんばってね」
「はい……花音さんこそ学生時代から女優のお仕事をなさっていたんですよね。学業との両立は大変じゃなかったですか?」
「両立っていうか、私の場合学業の方は適当だったから、アハハハハ。ねえ、あなた馬弓さん? だっけ?」
「馬弓柑奈です」
「柑奈ちゃんね、私たちであの男の事、調べてみない?」
「え、ええ?」
「気になるんだ、とても。あのブラッドさんって自称している通りの人物ではない気がする」
「でも……危険な目に遭うかもしれませんよ」
「私たち2人なら大丈夫! でしょ?」
部屋に帰ると、再び祖父から電話がかかってきた。
「日本に入国した途端に行方不明になっていた本物のブラッドさんのことだが、空港の備品倉庫で見つかった。荷物を奪われ、縄でぐるぐる巻きに縛られて、さるぐつわをかまされた姿で発見された。命に別状はないそうだ。」
「やっぱり、ここにいるブラッド氏はバラ協会の役員なんかじゃなかったんだ……花音さんすごい」
「花音さんというのは……」
「女優の紅面多院花音さんだよ。じいちゃんもあのドラマ好きでしょ」
「そこのホテルにおるのか? いいな、いいな。ワシも会いたかったぞ」
「じゃあ、後でサインもらっておいてあげる。その花音さんがね、ブラッドさんとちょっと会話しただけなのにアイツは怪しいって言ってるの。まるで本物の探偵みたい……」
「柑奈、本物の探偵はお前のほうだ……まあ、あと一歩というところだがな」
「はいはい、わかっていますよ……花音さんね、『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』をテーマにしたドラマを制作予定だったんだって。今回もその仕事でここに滞在しているらしい。『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』の開発資金も一部出していたんだって。だから完成した途端に枯れてしまったことにすごく落胆して、その上だれかが薬剤を撒いたことが分かったから、絶対に犯人をつきとめてやるって……それで私と一緒にブラッド氏について調べたいって言ってた」
「ガッツのある女性だ。ウチの事務所にスカウトしたいくらいだよ。ハッハッハッハッ。だが……いいか、柑奈、あまり深入りさせないように気をつけなさい。お前自身もな」
「うん、わかっているよ」
「仕事に慣れてきた頃だろうが、油断は禁物だ。相手の素性がまだよくわかっていないのだからな。注意しすぎるということはないのだぞ……それから……湊博物館事件の時に撮影した、警備員の制服を着た男のことだがな、博物館側も王国側も心当たりがないそうだ。つまり、警備員風の制服を着て貴重なお宝があるはずの場所をうろついていたうさんくさい人物ということになる。今、あの男の顔を、手に入る限りの写真や映像と照合している。柑奈がニラんだ通りだったな。よくやったぞ」
夕方のまだ明るい時間にパーティは始まった。宿泊客の他に、周辺地域の実業家やホテルの常連客が招待されているそうだ。メインイベントになるはずだった『スタープリンセス・エンシャントスプラッシュ』のお披露目は中止になってしまったけれど、賑やかで明るい気持ちになれる。疑惑のブラッド氏も、向こうの端っこのほうで支配人と何食わぬ顔で談笑していた。
「あの男……」
調子に乗っているようだけど泳がせているだけだからね。必ず正体を暴いてやる。
「……かん……みかん、どうした? 目つき悪いよ」
「ああ、小菜津ちゃん……そんなひどい顔だった?」
「うん、飢えた獣の目つきだった。イイ男でも見つけた?」
「……ハハハ……おなかがすいただけだよ。食べ物取りにいこうか」
食べ物コーナーには、かわいらしく形作られた一口サイズのお肉やフライがずらりと並んでいた。それに、何とも形容し難い正体不明のプルプルしたフード。それからもちろん、色とりどりのデザートも……まるで花畑のようだった。
小菜津ちゃんとのおしゃべりに夢中になっていた私は、隣にいた男性に気づかずに腕を動かしてしまった。
「うっっ、痛い!」
「あっ、ごめん……も、申し訳ありません」
「おやおや? どこかからお猿さんがまぎれこんだようだね」
「本当にごめんなさい。お怪我はないですか?」
その男性は忌々しげにホコリを払うようなしぐさをして立ち去って行った。
「何よっ! あの男! 謝ったでしょ!」
小菜津ちゃんが私のかわりにプンプン怒っている。
男性が歩いていった先にはひときわ目立つ女性の一団が待っていた。
「怜斗さん、こっちです。」
「怜斗様、どうかなさったの? あの女の子たちに何かされたんですか?」
「あ、ああ……気に留める価値もない。僕はそばに立っていただけだがね。彼女たちがちょっかいをかけてきたんだ。まったく乱暴な娘たちだ。君たちに飲み物をと思っていたんだがね……気分が削がれてしまったよ」
「怜斗様を傷つけるなんて許せないです。」
「こっちを睨んでますよ、図々しい。私たちでやっつけてこようか。キャハハハハ」
「おいおい、君たち、僕の為にそこまでしてくれるというのかい? うれしいなあ。どうだい? あんな娘たちのことは忘れて、アフターパーティーに僕の部屋で飲み直さないかい?」
「んまああ、怜斗さんの部屋にご招待してくださるの?」
「最上階の一番広い部屋さ。最高の夜景を見ながら極上のワインでもどうかな?」
「さっすが、怜斗様」
その後も、男は他の客を押しのけ、たまたま近くにいた女性客を半泣きにさせ、止めに入ったウェイターをしかりとばしていた。一団が部屋に引き上げるまで、パーティー会場が何とも言えない緊張感に包みこまれていた。
彼らの会話の一部始終は、私たちのいる場所まで聞こえた。
「感じ悪ぅ。」
「次から次へとよくトラブルを起こすよね。小さな出来事を大げさに騒ぎ立てて……バカみたい……」
「あんなに意地が悪いのに女性に囲まれているなんてね」
「素行不良で贅沢好きだからかしらね。きらびやかな世界で経験する背徳感に引き付けられる人間は結構いるのよ」
私たちの疑問に答えてくれたのは、遅れてパーティーにやって来た花音さんだった。
「く、くめれん……くれめんたいこ……」小菜津ちゃんはかなり慌てているようだ。
「花音って呼んで」
「花音さん、こんばんは」
「柑奈ちゃんと……あなたは?」
「橘小菜津です」
「小菜津ちゃんね。ふたりとも楽しんでる?」
「はい、とっても……さっきまでちょっぴり台無しになりかけてましたけど」
「花音さん、さっきの男のこと、ご存知なんですか?」
「残念なことにね。彼は間尼怜斗。アパレル会社間尼商会の後継ぎなの」
話している間にも、花音さんは手に持ったお皿を器用に満たしていく。
「あら、これ何かしら? ふたりとも食べてみた? ……あの通り傍若無人な振る舞いでしょ。間尼グループの企業の一つを任されているようだけれど、部下たちは大変みたいね。……うん、おいしいっ。もう一ついただいちゃお……昨年だったかな、若手経営者の集まりの役員になったみたいね。ああいう人物に重要な役割を任せると周囲が理不尽な思いをするっての。ったく……。知り合いのアパレル会社の社長さんに聞いた話では、間尼と言えば最大手だし、批判しづらいんですって」
「間尼って……どこかで見た顔だと思ってんだけど……」と、小菜津ちゃんが首を傾げた。
「先月号の『YumYum』でしょ。私も見たわ。『エシカル・ジャム』というファッションブランドを新しく立ち上げたようね」
花音さんが教えてくれた。
「ねえ、ふたりともあっちに椅子が置いてあるから行きましょう。ゆっくりおしゃべりしたいわ……それはそうと、あなたたちのドレス素敵ね」
パーティーが始まったのは、まだ夜の闇が降りてくる前の時間帯だったが、今は午後8時、周囲はすっかり暗くなっている。明るすぎない照明でライトアップされた夜の庭園は、太陽の光の元で見るのとはまた違った表情を見せている。そんなことを考えながら何気なく建物の方を見ると、ブラウン氏がたくさんの荷物を抱えてホテルから出て行こうとしている。連絡船の最終便はとっくに出て行ってしまった時間だ。
「……ごめん、小菜津ちゃん、仕事に行かなくちゃ」
「ええ? ……残念。私はもう少しだけここにいようかな。みかん気を付けて行っといで」
「うん、あとでパーティーの話、聞かせてもらうよ」
急いで、でもブラッド氏に見つからないように後をつけた。ホテルの前の通りはほとんど車が通っていない。そこへ一台の車が止まってブラッド氏を乗せて行ってしまった。タクシーも見当たらないし、追跡は諦めようと思った矢先、流線形の黒っぽい車が目の前に急停車した。
「柑奈ちゃん、乗って!」
「かっ、花音さん! どうして?」
「ブラッド氏の後を追っているのよね。車があったほうがいいでしょ?」
「……でも……」
「さあ早く、乗った乗った。……シートベルトは付けたわね。出発!」
「花音さん! 気を付けて!」
「大丈夫、大丈夫。他の車は走ってないでしょ?」
「そういう問題じゃ……花音さん、さっきお酒飲んでませんでしたっけ?」
「飲んでないわよ。安心して、これでも私、運転には自信あるんだ。」
宇宙船のような見てくれのその車は、それこそ宇宙に届きそうな勢いで夜の道をカッ飛んだ。
やがて、車は島内唯一の空港に着いた。空港といっても生活物資を運んでくる便と、個人所有の小型機専用の小規模な施設だ。空港の入口から少し離れたところに車を止めてもらって、ブラッド氏が施設の中に入っていくのを確認した。
「花音さん、ここで待っていてください。30分待っても私が出てこなかったら通報してください」
空港は、ひっそりと眠りにつくように静まり返っていた。そんな中、一か所だけ明かりがついている。整備用の倉庫だった。倉庫の向こう側には、小型飛行機が離陸の準備も万端で控えていた。きっとこの飛行機で脱出する気なのだろう。息を殺してソロソロと飛行機に近づいた。飛行機のそばに、3人の人物がいるのが見えた。ブラッド氏と通訳役をやっていた男、それからもうひとりの男がいた。
「えっ? あれっ? ちょっと待っててくれ。忘れ物をした」
服のポケットをゴソゴソ探っていたブラッドさんが言った。
「ったく、10分後に出発だぞ。待たないからな」
3人目の男がいまいましげに言い放った。
ブラッド氏の方を振り向いたその男の顔に、私は見覚えがあった。今はパイロットの服装をしているが、湊博物館で遭遇した警備員コスチュームの男だ。間違いない。ふたつの事件は繋がっているのか? それともあの男は手あたり次第に悪事を働いてまわる趣味でもあるのか……ひとまずブラッド氏の後を追うことにした。
倉庫の片隅には、壁で仕切られた小さな事務室があった。事務室の中は真っ暗で、窓から差し込む外からの照明の光だけでは中の様子はよく見えない。窓の外側から夢中で中を覗いていた私は、背後から近づいてくる人物に気づくのが遅れてしまった。
「誰だ! お前は」
通訳役の男だった。騒ぎを聞きつけたブラッド氏が窓からヒョイと顔を出した。
「なんなんだ、この娘は」
「お前がつけられていたんだろ。」
通訳役の男にあっという間に抑え込まれて、私は逃げようがなくなってしまった。
事務室内の壁には、一面にむき出しの鉄パイプが張られていた。私は、ちょうどいい高さにある鉄パイプに手錠で拘束されていた。手は動かせるが、脱出するのは無理そうだ。
心臓が不安で押しつぶされそうだ。深追いするなと祖父から散々忠告されていたのに。このままずっとここにいることになったら? ここにいる2人よりも強くて怖そうな仲間がやって来たら? ブラッド氏と通訳男はモメていた。
「だからオレは早く脱出したいと言ったんだ」
「予定を切り上げていなくなったら、犯人だと自白しているようなもんだろ? こんな小娘に後をつけられるなんて、お前が悪いんだぞ」
「それならなおさら早く脱出しておけばよかったんだ。あんたが止めたのがいけない」
「お前こそ忘れものなんかして……」
ふたりの口論はまだ続いている。手錠で括りつけられた両手首がかゆくて自分の手の状態を確認した。左手には、バラの花を模った大きなゴツい指輪がはまっていた。今着ているドレスと一緒に荷物にはいっていたQ特製の小道具だ。パーティーに出る前に読んだ取り扱い説明書によると、バラのモチーフを右回りに、カチッと音がするまで回すと、小型のレーザーカッターになるそうだ。その名も『シルバーナイトホーリーアロー』
「とにかくヤツに知らせてくる」と言って、通訳男は事務室から出て行った。パイロットのところに向かったのだろう。残されたブラッド氏がこちらにノロノロと近づいてきた。私の顔をマジマジと見つめている。
「お前さん……ホテルにいただろ? そうだ、確かあのホテルの支配人が私立探偵って言っていたぞ。古い友人がどうとか……」
「うっ……探偵って何のことですか? 知りません私そんなの……早く離してください。……さもないと、……友達のパパに言いつけてやる!」
支配人さん……いったい何人に私のことを言い触らしたんだか……。
「プッ……ククク……おお、怖っ。友達のパパとやらに、いったい何ができるってんだ。……俺たちのことを調べていたんだろ? おい、何とか言ったらどうなんだ」
「調べられるようなことでもしたんですか?」
「……お、俺は頼まれただけだ。その人の名は言えない。だがな、俺の借金を全部肩代わりしてくれたんだ。いい人だろ?」
どこが? その代わりにこんなことさせられてるじゃん。
「代わりに何を要求されたの?」
「ここのホテルの新種のバラが目障りだから消すように頼まれたんだ。」
ブラッド氏は私に背を向けてデスクの上をゴソゴソと漁っている。
「確かここに……ああ、あった、これだ。この薬品を使ったんだ。あのお方の研究所で開発した薬品だそうだ。ササッとふりかけるだけで植物があっという間に枯れるんだぜ。なっスゴイ人だろ?」
手に持った小瓶をかざして見せてくれた。
「なんでも、自分の会社でも新種のバラを開発中だったのが、ここのホテルに先を越されちまって……気に食わなかったそうだ。この世の美しいモノは全て自分のためにあるんだそうだ。金持ちの考えることはワケがわからん」
あなたの口の軽さもワケわからないけどね。
「なあ嬢ちゃん、悪いことは言わない。ここで見たこと黙っててくれないか? それならアイツらに内緒でこっそり逃がしてやってもいい。じゃないと、嬢ちゃん……」
最後まで言われなくても、どうなりそうなのかは大体想像がついた。ブラッド氏は丸々とした身体を机と壁の間にむりやりねじ込んで、私の方にジワジワと近づいてきた。
「……」
「カネか? カネなら少し分けてやるぞ」
「私がおカネを受け取ったとして、無事でいられる保障はないでしょ。それにあなたになんのメリットがあるの」
「オレにも家族がいるんだ。あの2人には知られてないがな。嬢ちゃんを見ると故郷に残してきた娘を思い出すんだ……。ウック……ヒック、こんなことやったってばれちまったら娘に会わせてもらえなくなる……」
「この仕事を受ける前に娘さんのことを思いだせばよかったよね」
「……ひどいなあ。お前さん、キツイ性格だってよくいわれるだろ? あのお方には黙っていればばれないさ。……ん? なにか焦げ臭い。お前なにか……あっ!」
ブラッドさんが背中を向けている隙に、『シルバーナイトホーリーアロー』で手錠のチェーン部分を切っておいた。こちらへ振り向くのを待ってから、机の上に置いてあったペン立てを中身ごと目のあたりへ向けて力いっぱい投げつけた。
「うわっ、やめろ!」
相手が顔を押さえてひるんだところに、履いていたサンダルのウェッジヒールのエッジ部分で脛のあたりめがけて横向きに蹴りつけた。
ブラッド氏が激しい痛みのためその場にしゃがみ込んだちょうどその時、事務室のドアが勢いよく開いた。
「遅くなってごめん、柑奈ちゃん!」
「か……花音さん?」
「誰なんだ今度は。外にいた2人はどうした。ん? お前の顔、どこかで見たことあるぞ」
「おや、そうお? 今時流行りの顔だからかしらね」
外からヘリコプターの音が段々と近づいてくるのが聞こえた。
「うっくっっ……今日のところはこれくらいにしといてやる。覚えてろよ!」
無様にもそう言い放つと、ブラッド氏は花音さんの目の前をすり抜けて、開け放たれたドアから逃げ出そうとした。ところが、狭苦しい部屋に置かれた数々のオフィス用家具に、3人の人間(そのうち一人はすこぶる豊かな肉付き)だ。可能な限り敏捷にふるまおうとした努力もむなしく、ブラッド氏は腹部を机の角に強く打ち付けてよろけた。そのはずみに今度は放置されていた飲み物の缶を踏んづけた。鮮やかに宙を舞う巨体。寂しげにコロコロと転がっていく缶。あっけにとられる花音さんと私。今度は腰を打ちつけたようで、ブラッド氏は起き上がれないでいる。
ふと旅行に出る前、青島さんのところで衣装の試着をしたときの事を思い出した。
「花音さん、これを使って。」
私の衣装についていたロープベルトを投げて渡した。
「それで彼を縛ってください。」
私も急いで2人のそばに駆け寄った。
「おい! 痛いじゃないか。」
もがけばもがくほど強力に締め付ける紐だ。
「暴れるともっと痛い目にあうよ」
「イテテテ、手が痺れてきた。もっと緩くしてくれ、頼むよ。……なあ、あんた、見逃してくれないか? そっちの嬢ちゃんはいい顔をしなかったが、アンタは話がわかりそうだからな」
「やかましい男だね。柑奈ちゃん、手伝って」
窓の外が急激に、昼間のように明るくなった。数人が駆けてくる足音も聞こえる。
「外をごらんよ」
花音さんがブラッド氏の頭をグイっと窓の方へ向けてあげた。
「お前さんにもう逃げ場はないんだ。ここはもう包囲されているんだよ。いいかげんに観念おし」
ドラマの中の花音さんみたいなセリフを聞けたのと、警官が数人事務室になだれ込んできたのがほとんど同時だった。
「助かりました、花音さん。……それはそうと……あんな縛り方どこで習ったんですか?」
「……ん……牧場で働く女の役をやったことがあってね」
警官の一団の中からよく知っている人物が現れた。
「あっ、橘のおじさん!」
「柑奈ちゃん、無事だったか?」
「ど、どうしてここに?」
「甘夏島で事件が起きたと通報を受けてな。ウチの小菜津に連絡したら、柑奈ちゃんがなかなか帰ってこないと心配していたからな。無事だったか?」
「怪我はないです。それはそうと、他に男が2人いたんですけど、どうなりましたか?」
「ああ、われわれが到着した時にはもう逃げた後だった。残念だ」
すっかりしょぼくれた様子のブラッド氏が、警官に連行されて近くを通りかかった。
「本庁に引き渡してくれ。今回の件以外にも聞きたいことがたっぷりあるからな」
「了解しました、警視正殿」
「ブラッドさん、この人が私の友達のパパ。さっきあなたがベラベラとしゃべったこと、全部伝えておくから」
ホテルの部屋に戻ると、小菜津ちゃんが飛びついてきた。
「みかん、よかった! なかなか帰ってこないからどうしようと思ってたんだ。大丈夫だった?」
「うん。花音さんがね、助けてくれたの。ちょうどいいタイミングで通報してくれたし……。それに小菜津ちゃんちのパパも、現場にかけつけてくれたんだ。小菜津ちゃんのおかげだよ」
「うん、うん、なら、よかった」
ちょうどその時、インターホンが鳴った。
「ルームサービスでございます」
不思議に思いながらドアを開けた。
「こちら、支配人からです。本日のお礼の品でございます。明日改めてご挨拶に伺うとのことでした」
カートの上には、ミニバラのアレンジメントと、紅茶のセットそして、ふた付きプレートの中身は、淡いピンク色のアイスクリームが盛り付けてあった。結局は食べ損ねていた、バラのアイスクリームだ。待望の一口目を口に含んだ。かぐわしいバラの香りが口の中から広がって、身体全体を包み込むような、そんな心地になった。




