1 未完成な覚悟
灯りを消す前、女はゆっくりと室内を見渡した。必要最低限の家具しか置いていないシンプルな生活だ。モノに執着するとそこから離れ難くなる。彼女の稼業にとっては、足枷になりかねない。
「それなりに居心地はよかったけどね」
ぽつりとつぶやくと、女は室内の家具と同じようにシンプルな身支度を整えた。
そこへ、けたたましくドアを叩く音がした。
「開けろ! ここにいるのはわかっているんだ」
もう出なければ。女は窓を開けると隣の建物の屋根に飛び移った。屋根伝いに何度かジャンプして、脇道に隠してあったバイクにまたがった。
前方を走るバイクから目を離さないようにして、捜査官は無線に話しかけた。
「こちらフォーブル・デ・コポン。容疑者を追跡している。容疑者のバイクは王宮前通りを空港方面に逃走中。支援を要請する」
国内屈指の目抜き通りは夜間でも賑わっている。気温の高い日が続いたせいで、周囲のレストランやカフェは外のテラスに座席を設けている。通行人を巻き込まないように一層の注意を払わねばならない。やがてバイクは王立空港の前の直線の道路に差し掛かった。横から合流する道路のない、広々とした通りだ。前を走るバイクが一瞬、ふらついた。
『ここで一気に差を詰めれば』
デ・コポン捜査官がそう思った次の瞬間、前方のバイクが急ブレーキをかけて転倒してしまった。横たわったままで動かないバイクと運転手を見て、車の流れが徐行気味になる。
「容疑者負傷、繰り返す容疑者負傷。救急車の手配を要請する」
デ・コポン捜査官は周囲を警戒しながら近づいた。野次馬が集まる前に処理しなければ。黒い子猫が後ろめたそうな表情を浮かべて傍に立ち止まっていたが、デ・コポン捜査官の姿を見ると一目散に逃げ去った。
運転手の様子を見たが、うっすらと意識はあるようだ。きっと骨折をしているのだろう。バイクの下敷きになって自分で脱出できないでいる。デ・コポン捜査官は、運転手のそばに飛び散った荷物の中身を手早く検めると、先程までのカーチェイスのお相手だった女に向かって言った。
「今回はツイてなかったな、諦めろ。お宝は返してもらう」
踵を返すと自分の車を止めた場所に戻った。救急車のサイレン音を背中に浴びながら。
ミカンの樹を植えると、黒いアゲハ蝶がやってくるという。艶やかな黒い羽をゆったりと休めている蝶を見つめながら、私はそんなことを考えていた。じっと止まったままユラユラと揺れているだけの蝶は、強風に飛ばされてしまいそうな儚さをはらんでいる。しかし物事は必ずしも見た目通りとは限らない。うちの祖父も口癖のようにそう言っている。
春というにはまだ早い、少しピリッとした冷たい空気の日だった。暖かい日差しを待ちきれないかのように、庭の花々が少しづつほころび始めている。散歩中の子犬が弾むような足取りで飼い主を連れて通りすぎていった。私自身も沸き立つ心を抑えきれないでいた。
「柑奈、そこにいたのか。ちょっと来なさい」
家の玄関に立って私を手招きしている男が、祖父の樹太郎だ。両親は海外で仕事をしている為、私は祖父の家で暮らしている。
「なあに? じいちゃん」
家の中に入りながら尋ねた。
「お前さん、今日が誕生日だったな」
「うん、今日で18歳」
「では、分かっておるな? お前もそろそろ我が家の仕事に参加してもらいたい」
ウチは、江戸時代から続く老舗『あげは』の主だ。オーダーメイドの扇子を主力商品に、他の和装小物の販売も手掛けている。昔はお殿様に献上する品を作っていたこともあったそうだ。
現代に生きる祖父の場合は、長年勤め上げた刑事を辞めると、探偵事務所を立ち上げた。『あげは』のほうは優秀な従業員たちに任せて、自身は名ばかりの代表の座に就いている。馬弓探偵事務所は、そこそこ繁盛しており、警察や時には保険会社の依頼でコンサルタントとして活躍することもある。さっきも少しだけ話題にしたけれど、私の両親も探偵事務所の海外支社を任されている。要するに『我が家の仕事』というのは、探偵事務所の方の仕事だ。
玄関を入って右側の部屋は、資料室として使用されている。部屋の広さには不釣り合いなくらい沢山の本棚が置かれている。可動式の本棚を、とある順番で動かすと新たなドアが出現した。家の中にありながら、今日まで私自身はそこにある事すら知らなかったドア。その向こうには地下へと向かう階段が続いていた。両側の壁に設置された、暖かいオレンジ色の灯りのおかげで、薄暗いジメジメとした場所が神秘的な空間になっている。
階段を降りきると、扉がもう一枚あった。
「さあ、着いたぞ」
祖父は、重々しくうなずくと扉を開いた。
「馬弓探偵事務所にようこそ」
そこには目が眩むほどのまぶしい光が満ち溢れていた。
静寂から活気への突然の転換に戸惑ったが、珍しいもの見たさでじっくりと辺りを見渡した。家の地下にこんな場所があったことすら知らなかった。広い地下室には、複数の人々が慌ただしく働いていた。
「じいちゃん、この人たち……」
「なんじゃ柑奈、びっくりしたか」
「ここの人たち、いつもここにいるの?」
「……そんなことあるわけないだろう。ずっと地下室に籠っていると思ったか? わしらの家とは別の出入口があるぞ。そっちにはちゃんと窓のある地上のオフィスも構えている」
「えっへへへ、そうだよね」
「ここから一区画先に倉庫があっただろ?」
「うん、昔『あげは』で使っていたとかいう」
「今ではそこに、わが探偵事務所のオフィスビルがある。この地下室は主に会議室と資料室として使っている」
中央に備えられた大きなテーブルの上は、パソコンや書類で埋まっている。テーブルの脇にあるホワイトボードには、地図や写真が所狭しと貼り付けてあった。刑事ドラマでよく見るやつだ。
目に入るもの全てが興味深く思えて、落ち着きなくキョロキョロしていると、ひとりの青年が奥の方からやってきた。好奇心に満ちた輝く黒い瞳、ゆるくウェーブのかかった髪、ほんのりと日焼けして程よく引き締まったボディ。その姿は……そう……まるで……太陽神、かくの如きか……ハレルヤ!!
「おう、青島君。彼は、青島丈くんだ」
「よ、よろしくお願い……しま……」
「んまああ、あなたが柑奈ちゃんね。会いたかったわぁ。ボスからよく話をきいていたの。やっと会えた。どうぞよろしくね」
……意外性は人生を豊かにする。
「任務に行く時のコスチュームはワタシにお任せよ。……ふむ」
青島さんは値踏みするように私の姿をチェックしている。
「き、今日はジョギングの帰りにそのままここに来たんです。それよりも、コスチュームって? 青島さんはファッションデザイナーなんですか?」
「彼は装備品製作担当だ。ファッションデザインの研究にのめり込むあまり、洋服の素材の開発にまで手をつけてしまってな」
「ねえっねえ、柑奈ちゃんのことみかんちゃんって呼んでいい?」
確かに私の名前は『馬弓柑奈』だから、中央部を切り取って『みかん』と呼ぶ友達もいる。
「かまいません……けど」
「みかんちゃんをより強く美しくカッコよくするために、ワタシ、がんばっちゃうわ」
私たちが入ってきた入り口とは別の奥の扉は、地下駐車場に繋がっていた。駐車場内のエレベーターに乗り込むと、祖父は12階のボタンを押した。エレベーターのドアが開くと、そこはもう探偵事務所の地上にあるオフィスビルの中だった。祖父の執務室に到着すると、デスクの上を熱心に片づけていた青年が顔を上げた。祖父の姿を見て、たいそう安心したような顔になった。
「所長! 探していましたよ」
「待たせて悪かったな。電話で呼び出してくれてもよかったんだが……」
「電話ならしましたよ。全部で16回ほど。あなたの携帯はこの机の上でブルブル震えていましたがね。そちらは?」
こっちのほうがブルブル震えあがりそうに厳しかった態度が、私を見ると瞬時に和らいだ。
「わしの孫娘、柑奈だ。これからこの事務所の一員として働いてもらう。身体だけは丈夫だからな、ジャンジャン使ってやってくれ。柑奈、彼は万田くんだ」
「万田鈴です。よろしく」
「馬弓柑奈です。これからよろしくお願いします」
「この施設、驚いたでしょ? かなり個性的な人物もいることですし」
「はいっ、見るもの全てが新鮮で、楽しいです」
「楽しい……ね。それはよかった。徐々に慣れていきますよ。私が入社した頃のことを思いだします」
「万田ちゃん、今のみかんちゃんよりも緊張していてね」
いつの間にか隣に来ていた青島さんが後を続けた。
「まるでロボットみたいにカクカク歩き回っていたんだから」
その姿を想像した私は、思わず噴き出した。
「うふふっ、その調子よ、みかんちゃん。少しは緊張が解けたかしら」
「青島さん、あなたの場合、少しは緊張感を持ってください」
「ああ、はいはい。あああ、あの頃の素直で可愛い万田ちゃんが恋しいわ」
「今でも私は素直ですよ」
「可愛さはどこに置いてきちゃったわけぇ?」
「あなたのご指導の賜物です」
その時、それほど離れていない場所から爆発音と焦げ臭いにおいが漂ってきた。会社の敷地内のようだ。
「ほぅお? あいかわらずだな」
そのうち、数人が慌てて動き回る音や消火設備が作動する音が聞こえてきて騒ぎは収まった。
「いい機会だから紹介しておこう。柑奈こっちに来なさい」
今までいた12階まであるコの字型のオフィスビルの向かい側に、平屋の建物が建っている。二つの建物に挟まれたスペースは社員がくつろげる中庭になっている。平屋建ての建物の方には、数台の自動車や何に使うのかよくわからない機械がたくさん置いてある。そして、その人もそこにいた。
「失礼するよ、いるかね?」と祖父が入り口から声をかけた。
「ここだよ!」
姿を見せないながらも、大地が割れんばかりの唸り声のような返事が聞こえた。
「さっきの爆発音、お前さんだろ? 他にあんなことができる人間はこの会社にはおらんからな」
「ちょっとだけそこで待ってておくれ。今手が離せないんでな」
やがて機械の隙間から、小柄な女性が姿を現した。
「おや、もしかしてその嬢ちゃんは……樹太郎の?」
「ワシの孫娘、柑奈だ。今日から当事務所の一員だ。よろしく頼むよ」
その女性は手を拭きながらツカツカと歩み寄って私の手をガッシリと握った。小さな身体には不釣り合いなほどの活力がみなぎっている。
「馬弓柑奈です。今日から、よろしくお願いします」
「あたしゃ、枢亥亭クウィンだよ。他のみんなみたいに『Q』って呼んでくれてかまわないさ」
「Qはな、機械いじりが好きでな、ワシが高校生の時分にはもう自動車整備工場で働いておったわい。当時から威勢のいいお姉さんでな。今では随分と干からび……いっ痛たったた……」
「それはお互い様だよ。中身はさび付いちゃいないさね」
「Qの車の改造の腕はピカいちでな、ワシも若い時にはかなり無茶な頼みをしたもんさ。柑奈、お前も今にその腕前については知る機会があるだろう」
「さて、今回の任務だが……湊博物館へ行ってもらう」
祖父は、会議室に集まった面々を見渡してから宣言した。
会議室には、青島さんと万田さんが揃っていた。2人にはそれぞれ助手が何人かいるが、ここにいる3人が主なプロジェクトメンバーだ。
「そこでは現在『悠久の美 タンジェリンナ王国の至宝展』が開催されている。今回の仕事は王国領事館からの依頼だ」
「確かにウチは美術品がらみの事件を得意としている探偵事務所ですが……領事館からの直接の依頼とは穏やかじゃありませんね。いったいどういう内容の依頼ですか?」
「今回は特別な事情でな、万田君。……皆、タンジェリンナ王国のことは知っておるかな?」
「うん、知っていますよ、じいちゃん。周辺の列強からの圧力にも負けず、独立を保ち続けている小さな美しい国です」
「たった今調べたばかりのようだが……まあいいわい。そしてその、独立を保っていられた最大の理由は、領土内に豊富に眠っているオパールだと言われている」
「ワタシ、聞いたことがあるわ。資源が枯渇しないように、値崩れしないように厳密に管理されているそうよ」
「青島君のいう通りだ。今回はそのタンジェリンナ王室所蔵のお宝が公開される。その中でも最も重要な展示品は、世界最大と噂されているオパール、その名も『ミラクルスパークルペンタクル』だ」
会議室のモニターに巨大な宝石がついたネックレスが映し出された。こんなの身に着けたら首が無事では済まなそうだ。
「実はこのオパール、あまりにも有名になりすぎたせいか、何度も狙われた。直近では怪盗スコーピオンの事件だ」
「やだっ! あのスコーピオン? 名のある宝石の持ち主は必ず彼女を警戒すると言われている、あのスコーピオン? 複数の国の捜査機関を手玉にとり、一度も捕まったことがないんですって。誰も本当の姿を見たことがないのに絶世の美女だと伝説になっている……」
「監視カメラにも映っていないの?」
「その時々でガラッと見た目が変わるみたい。変装の名人なのよね。それに、堂々とふるまっている人物を誰も怪しんだりしない。こっそりと忍び込むだけが泥棒の手口じゃないのよ、みかんちゃん。特に自分が魅力的であることを自覚している人間にとってはね」
「確か……タンジェリンナ王国といえば、つい最近宝石盗難騒ぎが起こったような……捜査官に追跡される途中で犯人が交通事故を起こしたとか」
「ああ、王国の捜査官によると、その犯人がスコーピオンだった可能性が高いとのことだ」
「可能性? 逮捕したわけはないんですね」
「その通りだよ、万田君。事故を起こして救急搬送されたものの、いつの間にか病院から消えていたそうだ。王国側としても宝石を取り返したのでそれ以上は追求しない方針だそうだ」
「待ってくださいよ、所長、その宝石が『ミラクルスパークルペンタクル』ということですか? 宝石盗難のニュース、見たのは3日前だったような……では今、湊博物館に展示されているものは?」
「精巧に作られたイミテーションじゃよ。皆、聞いてくれ。これからの話は他者には決して漏らさぬように。われわれが知っておいた方がよい情報をここで開示する」
以下はタンジェリンナ王室付文化財保護部(通称T.C.P.I.)フォーブル・デ・コポン捜査官からの情報に後日、万田さんの調査結果を併せたものだ。(青島さんの空想も少しだけ入っている)
はるか遠い昔のこと、タンジェリンナ王国は大変な喜びに包まれておりました。ついに今日、王様の後継ぎが生まれたのです。国民に敬愛されている王様のこと、国中から祝福と贈り物が届けられました。ある日王様はたくさんの贈り物の中から、それはそれは美しい宝石を見つけました。やがて産まれてくる王子のため、昼夜を惜しまず堀りつづけた鉱夫が見つけた宝石でした。王様たちは心づくしの贈り物に大変感激しました。玉虫色のキラキラとした光をとじこめたその宝石は『ミラクルスパークルペンタクル』と名付けられ、代々後継ぎの子供に譲り渡されました。何が起きてもこれだけは決して手放してはならないと言い伝えを添えて……。それから長い年月が経ち、現在の王様には一人息子がいます。最近元気がない王子を見るに見かねて、理由を問いただしました。すると、宝物庫にしまってあった首飾りを、知り合ったばかりの女性にプレゼントしてしまったのだと告白しました。その代わりに、別の場所に保管されていたイミテーションの首飾りの箱を宝物庫に入れておいたのだそうです。いつばれるかとヒヤヒヤしたり、やがて自分が受け継ぐ家宝を少し早めに使っただけだと思ったり……2つの感情の間を揺れ動いていたのです。さらに厄介なことに、その女性、首飾りを受け取った途端パタリと連絡が取れなくなっていました。王子の焦燥はかなりなものであったことでしょう。
話を聞いた王様は真っ青になりました。その首飾りに付いていた巨大な宝石こそ、『ミラクルスパークルペンタクル』だったからです。そのうえ、2週間後に日本で始まる展覧会で『ミラクルスパークルペンタクル』を披露することが決まっていました。国交樹立150周年を祝う大がかりなイベントです、今更中止することはできません。日本向けの荷物はすでに荷造りが済んで、まさに今日、出発させる予定でした。王子には、後でタップリとお説教することにして、王様は事態の打開に動きます。腹心の部下でもあるT.C.P.I.のフォーブル・デ・コポン捜査官に助けを求めたのです。デ・コポン捜査官は一計を案じます。日本向けの荷物はこのまま予定通りに出発させること。王子の元ガールフレンドから本物の『ミラクルスパークルペンタクル』を取り戻し次第、自ら日本まで送り届けようと。それには日本側にも協力者が必要です。捜査官の脳裏には昔からの知り合いの、ある刑事のことが浮かびました。今では引退して探偵をやっているはず……そうだ、彼に相談してみよう。
こうして、無事に取り戻された本物の『ミラクルスパークルペンタクル』が今私たちの目の前に披露された。
「これが世界最大のオパール……」
思わず息をのんだ。チラチラと色彩が変化する煌めきは、火花か星か。それが澄み渡った空のような、静かな海の底のような石に閉じ込められている。熱とみずみずしさという正反対の印象を併せ持つ神秘的な宝石だ。
「……今回の展覧会、本当に重要なのね」
青島さんもそれ以上言葉が続かないようだ。
「国交樹立150周年の記念行事だ。最初にとんだケチがついてしまったが、ここから巻き返せばよい。王子の醜聞がらみの事件ゆえ、内密に処理してほしいと頼まれたのだ。そこで、今回の我々の仕事は、このネックレスを湊博物館に展示中のイミテーションとすり替えてくることだ。もちろん博物館にばれぬようにな」
「作戦は博物館の定休日前日、すなわち明日決行です」
次の日、再度集まった私たちに万田さんが説明を始めた。
「柑奈さん、あなたには時間になるまで、『ミラクルスパークルペンタクル』が展示されている特別室の隣の、第一展示室で待機してもらいます」
「他のお客さんがいなくなるまで待つの?」
「明日は定休日前日の事務処理の為、午後3時に閉館します。博物館のスタッフが客の誘導と見回りで手一杯になりますので、その隙をついて特別室に入ってください」
「いいか、柑奈、再度言っておく」
祖父がいつになく真剣な顔で付け加えた。
「我々を雇ったのはあくまでもタンジェリンナ王国だ。くれぐれも博物館側にばれぬよう注意を払ってくれ」
「初めての仕事にしては危険すぎる気が……」
「私と青島さんもちゃんとバックアップしますよ。あなたは余計な心配をせず、目の前のことに専念してください」
万田さんの眼鏡が頼もしく光った。
青島さんの部屋に入ると、2人いる助手が中を一通り案内してくれた。入ってすぐ右手側には、人間1人が入れそうなロッカーのような物体が、2つ置いてあるのが見えた。部屋の中央には作業用の大きなテーブルが、そしてデスクやパソコンなど普通のオフィスっぽいアイテムが壁沿いにずらっと並んでいる。部屋の奥にもドアがひとつあった。黒と白で統一されたオフィスには似つかわしくない、重厚な木製の扉。顔の高さの部分にはガラスがはめ込んである。向こう側が透けて見えないモヤモヤした模様のガラスだ。そのドアの向こう側には、まるで別世界が存在していた。小さな花模様が散らばったピンク色の壁紙に濃いバラ色のフカフカのカーペット。ポールに掛けられた衣装の山。靴やアクセサリーなどの小物は規則正しく色別に飾られている。大輪の花に埋もれて抜け出せずにいる小虫の気分になったところで青島さんが登場した。
「明日の為の衣装を製作しましょう。……間に合うのかって顔をしたわね、みかんちゃん。このお兄さんに任せなさい」
そう言うと、一番目のロッカーみたいな機械の前に私を連れて行った。
「まずは……採寸ね。みかんちゃん、この中に入って」
青島さんに渡されたゴーグルをつけて恐る恐るロッカーみたいな機械の中に入った。
「両足を床についている印のところに乗せてね。両腕はそのまま、力を抜いて自然に下へ降ろして」
そこまで説明すると、青島さんの助手がロッカーの扉をパタンと閉じた。
「ワタシがいいと言うまで、そのまま動かないでね。じゃあ始めるわ」
ヴィンヴィンと、かすかな振動音とともにロッカーみたいな機械が起動した。
「みかんちゃん、もう少しの辛坊よ」
ものすごく長く思える3分が経過した後、ピピピッと音がしてロッカーが停止した。
「はい、もういいわよ、出てらっしゃい」
ロッカーの外に出て、思い切り深呼吸をした。
「息はしてもよかったのに……」
「……へっ? はっ、そうですよね。じっとしてなさいって言われると、つい緊張しちゃって」
「立っているだけでいいから楽だったでしょ」
「これは……どういう仕組みなの?」
「内部の壁と天井から発生している超音波で、身体を立体的に採寸したの。後は、今測ったサイズを使って、こちらの機械で服を出力するだけ」二番目のロッカーみたいな機械を指さしながら言った。
「どれくらいかかるの?」
「そうねえ、今回のデザインだと5時間ってところかしら。この機械専用の溶液を入れて、空気に触れさせることで特殊な繊維になるの」
「青島さんが服のデザインもしたんですよね」
「もちろんよ。元々ファッションデザイナー志望だったもの」
「ファッションの世界じゃなくウチの事務所に入ったのはどうしてですか?」
「お洋服に関する仕事は好きよ。でもそれだけでなく……ここでなら一歩先へ進んで素材の研究までできるからかしらね。研究に没頭しすぎても誰にも咎められないもの。こんな機械の開発に携わったりね。ああ、ワタシがやりたかったのはこういうことなのって、ここへ来てハッキリ理解したわ」
ここで祖父の言葉を思い出した。
『青島君は、ファッションデザインの研究にのめりこむあまり、洋服の素材の開発にまで手をつけてしまってな』
「この機械ってもしかして……」
「ああ、ええ、Qと一緒に製作したの。彼女大抵何でも作ってくれるのよ。山ほど文句を言いながらね」
「その光景、目に浮かぶ……。さっき特殊な繊維って言っていたけど、どういうものなの?」
「ワタシの研究チームが6年かけて開発した特別な素材よ」
傍らに控えていた2人の助手が得意気にうなずいた。
「着ている人物が身体能力を多めに発揮できるように、この素材がアシストするの。うん、例えば……より高く飛び上がれるとか、素早く腕を振れるようになるとか。繊維を織り込む向きや量によって強さやしなやかさ、俊敏さを強化できるの」
「スポーツウェアみたいな感じかな」
「ええ、発想は似ているかもしれない。今回は、博物館に着ていっても馴染むデザインだけどね」
「着心地はどうかしら?」
今日が初任務の日。青島さんが更衣室のドア越しに心配そうに尋ねてきた。
「バッチリです。私にはちょっと大人っぽいかも」更衣室から出て青島さんにお披露目した。
「よく似合っているわ。」
試しにピンピョン飛び跳ねてみた。
「特に普段との違いは判らないけどな……」
「特別な素材だからといって過信しないで。あくまでもみかんちゃんが元々持っている身体能力を補強してあげているだけだから」
今回青島さんが用意してくれた衣装は、自分では絶対に選ばないであろう服だった。コックリと深いアースカラーのブラウス。ピッタリと腰に寄り添った後、緩やかに流れ落ちる水のように脚にまとわりつくスカート。動きやすいことだけを考えて着る服を選んでいる私にとっては、たいそう大人びたスタイルだ。
「確かに、今のみかんちゃんには落ち着かない服かもしれない。でもね……鏡を見て。みかんちゃんは初めて会う人のどこを見る?」
「……やっぱり見た目かな。服装でなんとなく人となりが解るから。スポーツが好きな人なのかなとか、ブルーが好きなのかなとか、あとは年齢とか……」
「そうよね、相手の情報を瞬時に集めようとするならそこから始めるわよね。いい? 装うということは、自分を偽るということではないの。あえて言うならば簡略化した情報を相手に与えるということかな。自分が何者であるかを誇示したり、場合によっては周囲と同化する。戦うための剣でもあり、身を守る盾でもあるの。だからね、それが必要な時が来たら決して手を抜かないで」
次に青島さんと私は、奥の部屋に来た。そこでは、Qが待っていた。
「初めての任務に出かける嬢ちゃんにプレゼントだよ」
Qは、そう言うと小さなカゴを私に寄越した。中には眼鏡が一つ入っていた。
「嬢ちゃんがこの眼鏡で見たもの全てが送信、録画されるようになっている。その名も『プライベートアイNo.3』だよ」
「ありがとう、Q……普通の眼鏡に見えるけど」
「敵さんに異変を察知されないのは重要なことさね。カメラを持ち込めない場所にも、うってつけだ。嬢ちゃんはただ対象物を視界に入れればいい。待機している万田君のところにデータが送られるからね。私にできる事はこれくらいさね。あとは……危険な目に遭わないよう、祈っとるよ」
「では、みかんちゃん、準備はできたわね」
青島さんが促すようにドアを開けた。
「さあ、SHOWの始まりよ」
「柑奈さん、10分後にミッション開始だ。用意はいいかい?」
万田さんの声がインカムから流れてきた。お宝を隠し持っているバッグを確認するかのように撫でながら、今日の手順を頭の中でおさらいした。現在、私がいる第一展示室の奥(博物館の入口を背にして立った時の前方)に通路がある。首飾りが展示されている特別室に入るには、その通路の手前で待機している係員に入場チェックを受けなければならない。さらに特別室の扉の真向かいに監視カメラがひとつ設置されている。カメラは、第一展示室(左側)、特別室のドア(正面)通路の奥の扉(右側)の3方向を5分ごとに切り替えながら監視している。午後2時50分に閉館のアナウンスがあると、入場チェックの係員は客の誘導のため、席を外してしまう。外の出入り口が施錠される午後3時までに、私は監視カメラの死角をついて首飾りを取り替えてこなければならない。
『お客様にお知らせいたします。間もなく閉館のお時間です。お忘れ物の無きようご確認いただき、係員の指示に従ってください。本日はご来館いただき、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております』
館内放送が始まった。外に出ようとする客の流れに逆らって、なんとか特別室につながる通路の入口にたどりついた。車で待機している万田さんが、(不正な手段を駆使して)監視カメラの映像を見て侵入のタイミングを教えてくれる手筈だ。
予定通り、特別室の手前にいる係員は席を外していた。だがホッとしたのも束の間、人生最大のピンチが訪れた。特別室のある方向から警備員がひとりこちらに向かって歩いてきたのだ。一瞬、身を固くした。この時間ここに警備員がいるはずはないのだけれど。隠れる場所を探しながら、この先起こるかもしれない不愉快なあれこれが脳内を駆け巡った。耳の中で万田さんの声が聞こえる。
「柑奈さん? 今映っていた男は?」
「警備員みたい。でも私には目もくれないで出て行っちゃった」
緊張でこわばった首筋を軽く揉んでいると、万田さんの次の指示が来た。
「OK、柑奈さん、特別室の扉の電子ロックは解除した。10カウントでドアの中に入るんだ。あとは予定通りに」
滑り込んだ特別室のドアの内側は静まり返っていて、空調設備のかすかな音だけが聞こえた。
「よしっと」
あとは展示ケースを固定している4個の南京錠を外して中身を入れ替えるだけだ。今時南京錠って思うだろうけど、ウチの祖父曰く『デジタルとアナログのミックスこそ最強の防御』だそうだ。
しかし、ピッキングの道具を取り出す前に、ある事に気が付いた。
「万田さん、どうしよう……」
目の前にあるのは空っぽの展示ケースだった。
「南京錠は全部外れていて、首飾りが消えている」
「何っ! ……しかたない、考えている余裕はない。本物の首飾りを飾ったら南京錠を掛けて、早くそこから脱出するんだ。できるね? 裏通りに止めた車で待っている」
「了解!」
手早く本物の首飾りを飾ると南京錠を掛けなおした。
「これで、よしっ。」
やっと収まるべきところに収まった家宝は、異国の地で起こった騒ぎなど知ったことかと言わんばかりに落ち着き払っているように見えた。
急いで第一展示室に戻ったものの、館内を巡回中の職員がやってきた。慌てて近くの展示品に見とれているふりをした。
「お客様……」
本日2回目の人生最大のピンチがやってきた。どうしよう……。
「柑奈さん、できるだけ関係のない話をして相手をイライラさせ……っちょっ、何をするんですか青島さん」
「みかんちゃん聞こえる? そこに飾ってあるのはヴィクトリアン様式の椅子よ。家にも欲しいとか何とかとにかく話し続けなさい。その人をうんざりさせるのよ」
「そうです、柑奈さん。あなたがそこで何をしていたか不審に思われるよりも先に、あなたを早く追い出したいと思わせることを目指してください」
「……さま、……お客様、もうじき閉館ですが……」
「っは、すっみません、早く出なくちゃって思っていたんですけど、化粧室にこれを置いてきちゃったのを思い出して」
顔にかけている『プライベートアイNo.3』を指さして言った。そして博物館の職員が口を開けて何か話し始めるより先に後を続けた。
「あの、これってヴィクトリアン様式ですよね。私、インテリアの勉強を始めたばかりで、もしかしてそうかなって。というのも、うちの母がアンティーク家具に目がなくって、ウチにもこんな椅子が欲しいっていつも言ってるんです。すでに部屋中、古い家具であふれかえっているんですけどね。掃除するの面倒だってこの前言ってやったんです。まったくもう、はるとなんて、あ、はるとって私の弟なんですけど、どこの宮殿だよって実家に帰ってくるたびに笑ってます。それでも次々と欲しいのが出てくるみたいで。いろいろ探して回っているんですけど、なかなか母の気に入るものがなくて……あっこれが欲しいってわけではなく、似たようなのがあればなって。それにしても……」
「あのぉ、よろしければ外の販売ブースに展示カタログがございますから、そちらをお買い求めください。本日はご来館ありがとうございました」
職員が心底困ったような笑顔で送り出してくれた。
「ええ、社長。我々よりも一足先に忍び込んだ者がいたようです。……はい、了解です」
「……それで、これからどうするの?」
「何も……しません。博物館側に被害はなかったのですからね。王室側は当初はイミテーションが飾ってあったことをなるべく世間には知られたくないようですし、警察も動かないでしょう」
「ふうん、そういうもんなんだ」
「そうよ、みかんちゃん的には不完全燃焼でしょうけれどね。イミテーションとはいえ王室の財産に変わりないし、そこそこお値段の張るものでしょうから、あとでボスからT.C.P.Iだっけ? に報告しなくちゃね。とは言え……ワタシたち、王室のピンチを救っちゃったんじゃない?」
後部座席に座っている青島さんとハイタッチした。
博物館を一周するかたちで正面側に出て信号待ちをしていると、見覚えのある警備員が横断歩道を渡っていた。
「あっ、あの人! 特別室に入る直前にすれ違った警備員だ! なんだか怪しいと思ったんだよね」
「同じ人物のようですね」
万田さんも確認した。
「みかんちゃんはどうして怪しいと思ったの?」
「他の客はみんな帰り始めているのに、奥へ向かっている私を気にも留めなかったから」
「一理あるわね。みかんちゃんを客だと思ったのなら声をかけただろうし、従業員だと思ったのなら顔見知りでないミカンちゃんを不審に思うはずだもの」
「あの男、追いかけないの?」
「なんとなく怪しいというだけでは何もできませんよ。後で今日の画像を分析してみましょう」
「みかんちゃんに怪我がなくてよかったわ。本日の任務、これにて終了!」
「あっ! 来た来た、万田ちゃん、みかんちゃん、こっちよお」
一足先に来ていた青島さんが店の奥の席から手をブンブン振っている。
席に着くと、早速女将の春海さんがやってきた。
「あらっ、柑奈ちゃんよね? 樹太郎さんのお孫さんの。随分とお姉さんになって……」
「みかんちゃん、この店に来たのは初めてよね」
青島さんが不思議そうに尋ねた。
「そうなのよ、青島さん。柑奈ちゃんが小さい頃に何度か会っているけどね。ここに来たのは今日が初めてね。私のこと憶えているかしら」
「はい、もちろん。祖父がよくこの店の話をしてくれています」
「そうなの? また会えてうれしいわ……これからご贔屓にね」
「春海さん、ビール追加ね」
「青島さん、柑奈さんはまだビールは飲めませんよ」
「ワタシが代わりに飲むわ。二人とも好きなものをドンドン頼みなさい。今日はパーッと飲むわよ、みかんちゃんが初任務を終えたお祝いだもんね」
ここは小料理屋『不知火』。探偵事務所の近くにあることから、ウチの事務所のスタッフがよく通っているらしい。女将の春海さんと板前の二人で切り盛りしている小さなこの店は、常連の客だけで一杯になってしまう。春海さんとウチの祖父は、何年も前、祖父が刑事だった時代に知り合ったそうだけれど、その話はまた追々。