帰郷
どうも始めまして、ジュラ紀の怪物というものです。
この話は物語的なイベントが発生するのではなく、
キャラクターの心理変化を意識して書いてみました。
よろしければご意見お願いします。
馬がいななきを上げて歩みを止めた。馬の後方には幕の付いた荷台が取り付けられており、ロイはその中でひとすじの雪が幕の間から内部に入り込んでくるのを目にした。荷台は皮で出来たアーチ状の幕の張られているとはいえ恐ろしく寒く、ロイの身体は芯まで冷め切っていた。
寒さに耐えているロイの目に見慣れた光景が映った。生まれ故郷、十七歳でこの町を出て行ってからもう四年が過ぎたのか、感慨に捕らわれたのも一瞬で、ロイは荷台から降り立った。
雪は深く降り積もっており、ロイが足をつけるとズッと音を立てて足首まで飲み込んだ。
戻ってきた、母親の死に目以外は帰る事は無いと思っていたのに、ロイの住む都心から故郷の町までは遠く離れており、鉄道を五時間、その後雪の降り積もった街道を馬車に乗って二時間走ってようやく町に着く。
友人からの手紙を受けとっていなければ自らの意思で帰る事は無かっただろうとロイは思った。凍える手に息を吹きかけながらロイは馬主に運賃を支払った。
「あんたこの町の出身かい?」
だまって立ち去ろうと考えていたが、馬主が話しかけてきたので仕方なくロイは答えた。
「ええ、まあ」
「この町もさびれたなぁ、昔はここも製鉄で賑わってたのに」
「つまらない町ですよ、四年前から製鉄も落ち目でした。ほとんど老人しか残っていない」
ロイはそれだけ言ってと故郷に向かって歩き始めた。
町の中に入っても外から見た様子とは変わらなかった。町は過疎化が進んでいるのか子供の姿が見えない。ロイの目に入るものは雪と老人だけであり、ほとんど動かないので生きているのか死んでいるのかすら分からない。死んだ町だな、四年前と同じようにロイの胸に再びその思いが沸いてきた。
寂れた町に一陣の風が吹き、空から振る雪をロイの身体に貼り付ける。厚手のコートを着ているとはいえ二時間馬車に揺られ続けたロイの身体は体の奥から震えが来るほど冷え切っていた。今はただ身体を暖めるために何か飲みたかった。この町にもパブの一つくらいあったはずだと記憶を遡りながら足を踏み出した。
「ロイ? ロイか?」
背後から自分の名を呼ばれロイは振り返った。ちらちら落ちる雪の中で薄手の作業着を着た長身の男が立っていた、ロイに手紙をよこした友人、フォールズだった。
「フォールズ? ほんとにフォールズか? 久しぶりだなぁ」
「馬車が見えたからお前じゃないかと思って見にきたんだ。懐かしいなぁ、おまえ全然帰ってこないから、もう四年ぶりじゃないのか? 元気にしてたのか?」
「こっちは何とかやってるさ、おまえは?」
ロイはちらりとファールズの身なりを一瞥した。綿の全く入っていなそうな薄手の作業着、しかも油やすすやらで汚れている。あまり良い生活をしているとは思えないなとロイは感じた。
「こっちも何とかやれてるさ、もう実家には帰ったのか?」
「いやまだだよ、これから帰るところだ」
「そうか、家に帰ったらおふくろさんによろしくな、最近あってないから」
「伝えておくよ。これから仕事なのか?」
「ああ、もう少し残ってる。ロイ、せっかく帰ってきたんだ町に泊まっていくんだろ? いろいろ話したい事もある飲みに行こう」
「なら今晩行こう」
「よし、それならアンナも連れて行く」
フォールズは軍手をかぶせた指を町の奥に向けた。
「覚えてるか? あそこを右に曲がった三件目にパブがある。この町では一番でかいところだ。そこに七時に集合だ」
「わかった。待ってるよ」
「ああ、すぐに仕事を終らせてくる」
フォールズが寒そうに腕を組みながら立ち去っていくとロイもゆっくりと歩き始めた。
しばらく町を歩いていると懐かしい思い出が心の奥から湧き上がってきた。他人から見れば何の変哲の無い細道でさえロイを感傷的な気分にさせた。やがてロイは一番多くの記憶が残る場所、自分の生家に訪れた。
父はロイが十歳の頃に死んだ。それ以来ロイと母は二人で暮らしてきたが、ロイが町を出て行ってからは母は一人で家の中にいる。
元気にしているのだろうか? 昔から身体は丈夫な人だったが、もうすぐ六十を迎える高齢である。どこか体が痛むことは無いだろうか?
家のドアの向こうからはかすかな物音が聞こえてくる。確かに母は家の中にいる。だが、ロイは家から五メートルほど離れた雪の上でじっとたたずんでいた。
なぜかあのドアを開ける気にはならない。
母に会いたくないわけではない、過去に特別な確執があったわけではない。町を出るときも少しさびしそうな顔をしただけで特に反対もされなかった。
母は何か秀でた所があった訳でなく、特別に尊敬もしていなかったが、人並みの愛情を与えてくれた事には感謝していた。
それでもなぜか家のドアは遠く離れて見えた。あのドアを開けてしまえば自分の中で積み上げている何かが壊れるような……
パブの中で飲むジンは上手かった。冷えた体の中をアルコールが暴れ回り火が付いたように温まった。
酒が頭の中にまで入り、凍っていた記憶を溶かすのか、昔の思い出が洪水のように溢れてきた。
ロイの幼年期はあまり楽しい記憶がなかった。生来の性格なのか人と関係を築くのが苦手で、友達はいなかった。当時は父も母も仕事に出ており家の中で一人で遊ぶことが多かった。
それを変えてくれたのがフォールズだった。ロイの家の近くにフォールズ一家が越してきた事で親交が始まった。引きこもりがちなロイの元にフォールズが毎日強引に遊びに来るのだがロイもあまり嫌ではなかった。
フォールズと仲良くなると友人がもう一人増えた。一つ年下のアンナという女の子だった。ブロンドの髪をした活発で可愛らしい子でロイの近所に住んでいたが、フォールズに紹介されるまでロイはアンナの事を知らなかった。
三人でいれば楽しかった。小さな町が大きく見えた。
だがそれもロイが思春期を迎えると急に町が色あせて見えるようになった。
この町は死にかけている。町を支えている製鉄所も昔は昼夜問わず動いていたが、ロイが物心付く頃にはすでに活気を失っていた。
変わることの無い繰り返しの中で細々と日々を生きる町の住人達、ロイの目には彼らが酷くつまらない存在に見えた。この町にいてはいずれ自分もこの町と同化してしまう、そんな恐怖にも似た感情を抱きロイは町を出る決意をした。
学校を卒業して十七歳になるとロイは馬車に忍び込み都会に向かった。都会に出てしばらくは食うや食わずの生活を続けていたが、ある日土地を多く所有する金持ちに拾われる。学校でも計算だけは誰にも負けなかったロイは金持ちから信頼されて不動産の管理を任されるようになった。
地方の小さな町から都会に集まる若者と比べるとロイの生活は非常に豊かだった。空腹に悩まされることは無く、少し我慢して金を貯めれば大抵の欲しい物は買えるだけの金は貰っていた。
フォールズもアンナもこの町を捨てて都会に出てくれば良い生活を遅れるのに、特にアンナはあんなに可愛かったのだから別の道があるだろう、ロイには若者を縛る死にかけた町が忌々しくも見えた。
客がおらず静まり返っているパブに客鈴が響いた。ロイが目を向けると先ほどと変わらない汚れた作業着姿のフォールズとその背後に女性の影が見えた。フォールズはロイの姿を見つけると片手を上げてロイの座る席に近づいてきた、その背後にいる女性、アンナもロイを見つけると満面の笑みを浮かべて近づいてきた。ブロンドの光沢のある髪を短く切ったアンナは四年前と変わらずとても可愛らしく見えた。
フォールズとアンナは店員を捕まえると何か注文を出してからロイの座るテーブルに席を下ろした。
「久しぶり! ロイ元気だった?」
アンナが爛々とした表情でロイに聞いた。
「なんとかね」
「でも、少し痩せたんじゃないか?」
そう聞いたフォールズは上着を脱ぐとガッチリとした体つきをしていた。仕事で鍛えられているのだろうとロイは思った。
「そうね、少し胸板が無くなったみたい、ちゃんとご飯食べてるの?」
アンナは心配そうにロイの顔を覗き込む。
「心配されることは何も無いよ、向こうじゃ机に座って楽に仕事してるよ」
「そうか、すごいな、都市に行った若者なんて安い賃金で働かされて食うや食わずだって聞いてたのに。ロイは上手くやってるみたいだな」
「たいしたこと無いよ、たまたまだよ」
ロイは少し照れくさい気になった。
「そっちはどうなんだ?」
「あ~、そうだな」
ロイはフォールズに質問を投げた後少しだけ後悔した。この町では景気の良い話なんてある訳が無いと思った。
「毎日大変だが、なんとかやっていけてるよ、なぁ、アンナ」
フォールズに水を向けられるとアンナは笑みを浮かべて頷いた。その言葉を解さないやり取りが自分が居ない間に深まった二人の仲を感じさせるようで、ロイは少し不安になった。
「フォールズは製鉄所で働いてるんだろ?」
「そうさ、俺もアンナもあそこで働いてる、子供の頃から見てた場所だけど、実際働いてみると楽しいぜ」
楽しい、この町の様子から考えもしていなかった言葉がフォールズから出てロイは驚いた。この町で暮らしていて楽しいと思えることがあるなんて信じられなかった。
「昔ながらのワイヤーだか鉄パイプを作ってるのかい?」
「それも作ってるが、なかなか買ってくれなくてね。今は新しい所にうちの製品を買ってもらおうと工夫してんのさ」
「昔のままの事を続けてたら駄目じゃない? だから町ぐるみで鉄道のレールを作ろうとしてるの」
アンナはそう答えたがロイはその言葉を信じることが出来なかった。鉄道のレールを作ることが出来るのならば莫大な金がこの町に入ってくるだろう。だが、そんな物を作れる工場は都心近くに集中している。とてもではないがこの寂れた町でレールが作られる光景をロイには想像できなかった。
「どうやって? この町の設備じゃ無理だろう? それに作れたとしても大きな工場と勝負になるのか?」
「まともにやっても大きな工場とは勝負にならない、だからカーブのキツイところだけでもうちで受注して貰おうとしてるだ。大きな工場ではそこの不良率が高いらしいからな」
そんな事出来るのか? この小さな町で? ロイは二人が嘘を言っているのではないかとさえ思った。
「大手の工場でも難しいんだ。鉄パイプばかり作っていたこの町の工場で曲がったレーンなんて作れるのか?」
ロイは自分の中で何かが暑くなっているのを感じた。自然と口から出す言葉は二人を責めるような口調になっていた。だが、そんな言葉を浴びさせられてもフォールズは気にする様子も無く泰然としていた。
「それをいまやろうとしてるのさ」
「最近フォールズったらすごいのよ、化学の本ばかり読んでるの、それに都会の大学まで行って偉い学者の人に色々教えて貰ってるんだよ」
ロイが本当にそうなのかとフォールズを見ると彼は照れくさそうに笑っていた。
「慣れないことだからな、頭が痛くなってくるよ」
「それで何を学んでるんだ?」
「レーンに使う鋼の剛性や強度を高めるために組成や溶かす温度なんかを確立しなくちゃいけないんだよ。同じ素材でも地域によって配合率やら特性が違うからその都度工夫しなくちゃならない」
フォールズの説明を受けてもロイには全くイメージが掴めなかった。
「まだまだ失敗ばかりだが、もう少しで上手くいきそうなんだ」
フォールズが何を喋っているのかをロイは分からなかったが、自身の仕事を語るフォールズは輝いて見えた。
友人の仕事ぶりに賞賛の言葉を送るべきだろうとロイは思ったが、どうにもその言葉を発する気にはなれずに話の方向を変えた。
「アンナはどうなんだ?」
「私は事務の仕事よ、お金の管理ね」
アンナの言葉を聞きそれならば自分と同じだとロイは感じた。
「それだけじゃないだろ。アンナは鉄道会社との交渉役もしてるんだ」
ロイがアンナの顔を見るとアンナ首を振った。
「そんな大したことはしてないよ」
「なにいってんだ。おまえが鉄道会社と上手く取引したおかげで、レーンが完成したら町に鉄道が通るようになったんじゃないか」
この町の鉄道が? フォールズとアンナのおかげで? ロイはあっけに取られた表情で二人を見つめた。
「鉄道の話はまだ決まったわけじゃないよ」
「ああ、そう、完成したらの話だけどな」
「いや、すごいな、二人とも」
ロイは何とかその言葉を喉から搾り出した。
「俺達だけでやったことじゃないけどな」
「そうね、フォールズが音頭を取ったけど町のみんなの協力がなかったら何も出来なかったし」
フォールズが音頭を、そういえば昔からみんなの中心になる男だったなとロイはフォールズの顔を眺めた。
「二人はなんでそんなにがんばってるんだ?」
自然と出た言葉だった。特に深い意味の無い言葉だったが、それを浴びせられた二人はぽかんととした表情を浮かべた。
「なんでか…… まあ、俺はみんなと働くのが楽しいからだし、それにこの町がゴーストタウンになるのが嫌だからかな」
「私も、ロイも知ってると思うけど若い人が皆出て行っちゃて、この町に子供がいないのよ、このまま何もしないと故郷がなくなるわ」
ロイには確かな目的に邁進し、日々を充実させる二人が眩しく思えた。そしてふと心の中で疑問が浮かんできた。それに引き換えお前はどうなのだ?
「私、ロイが都会で何してるのか聞きたい」
「え?」
アンナに好奇心に輝かせた目を向けられたが、ロイはとっさに答えることが出来なかった。急いで自身の昨日までの日々を思い返した。
泊り込みで働いている事務所で目を覚ますと、まず店の前を掃除して、それが終ると料金未納者に催促の手紙を出し、時間があれば汚らしい空き部屋まで出向き掃除する。そして週末に売り上げの計算をする。
思えばこの四年間は同じ仕事の繰り返しだった。変化が無く、新しい発見も無かった。なによりも自身に成長の実感が無かった。おれはこの四年間いったい何をしてきたのだ? 目の前に座る活気溢れる二人に比べ自分は一体……。
「たいしたことしてないよ」
ロイはなんとか声を出した。そこから先はジンの味も会話の内容も入っては来なかった。
積みあがったわだちを民家の窓から漏れた光が照らしている。空を見上げれば星の光の隙間から新しい雪が降り注いでいた。
パブを出た後、三人で並んで歩いていた。ロイはどうにも喋る気にはなれず、ただ一人になりたいと思っていた。隣を見ると酒で上気したフォールズとアンナが楽しそうに冗談を交わしていた。なんだか取り残されているなロイはそう感じた。
悶々とした気持ちを抱えて道を進んでいくと、懐かしい分かれ道入り込んだ。この道は確か製鉄所に繫がっていたはずだ。
「少し寄って行く」
「そう、気をつけてね」
気が付くとフォールズは目の前に立っていた。
「ロイ、久しぶりに会えて嬉しかったよ。たまには帰って来いよ」
フォールズはロイの肩に手を置いた。その手が妙に重く感じられて、ロイは力なくああと答えた。
「アンナを家までよろしくな。じゃあ元気でな」
先ほどまでしこたま酒を流し込んでいたのに雪道を歩くフォールズの足取りはしっかりとしていた。ロイにはその後姿が立派な大人に見えた。
「帰ろっか?」
フォールズの後姿をしばらく見ていた後で二人は歩き始めた。
先ほどとは違い二人は無言で、並んで歩き続けた。雪が音を吸い込むのか辺りは静寂に包まれ、二人の足音だけが響いていた。
二人の間には無言の間があったが、ロイはそれを苦痛とは感じなかった。アンナはそんな事で気分を害する女の子では無いと知っていたし、今も怒っていないのは雰囲気で分かった。
「ロイ」
アンナは急に立ち止まるとロイを見据えた。
「私、結婚するの」
何を言っているのか理解できない、誰と? まさかフォールズと?
「おめでとう」
混乱する頭が出した精一杯の理性的で常識的な言葉だった。
「ありがとう」
アンナは屈託の無い表情でニヤッと笑った。
「ごめんね。ロイのこと驚かせたいからフォールズにまだ黙ってろって言われてから」
「やっぱり、フォールズと結婚するのか?」
目と口を見開き、アンナはロイを見た。
「え? 何言ってるの、ありえないでしょ。私達が結婚なんて」
「そうなのか、俺はてっきり……、相手は誰なんだ?」
「ロイの知らない人よ、ロイと同じ都市に住んでる人。といっても今は仕事で遠くに行ってるから会えないんだけど。一年後に帰ってきたら結婚しようって約束してるの。ちゃんと決まってからロイには言おうってフォールズに言われててね」
「そうか、アンナが結婚とはな、おどろいたよ」
「結婚式はこの町でするつもりだからロイもきてよね」
ロイはあいまいに頷いてから盗み見るようにアンナの横顔に目を向けた。先ほどまで幼さが残っていると思っていた表情が急に大人びて見えるようだった。
アンナが結婚か、さびしいような悲しいような気分になった。先ほどまで痛んでいた所とは別の所に穴が開いたような気がした。
「ロイはいい人いるの?」
「オレ?」
いない、いるわけが無い。
「いないの? ロイには年上の女がいいんじゃない? お姉さん的な」
それはオレが頼りないということか? 男として自立していないということか? アンナはそんな含みを持たせた嫌味をいう女でないと分かっていても、もはや何を聞いてもマイナスにしか響かないロイの心はそう捕らえた。
オレはこの先、結婚できるような女性と出会うことが出来るのだろうか? 都会に出てからの四年間でまともに喋った女性はおろか、親しい友人すら出来ていない。イヤ、そもそも今まで生きてきた中で家族、友人を含めて本当に心を開き合えた相手など居たのだろうか? 華やかな都会に出ていても自分の世界に固執して人と関わろうとしないくすんだ毎日を送っているのではないか?
ロイは自分の半生を思い返してみた。他人に傷つけられるのが怖くて自分からは決して距離を縮めない。人一倍プライドは高いのに上手く立ち回れない。劣等感と自己弁護にばかり費やされる時間。なんだ結局オレはゴミ虫の様な存在ではないか。この町に居たころと何一つ変わっちゃいない。
堪えてきた感情が溢れてきた、一人になるまで我慢しようとしていたが目頭が熱くなってきて堪え切れそうも無い。
ロイは咄嗟にアンナから視線を外してわだちの方を向いた。
涙が頬を伝わる感触が暖かかった。声だけは漏らすまいと必死に堪えていたが、本当はわだちに顔を突っ込み叫び声を上げたい気分だった。
背後に居るであろうアンナは何も言わずにじっと待ってくれている。ロイは後ろからこちらが落ち着くのを待ってくれているような暖かい視線を感じた。
「ロイ、家には帰った?」
ドキリとする質問だった。涙を流した後では取り繕う気にもならず、ロイは否定の意味で首を横に振った。
「帰ってあげて、心配するようなことじゃないと思うけど、おばさん少し体調を崩してるらしいの。おばさん今までそんな事なかったから変に気弱になってるの」
ロイの頭に四年前の母親の顔が浮かび、続いてフォールズの顔が浮かんだ。そうか、そういうことだったのか。だからフォールズは自分に町に帰るように手紙を寄こしたのか。
優しく他人を気遣うフォールズに比べ、子供のような感情で家のドアさえ開けられなかった自分。あの時、家のドアを開けてしまえば昔の自分に戻ってしまうようで怖かった。都会で豊かに暮らしている自分が無くなってしまうようで恐ろしかった。吹けば消えるようなちっぽけな自尊心を守る為にフォールズの善意を踏みにじった自分が情けないやらみっともないやらで、ロイの目頭には再び涙が溢れてきた。
そもそも何故自分はこの町に帰ってきたのだろうか? フォールズから手紙を貰ったからではない。本当は町にいる哀れな住人達を見下して自尊心を満足させる為ではなかったのか?
ああ、本当にオレは生きる価値が無い、何処まで行っても自分の事だけしか考えられない哀れな男、人を見下すことで自信得ることが出来ない。オレはこの四年間……
「考えすぎなんじゃない?」
アンナの明るい声が頭がパンクするほど内省しているロイの耳朶を打った。
「えっ?」
肺が震えているのか音にした声は濁っていた。
「今も色々考えてたんでしょ? よくないよ、思い詰めるのは」
心の内を見透かされているようでロイは焦った。
「ロイって昔からすごく焦ってる気がする。フォールズが何かしてると自分も何かしなくちゃ、何かしなくちゃってね」
そんな風に見られていたのか、一つ年下で妹のように思っていたアンナからそう言われるとなにやら気恥ずかしくなった。
「先のことなんか考えずに楽にすればいいのに、私は難しいことなんか考えてないよ」
そんな事出来るか! お前は女だからそんな事が言えるんだ! オレは自分の力で生きていかなければならないんだ! 咄嗟に口を突いて出ようとした言葉をロイは何とか飲み込んだ。
「アンナだって町の為に働いてるじゃないか?」
「私にはフォールズみたいな立派な志があるわけじゃない、彼の尻馬に乗ってるだけよ。製鉄所や町を大きくしようとは考えてない、ただ今のままでは家族や友人が住む町がなくなっちゃうから手伝いをしてるだけ」
ロイはアンナの言葉の意味を考えてみた。アンナは自分と違い多くを望むことをせず、外から幸福を取ってくるのではなく、自分の属するコミュニティで幸せを育もうとしているのか? そんな考え方もあるのだなとロイは少し感心した。だが、それが自分に出来るのかといわれるとそこには疑問が沸いた。
「オレはいったい何をすればいいかな?」
言葉にした直後に後悔した。オレは一体何を言ってるんだ? 年下の女に向かって、恥ずかしい。その思いでロイの顔は紅潮した。
「さぁ?」
ロイの思った通りの言葉が返ってきた。
「ロイは考えすぎるから、将来のことや難しいことなんか何も考えずに思いついたことやればいいんじゃない?」
思いついたことを何も考えずにやってみる、そうすれば道は開かれるのだろうか? 自分のやりたいこと? まだ自分が何が好きかも分からない。フォールズの様にどう生きるかの指針を明確に持ち、迷わない男も居る。アンナの様に確かな指針がなくても今ある生活を守り幸福になろうとする者もいる。何が役立つかではなく、どう生きれば豊かに生きれるのか?
そういうことなのか? これからはそれを見つけるように生きていくべきなのだろうか? いつかは自身の全てをかけるに値する何かを見出すことが出来るのだろうか? ロイの漫然とした頭には整理できないほどの感情と思考が去来していた。
「帰ろうよ、寒くなってきた」
「あっ、そうだな」
しばらくわだちの高くせり上がった道を歩くと、昔良く遊んだアンナに家までやって来た。家の窓から明かりが漏れている、きっとアンナの家族が待っているのだろうとロイは思った。
「結婚式呼ぶから来てよ。絶対」
「わかった、約束するよ」
「もう、明日の朝には帰るんでしょ?」
「たぶんね」
「そう、じゃあ、気をつけて帰ってね。おやすみなさい」
ロイが挨拶を返すとアンナは笑顔を残して家の中に入っていった。
なぜかしばらくはその場から動く気になれず、短い間だけアンナの家の漏れる暖かい声を聞いた後でロイは振り返った。
先ほどまで胸を覆っていた暗闇は消え、晴れやかとはいかないまでもどこかすっきりとした気分がロイを満たしていた。
今日は家に帰ろう。ロイは母の居る家に向かって歩き始めた。
終わり