蝶と蛇と驚異2
急いで居た。
リズシアの言葉を信じた訳では無いが、だが凌空にもしもの時が会っては困る。だから由希は、凌空の様子を見に行くんだと自分に言い聞かせ、凌空の部屋に続く階段を駆け上る。
此れで凌空が何でも無かったら、やっぱりリズシアの言って居る事は嘘になる。
由希は其れを、何処かで望んで居たのかもしれない。
だが――
「う、そだ…」
ドアを開けた向こう側には、床に蹲り苦痛の呻き声を上げる凌空の姿。
由希が来た時と同じ様に、カーテンが閉め切られた薄暗い室内。その時よりも物が床に散らばり、写真立てが壊れガラスが凌空の傍に散らばって居る。
「う"、あ"あ"。はぁ…ぐっ…」
右手で胸元の服を握り、蹲りながら左手で床に敷かれて居るマットに爪を立て、苦しみに耐える凌空の姿に、由希はドアの側で立ち尽くすしかない。
あの人の言ってることは、嘘だと思ってたのに。なんで…。
「っ、凌空! ねぇどうしたの!?」
凌空の前に滑り込む様に行き、蹲る凌空の肩に顔を覗き込みながら触れようとし、そして叩き落とされた。
「な、んで、此処に居るんだよ!」
「だって、凌空が心配で…」
蹲りながらも顔を上げ、睨み上げて来る凌空の瞳は、あの時の様に赤く染まり、髪も黒く変わって居た。
「い、から…出てけっ」
「で、でも…!」
「出てけって言ってんだろ!?」
来る鋭い瞳と荒々しい声に、ビクッと肩を震わせてしまう由希は、眉を寄せ唇を噛み目を伏せる。
来る一向に動こうとしない由希に、凌空は片手で膝立ちの由希を突き飛ばす。
片手でも由希にとっては威力が強く、簡単に尻餅を着いてしまい、その際床に着いた手が、散らばっていたガラスの破片で手の平を切ってしまう。
「い、たっ」
「あ、由希!? お前けが…!」
手の平の痛みに顔を歪め、もう片方の手でその手を覆として居た由希の手を凌空は掴み、傷を見ようと焦った様な顔で近付き、固まってしまう。
血の流れる手の平を見つめ、動かなくなってしまった凌空に、どうしたのかと手の平から視線を上げた由希は、凌空の何処か変わった雰囲気に気付く。苦笑をさっきとは明らかに変わった様子に、由希は嫌な予感がした。
「は、ああっ…」
溜め息混じりに発せられた声。赤く染まる瞳は、熱に犯された様に熱を持ち、惚けた表情で血の流れる由希の手の平に、凌空は釘付けになって居る。
其れはまるで――飢えた獣の様で在った。
「り、くっ。いたっ、離、して!」
手首が鬱血し始める程、強く掴む凌空の手を離すよう悲願するが、そんな由希の言葉も凌空には届いていない。
ゴクッと喉を鳴らし、片時も血から目を逸らさない。はっはっと、まるで犬の様な息遣いをする凌空の姿に、由希は言い様のない不安が膨らむ。
声をかけても、
名前を呼んでも、
凌空の目に私は映らない。赤黒く流れる血を、食い入る様にその瞳に映すだけ。
そんな凌空を、由希は見つめる事しか出来ず、その時、音も無く、気配も無く、霧状に凌空の背後に其れは現れた。
その人物、リズシアは後ろから凌空の耳元に向け…
「舐めても、いいんだよ?」
「……」
「美味しそうなんでしょ? それで喉の渇きを潤したいんでしょ?」
「っ、は、ぁ…」
リズシアの言葉一つ一つに、凌空の様子も変わって来る。ゴクッと喉を鳴らし、渇いた唇は舌舐めずりをして潤し、赤い瞳は期待で輝き始めた。
その凌空の姿に、由希はまた突然現れたリズシアに辞める様口を開くが、口は言葉を紡いでくれず、只声になら無い息を吐き出すだけ。
「ほら…たんとお舐め――?」
其れが合図となり、凌空は由希の手を力任せに引き寄せ、血の滴る手の平にかぶり付いた。
手の平に舌を這わせ、傷口を抉る様に舌を押し付け、滲む血も全て舐め取っている。その姿はまるで……腹を空かせた獣が、獲物に食らい付く様で在った。
一滴も逃さぬ様、手の平に舌を這わせる凌空のその異常な姿に、其れを目の前で目の当たりにした由希は無だ。
何を思うでも無く、ただただ傷口を抉る舌に痛みを感じ、ただただ手の平を一心に舐める凌空を見下ろすだけ。