キミを傷付けた
「ねぇ荒川凌空、キミ今さ……喉が渇いて仕方ないんじゃない?」
「っ…喉、なんて…渇いてねぇ!」
男の言葉に、ビクリと肩を震わせ息を飲んだ後、まるで自分に言い聞かせる様声を荒げた。
「嘘なんて付かなくてもいいのにー。本当キミって、意地っ張りだね?」
「それじゃぁモテないぞ?」、と場にそぐわ無いウインクを一つ男がする。
由希は喉が渇いているならと、テーブルの上に置いてある飲み掛けのジュースを取ろうと、凌空の背から出様としたのだが、それは凌空の体で阻まれてしまい叶わない。
由希は眉を寄せ、目の前にある大きな背中を見つめるしかない。
「喉、渇いてしょうがないんでしょ?」
「ぐっ、う、る…せぇっ…」
「我慢、しなくても良いんだよ?」
「お、俺は……っ」
男の囁く様な言葉に、凌空は激しく頭を振り否定している。
「飲めば楽になるんだよ?」
「…ら、く…に」
「そう。何を飲めばいいか、キミは分かってる筈だ」
頭を振り否定して居た筈の凌空の様子が、徐々に変わりつつあるのが、後ろに居た由希にも分かった。体の震えは止まり、頭を抱えて居た腕はダラリと力を無くす。
ゆっくりとした動作で後ろに振り返った凌空は――最早凌空では無かった。
「ほぉうら、飲んでしまえばいい。…桜木由希の血を――」
男の言葉が合図となったのか、次の瞬間、驚く暇もなく……由希は凌空によって押し倒されていた。
「り、く…?」
由希は、今己の上に居る幼馴染みを見つめる。
茶色だった髪は、漆黒の様になり、虚ろな瞳は月の光で赤く妖しく輝きを放つ。薄く開かれた口から覗くのは、恐ろしいまでに鋭く尖った二本の牙。
由希の知って居る幼馴染みの、凌空の姿とは程遠いその姿に、由希は激しく狼狽えた。
「ど、したの…? 凌空…」
「……」
ベッドに押し付けられた両腕を見た後、由希は何時もの様に、へらりと笑って凌空を見上げた。だが由希の言葉に、凌空が答える事は無い。
無表情な顔で、何も反応を示さない凌空に、由希はどんどん不安になる。浮かべて居た笑みは消え、困惑して眉が寄る。
「ね、ねぇ凌空っ。どうしたの? 具合悪いなら、ベッドで寝て良いよ?」
「……」
だから離してと、捕まれて居る腕に力を込めるが、凌空は何も反応を示さず、腕を掴んだまま離そうとし無い。
映る筈の凌空の瞳に由希は映らず、何も映さないその瞳に恐怖が沸き上がる。
「良いんだよ? 荒川凌空。自分の欲望のままに、その首筋に喰らい付けば良い」
音も無く凌空の背後に立った男は、凌空の耳元で囁く。その瞬間、ごくりと凌空の喉が鳴ったのを由希は気付いた。
徐々に荒くなる息は、さっきまでとは違く、苦しんで居ると言うよりも、何処か興奮して居る様な感じだ。
赤い瞳は更にその赤みを増し、掴む腕は力強く、握られた骨が軋みその痛みに顔をしかめる。
「っ、い、たっ。り、く!」
「ほら、欲しいんでしょ? 早くしないと…誰かに取られちゃうかもよ?」
男がそう言ったと同時に、凌空は腕から逃れ様と暴れて居た由希の体を、押さえ込む様体を押し付けて。そして暴れて居たせいで晒されて居た由希の首筋に、凌空が顔を埋めて来る。
さらりと擽る凌空の髪と、その息に身動ぎしたその時、ぬるりとした生温い感触が首筋に起こり、小さく悲鳴を上げてしまう。
その感触に、凌空に首筋を舐められたんだと知り、一気に由希の顔に熱が集まる。
由希が混乱して居る間にも、凌空は何度も首筋に舌を這わせ、その度尖った牙が首筋にあたり、チクリと痛みが走る。その痛みに、由希は我に帰った。
あの男の人は言っていた、ヴァンパイアだと。そして、凌空を仲間にするとも…。じゃぁもし、今の凌空がそのヴァンパイアだったら、首筋を舐めるのって――
「い、いや、だ! 凌空やめて!」
赤かった顔は状況を理解した瞬間熱が一気に引き、由希は嫌だと首を振って、首筋に顔を埋めて居る凌空を退かそうとする。
分かってしまったのだ、凌空が由希に何をしようとして居るのかを…。
ヴァンパイアが欲する物、それは――血。
暴れる由希を気にも止めず、凌空はピチャリと水音が聞こえる程、しつこく首筋を舐めている。
聞こえるその音に由希は恥ずかしく、熱が引いた筈の顔にまた熱が戻って来た。
その時、首筋を舐めるだけだった凌空が舐めるのを止め、口を開き鋭い牙を覗かせた。
そして――…
「い、いやあああ!! り、く、凌空! ヤダッ、やめて…!」
その牙を見た瞬間、由希には恐怖しかなかった。激しく首を振り、今まで以上に拒否反応を示した。恐怖の余り、目には涙が浮かんでおり、其れでも凌空に助けを求める。
暴れる由希に、凌空は首筋に埋めて居た顔を上げ、未だに何も映さない瞳で由希を見下ろすだけ。
「り、く。も、とに…っ、戻ってよぅ――」
ぼろぼろ涙が溢れる。
無表情な顔で見下ろして居る凌空に、訴えるように見上げた。何時もの凌空に戻って欲しい。自分の知って居る凌空が、居なくなってしまう様な、そんな気が、由希にはした。
だから由希は、凌空の赤い瞳を見つめる。
「…ゆ………き」
「…え」
微かに聞こえた声に、由希は見つめて居た赤い瞳から、凌空の顔全体に視線を向けた。でも表情はさっきと変わらず、無表情なまま。
だが由希は、凌空で有って欲しくて、そのまま見上げて居た。そうすればもう一度、今度は確かに、はっきりとした声で「ゆき」と、凌空の唇が動き言葉を紡いだ。
其れと比例する様に、徐々に赤く染まっていた瞳は元の黒に戻って行き、薄く開いた唇から覗いて居た牙は、その姿を消す。
由希の腕を、あれだけ強く握って居た凌空の大きな手は、震えながら解かれる。
「あ、れ? 俺…」
「り、く…」
不思議そうに口元に手をやり、目をキョロキョロと動かして居た凌空だったが、由希の声に初めて、下にいる由希の存在に気付き固まった。
「あ、あ…。なん、で…ゆき、が――」
由希を見た途端、凌空は慌てた様に上から退き、床に座り込む。
「へー、正気に戻ったんだ。堕ちたと思ったんだけどなあ」
ずっと黙っていた男が、少し驚いた様な声を漏らし、そして髪を掻き上げた。
「でもまぁ、今日の所は此れ位で良いか。もう俺も疲れちゃったし、また今度来るから。あ、でも多分俺が次に来た時は――…」
座って居た机から降り、マントを翻して由希と凌空に背を向け、
「ヴァンパイアになってると思うし。それに――"ヴァンパイアフィリア"に堪えられる人間なんて、居る訳が無い。じゃあまた会うね、桜木由希、荒川凌空」
月の明かりを背に振り返ったその男は、ニヤリと赤い瞳を弧にし、口元からは凌空が生えて居た鋭い牙と同じ牙が、その存在を主張して居た。
そしてその言葉を最後に、唖然として居る由希達を残し、現れた時と同じ様に音も無く一瞬で消えた。
残された由希と凌空の間には、何とも重苦しい空気が漂う。
由希は体を起こし、そのままベッドに座り、床に俯いて座り込んで居る凌空を見下ろす。
「凌空…」
そっと声を掛ければ、俯いて居た凌空は、僅かに肩を上げて眉を寄せ、険しい表情の顔を上げた。
「っ、俺…お前に酷いこと――」
「何言ってるの? 私、凌空に何もされてないよ?」
頭を抱える凌空とは対照的に、由希はまるで何事もなかったかの様に振る舞い、ベッドの端から足を出してぶらぶら揺らす。
「あっ、それよりももう大丈夫? どっか体おかしくない?」
「……」
凌空の体を上から下と眺める由希に、凌空は何も言わず目を反らす。その様子に私は気付いて居たが、それでも話を続けた。
「さっきのって、絶対何かの番組のドッキリだと思うんだ!」
「……」
「だから、ヴァンパイアって言うのも嘘だよっ」
「……」
「きっと暫くしたら、ドッキリ大成功って看板持った人が来るって!」
ね? と笑い飛ばすが、凌空は何の反応も返して来ない。其れにより、由希の顔からは徐々に笑みが消えて行く。
「ねぇ凌空…。なんか、言ってよ…?」
ベッドから立ち上がり、座り込んで居る凌空の前にしゃがみ込み、肩に触れ様と手を伸ばしたが、
「っ! 触るな……あ、」
パシンッと、乾いた音と共に、由希の手は凌空の肩に触れる前に、凌空の手によって叩き落とされてしまった。自分の行動に我に返った凌空は、驚いた様に前に居る由希を見て声を洩らす。
由希の今の顔は、凌空の目にはきっと、酷く歪んで居ただろう。
「ご、ごめん。嫌、だったよね…」
叩かれた手を引っ込め、笑みを浮かべるが、口元が引き吊り上手く行かない。
「っ…俺、今日はもう帰るから」
凌空は俯きながら立ち上がり、
「えっ、ま、待って! り――…」
由希の制止の言葉に耳を貸す事は無く、由希の横を通り窓からベランダに出て、向かいの部屋のベランダに飛び移って行ってしまう。
慌てて凌空の出て行った窓に向かうが、すでに凌空は窓から自分の部屋へと入った後だった。
傷付けた。
私が…凌空を傷付けてしまったんだ。
横を通って行った時に俯いて居た凌空の顔は、今にも泣きそうなのを堪える物だった。きっと、そんな表情にさせたのは――紛れもなく自分に違いない。由希は、そう感じて居た。
由希は傍にあるカーテンを握り、カーテンが閉まった向かいの窓を見つめる。
渡そうと隠して居たプレゼントは、結局渡すことが出来ず、今も机の下に隠されたまま。