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第一話 ブラックコーヒー

言えなかった言葉が、誰にでも一つくらいあると思う。謝りたかった人。会いに行けなかった人。伝えられないまま、時間だけが過ぎてしまった人。そういうことって、気づいた時にはもう、随分遠くなっていたりする。この物語に出てくる人たちは、みんな普通の人たちだ。特別な事件も、dramatic な展開もない。ただ、それぞれの夜に、小さなカフェバーに迷い込んで、コーヒーを飲みながら、誰かと話す。それだけの話。でも、そういう夜が、人生を少し変えることがある。そんなお話を、書きました。

54歳、この歳になると、行きつけの店にしかいなくなる。

新しい店に入ることが、めっきり減った。若い頃は、知らない暖簾をくぐることに、どこか冒険めいた気持ちがあった。

五十を過ぎると、それがなくなっていく。

人生百年時代の折り返しまで来たからであろうか。それとも、若さや元気がないのかもしれない。いや、言い訳くさいな。そうじゃない。新しいものに、疲れてしまっているのだろう。

十代、二十代の頃は、新しいものに目がなかった。ゴルフや釣り、あまり得意ではなかったが、色々なもの、色々な場所に、自ら足を運んでいた気がする。誰かに誘われるより先に、自分から動いていた。

それがいつからか、逆になった。

誘われなければ行かない。知っている店しか入らない。知っている道しか歩かない。気づけばそういう人間になっていた。いつの間に、と思う。しかし考えてみれば、いつの間に、ではない。少しずつ、少しずつ、そうなっていったのだ。川が地形を変えるように、気づかない速さで。

帰っても、待っている人はいない。だからこそ、いつもまっすぐ帰る事はなかった。その代わり行きつけの店に足を運ぶ。それが当たり前になっていた。


九月の夜は、まだ少し蒸し暑い。


仕事帰りに、いつもと違う道を歩いていた。何かから逃げたかったのかもしれない。

この年になると、こういうことは少なくなるんだけど、珍しい事もある。

いつもの道、いつもの店、いつもの自分。それが一番、楽だとわかっている。わかっていながら今夜は、足が別の方向へ向いた。理由は、うまく説明できない。ただ、いつもの道を歩く気に、なれなかった。

細い路地の奥に、小さな橙色の灯りがあった。

古びた木の看板に、かすれた文字で店の名前が書いてある。読めるか読めないか、ぎりぎりの字だった。窓は小さく、中の様子はほとんど見えない。ただ、すりガラス越しに温かい光が滲んでいた。扉は木製で、年季が入っている。取っ手のところだけ、色が少し薄くなっていた。長い年月、誰かの手が触れてきた跡だった。

こんな路地に、こんな店があったのか。

通り過ぎようとして、足が止まった。

珍しく新しい店に来るとは、若い頃に戻ったみたいだ。

二十代の頃の自分が、背中を押した気がした。


ドアベルが、小さく鳴った。

カウンターだけの、小さな店だった。七つほどの椅子が並んでいる。天井は低く、古い木の梁が横に走っている。壁には色褪せたレコードのジャケットがいくつか飾られていた。隅に置かれたレコードプレーヤーが、静かに回っている。古い壁時計が、ゆっくりと秒針を動かしていた。コーヒーの香りが、店の空気に溶け込んでいた。

誰かがここで長い時間をかけて作り上げた場所だと、一目でわかった。

客は誠一の他に、二人いた。カウンターの中ほどに、二十代とおぼしき女性が一人。その隣の席は空いていた。誠一は席を空けて腰を下ろした。

六十に近いだろうか。白髪交じりの、静かな顔をした男がこちらを見た。急かすところがない目だった。

「いらっしゃいませ」

声は低く、静かだった。

「コーヒーを」

「ブラックで」

聞いたのか、確認したのか、わからない言い方だった。誠一は少し間を置いてから、頷いた。

「……ええ」

マスターはそれだけで動いた。余計なことを、何も言わなかった。


カップが、静かに置かれた。

湯気がゆっくりと上がっている。誠一はそれをしばらく眺めてから、口をつけた。

苦かった。

こんなに歳を取っても、コーヒーはまだ苦い。子供の頃から苦手だった。それでも大人になれば慣れるものだと思っていた。慣れるどころか、苦手なままだ。

しかし面白いことに、歳を取ると体裁というものを気にしてしまうものである。苦手なコーヒーも、大人の自分を保つために、いつの間にか飲めるようになっていた。

こう感じるのは、僕だけではないはずだ。

そう思いながら、もう一度口をつけた。やっぱり苦い。だがこの苦さが、自分を大人だと思わせてくれる。不思議なものだ。こんなに苦く、こんなに苦手なものでも、人は手放せなくなる。

苦さに慣れたのではない。

苦さごと、飲み込むことを覚えたのだろう。


「お兄さん、ここのブラック、苦いでしょう」

隣から声がした。

二十代前半だろうか。ショートカットの、目の大きな女性だった。自分のカップを両手で包みながら、こちらを見ていた。馴れ馴れしいというより、ただ素直に話しかけてきた、という感じだった。

「苦いですね」

「でしょう。私、最初に飲んだ時びっくりして。マスターに文句言ったんですよ」

「そしたら、苦いのがブラックです、って。言われて」

誠一は思わず、少し笑った。

「それは、そうですね」

「でも不思議なんですよね。苦いのに、また飲みたくなるんです。ここに来ると」

誠一はカップを見た。

苦いのに、また飲みたくなる。

「わかる気がします」

しばらく、二人で黙ってコーヒーを飲んだ。レコードが静かに流れている。沈黙が、少しも嫌でなかった。こういう沈黙を、誠一はずいぶん長い間、忘れていた気がした。

「お仕事帰りですか」

そう言いながら、女性は自分のカップを持って、隣の席までやってきた。当たり前のように、自然に。断る間も、断る理由も、なかった。

「ええ。あなたは」

「私も。でも、まっすぐ帰りたくなかったんで」

誠一は頷いた。

今夜の自分と、同じだと思った。

しばらく、二人でコーヒーを飲んだ。レコードが静かに流れている。沈黙が、少しも嫌でなかった。

「お名前、聞いてもいいですか」

唐突だったが、嫌な感じがしなかった。この店では、そういう距離感が自然だった。

「田中です。田中誠一」

「田中さんか。私、橘さくらといいます」

さくら、と誠一は心の中で繰り返した。九月に似合わない名前だな、と思った。それから、そういうことを考える自分が少し可笑しかった。

「さくらさんは、よくここに来るんですか」

「たまに。まっすぐ帰りたくない時に」

また同じ言葉だった。でも今度は、少し違う重さで聞こえた。

この子にも、まっすぐ帰れない理由が、何かあるのかもしれない。それを聞くことは、しなかった。この店では、そういうことを無理に聞かない方がいい気がした。


レコードが曲を変えた。

聴いたことのある旋律だった。父親が、書斎でよく流していた。誠一は視線をカウンターの一点に落としたまま、動かなかった。

「田中さん、さっきから同じところ見てますね。何か悩み事でも」

探るわけでもなく、ただ気づいたことを言った、という感じだった。

誠一は少し間を置いた。否定しようとして、やめた。

「……そうかもしれない」

「話せそうだったら、聞きますよ。私でよければ」

でよければ、という言葉が、妙に正直だった。

誠一はそれを聞いて、少し情けない気持ちになった。五十四歳が、自分の半分も生きていない女の子に、話を聞いてもらおうとしている。相談できる同年代の友人も、帰りを待つ家族もいない。それが今夜の自分の、正直なところだった。

情けないな、と思った。

それでも、口が動いた。

「父親が、入院しているんです」

さくらは何も言わなかった。ただ、こちらを向いていた。

「三ヶ月になります。大きな病院で、個室に入っている。妹から連絡は来る。でも、私は一度も……」

言葉が、宙に浮いた。

九月の雨が、ドアの向こうで降り始めていた。

「十年です。まともに話していない。きっかけなんて、もう覚えてもいない。気づいたら、そういうことになっていた」

誠一は苦笑した。自分を笑うような、乾いた顔で。

「今さら行って、何を話せばいい。向こうだって、望んでいないかもしれない。病室で気まずい思いをさせるくらいなら、このままの方が……」

このままの方が、いい。

そう言おうとして、口を閉じた。

さくらは、すぐには何も言わなかった。コーヒーを一口飲んで、それからゆっくりと口を開いた。

「私には、よくわからないですけど」

正直な前置きだった。

「会える時に、会った方がいいと思いますよ」

さくらは、カップを見ながら言った。誠一の方を、真っ直ぐ見なかった。

「会った後悔は、忘れられます。でも、会えなかった後悔は、忘れられないので」

静かな声だった。

責めているわけではなかった。経験から出た言葉に感じた。

この子にも、何かあったのかもしれない。

聞かなかった。この店では、そういうことを無理に聞かない方がいい気がした。ただ、さくらが少し遠くを見ているような目をしていることに、誠一は気づいていた。

「どっちも今さらって思ってたら、ずっとこのままじゃないですか」

それだけ言って、さくらはコーヒーを飲んだ。

自分の半分も生きていない人間に、こんなにあっさり言われるとは思わなかった。情けない、とまた思った。それと同時に、なぜか少し、楽になった。

マスターは、ずっと黙っていた。グラスを拭いて、棚に戻して、またグラスを手に取る。それだけを、静かに繰り返していた。

「お父さんと、何があったんですか」

さくらが、静かに聞いた。責めているわけではない。ただ、知りたいと思っている、という声だった。

「たいしたことじゃないんです。それが余計に、情けなくて」

「たいしたことじゃないのに、十年ですか」

「そうなんです。だから余計に、今さら、という気持ちになる」

さくらは少し考えてから、口を開いた。

「たいしたことじゃないなら、仲直りも、たいしたことじゃないんじゃないですか」

誠一は黙った。心理を突かれたように、何も言えなかった。

反論しようとした。しかし言葉が、出てこなかった。図星というのは、こういう時に使う言葉だと思った。頭ではわかっていた。わかっていながら、十年、動けなかった。それをこんなにあっさり言われると、返す言葉がない。

それだけ言って、さくらはコーヒーを飲んだ。

しばらく、誰も何も言わなかった。

レコードが鳴っている。雨の音が、それに混ざっている。

「……さくらさんは、強いですね」

気づいたら、口に出ていた。

「どうなんでしょうね」

それだけだった。

否定も肯定もない言葉に、彼女も苦く辛いことを、飲み込んで大人になっているように感じた。

改めて考えると、年齢の半分以下の子に慰められている今の自分が情けなさ過ぎる。しかし、思ったより気分の悪いものでもなかった。


しばらくして、さくらは帰り支度を始めた。

コートを着て、財布を出して、それからカウンターに小さく折りたたんだメモを置いた。

「田中さん、また会えるといいですね」

そう言い残して、彼女は店を後にした。

誠一はしばらくそのままでいた。それから、気になってメモを広げた。

一言だけ書いてあった。

行ってあげてください。

自分の半分も生きていない子に、そう言われた。情けない話だ。それでも、この一言が、今夜一番、胸に刺さった。

残ったコーヒーを、一口飲んだ。

やっぱり苦かった。

それでも、飲み込んだ。


帰り際、誠一はコートのボタンを一つずつ留めた。財布を出すと、マスターが一言話してきた。

「後悔するのも一興ですよ。しないに越したことはないですが。」

誠一は、少し間を置いた。

含みのある言葉だった。慰めでもなく、背中を押すわけでもなく、ただそう言った。

財布をしまいながら、その言葉を頭の中で繰り返した。

後悔するのも一興。

そうかもしれない、と思った。後悔のない人生など、どこにもない。後悔しながら、それでも生きていく。それが人間というものかもしれない。しかし、しないに越したことはない。それもまた、本当のことだった。ただ誠一の中で結論は出ていた。

「好きな後悔を選びますよ。」

マスターは、少し目を細めた。それだけだった。

「また、いらしてください」

ドアベルが鳴る。

路地に出ると、九月の雨が静かに降っていた。

誠一は帰路につきながら、妹に電話をかけた。

呼び出し音が、三回鳴った。

「もしもし、お兄ちゃん?どうしたの、こんな時間に」

妹の声は、少し驚いていた。無理もない。誠一から電話をかけることは、ほとんどなかった。

「父さんのこと、聞きたくて」

しばらく、沈黙があった。

「…うん」

「病院と、病室。明日、会いに行こうと思って」

また沈黙があった。今度は、少し長かった。

「本当に?」

「本当に」

妹が、小さく息を吐く音がした。泣いているのか、笑っているのか、わからなかった。

「○○病院の、四階の四〇八号室。面会は午後二時から四時までだからね。」

「わかった」

「お兄ちゃん」

「なに」

「う、ううん、何でもない」

「ああ」

そう言いながら、電話を切った。

雨が、少し弱くなっていた。

明日は苦手になってしまった。父に会いに行く。正直、仲直りの仕方は、わからない。

何を話せばいいかも、わからない。

それでも、会いに行くことくらいは、できる。

苦手なものを、飲み込むくらいのことは。

もうとっくに、できるようになっているのだから。


初めて書いた作品です。

正直、最後まで書けるか不安だった。小説なんて書いたことがなかったから。それでも書いてみたら、思っていたより自分の中に、出したい言葉がたくさんあった。

田中誠一という人を書きながら、どこかで自分のことも考えていた。逃げ癖があって、行きつけの店しか行けなくて、大切なことを後回しにしてしまう。そういう部分って、誰かの中にも少しあるんじゃないかな、と思いながら。初めて書いた話が、誰かの心に少しでも届いたら嬉しいです。

会いたい人には、早く会いに行ってください。

そう言える人が、自分の周りにいてくれることが、どれだけ大切か。この話を書いて、改めてそう思いました。

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