本の中へ
王都第三魔法図書館には、地図に載らない一画がある。
地下三層、扉には番号も標識もない。そこを管理するのが司書リュネの持ち場だった。
彼女の仕事は、魔法書の整理ではない。
魔法書に「読まれてしまった人間」を、元の世界へ戻すこと。
魔法書は意思を持つ。知識を欲する者の心の隙間に入り込み、対価として何かを奪う。時間、記憶、未来――そして稀に、人生そのものを。
返却期限を過ぎれば、その人間は物語の一部になる。
「司書さん……助けて」
ある晩、返却台の前に、半透明の少年が立っていた。手には分厚い魔導書。
題名は『初級治癒魔法入門』。よくある本だが、彼の身体はすでに文字で縫い止められ始めている。
「名前は?」
「……思い出せません」
リュネは頷き、淡々と手続きを始めた。
名前を失うのは末期症状だ。だが、まだ間に合う。
彼女は台帳を開き、羽ペンを走らせる。
「貸出理由は?」
「誰かを助けたかった」
その一文に、リュネの手が一瞬止まった。
かつて、彼女自身がここに来た理由と同じだったからだ。
儀式は静かに進む。
本から余分な文字を剥がし、魂をページから引き剥がす。少年の身体に血が戻り、呼吸が生まれる。
「これで大丈夫。もう本は開かないで」
「司書さんは……?」
少年が不安そうに尋ねる。
リュネは微笑んだ。
「私は大丈夫。本を読む側じゃないから」
少年が去ったあと、リュネは返却棚の奥で、一冊の黒い本を見つけた。
いつの間にか増えている本。題名は――『司書リュネ』。
ページをめくると、今日の出来事が、すでに記されていた。
「……また、か」
彼女はため息をつき、椅子に腰かける。
司書という存在は、魔法書にとって最も美味な読者だ。知識を拒まず、物語を否定しない。
それでも彼女は、毎回こうする。
返却印を押し、台帳に一行だけ書き足す。
――司書は貸出不可。理由:終わりを見届ける者のため。
本は静かに棚へ戻り、代わりにリュネの記憶が少し削れた。
少年の顔が、名前が、理由が、薄れていく。
翌朝。
図書館には新しい司書補佐が来ていた。
「前任の方は?」
「記録上、存在しません」
それでも地下三層の返却台は、今日もきれいだった。
返却期限を過ぎた人間は、一人もいない。
棚の奥で、一冊の黒い本が、そっと閉じられた。




