第39回 劉璋、人材の登用を図る
「自分の無能を埋めてくれる人材が欲しい。」
劉璋は願い続けた。そして、その願いが叶うかのように、少しずつではあるが、後世に名を残しそうな人材も集まってきた。
西暦二〇五年(建安一〇年)、この年に二人の智謀の士が登用されている。
まずは、「張松」である。
張松は、政務、人事、外交、戦略などあらゆる任務に携わった人物である。
そして、「法正」である。
主に戦略面を担当した智謀の持ち主である。
この智謀の士たちの当面の課題は、領土を拡大し続ける曹操との外交、そして劉焉の死後、完全に独立宗教王国に向けて独自の路線を進み続ける張魯への対策であった。
まず、曹操への対応だが、張松が立候補をし、外交の使者として派遣された。
以前送った使者に関しては、曹操側の方でも一定の配慮をし、それなりに優遇されていた。しかし、今回の張松に関しては、思いの外、冷たい対応を受けた。
張松は自分の誇りを打ち砕かれ、劉璋へは曹操とのつながりは信がおけず危険であり、今後、必要が無いと進言した。
以前とは状況が異なっていたのが原因だと思われる。
以前は、曹操と袁尚が真っ向から対決しているときであり、西方に無用な波風は立たせたくなかったのであろう。一方、今回の場合は、既に袁紹は死亡し、袁紹の残党の掃討戦も順調に推移しており、張松を優遇する必然性が低下していたのであろう。
次に張魯への対応策であるが、張魯と劉璋の関係は完全に冷え切っており、漢中からの南下政策を張魯が本気で考え出したのも、この頃である。
劉璋はその対応として、最近は人材が増えたことにより専横をしなくなってきた龐羲に黄権を付けて、張魯の南下に対して、強固な防衛体制をとっていた。
この緊張関係は、以後、数年間継続していくことになる。




