第30回 劉焉、豪族の粛清に乗り出す
西暦一九一年(初平二年)、劉焉が益州に入って約三年が経過した。劉焉は益州に入ってから、精力的に活動した。
東州兵を整え、その軍費を豪族の持つ徴税権の担保を保証することにより、間接的に負担させることにも成功した。
趙韙による調練も順調に行われ、戦力整備もできたと言ってよい。実戦の方も、当初は山賊・盗賊の討伐といったものであったが、異民族との対戦も経験したことにより、その力は着実に伸長してきた。
そして、裏では劉焉と繋がっている張魯が予定どおり、五斗米道の教祖的立場になり、漢中には特殊な宗教国家という「壁」を作ることに成功し、益州の独立性、孤立性はその高まりをみせていた。
劉焉は軍政を行う一方で、民の教化にも尽力した。こちらは、劉焉が得意とするところであり、住民は税を搾取する豪族より、劉焉になついてきたといってよい。
「時は来たか・・・。」
劉焉はひとり呟いた。
何の時か。
「豪族との決別」である。
たしかに、劉焉がすんなりと益州に入れたのは、賈龍をはじめとした豪族たちの協力があってこそである。
しかし、やはり徴税権を握らないことには、劉焉もやりたい政策、施策に取り組めない。そして、住民の恨みは、直接税を取り立てる豪族に向かっている。
この時を、劉焉は待っていたといってよい。
民意を盾に、豪族と対峙することが出来るからである。
しかし、それを待たずして、豪族たちが反乱を起こすという噂がそこかしこから聞こえてきた。
首謀者は、賈龍であるという。
賈龍は劉焉と数年間ありとあらゆることをやり取りし、豪族間の調整も一手に引き受けてきた。しかし、賈龍は気付いてみれば、劉焉の要望を具現化する役に成り下がり、豪族間での信用も低下してきており、求心力を失っていた。
そこで、とうとう賈龍は豪族たちに声を掛け、反劉焉の旗を掲げたのである。
反乱の名目としては、劉焉が益州牧としての職権を濫用して民を苦しめている、というものであった。
時を待っていた劉焉に対して、賈龍は自ら動いて劉焉に向かってきたのである。この反乱は、東州兵の力であっけなく劉焉に鎮圧され、幕を閉じることになる。
賈龍は当然殺され、諸豪族も反乱に加担したことを理由に次々と粛清をされた。
こうして、益州は豪族支配から、劉焉の直接統治へと移行していくのである。




