第29回 劉焉、張魯を起用する
劉焉の「理想の国造り」は着々と進んでいる。
益州という「僻地」を選んだのは、天子の気の話も重要だが、中央から遠く離れており、中央からの命令が届くにしても時間を要するところにあった。
そして、劉焉は更に一歩進んで「中央との連絡を遮断する」方法を考え出した。
それは、益州牧の職権を使い、漢中太守自体を自分の息のかかった者にしてしまうことだった。
劉焉は色々と考えた。そして、思いついた。
益州で召し抱えた者で「張魯」という優秀な若者がいた。
まずは、軍政官として採用したのだが、張魯の母方の祖父である張陵という者が「五斗米道」という宗教の開祖であった。張魯は、その教育をもちろん受けている。
劉焉は「これを利用しない手は無い」と思いついたのである。
中原から益州に入るには、関中から漢中に向かうのが通常の経路であった。その経路であり、益州の「入口」ともいうべき漢中を、五斗米道の本拠地として、塞いでしまったらどうなるか。それは、中央と益州の連絡が非常に取りにくい、という状況が生じる。
そうなれば、益州が中央からの関与を受けにくくなり、益州の「独立性」が保たれることになる。
そして実行に移す。
一八九年(中平六年)。
劉焉は、漢中太守である「蘇固」の悪政をあげつらい、益州牧として張魯に「督義司馬」という軍事と統治を任せるという、特別な役職に任命して、蘇固の討伐を命じた。
蘇固は部下からの降伏すべき、という助言を聞かずに、南鄭太守の趙嵩を頼って逃亡した。
張魯軍は南鄭に進軍、蘇固を発見して殺害し、歯向かう趙嵩をも殺害し、漢中の統治権を手に入れた。
そこから、漢中は着々と五斗米道が支配する特殊な地域としての色を強めていくことになる。
実際のところ、張魯は劉焉に臣従していたが、劉焉は張魯が勝手に五斗米道を中心とした国造りを開始し、漢中が簡単に通れなくなったということを理由に、中央とのやり取りは難しくなるという報告を中央に入れた。
劉焉は、益州の独立性を高めることに成功したのである。
劉焉はふと、自分が怖くなった。
自ら付けた字である「君郎」は、天子に尽くすということを含んでいるわけだが、今は、「自ら」の大望の為に、多くの血を流している。しかし、その点は、理想の国造りの一過程であり、「やむを得ない」と自分に言い聞かせていた。
「ここまで来たのだ。後ろを振り返るな。」
劉焉は、自分に強く言い聞かせ、更に前進していくことになるのである。




