第16回 劉焉、冀州刺史となる
劉焉の官僚としての人生は、洛陽令になったことを皮切りに、行政官として経験を積むことがしばらく続く。
まずは、洛陽令として二年間、洛陽の行政を担当した。
在任中は治安の向上など、一定の成果を挙げることが出来た。洛陽令は、洛陽のあらゆる業務の決定をしていく立場にあるので、劉焉は仕事に忙殺された。
しかし、洛陽令として培った経験は、後の劉焉の人生に大きな財産となるのである。
次に、劉焉が任じられたのは冀州の刺史である。
刺史というのは、いわば「監察官」の事で、不正を糾弾し、正しい政治を行うための、重要な役職である。しかし、この当時の刺史は、非常につらい立場である。
何故なら、「宦官」との賄賂のやり取りを全て糾弾するならば、必ず宦官から報復をされ、官職の剥奪はおろか、命も危うくなってくるのである。
劉焉は、洛陽令をつとめてから、「さじ加減」というものを覚えた。やりすぎては、自分の身も家族の事も守れないのである。
孔子も論語で、「中庸」が最上であると言っているように、過不足なく、極端にならないようにすることを心掛けるようになった。
冀州は人口もかなり多く、必然的に監察対象となる太守や県令の数も多い。
太守となると「郡」の統治者であり、県令の任命権もあり、「実入り」がいい仕事であるから、人気がある役職である。実際、太守になって財を成す者は多い。
太守を任命するのは中央であり、そこに「宦官」が間に入って賄賂のやり取りなどをしている可能性が高い。それ故、太守と宦官のやり取りを徹底的に糾弾するのは、実際は難しいと言えよう。
そうなると、必然的に県令が民衆に対して不正に圧力をかけ賄賂をせしめるなどといった方を取り締まる方が太守の機嫌は多少損ねるかもしれないが、必要最小限の影響で、民の生活も守ることになるので、監察対象は専ら県令や、その下の役人たち、とした方が民衆にとってはありがたい。
一見、弱腰の選択に思われてしまうが、民衆にとっては、直接的に効果が見えるため、劉焉の評判は悪くはなかった。
劉焉もだいぶ、官界に慣れてきたのか、宦官の扱いに慣れたのか、眼を瞑ってやり過ごす機会が増えていった。
しかし、最近、あまりにも普通に「やり過ごす」ことに慣れてしまった自分というのは、以前の様に「小賢しい」のではないか、という悩みが今更ながら湧き出てきた。
もう師である祝公はこの世にはいない。こんなことで相談できるのは、兄弟子である宋路しかいない。劉焉は宋路に手紙をだして相談した。手紙の内容は非常に短く、次の様なものである。
「親愛なる兄者よ。兄者の目から見て、私は賢くなりましたでしょうか。それとも、少年時代の様に小賢しく見えるのでしょうか。是非、お教えください。」
一〇日ほどで宋路から返書がきた。内容は次の様なものである。
「君郎、お前の治績は洛陽では大いに評価されている。お前の摘発した人間は、民衆に距離が近く、一番悪影響を与える者たちである。故に、民衆の生活の安定に寄与していることが大いに評価されている理由であろう。
そのお前の治績を“小賢しい”と表現する者はこの世にはおるまい。このまま職務を全うするように。洛陽に立ち寄ることがあれば知らせてくれ。その時は、大いに酒を飲み、話そうではないか。」
劉焉は祝公がいれば、自分をどう評するのか考えた。
祝公自身は、まず、折れることなく、自らの道を全うしたであろう。もし、「党錮の禁」のときに祝公が存命であれば、恐らく粛清の対象となり、投獄、死刑の対象になったと思われる。
しかし、祝公はそれが自分の生き方であり、弟子である宋路や劉焉にそういう生き方を望んでいたわけではなかった。官途を目指せば、必然的に宦官との問題は生じるのである。
「このままでいいいのだ、このままでいいのだ。時はきっとおとずれよう。」
劉焉は自分にそう言い聞かせて、前を向いた。
劉焉は冀州刺史の役職を三年、つとめ上げた。
そして次なる役職は、南陽郡の太守であった。




