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はじめに 未知の世界を受け容れるまで

 瞼に日の光が当たるのを感じた。

 ゆっくりと目を開けると、燻んだ灰色の天井とニ・三匹の黒い小虫が見えた。

 静かに、自分という機械をゆっくりと立ち上げるように、頭のなかで今の自分の状況を整理する。

 程なくして全ての点と点が一本の線で結ばれ、一つの生命が今日も起動の時を迎える。そして、僕は今日も静かに呟くのだった。

「あぁ、今日もこっちか」


 隣の部屋…いわゆるリビングルームに入ると、すでにそこには豊かなスパイスの香りが充満していた。毎日ルーティンのように嗅いでいるその香りは、すでに私の生活の中にすっかり溶け込んでいるものであったが、それでも一度甘く、複雑で、刺激的な空気が鼻腔を抜けると、一段と視界が鮮やかでクリアになるような気がした。

 幼い頃、家に帰った時にリビングにカレーの匂いが充満していると、それだけでその日が少し特別であるかのように感じられたものだが、それが日常になった今もこれだけ私の肉体や意識に作用し続けている。スパイスの力恐るべしといったところか。

 あるいは、僕の幼少期の一場面として、「カレーが小さな特別の象徴であった」という体験が肉体に想像以上に強くへばりついていて、その特別が日常に変わった今なおパブロフの犬のごとく刺激に肉体が反応しているのかもしれない。そうであれば真に私のなかで強い権力を握っているのは、スパイスの香気ではなく在りし日の何気ない日々なのではないか…などと考えたところで、僕はその考察を打ち切った。どちらだって大した差はない。些細な話だ。特に今の僕の状況においては、本当に些事極まりないことだ。


 ぺたぺたとコンクリートの床を裸足で進んでいくと、その音に気づいたのか、キッチンから快活な女性の声が飛んできた。

「お、おはようさん、カマル」

「どーも、ミーナ」

 適当に朝の挨拶を交わしながらテーブルを見やると、すでにそこには銀色のプレートが乗せられていた。プレートの上には真っ白な球体のパンとカレー。この家ではほとんどお決まりと言っていいいつものメニューだった。

「悪いねぇ、すっかり準備してもらっちゃったみたいで」

 およそ悪いと思っていそうにない軽口で礼を言うと、ミーナはにやにやしながら

「あんたが起きてくる時間なんていつもこれぐらいなんだから、それに合わせて準備すりゃいいだけだから、大したことじゃないんだけどね。どうしても申し訳ないってんなら、明日は2時間早起きして家族の朝食を拵えてくれてもいいんだよ?」

といった。僕は苦笑いを浮かべながら「本当にいつもありがとうございます…」ともごもご呟きながら席に着くのだった。まったく、この人にはかなわない。


「そういえば、ラジヴはもう仕事に出たかい」

 もちもちとしたパンをカレーに浸して頬張りながら、とってつけたようにたずねると、洗い物をしていたミーナは「もちろんさね」と答えた。

「カマルもそれ食い終わったら手伝いに行っておくれよ。あとは午後の店番ね。あんたの売る玉ねぎの一個が、あんたが明日食うカレーの一杯になるんだから、ちゃんとやんなよ」

 わかってますようと返事をしつつ、さて今日も労働をせにゃならんのかと億劫な気持ちが少しずつ心の中に溜まっていく。それを外に吐き出すように僕は

「ちゃんとやるってもさ。こんな小さな町じゃ一日に野菜を買う人の数なんてたかが知れてるでしょうに。例えば僕が思いっきり愛想よく振る舞ったら、みんないつもより多く買ってくれるようになるんかね」

と呟いた。ミーナはちょっと手を止めて考える素振りを見せてから言った。

「まぁ、接客で売り上げを伸ばそうってんなら、隣の肉屋のラタちゃんを引き抜くくらいしないといけない気がするね。まぁそれ以外にも工夫できることはあるんじゃない?それを考えるのがプロってもんでしょうが」

 なんとまぁ適当なこと言いやがって、と思った。


 朝食を済ませて外に出ると、すぐに刺すような陽光とじんわりとした湿気が肌を出迎えた。気温は30度あるかどうかといった具合で、いわゆる酷暑と言えるほどのそれではないのだが、なにぶんこの湿気が不快指数の増大に大いに貢献しており、これがほぼ年中続くと言うのだからほとほと参ってしまう。この空気を感じるあいだ、これから始まる「仕事」に対する憂鬱が緩やかにその勢力を拡大するのだった。

 僕の憂鬱を他所に、通りはすでに活気にあふれていた。住処の軒先には色鮮やかなパラソルがずらりと並んでいる。この日差しに似合う褐色の肌をしたガタイのいい男たちが、パラソルの下にカゴや木箱をどすどすと置いていく。カゴには野菜やらフルーツやら、芋やら肉やら魚やらがこんもりと積まれていた。

 ぼうっとしていると、目の前をオンボロのスクーターがぶうんと通り過ぎた。危ないなぁと思いながら目で追いかけると、スクーターは人並みを器用にすり抜けながら大通りへと向かっていった。大通りはこれまた活況のようで、人だけでなく時折車やバスが横切っていく。おそらく今頃が通学や輸送のピークタイムだろうから、すぐに渋滞になるかもしれないな、と思った。

 僕は海外旅行などしたことがないので、いくつかの映像や写真から推測を立てるしかないのだが、恐らくインドらへんの日常というのはこんな感じなのだろうな、と思う。

 ただ、残念ながらここはインドでもその隣のパキスタンでもない。

 ここは、ヒデルと呼ばれる国の、B23地区という場所である。

 夢の中、空想の世界、異世界…ここがどういった世界なのかは僕もよくわかってはいないのだが、つまるところ、僕が生を受け、幼少期から青年期までを過ごした東京・日本・地球とはまったく異なる世界なのである。


 僕がこの世界を「認識」したのは、おおよそ2ヶ月ほど前のことである。

 特段大きなイベントがあったわけではない。ある朝目が覚めたら視界に知らない天井が映っており、僕自身の肌の色も顔の造形もすっかり変わってしまっていて、知らない家で、知らない家族に、当たり前のように「おはよう、カミル」と声をかけられたというだけの話である。

 僕には、その前日の夜までの記憶が明確に残っている。

 僕は東京都に住む23歳で、名を日野 真佐紀(ひの まさき)といった。大学進学を期に山梨県から上京し、そのまま都内で公務員として働いている。「その日」は月曜日で、あぁ初日からたんまり残業しちまったよなどと思いながら21時ごろに家に帰り、割引のシールが貼られた弁当を口に詰め込んで寝支度をして、日付が変わるころに普通にベッドに入ったのだった。そして目を開いたら…という経緯である。

 現在の状況について、僕は以下のように整理している。

 まず、ここがインドのような「外国」であり、僕がなんらかの理由でそこに渡航し滞在しているにもかかわらず、その間の記憶が欠落しているという可能性は除外している。理由は、会社員時代の世界に関する記憶があまりにも鮮明であり、またその頃と現在を比較すると自身も世界もあまりにも大きなギャップを抱えているからである。昔の僕は「ヒデル」などという国は知らなかったし、ヒデルの住民も「日本」という国を知らない。それ以外にも「マサキ」の認識する世界との乖離は多々存在するのだが、それはまぁおいおい整理していけばいいだろう。重要なのは、ここは僕が生きていた世界線とは別軸のどこかであるということである。

 となると、いわゆる異世界への転生か、非常に長い夢の中にいるのか…といった選択肢が脳裏によぎるわけだが、ここについてはこの場で検討するだけ無意味だと考えている。それは「マサキ」にとっては非常に重大な問題であるような気がするが、日本に帰る手段も不明である現状においての僕には干渉できない問題である。


 次に僕という人間に関しての話である。

 この世界では、僕は「カミル」という名で呼ばれており、先述の通り「マサキ」時代とはまったく異なる容姿をしている。(年齢はマサキと同じ23歳であるようだが。)僕は「マサキ」時代の記憶をほぼ正確に保持しているが、日本のこともわからないヒデル国民にその頃の話をしても僕がおかしくなったと思われるだけなので、特に話はしていない。

 僕の周りの人々は、まったく知らない言語を使う。まぁ僕が操れるのは日本語と簡単な英語くらいなので、もしこの言語が普通にヒンディー語とかであったとしても僕にとっては異界の言語だが、ともあれ彼らが使っているのはバンクル語というのだという。ヒデルという国家の公用語(ヒデル語)というわけではなく、それと類似性のある地方言語で、このB23地区を出ると使用するものはほとんどいない言語なのだそうだ。日本で例えるなら、地方のキツい方言といった扱いであろうか。

 しかし、僕はこのバンクル語を問題なく操ることが出来る。というより、僕は「マサキ」という人間とは別に、「カミル」という人間のこれまでの記憶をこれまたほぼ正確に保持している。23年前、この町でラジヴとミーナの長男として生を受けたこと。B23地区の港町で育ち、18の頃に車で2時間ほど離れた地区の中心都市で役人として働いていたが、周囲の人間との関係を苦に退職したこと。そして半年ほど前に実家に戻ってきて、現在は家業の手伝いをしていること。簡単にいうと、「マサキ」という人間の記憶にある日突然「カミル」という人間の23年分の記憶がダウンロードされたような状況である。流石に1人の人間の半生の記憶というのは膨大であるので、一気に全てを思い出すことはできていないが、現状問題なくバンクル語を操れているし、なんらかの刺激があればそれに関する記憶をひっぱりだすことが出来る状態にある。

 例えば初めてこの世界で目が覚めた時、今日と同じようにキッチンでミーナが朝ごはんを作りながら「おはよう、カミル」と声をかけてくれた。その瞬間、「カミルって誰だ?」「ここはどこで、今話しかけてきたこの人は誰だ?」と考えたわけだが、程なくしてカミル、ミーナ、ヒデル国B23区に関する記憶を探りあて、「あぁ、おはよう…ミーナ」と返事をしたという流れである。


 さて、以上を踏まえての現在の僕であるが、ヒデル国のカミルの肉体に「乗り移った」理由や、日本に帰る方法を積極的に探してはいない。とりあえずカミルとしての日常を、普通に過ごしている。

 その理由は、端的に言うと積極的に帰りたいほどの理由がないから、である。


 もしこの世界に「マサキ」のまま転生してきていたら、僕を知る人もいない、聞き慣れぬ言語が飛び交う世界に1人という状況だったわけで、その絶望は推し量るに余りあるものだったであろうが、幸い僕には「カミル」という戸籍と記憶が与えられており、この町で不自由なく生きているということが分かっている。もし僕がカミルの意識を奪ってここに存在しているのであれば、それはなんだか申し訳ないような気もするが、ともあれカミルの記憶のおかげで僕は自分でも驚くほどスムーズにこの状況を受け入れ、カミルとして振る舞うことができている。


 また、その生活をすべて捨てて、今すぐに日本に帰りたいと思うだけのモチベーションが、今の僕にはない。特に仕事にやりがいを感じているわけでもなく、かといって没頭している趣味があるわけでもないし、恋人もいない。家族や友人はいるし、彼らに会えないことを寂しく思う気持ちも無くはないけれど、そもそも大学に進学するときに、「自分は東京の大学に進学するという目的のために家族や地元に残る友人と別れる選択が出来る」人間であることはわかっている。僕は、一つのコミュニティに執着できるほど情に厚くないのだ。だから、今もこの町で新しい家族や友人を得て、彼らとなんとなく日常を過ごすことになんら抵抗を抱いていない。「向こう」の生活に、僕の腕を引っ張って連れ戻すだけの力を持つものがなかったというだけの話である。

 まぁ、もし何かがあってある日突然東京に戻ったとして、すぐにヒデルに帰りたいと思うかといえば、当然それもNOなのであろう。瞬間僕はその日々を惜しみ、出会った人々との別れを悲しむのだろうが、数日のうちにその感情は薄れ、また東京での生活に溶け込んでいく。どこまでも寂しい人間だな、と思う。


 最後に…これが僕が積極的な帰還を望まない理由の最たるものであるが、東京に帰る手段が見つかったとして、「マサキ」の肉体が現在無事であるという保証が一切ない。

 異世界転生にしろ長い夢にしろ、この現状が異常であることは明らかだ。この状況を引き起こしたファクターが何らか存在していると考えるのは当然のことである。例えば、実は就寝中のマサキに何か災害や事件が降りかかっていてその時点で僕の肉体は危機的状況に陥っており、それをファクターとして僕の意識だけが遠く異界に飛んでいった…という状況は我ながら想像してファンタジーが過ぎるなと感じたが、そこまではいかずともこの体験が僕の(奇妙な)臨死体験であってもおかしくないのだ。僕は普段の生活において積極的に命を注ぎ込みたいと思う動機を見出せてはいないが、それでも自分の命が惜しい、願わくば早死にはしたくないと思ってはいる。そんな僕にとって、積極的な行動はむしろリスクだ、と考えているわけだ。


 そういうわけで、僕は今日も2つの人間の記憶を抱えながら、ここヒデル王国での語るほどでもない生活をまっとうしている。

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